三章 赤い涙 (2)

 どれほどユアンを苛んだ翌朝でも、フィロネルは決まった時間通りに起き出して一日の活動を開始する。それだけはユアンは感心するところであり、またどれだけ体力があるのかと呆れるところでもあった。
 だが考えてみれば、フィロネルはあくまで自分のペースで楽しみ、別段無理をしているわけでもないのだから、普段通りに動けて当たり前かもしれない。
 それに比べてユアンは、ひどく責め抜かれた翌朝などは、どうしても普段通りに起き出すことができなかった。皇子の寝台で気を失ってしまった翌朝は、ユアンが目を覚ますと既に部屋には自分一人なのが常だった。
 フィロネルもさすがにそれは許容しているのか、こういう日は多少出仕が遅れても咎められたことはない。なんとかユアンが起き出して自室に戻り、湯浴みをし終えた頃に、見計らっていたように朝食が運ばれてくる。
 皇子との営みの大まかなところを周囲にいる召使い達に把握されているのは気まずく恥ずかしかったが、フィロネルの立場からして仕方のないことではあるのだろう。それに召使い達は、教育されているのか慣れているのか、やはりユアンに対しあくまでも無感動に淡々と接する。だからユアンも、できるだけ彼らに普段通りに接するよう心がけた。
 こんな日は全身がだるく、胃袋までげんなりしていたが、運ばれてくる食事は滋養がつくものを柔らかくした料理や果物が中心で、まだなんとか喉を通りそうだった。こういうとき、フィロネルが何を考えているのか分からず、またユアンは戸惑いを覚えた。
 フィロネルのことを頭がおかしいと思う一方、フィロネルのユアンに対する扱いは、閨でのことを除けばそこまでひどくはない。むしろユアンを正式な従者として登用し、教育し、ユアンがまだ慣れない最初の頃は夜伽をさせることもしなかった。こうして閨で無理をさせた後は、気遣いといっていいものを見せもする。
「……何を、馬鹿な」
 我に返り、袖の下になって今は見えない手首の痣をさすりながら、ユアンは舌打ちした。
 そうだ、悩むようなことではない。フィロネルとユアンの間に交わされたものは、どれほど奇異であろうと「対等な交換条件」であり、しかも持ちかけてきたのは向こうの方だ。ユアンは表向きは従者として雇われているのだから、それに相応しいまっとうな待遇くらい当たり前だろう。従者らしくしなければ怪しまれる、とも言ったのは向こうだ。大体、閨での仕打ちを考えれば、あの男がユアンのことをどう考えているのかくらいよく分かる。
 昨晩のことを思い出すと、憂鬱な溜め息が落ちた。心だけは屈服していない、とどれほど自分に言い聞かせても、惨めさと口惜しさはごまかせなかった。
 それに、常に厳重な警備の中心にあるフィロネルに対し、殺意だけはあっても一向に効果的な手を打てずにいることも、ユアンを苛立たせ焦らせている。無惨に命を絶たれた家族達のことを思うと忸怩たる思いにかられ、こうして安穏と生きていることがいたたまれなかった。
「…………」
 溜め息ばかりが落ちる。出来るならば、フィロネルと顔を合わせたくなかった。長く拘束されていたせいで肩や腕が軋むように痛み、嫌でも昨夜のことを思い出さずにいられなかった。
 ​​​──俺はいったい、ここで何をしているんだろう。
 自分が自分で思っていたよりもはるかに愚かで甘いことは、伯父の一件で思い知らされた。勢いと悲憤にかられるままにこんなところまで来てしまったが、結果的に何も出来ないまま囚われて、仇を討つどころか惨めな慰み者にされている。
 もはや自分に、フィロネルを討つことなど出来ないのではないのか。思考の何もかもが悪い方にばかり巡り、そんなことさえ思って、ユアンは慌てて首を振った。
 無理難題なことは、最初から分かっている。正面から討つことが出来ないのであれば、時間をかけてゆっくりフィロネルを油断させ、それこそ閨で寝首を掻くことも視野に入れればいい。そこまで耐えられないというのは、甘えだ。無惨に殺された者達のことを考えろ。完遂するしか選択肢はない。
 自分に刷り込むように繰り返し、ユアンは溜め息混じりに朝食の載ったテーブルについた。身も心も重く荒んで食欲もなかったが、とにかく無理にでも食べねば身体が続かなかった。
 スープを一口含んだ途端、自分は今何故、たった独りで何のために生きているのかと、そんなひどく感傷的な思いが突き上げてきた。ユアンは咄嗟に口元を押さえ、薄い吐き気と嗚咽をこらえた。
 それを正面から考えてしまうと、それこそもう生きていけない気がした。ユアンは懸命にその考えから思考を逸らし、何も考えずに、無理矢理食べ物を口に押し込んだ。
 皇宮の食事は手が込んでいるはずだったが、無理に喉に通したそれは、味もよく分からなかった。


 気が重いまま皇子の執務室の扉をくぐったのは、結局普段より二時間近くも遅れてのことだった。
 よほどひどい顔色をしているのか、ここに来るまでにユアンは数人から体調を心配された。それに愛想笑いもできないまま、形ばかりの挨拶をして、執務室に入ってからもフィロネルに声もかけなかった。
 どうせ自分は形ばかりの従者なのだ。そんな投げやりな気持ちが生まれてもいた。
 ここに来たばかりの頃に比べたらユアンは知識も増え、フィンディアス宮廷のしきたりや風習も覚え、それなりにフィロネルの輔佐を務めることもできるようになっていた。
 だがそんなもの、自分とフィロネルにとっては、子供がやる「ごっこ遊び」とどこが違うのだろう。そう思うと、自虐的な笑いがこみ上げた。
 机についたまま一人で笑っているユアンに、フィロネルは黒光りする木目の美しい無垢材の執務机から、ちらりと視線を投げただけだった。相変わらずその姿はさしたる装飾品もなく、だが僅かな金の耳飾りや指輪が似合って、腰まで届く黄金の髪を緩く結った様子は絵画のようだ。氷血、と呼ばれるのも納得できるほど冷めた美貌は、今は完全に執政者としての貌をしている。閨で見る妖艶な魔物じみた姿とは別人のようだった。
 フィロネルはだいたい午前の間は、この執務室から政務を執る。書類の決裁や簡単な面会はここで済ませ、必要に応じて皇子に資料や知識を提供したり、訪問者の取り次ぎをするのもユアンの役目だ。だがそういった仕事が少なければ、この時間はユアンにとって、割合に余裕のある時間帯でもあった。
 今日は午前の面会はあまり多くなかったのか、どうやらもう一通り済んだようで、何も通達されなかった。だからフィロネルも、ユアンを昨夜あんな抱き方をしたのかもしれない。ユアン一人がいなくても政務に支障はきたさないだろうが、多少の不便はあるだろう程度には働いているつもりだった。
 窓から見える灰色の空は、今日も日差しが弱かった。この国の夏は長くはなく、もっとずっと暖かい国で育ったユアンの感覚では、今はもう既に夏とはいえない。朝晩はもう寒いくらいだし、昼間でも晴れ間がなければ冷える。
 ユアンは普段なら、手があいたらこの国や宮廷の事情を知るための勉強や調べ物などをしていたが、今日は何をするでもなく、ただぼんやりと机から外を眺めていた。
「おまえは留学していたのだな」
 そんな調子だったから、フィロネルが不意にそう口を開いたときも、自分に語りかけられたのだとすぐには分からなかった。
「……はい?」
 見ると、執務机からフィロネルがユアンに視線を投げていた。フィンディアスは上質な宝石もよく産出するが、フィロネルの紫色の瞳はそれらに勝るとも劣らないほど深く澄んで美しい。いや、流れ落ちる黄金の髪もそれは見事なものだ。顔形や全体の容姿も含めて、皇子の外見だけは良いことを、ユアンも認めてはいた。
「おまえは、レインスターに留学していたのだな」
 ユアンがぼんやりしていることを見て取ってか、フィロネルは言葉を付け足して繰り返した。その眼差しが探るような表情を帯びているのを見て、ユアンは気を引き締めた。
「それが何か」
 さもあろうが、ユアンの素性や経歴についてをフィロネルは調べさせていたようだ。今さら何を隠す必要も感じず、ユアンは突き放すように返した。
「おまえが戦禍を免れたのは、そのせいか」
「……それが何か」
 問い重ねられて、警戒心や押し殺している負の感情がざわめき、ユアンのうなじあたりの産毛がさわりと逆立った。
 こいつには何も言われたくない。故郷のことも、家族のことも、何も。こいつに口に出されるだけで穢らわしい。
 ユアンの藍色の瞳がたちまち暗く鋭角的な光を増したのを見ても、フィロネルは表情も変えなかった。
 今日は珍しく暇なのだろうか。フィロネルは手にしていた羽ペンをペン立てに挿し、椅子ごとユアンに身体を向けた。
「ひとつ教えておいてやる。俺がやらなくても、ファリアスはじきにレインスターに滅ぼされていた。俺を恨むのは自由だが、そのことは知っておけ」
「……は?」
 突然投げかけられた内容に、ユアンは咄嗟に言葉を取り繕うことを忘れた。公の場では、ユアンはひとまずフィロネルに対し礼を尽くす。所詮形だけのものなので、油断すると慇懃無礼になることはあるにせよ。
 フィロネルもユアンの礼節などに期待はしていないらしく、構う素振りもなく言った。
「ファリアスの位置は、北のフィンディアスと南のレインスター、どちらの国にとっても奪えば防波堤となる要衝だ。ファリアスが小国ながら栄えたのは、あの立地条件のせいだと言っていい」
「……それは、分かりますが」
 そんなことは、わざわざ言われなくても知っている。ユアンは他ならぬファリアスで生まれ育ったのだから。
 大陸各地を繋ぐ大動脈である街道のうちの一本をファリアスは擁し、南北に走るそれは多くの文化や金品をもたらして国を豊かにしていた。あまり多くの兵力を持たないファリアスの安寧を守っていたのは、その南側に広がる強国レインスターの存在だ。レインスターがまだ取るに足らないような小国だった頃から、二つの国は親善大使を交換し合い同盟を結んでいた。互いの領土を不可侵とし、互いの危難には協力し合うという約束事は、ファリアスがフィンディアス軍の急襲によってあっけなく滅びるまで忠実に守られていた。
 フィロネルは悠然と長い脚を組み、部下達と打ち合わせをしているときのような平坦さで続けた。
「レインスターのウェルディア王は何しろ野心家だ。南をある程度地固めした今、次に刃の切っ先を向けるのは北。少なくともあの男は、俺が統治を始めてからのフィンディアスを警戒し始めていた。南部の平定に乗り出すにせよ、まずは後顧の憂いを断ってからでなくては、と考えるのは妥当なところだろう」
「何の話をしているんです。俺にはそんな話はどうでもいい」
 軽く苛立って、ユアンは遮った。そんな話を今のユアンに聞かせて何になるというのだろう。愛すべき祖国なき今、各国の情勢も裏事情もユアンにはどうでもいい話だ。ましてその祖国を滅ぼした男に、何を滔々と語られる必要があるというのか。
 だが予想以上に強い眼差しを、フィロネルがじろりと巡らせてきた。そこには思わずユアンに言葉を飲み込ませるほどの威圧感があった。
「おまえは阿呆か」
「なっ……」
「俺が出兵の準備を整えていたとき、レインスターでも同じようにファリアスを襲撃する準備が進められていた。むしろ俺が事を急いだのは、レインスターのその動きを知ったからだ」
「……は?」
 頭ごなしな言い方に思わずかっとなりかけたユアンだが、続けられた言葉に、昇りかけた血がひいてゆくのを感じた。聞き捨てならない内容に、思わず椅子を蹴って立ち上がる。
「馬鹿なことを言うな。俺はあの時期にレインスター王都にいたんだぞ。あのときレインスターに、そんな妙な動きは一切なかった。第一、ウェルディア王はファリアスの人間である俺に本当によくして下さった」
 ファリアス貴族の公子ではあったが、レインスターにおいては一留学生にすぎなかったユアンに、当事レインスター宮廷でウェルディア王は直々に声をかけてくれたことがある。
 まだ三十代の若く美しく王者の威厳に溢れたウェルディア王の、しかし驚くほど気さくでもあった様子を、ユアンは思い出した。何か既視感を覚えるのは、それほど昔のことでもないのに、現状からはあまりに遠すぎて懐かしいせいだろうか。勢いのある国の王らしい煌びやかな装いに身を固め、見事な黄金の髪を翻し、しかし見かけの美しさよりも猛々しく誇り高い鷹のようなウェルディア王の覇気に、ユアンはそのとき圧倒されてがちがちに緊張してしまったものだった。
 フィロネルの話が本当なら、あの頃既にレインスターではファリアスに攻め入る準備を進めていたことになる。しかも和親同盟を一方的に破棄する前提で、だ。そのファリアスから来た人間相手に、ウェルディア王はあんな笑顔を平然と見せていたというのだろうか。
「だからおまえは阿呆だというんだ」
 当事のことを思い出し困惑しているユアンに、フィロネルは小馬鹿にするように言い捨てた。
「何が阿呆だと​​​──」
「周囲に一切洩れないよう極秘に進められていた計画を、たかだか留学生ごときに知る機会があるわけもなかろう。だいたいおまえは、ウェルディア王の何を知っている? その程度の腹芸もできないで、一国の君主が務まると思うか」
 もっともではある指摘に、ユアンは言葉に詰まった。確かにその通りだ。緘口令を敷き、一般庶民に対し秘密裏に国家規模でひそかに計画が進められていたのなら、たかが留学生にすぎなかったユアンにそれを察知できるわけもない。ウェルディア王にしても、ユアンに対し本音を見せる必要も筋合いも、一つも無かっただろう。
「……だから、先手を打ってファリアスに攻め込んだ、と?」
 しかし、フィロネルの話を鵜呑みにするのも早計だ。こんなもの、誰に真偽を問い質せばいいのかも分からないような話ではないか。いや、かつての戦いを起こし、直々に号令を下したフィロネルが言うのなら、これ以上にないほど信憑性は高いのかもしれないが。
 考えるうちに、ユアンは何がなんだか分からなくなってきた。
 何を、誰を信じればいいのだろう。フィロネルの言うことは本当なのだろうか。あの気高く美しく、優しい言葉をかけてくれたウェルディア王が、あの笑顔の裏ではファリアスを滅ぼす算段をしていた? ……ああ、でも、自分がひどく愚かで甘いことは、伯父の一件でもよく分かったではないか。
 立ち上がったまま俯いてしまったユアンに、フィロネルは表情も声音も乱すことなく答えた。
「そういうことだ。あのままなら、どのみちファリアスは早晩レインスターに滅ぼされていた。そうなれば、フィンディアスは南への備えに対し大きく後れを取ることになる。俺はこれでも、この国の事実上の王だからな。みすみす指を咥えて自国の不利を見過ごすわけにはいかなかった」
 ……これは本当の話なのかもしれない。ユアンは様々なことを思い詰めるうちに、熱を持ったようにぼんやりしてきた頭で考えた。あれはユアンにとっては青天の霹靂でしかない戦だったが、ユアンなどには与り知れぬ雲の上では、常に国の支配者達の様々な思惑が絡み、駆け引きが行われているのだろう。祖国が滅ぼされたあの戦にしても、何かしらの理由があって引き起こされたものではあったのだろう。
 だが、何故それを、フィロネルはユアンにわざわざ告げるのだろう。恨むのは自由だが知っておけ、と言っていた。だから仕方のないことだったのだ、とでも言いたいのだろうか。執政者という高みから見下ろしての、免罪符を突きつけたいのだろうか。
 そう思ったとき、ぴしりと理性にヒビが走る音がした。
「……だが、そのせいで皆が死んだ」
 机についた手を、ユアンは無意識に握り込んでいた。甦るのは、レインスターからろくに休むこともせず早馬を乗り継いで、数日かけてやっと辿り着いた故郷で見た光景。戦いに巻き込まれて崩壊した市街地や、炎に包まれ血に染まった我が家。物言わぬ屍になっていた召使い達や、父に母。骸になった妹を背負って、その冷えてゆく血を纏いながら暗い森を彷徨ったこと。
 皆どれほど恐ろしく、苦しかっただろう。何も悪くない彼らが、なぜあんな目に遭わなければならなかったのだろう。
「さすがに無血というわけにはな。フィンディアス側も、犠牲が皆無だったわけではない」
 あっさりと答えたフィロネルに、ユアンは思わず突き刺すような視線を振り向けた。
「貴様が仕掛けたことじゃないか。誰も彼も、貴様のせいで死んだんだぞ」
「遅かれ早かれ起きていたことだ。それならば俺は、あの戦に限らず、出来る限り犠牲が少なく済む方法を選ぶ」
 確かにあの戦は、フィンディアス軍の電撃的な侵攻によって、合戦らしい合戦すら起きなかった。一直線に王都を目指したフィンディアス軍は、圧倒的な兵力と攻城技術によって、平和慣れしていたファリアス王都の城壁を簡単に崩し、王城を陥落させた。国王一家は捕らえられて幽閉されていると聞く。確かにこれだけを聞けば、あの戦における被害は記録的なほど少なかった。
 だからといって、あの日無惨な光景はそこにあったのだ。どんなに犠牲は少なかったといっても、ユアンはあの戦いのせいですべてを奪われたのだ。
「貴様は……誰が殺されても、そんなことが言えるのか」
 うねるように突き上げてくる様々な感情が、ユアンの声を震わせた。だから誰が死んでも、おまえの家族が殺されても仕方がなかったのだと言われても、納得などできるわけがなかった。
 僅かにフィロネルは端整な眉根を寄せたようだったが、表情にこれといって大きな変化はなかった。
「私情は要らぬ。王として生きるためには」
 私情。私情か。あっさりと言い切られたその一言に、ユアンは思わず嗤った。嗤いながら、煮えるような涙が出た。
 ​​​──この男に、自分の大事な者達は殺されたのだ。
 ユアンは衝動的に何も考えぬまま駆け寄り、フィロネルの胸倉を鷲掴みにしていた。
「貴様はそうでも、俺は王ではない。貴様に家族を殺された、ただの一人の人間だッ!」
 いくら防音性の高い部屋でも、これだけ声を張り上げれば外にいる者に聞きとがめられるかもしれない。だが、そんなことを考える余裕もなかった。あの日に刻み付けられた衝撃と哀しみが、臓腑を灼くような怒りと憎しみが、熱く苦しい涙となって溢れて落ちた。視界が眩みそうな激しい感情の昂ぶりに、フィロネルの胸元を締め上げながら、ユアンの奥歯が噛み合わずに震えた。
 フィロネルの座る椅子はゆったりとした大きさで重く、追突するような勢いでユアンが迫っても倒れることはなかった。至近距離から睨み据えた先の紫色の瞳が、初めて多少にしろ瞠られるのが見えた。そこによぎったものが何だったのかは、ユアンは感情が昂ぶりすぎて冷静に読み取ることができなかった。
「……一人一人に対して償っていたら、俺は命が幾つあっても足りん」
 フィロネルはユアンを払いのけることもせず、声を荒げることもせず、呟くように言った。その声音の静けさがユアンを少し驚かせ、しかし言葉の内容に、ますます歯軋りしてフィロネルの胸元を締め上げた。
「何だとっ……」
「だが、事の責任のすべては俺にある。略奪行為は、出来る限り禁止させてはいたんだがな。行き届かなかった一部の兵士が蛮行に及んだことは聞き及んでいる」
 フィロネルがゆっくりと瞬いて、緩く反った長い睫毛を伏せた。その動作に、ユアンは小さく息を飲んだ。至極無防備に見えたその一瞬、フィロネルのその仕草は、僅かに頭を垂れたように目に映った。
「おまえの屋敷の者達や、家族の命を奪ったことについては、詫びる。すまなかった」
 ユアンは大きく眦を見開いた。そんな言葉がフィロネルの口から出るなど想像すらしたことがなく、幻聴かとさえ思った。
 だがそれを理解するなり、大きく喉が震え、ますますカッと頭が熱くなった。
「すまなかったで済むと思うかッ!」
「済むとは思っておらん。許せとも言わない」
 アメジスト色の瞳が、真っ直ぐにユアンを見返した。戸惑いも慄きもない、抜き身の剣のように揺るぎなく強い眼差しだった。
「そのためにこの話をしたわけでもない。言ったはずだ、俺は無能者は好かん。従者のおまえが事実を知らず、阿呆の子供のような戯言をいつまでも言っているようでは困るというだけだ」
「戯言だと……っ!」
 そこでいきなり立ち上がったフィロネルに、ユアンは完全に不意を突かれた。腕を引かれて足許を払われ、あっと思ったときには厚い絨毯の上に投げ出されるように転がされていた。
 フィロネルが悠然と、大きな執務机をまわって部屋の扉に歩き出した。
「少し頭を冷やせ。おまえはもう今日は部屋に戻っていい」
 ユアンが慌てて起き上がったのに目もくれず、フィロネルはそのまま普段と寸分変わらぬ隙のない足取りで、執務室を出ていってしまった。
「くそっ……」
 ユアンは毒づきかけたが、そこではっとした。
 いつもであれば、フィロネルはユアンに指一本ふれさせようともしない。だが今日は掴みかかっても振り払われることもなく、フィロネルはただそこにいた。
 ……なぜ、あのとき俺は剣を取って抜かなかった。
 あのときこそ、再びあるかどうか分からない絶好の機会だったかもしれないのに。なぜあのとき、自分の机のすぐ手に取れる位置に置いておいた剣のことを、思い出しもしなかったのだろう。
「……くそッ」
 床に拳を打ちつけ、もう一度ユアンは呻いた。フィロネルに聞かされた話や、様々な感情が入り乱れて、自分でも今の自分が何を考えているのか掴めなかった。
 ​​​──俺を翻弄するな。
 床にうずくまった中に鳴り響いたのは、そんな言葉だった。
 俺を翻弄するな。信じていたものを疑わせるな。これ以上愚かで甘いと思い知らせるな。でないと、自分に刃を突き立ててしまいたくなる。
 声を殺してうずくまり、ユアンは懸命に涙を抑え込もうとした。頭に血が昇り感情が昂ぶりすぎたせいか、ひどい頭痛がし始めていた。
「…………は……は、うえ……」
 入り乱れた思考と感情のおさまりがつかないまま床にうずくまっていた唇から、無意識のうちに声が零れた。
 あの日から、心の中で繰り返し呼ぶことはあっても、口に出して呼んだことはなかった。けれど今は、自制していたものが緩んで崩れかけているように、愛しく懐かしい者達の存在が脳裏を占めてやまなかった。
「母上……父上…………タリア……」
 呼ぶと、どうにもならず涙が溢れた。怒りと憎しみにかられた涙とは異なる、ただひたすら寂しく空虚な哀しみに満ちた涙だった。
 自分が間違っているとも、間違っていたとも思えない。フィロネルを許せないと叫ぶことは間違っていない。向こうがユアンの言葉を戯言と言うのなら、フィロネルの言うことも支配者の戯言だ。最低限の犠牲だ、と雲の上から言われたら、その犠牲になった者は、彼らを愛する者は、否という叫びすら奪われるのか。誰もが生きているのは同じなのに。
 ​​​──苦しい。
 家族達に会いたかった。おまえは間違っていないと抱き締めてほしかった。いい歳をしてこんなことを思うだなんて情けないと思いながらも、あまりにも独りで、寂しく心細く寒かった。
 握り締めた拳で目許を押さえながら、ユアンは涙が止まるまで、長いことそこにうずくまっていた。

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