二章 氷滴 (5)

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 三日間の猶予は、瞬く間に過ぎていった。
 そもそも昼間のうちは、慣れないせいもあって悠々と自分のために時間を使う余裕などなかった。これでも暇ではない、とはフィロネルは言っていたが、それは誇張でも何でもないことを、一両日のうちにユアンは理解した。
 独裁に近い形でフィンディアスという一国を統治するフィロネルのもとには、次から次へと様々な報告や決済承認依頼や面会人が転がり込む。打ち合わせや閣議が一日にいくつも入るし、ものによっては現場に足を運んだり、視察に出向く必要もある。それらを捌く一方で、皇子は武芸の修練や狩りに時間を割くことも怠らない。それは娯楽ではなく、純粋に心身の鍛錬のために必要だからという話のようだった。
 輔佐はまだいい、とは言われても、フィロネルに付き合って行動を共にすることは必要だった。でなければ、日常的に何をするべきなのかが飲み込めない。分からないことだらけではその一日の行動についていくだけでもやっとで、ユアンは自分がとてつもなく馬鹿な愚図になったように思えた。
 護衛を兼ねる立場であるユアンに、部屋はフィロネルの私室近くに与えられた。フィロネルの部屋とは呼び鈴一つで繋がり、それが鳴ったらいつ何時でも皇子のもとに駆けつけるように、と命じられた。
 与えられた個室は、一般の家屋から比べれば充分すぎるほど豪華で広かった。昼間はほとんど個人のことは何もできない分、ユアンは夜に部屋に戻ってから、渡された資料とにらみ合うことになった。
 まだ体力が完全に戻り切っていないところに、昼は慣れない中を連れまわされ、夜になると瞼が重く油断すると眠ってしまいそうだった。単に忙しいのか、ユアンの状態をそれなりに配慮しているのか、フィロネルからは今のところ何の音沙汰もないのは救いだった。
 あの横暴極まる皇子に見下されてたまるものかと、ユアンは気力で睡魔を押し切り、与えられた理不尽なほど膨大な課題を消化していった。


 古くは全土が統一されていた大陸で使われている言語には、昔から浸透している共通言語があった。地域によっては訛りが強く、ほとんど別の言語と化してしまってはいるが、高等教育を受けた者ほど洗練された言葉を扱える。各国の上層部で働く者ほど、美しい共通言語を操れることは必須条件であり、また王侯貴族だの商人だの聖職者だのに関わらず、それを喋ることができるのは高水準の教育を受けていることの証だった。
 突然現れた見知らぬ人間が皇子の従者になど、周囲から胡散臭がられるのではとユアンは思っていたのだが、拍子抜けするほどそういったことはなかった。元々フィロネルの人事は、血筋や縁故より才幹を重視する傾向があること、皇子自らの採用だったこと、その点で貴族としての礼節を学び高い水準の教育を受けてきたユアンを差しあたって怪しむ要素はなかったこと、などが理由であるようだ。皇子の独裁的な振る舞いは珍しいことでもない、というのもあったのかもしれない。
 フィロネルの従者は長続きしない、という事情についても、じきにユアンは知ることになった。そういった事情を耳に入れられると共に、「頑張れよ」「めげるなよ」と他の側付き達に背や肩を叩かれ、ユアンは憮然としつつ、自分が煙たがられない最も大きな理由はそれか、と納得した。
 あんな傲慢で横柄で我の強い最高権力者など、身近で仕える者としては厄介極まりない。これまでの従者達があの下衆の食い物にされてきたのかは知らないが、あんな相手では誰だって逃げ出したくもなるだろう。
 自分だって好きでこんなことをしているのではない。そう思いながら、ユアンはひそかに舌打ちした。

 周囲に怪しまれないためにも職務に慣れようと懸命だったが、ユアンとしても長くこんな状態を続けるつもりは無かった。
 とはいえ、隙あらばとは思うが、これが驚くほどフィロネルには隙がない。
 従者といっても事あるごとにおかしな物を持っていないか検分されるのは変わらないし、フィロネルは茶の一杯であれ専門の者が毒見済みのものでないと口にしない。
 目立たぬ小さなものに強力な毒を仕込むのが最も手堅くはあったが、見知らぬ国の宮廷に独りであるユアンに、肝心の毒を手に入れる手段などあるわけもなかった。つても何もない状態で毒の入手のためにおかしな行動をとれば、たちどころにそれを把握されてしまうだろう。
 皇子の身柄は常に厳重な警戒の中にある。皇子の邪魔にならぬよう距離を置いたり、目につかない場所に控えることはあっても、何かあればすぐ衛兵や護衛が飛んで来る。
 執務室ではユアンが控えるのみにはなるが、なんやかやと部屋に出入りする者自体は多い。そしてユアンは配置上、常に皇子の視界に入る位置に居るため、隙を突くということは不可能だった。
 身近で仕えるうちに、ユアンはいよいよ、正面から力技でフィロネルを討つことは限りなく困難だと考えるようになった。
 ユアンも貴族の公子としてそれなりに剣術を学んできたつもりだったが、平和で安穏とした日々の中で教養の一つとして嗜んだ剣技など、日常的に命を危険に晒される中で磨ぎ澄まされてきたフィロネルの前では児戯に等しい。それにフィロネルは人間相手ばかりではなく、狩りに赴いて野性のものと対峙することでも、技量と勘を磨いている。体格や体力でもフィロネルの方が上回っており、とても素手でかなう相手ではなかった。
 これは思ったより、長期戦になるかもしれない。
 つくづく、あの宴の夜に仕留められなかったことが悔やまれた。内心歯噛みしながら、ユアンはフィロネルの後に従い行動する日々が続いた。


 今日は朝から細かい霧雨が降っていた。
 空が灰色に曇っているときの多いこの国では、夏よりもはるかに冬が長く、暑さよりも寒さの方が厳しい。どの建物も柱が太く、物陰が陰鬱に見える程どっしりとしているのは、降雪に耐えるためだろう。
 日差しの強い夏の間でも、日陰に入ればひやりと涼しい。今日はとくに気温が低めで、若干肌寒さを覚えるほどだった。
 棟から棟へと移動していたさなか、火急の用件を携えているらしき者が、多忙な皇子をつかまえに足早に寄って来た。
 皇子が軽く人払いの仕種をし、ユアンと護衛達は少し距離を置いた。
 他に五名ほどの護衛がいたが、仕事中なので誰もとくに何を喋るわけでもない。ユアンは雨を避けて木陰に入り、皇子達が古い石造りの四阿の下で何か話しているのを眺めていた。
 遠目ながら、長身で身体つきの均整が取れ、腰まで届く見事な黄金の髪を緩く括っているフィロネルの姿はよく目立った。
 鍛えられてしなやかに引き締まった身体は、衣服を纏っていると割合細身に見える。立っているだけで自然に滲み出る雰囲気があり、人目をひかずにいられないのは、さすが生まれと育ちの賜物かと認めずにいられなかった。フィロネルは顔立ちそのものは、どこかしら若干の柔らかみを持つ美貌だったが、日頃はにこりともせず纏う空気が峻烈であるため、むしろそれは冷ややかな迫力を増す材料でしかなかった。
 フィロネルの口数は少なく、常に頭を何事かに巡らせており、何かをするときは恐ろしいほどの集中力を見せる。「一日」という時間の中で、見ている限り一瞬たりとも気を緩めないその姿は、何か圧倒されるほどの覇気に包まれていた。そのことに、間近で接するようになったユアンは、正直なところ驚いていた。
 ユアンにはまだフィンディアスという国の内実がよく飲み込めていないが、フィロネルの処理能力や下す判断は、迷いがなく非常に合理的で精度が高いようだった。他者の意見に耳を傾ける様子もあり、独裁ではあっても傍若無人ではない。
 周囲の者達も、皇子の気ままさに若干渋い顔をしているところはあるが、その能力自体は評価しているようだ。皇子に接するときの表情は誰も皆真摯で、ときによって厳しく、そして根底に信頼を宿していた。
 ​​​──愚か者ではないのかもしれない。無能者は好かない、などと不遜に言い放つだけあって。
 そして、事実上皇帝不在のこの国を支えられるほどの、強いカリスマ性を持っているのも否定はできない。
 少なくとも皇帝という存在が機能していない今、フィロネルが除かれたら、杭を抜かれるようにこのフィンディアスという国は均衡を失うだろう。
 霧雨の下に佇んで、そんなことをぼんやりと考えていたときだった。
 周囲で僅かに、細かい灰色の雨に沈むようだった空気が、不自然に動いた気がした。
 何気なく視線を流した先で、いきなり音もなく、背後の植え込みの陰から飛び出してきた複数の塊があった。人の形をしたそれが皇子のもとへ向かおうとしたのなら、まだ即動けたのかもしれない。だが続けて目の前で展開したことの意味が、ユアンには理解できなかった。
 身体も顔も頭も、見ただけでは何者か判断もつかないよう、そして陽光の鈍い風景に紛れ込むような暗めの色の布で覆われた人影達は、その手に抜き身の剣を持っていた。灰色にけむった空から落ちてくる光を受け、鈍く光る凶器。彼らは皇子のいる方向には見向きもせず、真っ直ぐにユアンに向かって影のように音も立てず駆け寄ってきた。
「…………!」
 ようやく、弾かれるように動いた。低い姿勢で襲撃者から斬り上げられた刃を、ユアンはそれより僅かに早く足元の濡れた石畳を蹴って下がり、危ういところで躱していた。
 後ろに数歩たたらを踏み、咄嗟の判断で、勢いに持っていかれる身体をそのまま倒すように捻る。地面に右腕を伸ばしついた瞬間、まだ癒えていない手首に鋭い痛みが走ったが、こらえて腕を支点に身体を反転させた。両足で勢いを殺しながら、なんとか体勢を整える。
 ほんの一呼吸ほどの間の出来事だったが、たったのそれだけで、心臓がばくばくと鼓動を跳ね上げていた。何が起きたのか咄嗟に理解できない中、皮膚の表面を異様なぴりぴりとした感触が伝い、産毛が逆立った。
「貴様ら、何者だッ!」
 ユアンからやや離れたところにいた他の護衛達が、事態に気付いて反応した。襲撃者達が現れてから、時間にすればほんの数秒ではあったが、それはユアンにとっては恐ろしく長い数秒だった。皇子が襲われることに対し神経を尖らせてはいても、まさか皇子ではなく最近ふらりと現れた従者に対し襲撃が来るとは、護衛達にとっても予想の範疇外だったようだった。
 鋭い緊迫感と共に、護衛達が剣を抜いて向かってくる。襲撃者達の何人かが、無言でそちらに身を返した。
 硬直しているユアンめがけて、考える間もなく、襲撃者が鈍く光る得物を閃かせた。
 ​​​──なぜ、俺が襲われる。
 ユアンの頭がめまぐるしく回転を始めた。だが半ば混乱してのそこに、答えは見出せなかった。それよりも今は、身を守ることの方を本能が優先した。
 後ろに下がりながら、右手首の痛みを振り切るように、腰に帯びた剣を鞘から抜いた。手首にはあまり動かないよう、湿布の上から強めに包帯と厚布を巻きつけてある。それは自在に手首を返す自由は奪っていたが、なんとか柄を握ることはできた。
 襲ってきた刃を剣で受け止め、押し返したが、やはり傷がまだ痛んで思うように剣を振れない。だが理屈を飛び越えて全身に鳴り響く、命の危機に対する激しい恐怖と抵抗が、思考するより先にユアンを衝き動かした。
 凄まじい緊張感に、周囲の音が聞こえなくなる。ユアンは自分も必死で襲撃者に応戦しながら、視界の端に護衛の姿が倒れるのを見た。負傷して動けなくなってしまったのか、それとも斬り殺されてしまったのか。
 それに気を取られた隙を逃さず、襲撃者の刃が恐ろしい空気を薙ぐ音と共にユアンに向かって繰り出された。反射神経だけであやうく避けたものの、足場を乱して後方に倒れ込む。
 ​​​──やられる。
 灰色の薄ぼんやりと光るような空を背景に、襲撃者が刃を振りかざすのが見えた。瞬きもできず見開いた目に焼き付いたその光景に、しかし自分のものではない血飛沫が大きく広がり、散った。
 硬直したまま動けない上に、生温かな体温を持つ生き血が、ばたばたと大粒の雨が叩くように降りかかった。霧雨程度では流れない鉄錆びた血臭が鼻をつく中、呻き声もなく倒れ込んだ襲撃者の後ろに、黄金の長い髪を灰色の光に透かして靡かせた長身の人影が立っていた。
 ユアンは呼吸が弾み、手脚が細かく震えていた。気が付けば静寂が戻っていたあたりの様子を見回すと、何人かが濡れた石畳の上に倒れ、大きな動きを見せている人影はなくなっていた。倒れている襲撃者の数は、襲ってきた人数より少なく見える。血相を変えて駆け寄って来る者達や、どこかに駆け出してゆく衛兵達の姿も見えた。
 霧雨にしっとりと衣服や髪が濡れてゆく中、流れるような動きで剣を鞘に納めながら、目の前に立ったフィロネルが不意に口を開いた。
「​​​──これが、おまえが身体を張って守ろうとした相手の正体だ」
 なんら感慨が宿るでもない、淡白な声音だった。ユアンは石畳の上に座り込んだまま、返り血らしい返り血も浴びていない皇子の姿を見上げた。
 命を狙われ、あやうく死ぬところだったというショックも、確かにあった。だが頬から血の気を奪い、冷え切ってしまったようにユアンの手脚を小刻みに震わせているのは、それ以上に大きな悪寒を伴う愕然とした衝撃だった。痛いほどに凍てついた滴が、ゆっくりと背骨を伝い落ちてゆくようだった。
 唇からも血の気が引き、動けないままでいたところに、駆け寄ってきた者達が心配そうに顔を覗き込んで来た。怪我はないかと訊ねられてなんとか頷きながら、ユアンは頭の芯が痺れ、眩暈に強く目を瞑った。

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