二章 氷滴 (4)

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 ​​​──すべて夢だったら。
 それからまたベッドから起き上がれない朦朧とした時間を過ごしながら、ただそればかりを考えていた気がする。

 眠っているのか目覚めているのか分からない曖昧な中で、繰り返しユアンのもとを訪れたのは、生まれ育った屋敷が焼け落ちると共に捻じ曲がってしまった日々の記憶だった。突然襲った戦禍の中に故郷を失い、帰るべき場所を失い。家族達を惨殺した存在への憎悪と復讐心だけを支えに、母の生国でもあり今となっては仇でもある北の国にまぎれ込んだ。
 ひとりで打ち倒すには、あまりに国ひとつは巨大すぎた。誰が家族達に直接手を下したのかも知りようがなかった。分かるものなら真っ先に仇を取りに行っていたところだが、どちらにしてもそいつらを討ち果たしたところで、滾る憤怒と衝動はおさまらなかっただろう。
 末端にすぎない者達をいくら討ったところで、それだけでは復讐にならない。屠るべきは、あの戦を引き起こし、自ら指揮を執って彼の国を滅ぼした存在​​​──フィンディアス皇太子。
 幼い頃に一度会っただけの母方の伯父は、ユアンのことを覚えていた。伯父はいくつかの遣り取りや、ユアンの隠し持っていた家紋入りの指輪などから本人だと確認すると、その決意に力を貸す約束をしてくれた。
 フィンディアス宮廷で身分ある立場の伯父が、何故皇太子に刃を向ける話に応じてくれたのか。そんなことは、ユアンにはどうでもよかった。切れ者だが独裁的な皇子は多くの恨みを買っていたようだったから、伯父も大方現状に不満があったのだろう。
 力を貸すと言ってくれた一方で、伯父には保身もあったのだろう、極力自分と接触を持たないよう言い渡された。そして成功しても失敗しても、伯父の存在を決して口外せず、逃げ切ることが無理なのであれば自害するようにと。それが、伯父が協力する条件だった。
 もとより生きて帰ろうとは思っておらず、独り生き残ってしまった未来についてを考えることなどできなかった。ユアンは迷うことなく頷き、そして浮浪者のようにフィンディアス皇都の片隅で人目を避けて過ごし、伯父が皇宮への侵入を手引きしてくれる、その時期を待った。

 ​​​──無謀だったのだろうか。そうなのだろう、きっと。
 またうだるような高熱が出ているのか、胸の悪さを伴う倦怠感の中で夢うつつを彷徨いながら、ユアンは自分を笑った。
 だがそれでも、あの宴の夜、確かに千載一遇のチャンスはあったのだ。あの猛毒の刃がフィロネルの肌をかすりさえすれば、それで事は決していた。
 あの美しくおぞましい悪魔に捕らえられてからの異常な出来事が、繰り返し夢の中でユアンを苛んだ。内臓まで暴かれる苦痛が確実な快楽を伴っていることに、ユアンは何より戦慄し、そこから逃れようと必死にもがいた。しかし絡みついて離れない邪悪な蛇に囚われるように、どうあってもどろどろとしたおぞましい悪夢から逃れることはできなかった。


 これが夢ならばいい。何もかもが悪い夢で、目が覚めれば懐かしい祖国も愛しい我が家も、平穏な生活も、変わらず明るい光の中にあればいい。
 儚い願いは、瞼を開いてすぐ目に入った、豪華だがユアンを捕える檻そのものでもある寝台の天蓋に、あっさりと解けて消えた。
 大きなテラス窓から入り込む灰色の陽光は、相変わらず日時の感覚を曖昧にしていた。
 自分が失敗したこと、もうすべて失われてしまったこと、自分自身ももうあの優しく愛しい光の中には戻れないことを、物音ひとつしない静かな中で、ユアンはぼんやりと思った。天蓋を見上げる藍色の瞳に透明な涙の膜がかかり、音もなく眦を伝って、耳の横に流れた。


 フィロネルはまた数日、ユアンのもとを訪れなかった。どんな理由でなのかは知らないし、興味もなかった。
 だが先日と扱いが違ったのは、ユアンにきちんとした衣服が与えられたことだった。布地や縫製は上等だが、とくに飾ったものでもない。寝間着ではない動きやすい衣服を与えられたことは、ユアンの気分を多少なりとも変えた。
 久し振りにまともな衣服に着替えて姿見の前に立つと、白をベースにした服装はあつらえたように自分に似合っていた。我ながら随分目付きも顔つきもやつれて荒んでしまったとは思うが、まともな装いをすると、それもまだ薄れるように感じた。
 フィロネルが見立てたのだろうかと思うと不愉快ではあったが、今の自分は何もかもをフィロネルから享受している身であり、今さらそこにこだわって衣服を脱ぎ捨てるのも馬鹿馬鹿しかった。向こうの意図は読めないが、寄越すというなら受け取っておけばいい。互いに含むものがある関係で、どちらにも好意や善意などは存在せず、あるものは単に自分の都合だけであるのは、端から分かっている。


 そうしているうちに、フィロネルが部屋を訪れた。ユアンは身構えて警戒したが、しかし今日のフィロネルは先日のように妙な手を出してこようとはしなかった。
 堂々と背筋が伸び、冷厳で淡々としたフィロネルの様子には、嬲られる間やベッドで見たあの魔物じみた妖艶さは一切無い。近寄り難いような気品と威厳が滲み出るその姿は、むしろストイックなほどの潔癖さを纏っているようでもあった。
 腰まで長く流れ落ちる黄金の髪は、緩く邪魔にならない程度に部分的に結われている。一国の皇子というわりに、宮廷の貴族達よりもよほど身なりに飾り気はないにも関わらず、整った容貌や深い見事なアメジスト色の瞳、柔らかく靡く黄金の髪が映えて、その姿は内から輝くように美しい。
 ただ立っているだけで思わず視線を引きつけられるほどの存在感は、さすが若年とはいえ古く伝統ある皇家の直系であり、最高執政者と言うべきなのかもしれなかった。
「あらためて訊こう。取引に応じるか否か」
 しかしどうしても警戒心を隠せず、身を硬くして見返しているユアンに、フィロネルは若々しく張りのある声で口を切った。その声音すら冷え冷えとして、ベッドで聞いた身体の内を妖しく撫でる熱を孕んだ響きとはまるで違っていた。
「考える時間は充分与えたつもりだ。大人しく逃げ出さずにここにいる、ということが答えと思って良いのか」
 逃げずに​​​──自害も含めて​​​──ここにいる、ということが、あの夜持ち掛けられた奇妙な契約に対する答え。
 何度もそこの窓から身を投げてしまおうかと考え、弄ばれる間も幾度となく、いっそ殺せと思った。それでもこの場から立ち去ることを、とうとうユアンは選べなかった。
「……そう思っていい」
 闇を孕んだように深いフィロネルの紫色の双眸を、ユアンは真っ直ぐ、軽く上目に見据えた。ゆっくりと噛み締めるように返した声には、僅かな迷いも震えもなかった。
 この強烈な毒を持つ男のことを、恐ろしい、と正直思う。だがそれは、この男に対して一歩たりとも退くことの理由にはならなかった。この身を餌にその喉元に喰らいつく機会を得られるなら、他の一切を棄てて構わない。惨めに震えて怯える心にも耐えてみせる。
 フィロネルは腰に下げていた剣のうちの一本を鞘ごと外し、無造作に放り投げてきた。咄嗟に受け止めたそれは、これ一本で宮殿が建つのではというほど精緻で見事な黄金細工と、磨き抜かれた美しいアメジストで飾られていた。
 これはいったい何のつもりだ、と思ってフィロネルを見ると、フィロネルは腰に帯びていたもう一本の剣を優雅に引き抜いた。特に身構えるでもなく抜き身の剣を下げ持っているだけで、その姿は鮮やかな絵になっていた。
 にやりとフィロネルが口角を上げ、閨で見せるような艶然とした妖しいような貌を僅かに垣間見せた。窓からの灰色の光を受け、白く輝く刀身の切っ先を、フィロネルは軽々とユアンに向ける。互いの距離は、フィロネルが一歩踏み出せばその刃で容易くユアンの喉元を突けるだろう程度だった。
「では従者は従者らしく、そこに跪け。その剣にかけて誓いの言葉を」
 言霊の生きているこの世界、簡略であれ約束の品にかけて誓いを立てるということには、真心と誠意を示すという以外にも儀礼的な意味があった。
 本来は宮廷で、正式な立会人の下にもっと手順を踏んで交わされるべきものなのだろう。だがフィロネルと自分の間には、関係の内実を考えれば、そんな形式など滑稽でしかなかった。
 フィロネルとて、どこまで本気なのだか分からない。ユアンとフィロネルの間には、ただひたすら自分本位な欲望しか存在していない。互いのその身体と命を、生と死という真逆に焦点が向いてはいるが、どちらも強く渇望している。それを思うと、ユアンもうっすらと笑えてきてしまった。
 ユアンはまだ痛む手首を庇いながら、右手で美しい剣を鞘のまま捧げ持ち、傲慢で美しい皇子の前に跪いた。この欺瞞に満ちた滑稽な茶番に付き合ってやろうではないか。どうせこの男と自分の間には、真実など何一つありはしないのだから。
「……フィロネル様の御為に、我が身を楯と換え剣と換え、身命を賭してお仕え申し上げることを誓約致します」
 思えばその名を当人を前にして直接口にしたことは、これが初めてだった。自分で言いながら、白々しさに歯が浮くようだ。しかし茶番だと分かっていることが、ユアンに面白いようにすらすらと言葉を紡がせた。
 フィロネルが歩み出る気配がして、頭を垂れて跪いたユアンの右肩に、抜き身の刃の腹が乗せられた。右肩と左肩をそれぞれに二度ずつ、フィロネルが手にした剣の腹が叩く。再び右肩に戻ってきたそれが、ぴたりとそのまま肩の上に置かれた。フィロネルが刃を真横に動かせば、ユアンの頚動脈をやすやすと切り裂ける位置だった。
「許す」
 ただ一言が、謳うように美しい声音で、傲然とユアンの頭上から響いた。絶対的に他者より上に在り、周囲を睥睨して発することに慣れた声音。
 ユアンは深く頭を垂れたまま、肩の上に乗せられた刃が引かれるのを、じっと動かずに待った。じきにフィロネルが歩み出た分だけ下がり、ユアンの右肩から離された剣が鞘に納められる音がする。跪いたままの姿勢でユアンはそっと左手を持ち上げ、右手で恭しく捧げ持った剣の柄にかけた。
 ユアンは立ち上がりしなに剣を鞘から払って、抜き打ちでフィロネルの大腿部めがけて斬りつけた。頸を狙うには、跪いた姿勢からでは少し位置が遠すぎた。
 ひそかに呼吸を溜め、重心を定めて繰り出した一閃は決して鈍いものではなかったが、フィロネルは予想していたようにあっさりと鞘ごとの剣でそれを受け、払った。日頃から鍛錬を重ね、荒事にも慣れているフィロネルにとって、病み上がりの上に利き腕を使えないユアンなど、予想していたにしろいないにしろ相手にならなかったのだろう。
 ユアンはバランスを崩したところに剣を弾き落とされ、以前燭台を持って襲い掛かったときのように脚を掬われて、簡単に床に転倒させられていた。なんとか受け身は取れたので、顔をしかめながらすぐに起き上がろうとした喉元に、鞘ごとの剣先が付き付けられた。
「剣の腕もその程度では、護衛としてはものの役にも立たんな。利き腕ではないなど言い訳にならん。俺の従者を務めるなら、もう少し鍛え直せ」
 フィロネルは嘲るように言い、ユアンの鳩尾を剣先で一打ちしてから、扉に向かって歩き出した。少しは加減しているのかもしれないが、ユアンが息が詰まって呻いているところに、続けて言葉が投げられた。
「これでも俺も暇ではないのでな。動けるようなら、明日から正式に働いてもらう。今日はゆっくり休んでおけ」
 黄金の長い髪をゆるやかに翻しながら、フィロネルの姿は扉の外に消えた。
「……くそっ」
 何事もなかったように静まり返った部屋の中で、ユアンは床に転がったまま唸った。だがひとまず、今日はもう何もないようだということにほっとした。
 ​​​──本当にあの男に仕えることになるのか。
 奇妙でしかない話に、まだ困惑があった。頭の中を様々なことが巡っていたが、なんだかもう考えるのにも疲れてきて、ユアンはそのまま床にごろりと仰向けになって瞼を閉じた。
 あの男が何を考えているのかなど分からない。こんな酔狂な茶番でしかないことを、なぜ平然と仕組むのかも。
 だが咎めないというのなら、もう考えることは止めだ。
 どちらにせよ、命などとうに棄てている。あの男を討てても討てなくても、自分の往く先に未来は無い。ならば牙を磨ぎ澄まし、刃を抱いて、あの男を殺すことだけを考えよう。それだけが、今の自分が存在する理由なのだから。


 翌朝、部屋に運ばれてくる食事を済ませたところに、フィロネルからの迎えだという使いが訪れた。
 ユアンは身支度を整えられ​​​──とはいっても簡素で動きやすい従者用の服をあてがわれ、昨日フィロネルから与えられた剣を帯びただけだったが​​​──かれこれ何日監禁されていたのか分からないその部屋を後にした。
 使いに連れられて歩く宮殿内は美しく豪壮ではあったが、古い時代から受け継がれてきた構造は複雑に入り組み、巨大な迷路のようだった。以前女性給仕を装って入り込んだときとは、出入りを許される区域も範囲も大きく違い、そのとき仕込んだ知識はほとんど役に立たなかった。
 ユアンの祖国ファリアスの王宮も広く美しくはあったが、成人前だったユアンは王宮にそう出入りする機会もなく、ましてここ一年程はファリアスを離れ隣国レインスターに留学してしまっていた。それこそがフィンディアス軍襲来時にファリアス王都に居合わせず、ユアンが生き延びることになった理由でもあった。
 明るく優美で開放的だったファリアス王宮に比べ、フィンディアス皇宮は全体に重々しい。古い石造りの宮殿は幾重にも棟が折り重なるように連なって、美麗ではあるのだが、灰色の空の下では積み重なった時間が陰鬱にわだかまっているように見えた。
 随分長いこと歩かされ、フィロネルが普段そこから政務を執っているという棟に着いた。周囲には様々な行政機関の入った棟があり、多くの者達が行き来している。勿論衛兵達の姿も多く、そのあたり一帯は他の区域と比べて格段に活気があるようだった。
「なかなかさまになっているな」
 専用の執務室で顔を合わせたフィロネルは、ユアンの姿を見ると挨拶の言葉もなく言った。そこそこの家柄の貴族の跡取りだったユアンは、格式張った場や装いにも慣れている。寝間着やドレス姿ではない、まともな格好のユアンを初めて見ての、フィロネルの感想らしかった。
 因みにユアンに与えられた従者用の服は、これも白が基調になり藍色が差し色になった品の良いものだった。皇子が見立てたものなのだろうと思うと心楽しくはなかったが、もともと派手な服装は好みではないユアンには、意外に趣味に合ってはいた。
 防犯上の理由からだろう、フィロネルの執務室は厳重に警備され、立ち入ることのできる人間を大きく制限されていた。応接室や会議室は他の場所にあり、この部屋では基本的にフィロネルと従者であるユアンだけになるようだ。
 従者という立場は政務に携わることはないが、フィロネルの身近に務め、護衛と秘書を兼ねるようなものである。よって把握していなければならないことは、存外に多かった。現在フィロネルが関わっている様々な案件、その執務の流れや面会の取次ぎや、外出時の段取りを管理するのは勿論、あらゆる用向きや催し事についても熟知していなければならない。さらには公務を離れたプライベートについても配慮して、皇子に出来る限り快適に過ごさせる必要もあった。
 目立つ立場でこそないが、皇子の多忙な日々が淀みなく回転するよう取り計らうのは重要な役割だった。有能だが気まぐれで選り好みの激しい皇子を輔佐するのは、そう簡単な仕事でもなく、実を言えば「誰も長続きしない」入れ替わりの激しい役職として、近頃人々には認知されていた。フィロネル自身も、下手な者に管理されるより自分一人の方がましだと、専用の従者を置かないことも最近は増えていた。
 そんな事情は、フィンディアス宮廷の者でもなく、ずっと監禁されていたユアンが知るわけもない。
 従者といっても何をさせられるのやら、と思いながらフィロネルのもとに連れて来られたユアンは、いきなり目の前に大量の資料や書類を積み上げられた。
「三日間やる。そこにあることを把握して、おまえのやりやすいように整理しろ。俺の輔佐を務めるのはそれからだ。あと、主だった要人についてと大まかな宮廷事情、年間行事、それに皇宮全体の見取り図についても、すべて頭に叩き込んでおけ」
「……は?」
「おまえは旧王朝の流れを汲む遠縁の者だということになっている。ぼんくらな従者では出自を疑われるぞ。それでは何かとおまえもやりにくかろう。ああ、従者とは名ばかりで、その実は見目良いばかりのただの夜伽風情よ、と思われることもあるかもしれんな」
「よと……ッ」
 聞き捨てならない言葉に、ユアンは思わず声を荒げかけた。耳朶を赤くして睨むユアンに、フィロネルはいかにも底意地悪く笑った。
「おまえがそれで良いなら、俺は別にそれでも構わんがな」
 どこまでも上からの、そしてあからさまに挑発的な物言いに、ユアンは握り拳を震わせた。しかしフィロネルの言葉には、反論する余地がない。優雅に腰を下ろし執務机から自分を眺めているフィロネルを憎々しく睨みつけながら、ユアンは腹立たしさをぐっとこらえ、ひとつ深呼吸した。
「……仰せのままに。三日ですべて把握しておきます」
「そうしろ。無能者は好かん」
 あっさりと言って、フィロネルは机に広げた書類に再び目を戻した。そこからはユアンのことなど忘れたように、フィロネルはまったく視線を上げようとしなかった。
 ユアンも与えられた小さめの机に腰を下ろし、山積みされた書類を眺めながら、困惑気味に眉根を寄せた。
 従者云々については、正直まともに扱われるとは思っていなかった。意外ではあったが、まさにただの夜伽として扱われるよりはましなのかもしれない。
 しかしフィロネルの下で働くというのは、どうやら簡単なことではないようだ。あれで一国の統治者であるのだから、当然のことではあるのだろうが。
 だが、フィロネルなどに無能者と見下げられるのも面白くない。どうせ無理だろうと馬鹿にしているのなら目にもの見せてくれようと、ユアンは性根を据えて、机の上の書類を広げた。

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