五章 星の流れる先 (1)

 強いショックを受けたせいなのか、頭が割れそうに痛み、視界が回転するような眩暈がした。休み休みよろめきながら、ようやくユアンは自室に辿り着いた。
 熱があるわけではないだろうが、ひどく具合が悪かった。気が付けば額に脂汗が浮かび、全身から血が下がったように手足が冷たくなっていた。
 やっと上着を脱ぐと、ユアンはそれを放り出したまま、寝台に倒れ込んだ。
 世界が揺れて気持ちが悪い。目を瞑ると、真っ暗い底知れぬ闇の底に落ちてゆく気がして恐かった。けれど体調の悪さには抗えず、ずるずると不快で不安な眠りの底に引きずり込まれていった。

 何か夢を見てはいたが、それは混沌として形を為さなかった。何度も浅い眠りと目覚めを繰り返しながら、ユアンは妙に冷静に、それに安堵していた。
 今中身のある夢などを見ても、きっとどうせろくなものではない。泥の中に沈み込んでゆくような疲れと徒労感の中にぐったりと横たわり、涙腺と感情が壊れたように、眠りながらただ泣いていた。
 幾度か夢と現を行き来するうちに、体調の悪さは和らいでいった。
 どれほど眠った後だろうか。やがて浮上した意識に薄く瞼を開くと、部屋の中はいつの間にかすっかり暗くなっていた。
 カーテンも引いていない窓からは、弱々しい月光が滲むように差し込んでいる。そのおかげで、暗さに目が慣れていれば、室内の様子を眺めることはできた。
 今が何時なのかも分からず、夕食もとっていない。脱ぎ捨てたままの上着も片付けなければとは思ったが、起き上がるのも億劫で、ユアンはそのまま枕に額を押しつけていた。
 そうしていると、脳裏を昼間の出来事がぼんやりとよぎっていった。
 ​​​──とっくに分かっていたことだった。自分はもう、フィロネルを討つことに疑問を抱いてしまっていると。感情ではそれを認めることを頑なに拒絶し、目と耳を塞ぎながら。けれどどうしようもなく、フィロネルを討てばその後は雪崩が落ちるように多くの禍が生じると、ユアンの頭は理解してしまっていた。
 自分と同じような境遇の人間を、生み出せるわけがない。愛しい家族を、安らげる故郷を喪った痛みと哀しみ。今こうしていても、焦がれるほどに喪われてしまったものたちを想う。こんな思いを、どうして自分のせいで他の誰かにさせられるだろう。
 ほとんど瞬きもせずにいた目の縁から、次々に涙が糸を引き、枕に染み込んでいった。
 胸の中に、空っぽでありながら息苦しいような、途方に暮れた虚無感が飽和している。思考と感情の糸が焼き切れてしまったように、ユアンはベッドに横たわったまま、起き上がることができなかった。
 ……これから、どうすればいいのだろう。
 フィロネルを憎むことは、もうできない。故郷と家族を奪われた憤りは変わらずに胸の奥に息づいているが、それをフィロネルという存在に向けることが、既にできなかった。幼く甘く愚かな衝動のまま、「フィンディアスの皇子」という偶像に憎悪を滾らせることができたうちは、自分は思っていたよりずっと楽だったのだと、今頃になってユアンは知った。
 やるせない多くの感情が、ひとつ息を吐くごとに呼吸を圧迫する。ユアンは滲む涙に頭を抱え、毛布の中で身体を縮めた。両親や妹を救えなかった、一人だけ生き残ってしまった罪悪感が押し寄せ、哀しみと共に行き場のない憤りが胸を灼く。今は感情の箍が外れたように、ただ泣くことしかできなかった。
 次々に涙が枕に染み込んでいき、このまま涙に溺れて死んでしまえたらいいのに、と埒もないことを考えていたとき。静まり返った部屋に、小さく金属的な音が響いた。
 それは扉の方角から聞こえた。誰かが閉められていた鍵を開け、扉を開く。召使いが様子を見に来たのだろうかと思ったが、そうではないことに、すぐにユアンは気付いた。
 召使いであれば、この部屋の鍵は持っていても、必ず事前に扉を叩くはずだ。それをせずに勝手に鍵を開けて入ってくるような相手は、一人しか心当たりがない。
 重い首と瞼を動かして、扉の方に視線を向ける。窓から差し込む弱々しい灰色の月明かりの中、淡く仄輝く黄金の髪が見えた。涙を孕んだ藍色の瞳に映ったフィロネルの姿に、ユアンは眉根を揺らした。
 皇子の方からユアンの部屋を訪ねてくるなど、今まで無かったことだ。そんなことがあったのは、囚われてすぐ、まだ監禁されていた頃。
 皇子と二人だけという状況に、反射的にユアンの身体が警戒した。だが今は、それも弱々しかった。
 もう何もかも、どうでも良いような気がする。思考力が著しく落ちていた。受容できる限りのことを超えてしまった頭は、薄膜を張ったような曖昧さで、ユアンと現とを隔てていた。
 ゆっくりと、皇子が歩み寄ってくる。その顔も姿も見ないまま、ユアンはベッドの上で身体ごとそむけた。
「……来ないでくれ」
 やっと、それだけを言った。自分が何を言おうと、フィロネルが聞く耳を持つわけがない。それでもかろうじで拒否することだけが、今のユアンに出来ることだった。
 今フィロネルから、いつものような傲然たる横暴な振る舞いを受けたら、耐えられない。詰る言葉も嘲る言葉も、聞きたくない。今は一人にしてほしい。
 はたして、やはりと言うべきだろう、皇子は立ち去る気配も見せなかった。歩み寄ってくるフィロネルの足音を、敷き詰められた上等な絨毯はほとんど吸い込む。背中を向けて毛布を引き上げ、頭からかぶったユアンの視界の外で、フィロネルの気配がすぐ間近で立ち止まった。
 立ち去ってくれと、続けて訴える気力すらなかった。背を向けたままでいると、ぎしりとベッドが揺れ、フィロネルが腰を下ろしたのが分かった。
 この寝台は、フィロネルの部屋にあるものと違って、そこまで極端に大きなものではない。大人二人くらいまでなら横になれる程度のものだ。
 その端に腰を下ろした皇子の気配は、ほぼユアンの真後ろの位置だった。ユアンは毛布をかぶったまま身動きもせず、いくばくかの時間が流れた。
 物言わぬままの皇子が、小さく溜め息を落とすのが聞こえた。身動きする気配があり、びくりと震えたユアンの頭に、毛布をよけて掌が触れてくる。フィロネルの掌は、まるで子供をあやすような動きで、ユアンの寝乱れた濃紺の髪を梳き、頭をゆっくりと撫でた。
 その感触の穏やかさに、ユアンは驚いた。皇子はその後も、何も言おうとはしなかった。ただゆっくりと繰り返し髪を撫でる感触が、ユアンに驚きと困惑を招き、息を呑ませた。
 同時に、思考を超えて胸を衝く錯覚がよぎる。それは遠い昔、まだ幼かった頃に、父や母が頭を撫でてくれた、優しく切ない暖かさの記憶だった。
 物言わぬ皇子の掌から、確かにいたわりの気配が伝わってくる。それはユアンの抱く空虚さや悲哀を、行き場のない憤りを、すべて理解しているように感じられた。本当にそうなのかは分からない。だが弱り切り、途方に暮れていたユアンの心は、張り詰めていたものがほどけるように、緊張していた身体と共に緩んでいった。
 ユアンの唇から震えるような吐息が落ち、それと共に、また涙が零れた。
 ただ泣くことしかできないユアンの頬に、頭を撫でていたフィロネルの掌が移ってきた。決して無理強いする気配は持たない指の長い手は、ユアンの涙を拭うような仕種を見せ、そのまま頬全体を包むようにふれてくる。
 皇子が身を乗り出してくる気配がして、頬にふれた掌に軽く首を曲げられた。上向けられた唇に、あたたかな唇が被せられた。
 それは貪るものでも奪うものでもなかった。むしろ与えるように、フィロネルの唇はユアンの唇をなぞる。舌を差し込まれることもない、柔らかな口付けだった。手脚が重かったせいもあるが、ユアンは抗う気力も湧いてこないまま、なすがままにそれを受け入れていた。
 こんな口付けは、今まで記憶になかった。どういうつもりなのだろうとは思ったが、今は頭があまり働かず、深く考えることができなかった。
 ただ、ふれる指先と唇の感触だけが柔らかい。フィロネルはユアンの唇から頬に、耳元へと、口付けを移していった。髪を撫でられる感触に、吐息と涙が零れる。それに煽られ、ユアンの中に、これまでも何度も何度も重ねてきた疑問が込み上げてきた。
 ​​​──なぜ。どうして、こんなことを。なぜフィロネルは、ユアンの身にふれて、奪うのだろう。どうして。
「なぜ……こんなことを、する……」
 自分はいったい、フィロネルにとって何なのだ。なぜフィロネルは、自分にこんなことをするのだ。身体が欲しいだけであれば、事実上のフィンディアスの支配者であるフィロネルには、それこそよりどりみどりだろうに。なぜわざわざユアンなどを傍に置いて、こんなことをするのだ。
 誰かと身体を重ねるということは、互いをいたわり愛しく思う感情の行く先にあるものだと思っていた。だがこのフィンディアス皇宮に来てフィロネルに囚われてから、ユアンの中ではその考えはどこかにいってしまっていた。
 いや、確かに愛し合う為の行為であることもあるだろうし、そうである者の方が多いだろう。だが愛情が無くとも、身体は感じる。享楽的な者であれば、快楽の為だけに身体を交わらせることもある。そういう世界も、世の中にはあるのだと知った。
 だがユアンは、どうしてもそういった享楽性に走ることができなかった。心が伴わない交わりでは、虚しさばかりが積み上がってゆく。それが苦しい。割り切ろうとしても、自分を偽り切れず騙し切れない感情の破片は、次第に積み重なって自らを刺す。
 だからもう嫌だった。これ以上フィロネルに抱かれたくない。ましてこれほど弱って抗う気力も無い今は、無理強いをされれば耐え切れない。頼むからもうこれ以上踏み躙らないでくれと、しかし喉はその言葉を吐き出す余力さえなく、ただ弱々しい嗚咽となった。
 ユアンにふれていたフィロネルの手が、気が付けば引かれていた。だが立ち去るでもなく、皇子はそこに座ったままでいる。薄い月明かりだけの上に涙で霞んだ目では、その細かい表情までは読み取れなかったが、皇子は黙したまま、じっと何かを考え込んでいるようだった。
 しばらくの沈黙の後、フィロネルは夜気に馴染むように抑えた声音で、口を開いた。
「おまえが欲しいと思ったからだ」
 静かではあったが、普段のフィロネルと口調はあまり変わらなかった。迷いのない、淡白にすら聞こえるほどの声音。
 その言葉の意味が、ユアンにはよく掴めなかった。フィロネルは確かにユアンに対して、他の者とは異なる接し方をしているようではある。だがそれは、ユアンがフィンディアスという国の則に属さない、極めて特殊な立場であるせいだろう。フィロネルを皇子として敬うこともなく、かしずくこともない。そうであればこそ、フィロネルもユアンに対し「フィンディアスの皇子」としては他に見せられない姿を見せ、感情をぶつけることができる。要はユアンは、皇子にとっては極めて都合の良い、憂さ晴らしの相手なのだろう。
 そんな欲求であれば、これ以上耐える必要もない。自分にはフィロネルを殺すことはできないのだから。殺すことと引き替えにすべてを甘受しろという、あの奇妙な歪んだ契約は、もう破綻した。
「ただ弄びたいだけなら……他をあたってくれ。もう、いい。分かっただろう。俺には、あんたを……殺せない」
 それを当人の前で、いざはっきり口にしてしまうと、また涙があふれた。これ以上にない敗北宣言だった。自分があまりに惨めで不甲斐なく、いたたまれなくて、できるなら今すぐ消えてしまいたかった。
 また、フィロネルが溜め息をついたのが聞こえた。
「おまえは頭は良いが、本当に阿呆だな」
 心底からそう思っているような、若干の呆れを含んだ声だった。しかし、そこに嘲笑や揶揄の気配はない。むしろやれやれとでも言いたげな、苦笑の気配すらあった。
「……そんなことは、最初から分かってるだろう」
 ユアンは顔をそむけたまま、言い返した。力の無い声は、ずっと泣いていたせいか多少しわがれている。フィロネルに嘲りや攻撃的な気配がないから、まだ受け答えすることができた。だがこれ以上は、それでも無理だった。
 自分が愚かで甘いことは、さんざん思い知らされた。それを指摘されなじられることも、今は耐え難い。もう分かった、だからもう放っておいてくれ、構わないでくれと、叫ぶ元気もない言葉の数々が胸の内を埋めた。
「ただ弄ぶだけの相手に、俺の生まれについてを話したりすると思うか」
 フィロネルは抑揚に欠けた声で続けた。いつもは冷ややかに聞こえる声音が、しかしどこか和らいでいる。ふと、ユアンは皇帝の寝所での皇子を思い出した。今ここにいるのは「フィンディアスの皇子」ではなく、フィロネルというただの一人の人間だ、と思った感覚。あのときと同じ感触が、今ここにいるフィロネルにはあった。
 何も言葉に出来ずにいると、フィロネルの双眸が真っ直ぐにユアンを捉えた。深い紫色をした瞳は、夜の中にあっても鮮やかだった。
「最初は、確かに面白い玩具だと思ったのは否定はせん。おまえとて俺を有無を言わさず殺しに来たのだから、俺がそんなふうに思っても、そのあたりはお互い様だろう」
「…………」
「だが俺は、おまえにすぐに魅せられた。おまえの甘さも愚かさも、裏を返せば真正直で歪みを知らないがゆえだ。己の愚かさを知って投げ遣りになるならその程度だが、おまえはそうではなかった。狭間で苦しみながらも、譲れぬ芯を持ち続けている。その潔さと美しさが、俺には心地良い」
 あまりにてらいのない、そして思いもよらぬ言葉に、ユアンはぽかんとフィロネルを見返していた。フィロネルの口から、自分についてのことがそんなふうに語られるなど、思いもしなかった。そんなふうにフィロネルに思われていたなど、思ってもいなかった。
 フィロネルは、呆気にとられているユアンを正面から見ている。惑いも物怖じすることもなく、フィロネルは悠然と、一言ずつをはっきりとユアンに向けて告げた。
「俺はおまえを愛しいと思う。だから欲しいと思う。だから無理矢理手元に置いておくために、あんなことを言ったんだ。そうでもしなければ、おまえを生かして傍に置いておくことはできなかったからな」

ブックマークに追加