四章 神の死 (3)

 ユアンは大きく目を見開いて皇子を凝視したきり、言葉を継げなかった。呼吸すら忘れかけていたことに、我に返った途端、胸の苦しさを覚えて気付く。
 思わず大きく呼吸をし、同時に漂う腐臭を吸い込んで吐き気を催して、ユアンは身震いした。
「……そんな話。冗談にもほどがあるでしょう」
 本当のことだ、と既に信じていながら、ユアンは不快な生唾を飲み込んでやっと言った。
 そういえば、皇后イザリアが死んだのも、皇帝ルカディウスが病に倒れたのも、共に「三年前」であることを思い出す。
 どこかで耳にしたイザリア妃の死因について、ユアンは記憶を手繰ってみた。確かイザリアは、誤ってテラスから転落したと聞いた覚えがある。その後皇帝は、妃を失ったショックで病に伏した、と。フィンディアス皇家のことなどどうでもよかったユアンは、別段興味も湧かなかったから、それらをすっかり聞き流していた。
 ただでさえ異様だった室内の空気が、非現実的なまでの重苦しいおぞましさを増していた。寝台の上の哀れな皇帝の姿を、ユアンはとても正視できなかった。
 皇帝にもイザリア妃にも、ユアンは恨みはない。父母と呼ぶ存在に対してそんなことをした上、今ここで淡々とそれを語るフィロネルの心理が、ユアンには理解できなかった。
 悪寒と胸の悪さに口元を押さえていると、フィロネルがユアンに目を移し、ごくうっすらと微笑した。
「冗談だと思うのか」
 ふとした拍子に見せる箍の外れたような危うさが、フィロネルの瞳の奥に宿っていた。静かな表情と声音が、逆に恐ろしかった。
 ユアンが答えられずにいると、フィロネルはふいと歩き始めた。窓際に置かれていたテーブルまで足を運び、椅子を引いて、重たげな動作で腰を下ろす。その仕種は妙に疲れたように見えた。
「こちらに来い」
 呼ばれて、ユアンは戸惑いながらもそれに従った。この寝台の側にいるのも恐ろしいような気がしたし、カーテンが引かれていても、窓辺なら少しは明るい。吐き気を伴う澱んだ空気から少しでも逃れたくて、ユアンは皇子の傍らまで移動した。
 フィロネルは引き出した椅子にぐったりと身を預け、脚を組んでテーブルに片肘をつき、額を押さえ込むようにしていた。
 フィロネルが日頃からよく頭痛に悩まされているらしいことは、ユアンも知っていた。それがまたひどくなっているのだろうか。流れ落ちる黄金の髪に顔は覆い隠されていたが、皇子は手の甲まで青ざめているようだった。
 何か話しかけるのも憚られ、それに何を言えば良いのかも分からず、ユアンはただ黙って皇子の傍らに立っていた。
「……皇帝はいずれ死ぬ。数ヶ月先か、まだ一年以上かかるかは分からんが」
 額を押さえたまま、フィロネルが口を開いた。
「もう喋ることもできん。ここで何を言っても、外部には洩れないから安心しろ」
 その声音には、ユアンが思っていたよりも芯が通っていた。だが、常に誇り高く顔を上げ毅然としていた皇子の口からはこれまで聞いたこともないほど、悄然としたような疲弊感を滲ませてもいた。
 ​​​──ここにいるのは、素のフィロネルだ。
 その声を聞いたとき、ふとユアンはそう思った。
 今ここにいるのは、皇子としてのフィロネルでも、執政者としてのフィロネルでもない。ぐったりと倦んで顔も上げられずにいる、ただの一人の人間だ。
「……あんたが毒を盛った、というのは、本当なのか?」
 低く抑えた声で、ユアンは問うていた。外部には洩れないと言われても、こんな話をとても平然と口にすることはできなかった。
「本当だ」
 フィロネルが額を押さえたまま、変わらぬ調子で答えた。
「この間おまえに話したことも。すべて本当だ。俺は、このフィンディアス皇家の血など一滴も引いておらん。廷臣のすべてを、民のすべてを欺いてここにいる。……いや、一滴も、は言いすぎかもしれないな」
 フィロネルは落ちかかる長い黄金の髪を掻き上げ、苦々しい自嘲を滲ませた顔を覗かせた。その顔はユアンがこれまで見たこともないほど、苦しげに歪んでいた。
「フィンディアス皇家やそれに連なる大貴族達には、代々近親婚が多い。母上の家系にも、皇家の血は混ざっている。だからといって、俺がその資格もないのに国政を私している狼藉者であり大逆人である事実は、何ら変わりはしないがな」
「なぜ、そんなことが起きたんだ?」
 それに対しては否定も頷きもせず、ユアンはさらに、ゆっくりと問うた。
 フィロネルの本当の父親は、あの寝台で生きたまま腐ってゆこうとしている皇帝ルカディウスではなく、レインスターのウェルディア王だという。
 そもそも、なぜそんなことが起きたのだろう。古くから連綿と連なる由緒正しきフィンディアス皇家の血に、なぜウェルディアの血などが混ざることになったのだろう。なぜ「両親」に毒を盛ったりしたのか、ということも気にはなったが、それより前にそちらの方が気になった。それに、そもそもの原因を知れば、それは自ずとフィロネルの取った行動の理由に繋がるだろうとも思った。
「俺も見ていたわけではない。まあ、当然だがな。すべて三年前に父母から聞かされた話だ」
 三年前。
 それこそがフィロネルにとって大きな分岐点になったのだということを、ユアンは漠然と汲み取った。
「……昔、まだレインスターがロフレアの干渉下にある小公国だった頃の事だ。当時は王太子だったウェルディアが、留学と称してこのフィンディアスを訪れていたことがある」
 フィロネルは肘をついた手の甲に顎を乗せ、抑揚のない声で切り出した。まるで雑談をするようなその口調は、どこか投げやりな響きを含んでいた。

「留学とはいっても、外交交渉の材料の一つとして、人質同然に送り込まれてきたというのが実際のところらしい。当時のレインスターは、吹けば飛ぶようなちっぽけな国だったからな」
 ユアンは口を挟むことはせず、フィロネルの話に耳を傾けた。
 どこまで本当であるのかは分からない。すべてフィロネルの出まかせである可能性もある。
 だがこんな話をでっちあげて、フィロネルに何の得があるのだろう。それに今は、フィロネルは少なくとも、フィロネル自身にとって知っている限りのことを偽りなく語っている。ユアンにはそう思えた。
 一方でユアンは、話を聞きながら、かつて自身も訪問したことのあるレインスターという国についてを思い出していた。
 今は大陸南方に大きく版図を広げているレインスターだが、レインスターが急速な台頭を見せたのは、ウェルディアが王の座に即位してからだ。まだ若く才気にあふれたウェルディアは、外交や武力を駆使して、小国だったレインスターを数年で大国に押し上げた人物だった。
 ユアンはレインスターの煌びやかな王宮で見た、若々しく美しい鷹のようだったウェルディア王の姿を思い出した。
 フィロネルが今語っているのは、今から二十年程も昔の出来事になる。逆算すれば、ウェルディア王はまだ十代半ば。あの威風堂々たる王がそんな少年だった頃のことなど、うまく想像もできなかった。
 考え込みながら聞くユアンに構わず、フィロネルは話を続ける。
「だがそのちっぽけな国の王子が、留学中にとんでもないことをしでかしてくれた。皇子ルカディウスとの婚礼を目前に控えていた娘を、どういう成り行きかは知らんが手籠めにしたんだ」
「…………」
 その娘というのが、イザリアだろう。ユアンは眉根を寄せた。そのときウェルディアとイザリアの間でどんな遣り取りが交わされたのかは分からないが、肖像画に残るイザリア妃は、美しくはあっても幸せには到底見えなかった。
 その出来事によって、間違いなくイザリアの運命はねじ曲げられ、そしてそれは、彼女一人のことにはおさまらなかった。
「娘の周囲がそれを知ったときには、ウェルディアは既に帰国していた。娘の一族は、強い勢力を持つ国内最大の大貴族だ。娘を溺愛し、同時に皇太子との婚約が破談になることを恐れた彼らは、事を全力で隠蔽して闇に葬った」
 事が露見さえしなければ、何もなかったことになる。黙っていれば外戚になれる機会を、みすみすふいにするなどという選択肢は、娘の一族にはなかったのだろう。
「……そして順調に、皇太子と娘との婚礼は執り行われた。だが、状況は最悪の方向に動いた。懐妊を妨げる手を尽くしていたにも関わらず、娘は明らかにウェルディアの子を身籠もっていたんだ」
 ​​​──その子がフィロネルか。
 ユアンが小さく眉を寄せると、フィロネルがちらりと視線を上げた。その口元が、何を考えているのか分からない薄い笑みを孕んだ。
「堕胎も試みはしたらしいが、よほど腹の中の子は丈夫でしぶとかったようだな。それほど疎まれていたのならば、そこで素直に死んでいた方が幸せだっただろうに」
「…………」
「皇太子妃の一門は、あくまで自分達も知らなかったと言い張り、事を隠蔽することと、娘は被害者であまりにも哀れであると訴えた。その上で、話を公にして皇太子妃に不名誉を与えようというなら、帝室の支配から離脱し敵対することも辞さないと皇家を脅迫した。娘の一門の勢力からして、まかり間違えば全土を巻き込む内乱に発展しかねない。話に絡んでいた当時の者達は、さぞかし頭が痛かったことだろう」
 いっそ母親の腹の中で死んでくれれば。生まれずにいてくれれば。問題の渦中にあった何も知らない赤子は、何度も何度も、何人もの人間にそう願われたに違いない。それは娘以上に哀れなことではないかと、聞きながらユアンは思った。
「事は一切を内密に処され、腹の中の子は、生まれたら表向きは流産だったとしてくびり殺されることに決まった。だが、悪いことは重なるものだ。娘は早産になり、なんとか子を産み落としたものの、二度と妊娠できない身体になってしまった」
 フィロネルはおかしそうに含み笑った。その笑い声は聞いていると悪寒がするほど虚ろで、ユアンの腕に軽く鳥肌が生じた。
「​​​──殺されるはずだった赤子は、結局話し合われた末に生かされることになった。彼らにとってはつまるところ、皇家の正当な血筋よりも富や権勢の方が大事だというのが本音だった。だがそれはそれで、また困った問題があった。もともと娘は輿入れ前から孕んでいた上に、かなりの早産になったせいで、婚礼後に懐妊した子だというのが不自然になってしまったんだ」
 それはそうだろう。ユアンでさえ、人の子は普通は十月十日母親の腹の中にいるものだと知っている。早産になればそれだけ赤ん坊は未熟な状態で生まれるのだろう、と想像もできる。嬰児の状態と懐妊時期を引き比べて、そこにあまりに違和感があれば、あれこれと疑問を抱く者が出てきてもおかしくない。
「さらに都合の悪いことに、皇太子妃が懐妊した時期は、ルカディウスは親善外交で他国に出かけていた。せめてルカディウスがいれば、婚礼を待ちかねて忍んでいったと周囲に言い訳できたが……そのままであれば、いったい父親は誰だ、という疑惑が持ち上がるのは避けられなかった」
「​​​──あ」
 突然腑に落ちることがあって、ユアンは小さく声を上げていた。それは倫理的にも道義的にも、あまりに許容しがたいことではあった。だが当時それを考えた者達にとっては、それ以上の正義は存在しなかったのだろう。傍目にはどれほど歪み、まともではないとしか思えなくても。
「だから……あんたはルカディウスではなく、先の皇帝の子だということにされたのか」
 そうか、と納得しながら、ユアンは何に対してのものなのかもよく分からない、やりきれないような哀しさと憤りに小さく唇を噛んだ。
 その不名誉極まりないゴシップが、なぜ公然の秘密として、あれほどフィンディアス宮廷に蔓延しているのか。それは、決して明かされてはならない「真相」の隠れ蓑にするため。皇家の名誉とイザリア妃を、そして権力の中枢にある者達の欲望を守るために、本来は醜聞でしかない話を意図的に広められたからだったのだ。
 父親が皇帝だろうが皇太子だろうが、血筋だけなら大差もない。実際ユアンが噂を聞いた範囲でも、ゴシップの内容に眉をひそめる者はいたが、血筋の正当性に対して疑問を唱える者はいなかった。
 ユアンの半ば独り言のような言葉に、直接はフィロネルは答えなかった。そのかわりに、そのアメジスト色の瞳の奥で、熾火のような揺らめきが暗さと強さを増したように見えた。
「真相を知っていた一握りの者は、今はもう大半がこの世にいない。それが謀殺か自然死だったのかは知らん。少なくとも真相を知る者で今も生きているのは、俺と、ルカディウスと、後は当のウェルディアだけだ。このうちの誰かが口を開かなければ、この話が洩れることはない」
 ユアンに瞳を巡らせたフィロネルは、皮肉めいた笑みに口角を上げた。
「後はおまえだ。証拠も証人もない今では、これを事実として俺を討つ材料にするのは難しいだろう。だが他ならぬ当事者であるレインスター国王を頼れば、話は違ってくる」
 ユアンはただ黙って、フィロネルの本心を探るように、その眼差しを見返していた。
 フィロネルはユアンをそそのかしているのだろうか。この話を「武器」として、ユアンに受け取らせたいのだろうか。
 ​​​──この話を持って、レインスターのウェルディア王の下に駆け込む。なるほど、確かにそうすれば、他ならぬウェルディア王の手によって、この話はフィロネルを討つ強力無比な武器として打ち直されるかもしれない。
 確かに証拠は、今の時点では何もない。だがフィロネルとウェルディア王が他人というにはあまりに似通っていることを、どちらにも間近で会っているユアンは、自らの目で知っていた。
 それに、フィンディアスでは既に証拠が抹消されていても、ウェルディアの側では分からない。大陸の覇権を狙っている野心家のウェルディア王にとっては、大国フィンディアスの皇子が実は自分の子であるというのは、それは非常に面白い手札だろう。
 ふと二十年前の、まだ少年だった頃のウェルディアのことを思った。無力な小国から人質同然に送り込まれた、気の毒な王子。彼は何を思って、何のために輿入れ寸前だったイザリアのもとを訪れたのだろう。何を思って、露見し囚われれば破滅でしかない暴挙に及んだのだろう。衝動だったのか、自棄になっていたのか。それとも、数十年もの先を見越しての計算だったのか。
 そして今は、血を分けた息子であるフィロネルに対し、ウェルディア王はレインスター王宮からどんな感情を向けているのだろう。
「…………」
 ふう、とユアンは一つ息をついた。
 フィロネルの本心も、ウェルディア王の思惑も、ユアンに推し測れるわけがない。今こうしている自分自身の感情の所在さえ掴みかね、思考が入り乱れて整理できないのだから。
 ユアンはフィロネルの言葉に答えることを避け、呟くように問うた。
「真相を知って、二人に毒を盛ったのか」
 三年前。出生の真相を知ったことが、フィロネルの中の何かを崩し、その恐ろしい行為に踏み切らせた。それはもう確かなことだろうと思えた。
「そうだ」
 とだけ、素っ気なくフィロネルは答えた。他人事のように乾いた声音は、それまでと変わらなかった。
 ユアンは一度だけルカディウスの横たわる寝台を見やり、すぐに逸らした。
 フィロネルが恐ろしい部分を持っている人間であることは、よく知っているつもりだった。何しろ血で血を洗う凄惨な大粛正を行なって氷血の異名を得ている上に、自ら指揮を執って他国を侵略もしている男だ。
 フィロネルは何も語らないが、醜聞と一括りにされた皇太子として、人には言えないほどの様々な辛酸を舐めてきたのだろう。本来なら守ってくれるはずの皇家の機能が働かず、逆に醜聞の渦中に生け贄として放り出されたのだから。それこそ皇子でありながら、不義密通で生まれた子よと物陰で笑われ、後ろ指をさされてきたはずだ。
 そのときルカディウスとイザリアは​​​──真相はどうあれ父であり母であるその二人は、フィロネルに対してどう接したのだろう。皇子とその両親との関係がどういうものだったのかは、ユアンは分からない。誰もそんなことはユアンに語らなかったせいもあるが、ユアンが皇子自身のことになど興味を抱かず、一切知ろうとしなかったせいもあった。
「……なぜ、そこまでしなければならなかった?」
 気が付いたら、ユアンはそんなことを問うていた。それはユアンが、初めてフィロネルという「個人」に対して発した言葉だったのかもしれなかった。
 フィロネルを恐ろしい、とは思う。だがユアンの中には、人として許されないその行為を、どうしてか強く責める気持ちが湧いてこなかった。もっと激しく嫌悪し糾弾していいはずだと、自分に対して不思議に思う。だが、生まれる前は死を望まれ、生まれてからは周囲の都合と欲望だけに振り回されてきたフィロネルの巡り合わせを思うと、ただ責めてしまっていいのかという戸惑いを覚えた。そこまで踏み切らざるを得なかった、それをフィロネルにさせた側には、何の咎もないのだろうか。
 けれど、イザリア妃もまた不幸で気の毒な女性だったのだろう。そこの寝台で苦しみながら死を待つだけであるルカディウスも、あまりにも憐れだと思う。彼らのうち、責めるべきは、責められるべきは誰なのだろう。分からない。
「そうだな……」
 こんなことに下手に立ち入ったら、またフィロネルの逆鱗にふれるかもしれないと思ったが、フィロネルは意外にも、僅かな笑い声を零しただけだった。頬杖をついたまましばらく考え込むような沈黙があり、やがてフィロネルは口を開いた。
「愛されているとは、一度も思ったことはなかった。俺は皇子なのだから、家族のありようなど、絵画や本に出てくるようなものとは違うだろう、そんなものだろうと思っていた」
 そこでまた、沈黙があった。常に歯切れの良い皇子の喋り方とは異なる静かなほどの声が、しばらくの沈黙を挟んでから続けられた。
「あのとき、俺の中の神が死んだ。俺は、俺を支えていたものを壊されたのが許せなかった。父も母もまた被害者なのだと、頭では分かっている。……だが、それを言うなら俺はどうなる。嘲られ貶められながら、皇子であることだけを支えにやってきたものを。それさえすべて否定されて、ただ都合良く利用されただけの滑稽な傀儡だったと知らされたら、俺はどうやって生きればいい」
 僅かに声音が揺れ、そこで飲み込むように、フィロネルの言葉が途切れた。俯いた横顔に長い黄金の髪が流れて、表情を覆い隠す。
 そのままじっと、フィロネルは黙り込んだ。何も語らない、顔も見せないその姿に、ユアンはしかし、泣き喚かれるよりも強く胸を抉られるような感触がした。
 フィロネルがなぜルカディウスとイザリアに毒を盛ったのか、それはフィロネル自身にしか到底分からないことだろう。二人をこの世から抹消することで、歪んだ事実そのものを抹消しようと思ったのかもしれない。許せないという感情が爆発したのかもしれない。フィロネルは本来極めて理性的で、衝動的とはほど遠い人物だ。そうでありながら、それほどの凶行に踏み切らせたフィロネル自身の奥深い闇の底にある深淵を、分かるなどと言えるほどユアンは傲慢にはなれなかった。
 ​​​──こいつにとって、ここに生まれたことは、「皇子」であったことは、ただ不幸なことでしかなかったのだ。
 ただひたひたと、そんな思いが足許から打ち寄せるようにユアンの中に広がった。
「ウェルディア王については……どう思っているんだ?」
 どうあっても許せなかったのが両親なら、すべての元凶であるその人物についてはどうなのだろう。ふと、それが気になった。
 また沈黙があり、しかしそれは先程よりは短かった。
「あの男は……遠すぎて、正直よく分からない。問えるものなら問いたいことは山ほどあるが。一度だけあの男に会ったとき、あの男は俺に何もしなかったし、何も言わなかった」
「ウェルディア王に会ったことがあるのか?」
 驚いて、ユアンは問い直していた。フィロネルは目の上を押さえるようにして顔を見せないまま、力のない笑みを洩らした。
「会ったといっても昔の話だ。それにあの男は名乗りもしなかったし、そうだという確信もない。……一度会ってみたいとは思う。会ったら俺は何を思うのだろう、やはり殺したくなるだろうかと考えるときはある。あの男は、俺と同じ髪と瞳をしていた。それで……あの男は俺に手を伸ばして……」
 吸い込まれるように、そこで言葉が途切れた。と思うと、唐突にフィロネルが立ち上がった。
「​​​──ここまでおまえに話すつもりはなかったんだがな。油断した」
 振り切るように発されたその声音は、普段の凜と張りのある、皇子らしいものに戻っていた。
 この場の空気を突き放すように、皇子は扉に向かって歩き出した。それを、反射的にユアンは呼び止めていた。
「待て。なぜ、こんなことを俺に話した」
 フィロネルを討つための強力な武器。なぜそんなものを、あえて晒して自分に与えた。
 見事な黄金の髪を揺らし、フィロネルがユアンを振り返る。その表情もまた、醒めて隙の無い普段の皇子らしいものに戻っていた。アメジスト色の瞳が、真っ直ぐに揺らぎなくユアンを見返す。
 引き締まった表情の中で、僅かにその瞳が和らいだ。それはごく仄かではあったが、素直な苦笑のように見えた。
「おまえには、俺を憎む権利があると思ったからだ」
 それだけ言って、皇子はその後はもうユアンに構わず、扉に向かって歩き出していった。
 ユアンは数秒立ち尽くしたが、皇子が扉を開ける音を聞くと、はっと慌てて自分も小走りに扉に向かった。必要がないなら、この陰気で暗くおぞましい部屋の中になど、一秒たりとも居たくは無かった。
 ユアンが二枚の扉をくぐって皇帝の寝所を出るのと入れ違いに、あからさまに胡散臭そうにじろじろとこちらを眺めながら、医師団が室内に入っていった。
 通路も蒼暗くうち沈んでいることは変わらなかったが、それでも外に出ると、明らかに空気が流れて清浄なものに変わった。
 まるで静止していた時間が、一気に動き出したようだった。頭の中をまだ到底消化しきれない様々なことが巡っているものの、どろどろとした悪夢から覚めたようで、ユアンはほっとした。
 皇子はもう完全に、普段通りの様子に戻っていた。あれほど皇帝の寝所では悄然と力無く見えたのに、その切り替えの早さとすっかり背筋の伸びた姿に、ユアンはいささか舌を巻いた。短時間でここまで自分を立て直し取り繕える胆力だけは、たいしたものだった。
 ユアンに目をくれるでもなく、皇子は普段と何ら変わらぬ端然とした歩運びで、次の予定のために護衛達と共に歩き出してゆく。
 ユアンも慌てて、それを追った。あのおぞましい部屋から遠ざかるにつれ、そこでの出来事が記憶の中で現実味を欠いてゆくようだった。
 だが頭の中では、聞かされた様々なことが処理しきれずに膨れ上がっていた。そのせいか周囲の景色が妙に遠く、足許が雲を踏んでいるようで、頼りなく感じられてならなかった。

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