四章 神の死 (2)

 ユアンの知る限り皇子に特別な予定は入っていないはずだったが、その日もその翌日も、閨に呼ばれることはなかった。
 こちらの体調を気遣っているのか、それともユアンが知らないだけで用事があるのか、それは分からない。従者という比較的身近な立場ではあっても、皇子のプライベートまで把握しているわけではない。
 これではまるで閨に呼ばれることを心待ちにしているようじゃないかと、ユアンは自分で自分に苛立った。そうではない。皇子と一対一で話せる状況が欲しいだけなのだ。かといってこちらから部屋を訪ねてゆくのも藪蛇になりそうだったし、だいたいなぜ自分からわざわざ皇子を訪ねて行かなければならないのかと、考えるだけで面白くなかった。
 あれこれと考えていると、ベッドに入っても少しも寝付かれず、ユアンはやむなく寝酒をあおった。普段からは飲む習慣がなく、体調がまだ万全ではないせいか、酒はすぐに回って身体に力が入らなくなった。
 ベッドに潜り込むと、酔いのせいで普段よりも全身が暖かかった。身のまわりの洗い物は毎日きちんと召使い達が取り替えてくれるから、肌にふれる寝具の感触はいつでも清潔で気持ちが良い。自分は本当にまっとうないい暮らしをしている、と脈絡を無くしつつある頭で思う。
「……何なんだ。いったい」
 そうしながら、無意識にぼやいていた。
 皇子が何を考えているのか分からない。俺は貴様を殺すためにここに来たんだぞ、と思った。半ば自分にも言い聞かせたそれに、ユアンは我に返ると、ふるふると首を振って枕に額を押しつけた。強く瞼を閉じる。
 これでは一向に眠れない。何かを考えてしまいそうになる頭から、ユアンは無理矢理それらを追い出した。ふわふわとした酔いにだけ、意識して感覚を委ねる。
 もう今日はこのまま目を開くまい、と念じているうちに、いつの間にか意識が微睡みの中にすべり落ちていた。


 夢の中で、フィロネルの後ろ姿を前に立っていた。手脚が長く肩幅の広い、生まれながらのような気品を纏う見映えの良い後ろ姿。柔らかな黄金の髪が腰まで流れ落ちるその背は、毅然と迷いなく、そして限りなく孤独に見える。
 数歩先に佇むその姿を前に、ユアンは何かを問いかけたいと思いながらもどうしてか言葉が出ず、ただ棒のように立ち尽くしていた。
 喉元までこみ上げているものがありながら、それを吐き出すことができない。うまく言葉にすることができない。
 ただ無性に心細く、不安で寂しかった。強く渦巻くように揺さぶられる感情はあるのに、自分が今怒っているのか、嘆いているのか、哀しんでいるのかさえも分からなかった。
 曖昧で漠然とした夢の中、無言で佇んでいる皇子の後ろ姿を見ながら、ユアンはいつまでも身動きすることができなかった。


 消化不良のまま、しかし日々を忙しく送る皇子の傍にいると、時間は気が付けば過ぎていってしまう。
 ​​​──もしや、あれは本当に夢だったのではないのか。
 ユアンは徐々にそう思い始めていた。皇子は何を言うでもなく、態度が普段と異なるということもない。勤めに戻ってから数日が過ぎたが、夜伽に呼ばれることもないので、結局皇子とあらたまって何かを話すという機会もない。
 半信半疑のまま皇子について職務をこなし、そうするうちにまた、週に一度の皇帝の寝所への見舞いの日がやってきた。
 ユアンも皇子について、護衛達と共にいつもの皇宮最深部へと無言で足を運ぶ。
 寒くなってきたせいもあって、蒼褪めた暗い海の中を思わせるそのあたりは、ますます冷えた印象を強めていた。
 いつものように、重く大きな扉を人ひとりが通れる程度に開けて医師達が姿を現し、皇子を迎える。彼らと皇子が、ユアン達には聞こえない低い声で言葉を交わす。
 この場所では、ユアンばかりでなく、他の者達も憚るように目を伏せている。そして皇子が扉の向こうに消えてゆくときには、その扉の向こうにいる貴い存在に対しても礼を取るように、深く腰を折って見送る。
「ユアン」
 今日もその習慣のままに俯いて佇んでいたユアンは、不意にフィロネルに名を呼ばれた。思わぬことに驚き、顔を上げると、他の者達も驚いたようにユアンを振り返っていた。
 それらの中で、扉の前から振り返っているフィロネルだけが、いつもの醒めたような眼差しをユアンに投げていた。
「おまえも共に。他の者達は、全員ここで待て」
「……はい?」
 眉根をひそめたユアンに構わず、フィロネルは扉の向こうに消えてゆく。普段ならその後についてゆく医師達が、今日はその場から動かず、かわりにユアンに胡乱げな視線を向けてきた。
 どういうことだろう、とユアンは戸惑った。なぜ自分が、皇子と医師達以外は立ち入りを厳重に禁じられている皇帝の寝所などに呼ばれるのだろう。
 思わぬことにうろたえたが、側にいた者に「早くしろ」と小突かれ、ユアンは気を取り直した。
 その場にいた全員から奇妙な視線を投げられつつ、ぶ厚く重厚な扉に近づいて、その細く開けられた隙間を通り抜ける。
 一歩扉を抜けると、肌にふれる空気がいっそうひやりとした。香でも焚かれているのか、何か爽やかな印象の匂いが漂っている。入ったところは小部屋のようだったが、視界を妨げるように、行く手には沈んだ蒼色をした幕が緞帳のように降りていた。
 戸惑っているユアンの後ろで、すぐに重々しい音を立てて扉が閉められた。


 ひやりと冷たく暗く澱んだ、呼吸する音さえ耳につくような静寂は、まるで墓所の中にでもいるようだった。
 とりあえず奥に行けばいいのかと、ユアンは進み出て幕をよけてみた。
 幕の向こうには、またそらぞらしいほど豪華な扉があった。ユアンは無意識に息をひそめ、足音も出来るだけ立てないように歩いて、厚く重い扉を開いた。
 造りは豪華ではあるが、調度品がほとんど除かれ殺風景な印象を拭えない部屋が、奥には広がっていた。医師達のものだろう雑多な医療器具が目に付く他は、申し訳程度に、窓辺にテーブルと椅子があるくらいだ。
 生臭いような、何かが腐りかけているような不快な臭いが鼻をついた。それを少しでも打ち消すためだろうか、何カ所かに香木が焚かれている。どちらがまさっているというわけでもなく、おかげで部屋の中を漂うのはなんとも異様な臭いになっていた。
 差し込む光線を抑えるためだろう、窓にはカーテンが引かれている。そのため薄暗く、いっそう寒々しい部屋に、皇子のものよりもさらに豪華で大きな天蓋に覆われた寝台があった。
 その四方には幕が降ろされていて、中が見えない。そのせいもあり、ユアンの目は寝台よりも、壁に掛けられていた一枚の大きな肖像画に奪われた。
 黄金細工の額縁の中から、凍えるような青い瞳がユアンを見下ろしていた。艶のある黒髪を美しく結い上げ、こぼれんばかりの花で飾り、瞳の色と揃いの青いドレスを纏った、息を呑むほど美しい女性がそこにいた。
 僅かな微笑すら形の良い唇に含まず、ただ冷え冷えとした青い瞳で見下ろしてくるその女性は、ユアンに凍てついた薔薇を連想させた。絵画でありながら、室内の温度をさらに下げているようなその女性の顔立ちに、ユアンは身近でよく知る別人の面影をはっきりと重ねた。
 ​​​──似ている。フィロネルに。
 皇子は幕をすべて下ろされた寝台の傍らに立っていた。その幕を透かして内側を見ているように、じっと動かない。
 ユアンは思わず目をしばたたき、フィロネルの姿を見直した。いつもはあれほど華やかで存在感のあるフィロネルが、まるでこの陰気な部屋の薄暗さにとけこんだ幽鬼のように見えた。
 確かにそこにいるのが​​​──当たり前ではあるのだが​​​──フィロネルであることを確認すると、ユアンは気持ちを切り替えて問いかけた。
「この女性は、イザリア様ですか?」
 皇帝ルカディウスの正室、今は亡き皇后。フィロネルの母親である女性。
 問いかけを受けて、微動だにしていなかったフィロネルが、表情のない顔でユアンを見返った。
「私の母だ」
 答えたフィロネルに、ユアンはふと違和感を生じる。これまでの付き合い上、フィロネルはユアンと二人だけである場合、つまりごく私的な場では、くだけた一人称を用いていた。
 そういえば、その寝台には病に伏した皇帝ルカディウスがいるのだと、今更ながらユアンは気を引き締めた。
 ルカディウスの声を一度も聞いていないが、眠っているのだろうか。皇帝の状況は分からないが、ひとまず礼は尽くすべきだろうと、ユアンは足音を立てないように寝台に向かい、皇子の傍らに立った。
 寝台の脇に立つと、この異様な腐臭の発生源はこの中であることを疑いようもないほど、臭いが強くなった。
 天蓋から下ろされた幕は半透明だが、それが何枚も重なっている。うっすらと向こう側の光を透かしているだけで、暗く沈んだ内側はよく見えない。
 かすかな衣擦れの音もしなかったが、静寂に沈んだ中に佇んでいると、ごくごく僅かな、そして苦しげに時々絡まる呼吸音が、幕の内側から聞こえた。
 なんとも言えない、鳥肌の立つような嫌な感触が、ユアンの首筋あたりをぞわりと伝った。
 皇帝は重い病だとは聞くが、この臭いは何なのだろう。傍らの皇子は何の言葉も発せず、ユアンは次第に訝しさを覚えた。
 そもそも、フィロネルは何のために、こんな場所にユアンを招き入れたのだろう。あの日から皇子に対して募る一方の不可解さも手伝い、ユアンは声を抑えながらも、我慢できずに口を開いていた。
「なぜ俺をこんなところに?」
 フィロネルは何も答えない。幕の下りた寝台を見つめる整った横顔が、あの絵画の中の凍てついたような女性と重なった。長い金色の睫毛のかかるアメジスト色の瞳が、人形に嵌まった硝子玉のように、無機質に薄明かりを反射している。
 いくばくかの静寂の後、皇子が前触れなく動いた。しなやかな腕を伸ばして、フィロネルは寝台に垂れ下がった幕を払った。
 途端、あの何かが腐りかけているような生臭さが更に増した。広々とした寝台に目を向けたユアンは、そこに横たわっていたものの異様さに眉を寄せ、それがどういう状態であるのかを理解すると、思わず呻いた。
 そこには、ほぼ全身に包帯を巻かれた人間が横たえられていた。包帯には腐臭を放つ血膿混じりの体液が滲み、敷かれたシーツにまで染み込んでいる。
 包帯の間から僅かに垣間見える肌は、皮膚がひどく爛れて剥がれているようだった。毛布などは何も掛けられていなかったが、この様子では掛けないのではなく掛けられないのだろう。
 微動だにせず弱々しい呼吸を繰り返している口には、唇らしい唇がない。顔面から頭部にかけても包帯を巻かれており、頭髪はほとんど抜け落ちているようだった。
「……皇帝陛下、なのか?」
 重い病に伏せたきりだとは聞いていたが、確かにこの様子では、とても表には出られないだろう。恐る恐るユアンが尋ねると、フィロネルは無表情に寝台を見下ろしたまま答えた。
「そうだ。生きたまま少しずつ身体が腐っていっている。腐敗は末端から始まり、徐々に致命的な内臓を浸蝕してゆく。おまえが私を殺そうとしたときの毒よりも、はるかに緩慢に死に到る。その分、長く苦しむ」
 冷めた声音を眉をひそめて聞きながら、ユアンはふと、目を見開いた。何か恐ろしいことを聞いたような気がする。まさかと思いながらも、皇子を凝視するユアンの瞳孔が震えた。
「……毒?」
 呟いた言葉に、フィロネルが紫色の瞳をユアンに巡らせた。死人のような無表情の中の、熾火が揺らめくような異様な瞳の耀きに、ユアンは全身を呪縛されたように硬直した。
「外来渡りの特殊なものだ。解毒方法はない。検出もされない。私が盛った。三年前に」
 あの肖像画の女性のように美しく整った唇が、ゆっくりと語る。動けないユアンをよそに、フィロネルの眼差しが、壁にかかった女性の姿に動いた。
 凍てついた薔薇のような女性を真っ直ぐに見上げながら、フィロネルは乾いた声音で他人事のように告げた。
「母上は毒に詳しかった。この毒を盛られたことを知って絶望した母上は、私の目の前で、露台から身を投げて死んだ」

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