三章 赤い涙 (4)

栞をはさむ

 皇子の私室は、幾つもの部屋が連なっている。大きなテーブルが置かれソファが並べられている居室もあり、親しい相手などを個人的にこの部屋に迎えて歓談することもできるようだ。少なくともユアンがフィロネルに仕えるようになってからは、そんな光景はついぞ見たことが無いが。
 光が零れ落ちてくるようなシャンデリアが下がり、頑丈な通し柱や梁や窓枠を金箔が煌めかせている様は、見惚れるほどに豪奢なものだった。壁紙や絨毯は、最高級の品質と手間と技術をよりあわせて生み出された美しい模様で埋められている。重厚かつ繊細な造りの美麗な調度品や、様々な絵画やレリーフ、彫像が室内を彩り、大きな花瓶には常に季節の花が生けられて芳香を放っていた。
 それでも古く歴史ある石造りの建物は、ともすると閉塞感をもたらす。それを和らげるためだろう、壁に何枚も取り付けられ磨き上げられた大きな銀色の鏡が、部屋を明るく広々と見せていた。
 それらの部屋の連なる最も奥に、皇子の寝室はある。
 一見すると手前の居室と同様に美しく豪華な一室だが、天蓋付きの大きな寝台をはじめ、部屋のあちらこちらに「悪趣味な仕掛け」が隠されているのを、ユアンは多少なりとも知っていた。それらは代々の倒錯した皇子達が、性の対象を弄ぶために改造してきたものらしい。
 ユアンの目には、それらは愛ある行為のためではなく、相手を苦しめ苛むためのおぞましい仕掛けにしか見えなかった。これから自分が何をされるのか分からないが、おとなしくしていたらそれらの何かしらを使われた挙句に殺されるのだろうか。それに対する恐怖心がないわけがなかったが、だがそれ以上に、フィロネルに対して退けない気持ちがあった。
 手前の部屋には皇子の姿はなく、もはやそこしかないと思って寝室に足を運ぶと、室内の一隅に設えられた天鵞絨張りの椅子に、フィロネルが深く腰を下ろしていた。
 長い脚を悠然と組み、けだるげに腕を肘掛けに乗せた姿勢で紫色の瞳を巡らせてきたフィロネルに、ユアンは思わず立ち止まる。フィロネルから滲み出す威圧感と、空気を渡ってくる恐ろしいような凍てついた怒りの気配は、猛禽類が獲物を強張らせるようにユアンを怯ませた。
「よく逃げずに来たな」
 フィロネルの声音は、高めの天井に、普段よりも冷ややかに響いた。
 ユアンは顎を引き、全身に警戒を張り巡らせながら歩を進ませた。部屋のほぼ中央から、優雅に座したフィロネルを見返す。
「逃げる理由がない」
「それは勇ましいことだ」
 徐にフィロネルが立ち上がった。ユアンは反射的に片脚を引き、腰に帯びた剣の柄を掴んでいた。
 ただで殺されるものか。以前に比べれば、ユアンも多少は剣の腕が上がり、力もついた。こいつを討ち取ることができるなら、自分の命などどうでもよかった。
 ユアンの張り詰めた様子を数秒見つめ、フィロネルは目許を眇めた。その薄氷のような笑い方に、気圧されまいとしながらも、ユアンの背筋が粟立った。
「殺しはしない」
 フィロネルの形の良い唇から紡がれた言葉に、ユアンは眉をひそめた。
「……どういうつもりだ?」
「どういうも何もない。おまえは殺されたいのか?」
「貴様を道連れにできるなら、それでいい」
「つくづく憎まれたものだな」
 くつくつとフィロネルが笑い声を立てる。長く流れ落ちる髪を揺らして笑うその様子には、初めて出会い、暴力をもって犯された夜のような、どこか箍の外れた物騒な危うさがあった。
 その紫色の瞳が、再びユアンをとらえた。爬虫類を思わせるような体温を感じさせない虹彩から、笑みは消えていた。
「服をすべて脱げ」
 冷たく命じられ、ユアンは身構えたまま黙り込んだ。
 フィロネルの思考が読めない。ここで捨て身で斬りかかるべきか。それとも、本当に殺さないというのなら、今はその言葉に従うべきか。
 捨て身でかかっても、正面からでは致命傷を負わせることができるか、正直自信がなかった。本当に殺すつもりはないというのなら、今をやり過ごすためにその言葉に従う方が利口だろう、とは思う。
 だが殺されないかわりに、フィロネルの怒りが解けるまで、ひどく辱められ苦しめられることは目に見えている。耐えて機会を待つ方が利口だ、と頭では分かっていても、武器を捨てるには覚悟と勇気が要った。
 紫の瞳と睨み合い、逡巡した末に、ユアンは深く息を吸い、吐いた。いつの間にかうっすらと汗ばんでいた掌を、剣の柄から放した。
 フィロネルは何も言わない。窓の外の灰色の空から部屋に届く陽光は、確かに光線でありながら陰気で、そこに立つフィロネルの姿を石膏像のように冷たく照らし出していた。
 脱げ、と命じられた以上、そこまで従わねばなるまい。他人の前で、ましてこの男の前で自ら裸体を晒すなど屈辱でしかなかったが、だからこそユアンは、心を決めた後は何も隠さず堂々と脱ぎ始めた。
 ユアンは帯びた剣を外し、身につけていた衣服を残らず取り払い、薄暗い豪奢な部屋の中に、服従の証のように無防備な一糸纏わぬ姿で立った。肩も腰も脚も締まり、適度についた筋肉が弱い光に陰影を浮かせた身体は、決して軟弱ではない。しかし細身の線には頑強さが欠け、青年と少年の丁度中間の柔らかさを何処かに残していた。
 すべてを脱ぎ去ったユアンが睨み付けると、フィロネルはたいした感慨もないように動いた。ユアンに歩み寄り、手馴れた要領の良さで、フィロネルはその両手首と両足首に枷を嵌める。さらには奴隷のように首輪を掛けられた。抵抗もせず、ユアンはただ唇を噛んで、なすがままになった。
 両足首の枷は、それぞれ長い鎖で寝台の頑丈な支柱に繋がれた。両手首は後ろ手にされ、手枷から伸ばされた鎖が首輪に掛けられる。下手に暴れると首輪が後ろに引っ張られて、首が締まってしまう形だった。
 ​​​──どこまでも悪趣味な。
 ユアンが眉をしかめていると、少し長めの濃紺の前髪を掴まれて顔を引き起こされた。頬骨を掴まれ開かされた唇に、小さな容器の口をねじ込まれる。
 どこかで覚えのある、とろりとした喉ごしの薬臭く甘苦い味が舌に落ちてきた。若干刺激のあるしつこい後味を引く液体に、ユアンはむせ込んだ。しかし構わず口をこじ開けられ、さらに何口か含まされた。
 この特徴的な味は覚えがある。椅子に縛り付けられ、初めて下での快楽を教え込まれたときに含まされた媚薬だ。一舐めでも充分だというそれを嚥下するほど飲まされたあのときは、延々と身体が反応し続けて、体力の限界を超えても昂ぶりがおさまらなかった。あのときのことは記憶がさだかではない部分も多く、ユアンには心身共に地獄のようだった苦痛の記憶として刻まれていた。
 今飲まされた量は、あのときよりも多かった。それを理解したユアンの藍色の瞳が動揺し、表情が歪んだ。
 その細い顎を指で持ち上げ、フィロネルがユアンの瞳を覗き込んだ。宵闇の翳りを帯びたアメジスト色の瞳が、うっすらと笑みながら妖しく底光りした。
「俺を怒らせた罰は受けてもらう。殺しはしないが、せいぜい発狂しないように気を張っておけ」
「……この、下衆が」
 思わず吐き捨てたユアンに、フィロネルは薄く嗤うばかりだった。その瞳の奥は、まったく笑っていなかった。

「身体が悦くなってくる前に、まずは軽く痛みを与えておこうか」
 顎を持ち上げたまま囁くフィロネルの言葉に、ユアンはどうしても怯んだ。だがそれを極力顔に出すまいと努め、強く紫色の双眸を見返す。
 フィロネルは笑みだけを残し、いったんユアンの傍を離れた。どうやら何かをあらかじめ用意しておいたらしく、部屋の隅の方にある仕掛け棚から、フィロネルは小振りのワゴンのようなものを引き出してきた。
 一見可憐な紋様を描かれた壷のようなものがそれには固定されており、いったい何だとユアンは警戒したが、火掻き棒のようなものでフィロネルがその蓋を開けた途端、目を疑った。
 壷と見えたものの中には、真っ赤に焼けた炭が詰め込まれていた。美しい容器は外側だけで、内部には熱を遮断する加工が施されているらしい。壷にはやたらと凝った柄のついた金具の棒が突っ込まれており、それが何を意味しているのかを悟ったユアンは青ざめた。容器の美しさが、逆におぞましさを増して見えた。
「う……」
 足枷の鎖を引きずって後ずさりかけたユアンを、フィロネルは腕を引いて膝を折らせ、強引に床にうつ伏せに倒した。ユアンはもがいたが、背中をフィロネルに強く踏みつけられ、痛みと息苦しさに息を詰めた。
 その顔のすぐそばに、ぞっとするような熱が突き出された。フィロネルの手にしたそれは、幼児の掌ほどの大きさの鏝が先端についた、よく熱せられた焼きごてだった。
「ひっ……」
 顔のすぐ間近に突き出されたそれに、ユアンは竦み上がった。直接ふれていなくても、ちりちりと頬が焼けそうなほどの熱が伝わってくるそれへの恐怖で、喉が干上がった。
「どこがいい。まずは顔に押してやろうか?」
 ユアンの背中を踏み、焼きごてを突きつけて見下ろしたまま、フィロネルが問いかける。ユアンはただ灼熱する塊にふれないよう、出来る限り顔を遠ざけることしかできなかった。
 すっと顔のそばから熱が遠ざかり、ユアンは胸を撫で下ろした。しかしすぐに、背中からフィロネルの足が下ろされ、かわりに後ろ手にされた腕ごと押さえ込むように体重をかけて片膝が乗ってきた。容赦のない重みに、ユアンは苦痛の呻きを上げた。
「さすがに顔では目立ちすぎるか。それに、おまえの顔は幸いなかなか好ましい。せめてもの慈悲をくれてやろう。両肩と、背中。その三箇所にしておいてやる」
 頭の上から丁寧に説明してくるフィロネルに、ユアンは慄然とした。焼きごてを押されたことなどあるわけもないが、それがどれほどの苦痛を伴うのか、想像するだけで恐ろしかった。そんなものを押されたら一生肌に残るというのもぞっとする。しかもそれを、三箇所。
「何が、慈悲だっ……」
 膝で背中を押さえ込まれ、髪を掴まれて頭を押さえつけられ、完全に身動きできなくなったユアンは、歯軋りしながら唸った。フィロネルの顔は見えなかったが、軽く嗤ったような声がした。
 右肩の後ろあたりに熱が近付いてきたと思ったら、凄まじい激痛が生じた。
「あ、あ、うあッ……あ、あああぁッ!」
 容赦なく押し付けられた焼印に、生身の肌が音を立てて焼ける。皮膚が焦げて蛋白質の焼ける異様な臭いが立ち、炎を押し付けられているのと変わらないそれに、ユアンの全身が引きつった。こらえきれずに叫び、真っ裸の全身に一気に脂汗が浮いて、青ざめた顔が大きく引き歪む。
 苦悶するユアンの様子を愉しむように、じっくりと鏝を押し付けすべらかな肌を焼いてから、フィロネルは焼きごてを離した。
 ユアンはがくりと床に伏し、焼きごてを押し付けられていた間ほとんどまともに吸えなかった息に、ぜえぜえと喉を喘がせた。焼印を押されたあたりが、まだ焼かれているような灼熱感と痛みを発している。耐えられる許容量を越えた苦痛に、全身が細かく痙攣していた。
「ヒッ、ぐあ、うあああぁあッ!」
 痛みのことしか考えられずに震えているうちに、今度は左肩に焼きごてを押し付けられた。全身がひきつって可能な限り喉がのけぞる。脳天までつんざくような激痛に視界がちかちかし、悲鳴さえやがて弱々しくなった。二度目の焼印が肌を離れたときには、ユアンは意識が朦朧としかかっていた。
 ぐったりしたその額髪を、フィロネルの手が乱暴に掴んだ。
「案外かよわいな。気を失うのはまだ早いぞ。残りあと一箇所だ」
「う……う、……」
 こんなことに、かよわいも何もあるものか。痛みと衝撃に意識が遠くなりかけながら、ユアンは呻いてなんとか己を叱咤した。全身が勝手に細かく震えている。両肩はひどく熱いのに、大量の脂汗のせいか、身体の芯がすっと冷たくなる感じがした。
「やる、なら、やれ……」
 それでも、こんな男に屈することを意志が拒んだ。快楽よりもまだ、苦痛の方がましだった。嗄れた声でやっと言うと、一拍を置いて、肩甲骨の間、やや下あたりに、恐ろしい灼熱が押し当てられた。
「あ、がッ……ぐぁ、ッかは……ッ……!」
 じゅう、と自分の皮膚が焼ける音を聞きながら、ユアンはもうまともな悲鳴さえ上げられず、がくがくと震えた。見開かれた白目は充血して、涙の膜が張っている。大量の針を素肌に押し付けられ抉られているような灼熱を伴う激痛に痙攣するしかない中、あまりの苦痛に、きぃん、という耳鳴りがした。
 ようやく焼きごてが離されると、どうすることもできず、ユアンの意識はそこでふつりと途絶えた。

栞をはさむ