四章 神の死 (5)

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 まだ冬の手前なのに、その日はひどく冷え込んでいた。
 昼食をとるための休憩時間中だったが、食欲のないまま無目的に宮殿内を歩いていたユアンは、窓の外にちらちらと白いものが舞っているのに目をとめた。
 物珍しさも手伝い、どっしりとした柱の並ぶ回廊から、ユアンは石段を降りて庭園に出た。
 その庭園はあまり広くはなかったが、さすがに手入れは行き届いていた。くすんだ色の丸い葉を繁らせている樹木もあるが、すっかり紅葉して散りかけている樹もある。落ち葉は残らず掃き清められ、冬になって深まる寒さや降雪に今から備えているのだろう、幹を補強されている樹もあった。青々としていた芝生も枯れ始めて斑になっていることが、いっそう目に寒々しかった。
 見上げると灰色の雲は思ったよりも薄く、雪片もひらひらとまばらだった。それでも、もっと暖かなファリアス育ちのユアンは、この時期から初雪が見られることに驚いていた。この国では、夏から冬にかけてが本当に早い。
 寒さと雪のせいだろう、庭園には他に誰の姿も無かった。吐く息が、うっすらと白くけむっている。ユアンは冷えた石畳の歩道が巡る中に立って、ぼんやりと灰色の空と綿のように舞う雪を見上げていた。
 こうしていても、しきりに頭をよぎるのはフィロネルに関することばかりだった。それを自覚してしまったら、ユアンはますますそこから抜け出すことができなくなっていた。
 ​​​──フィロネル個人のことなど、知らなければよかった。
 まばらな雪の中で放心したように佇むうち、どこからともなく、ユアンの中にそんな思いが湧き上がってきた。少しずつ水位が上昇するように。音も無く、逃れようも無く染み渡って浸蝕してゆくように。
 肩と背中にある焼き印が、疼くように痛んだ気がした。あの日執務室で、フィロネルを憂さ晴らし同然になじったことを思い出した。
 何も知らぬまま皮肉程度のつもりで発したユアンの言葉は、それ故に遠慮の無い残酷な凶器となった。フィロネルにとっては、到底許せるものではなかっただろう。真相を知った今は、なおさら思う。よく焼き印程度で済んだ、とはさすがに軽くは言えなかったが、よくも殺されずに済んだものだとは、ユアンは思うようになっていた。
 祖国が滅ぼされてからずっと、ただ「フィンディアスの皇子」を憎み、仇を討つことだけを考えてきた。それが自分にとって正しいことだと疑わなかった。
 悪鬼のような血も涙も無い相手だと、そう思っていられたらよかった。傲慢で残酷で、身勝手な欲望のためだけに祖国を滅ぼした悪魔だと、ずっとそう思っていられたらよかった。
 ​​​──私情は要らぬ。王として生きるためには。
 雪が音を吸い込むのか、あたりは耳鳴りがするほど静かだった。その中に、いつか聞いた皇子の言葉が甦った。
 ​​​──おまえには、俺を憎む権利があると思ったからだ。
 すまなかった、と、確かにフィロネルはユアンに頭を下げた。それらを認めたくなかった。フィロネルもまた様々な苦しみや哀しみを抱きながら、矛楯の中に生きている一人の人間であることを。そんなことを理解したくはなかった。
 ユアンがもし今フィロネルを討ったら、この国はどうなるのだろう。それを、あらためて考える。
 現時点では当然のことながら、フィロネルの次の継承者は立太子されていない。ルカディウスには他に子が無く、フィロネル自身にも子供はまだ無い。皇位継承権を持つ者自体は皇族の中にいても、フィロネルの次に飛び抜けてその地位に近い者はいない。
 そもそも事実上皇帝が不在に等しく、皇子が独裁している現状が、国家の状態として特異なのだ。この状況ではっきりとした跡継ぎがいないまま皇子が死ねば、皇族のいずれかから立太子されるにせよ、皇位継承を巡ってフィンディアス宮廷は混乱を極めるだろう。
 フィロネルを失ったこの国は、きっと荒れる。これから厳しく長い冬を迎えるというのに。宮廷が乱れ統治が乱れ、そうなったとき、最も苦しむのは何の罪も無い民だ。寒さの中で凍え死ぬ者もきっと多く出る。そればかりではなく、そんなことになれば、南からここぞとばかりに、レインスターが手を伸ばしてくるだろう。
 そして何処かで、ユアン自身と同じ思いをする者が無数に生み出されることになる。「フィロネルを討つ」というのは、そういうことだ。
 ぼんやりと灰色の空を見上げていた目頭が、ふいに熱を帯びた。ユアンは慌てて瞬きし、ぎゅっと瞼を閉じた。
 ​​​──自分は、愚かだ。
 フィンディアス皇宮に来てから幾度も噛み締めた苦しく惨めな思いが、喉を塞ぎそうになった。ユアンは目を閉じたまま呼吸を整え、なんとか嗚咽をこらえた。
 自分は、あまりに甘くあまりに愚かだ。何もかも覚悟の上であるように思っていた。けれどそんなものは、ただの子供じみた独りよがりでしかなかった。フィロネルを討ち、自分一人が死んで、それでいったい何の責任をとれるつもりでいたのだろう。
 ​​​──だけれど、あんな形で家族を失った自分は、どうすればいい。
 こみ上げるものを懸命に飲み込みながら、手が縋るように動いていた。腰に帯びた剣の柄を握り締める。美しい黄金細工にアメジストを填め込まれた、皇子自らに下賜された剣。従者として身命を賭して尽くすと誓った証。その手の甲に、無音で舞い降りてくる白い欠片がふれ、すぐに水に変わっていった。
 燃え上がる屋敷の中を駆けたときの焦燥を、血まみれの無惨な姿達を見つけたときの衝撃を、忘れられない。愛する家族達が、ただの骸に成り果てた。どれほど恐ろしく苦しかっただろうと思うと、言葉に尽くせぬ感情が吹き荒れた。許せない。このままにしておいていいわけがない。貴様にどんな事情があろうと知ったことか。その後何が起ころうと知ったことか。貴様は俺の愛する者達をあんなに惨いやり方で死に追いやった。貴様があんな戦など起こさなければ、皆死なずに済んだのだ。
 ​​​──だけれど。おまえもまた、一人の人間だった。悪鬼でも悪魔でもなく。そしておまえを殺せば、どこかで誰かが俺と同じ思いをする。それでも俺はおまえを殺すのか。俺は、いったいどうすればいい。
 震える喉をこらえ、きつく剣の柄を握り締めた。激しく対立し矛楯する感情と思考に、息が詰まりそうだった。
 しばらく強く瞑っていた瞼を、やがて、ゆっくりと持ち上げる。藍色の瞳に映った視界は、きつく目を閉じていたせいか、やけに白くぼやけていた。
 この灰色に曇った空のように、自分の心が見通せない。自分が何を望んでいるのかが、いくら考えてみても分からなかった。
 ​​​──それならば、刃に問おう。そう思った。どれほど考えてみても分からないのなら、刃を通して、自分でも見えない自分自身の本音に問おう。
 自分がどうするべきかなど、突き詰めればとても単純明快なことだ。やるか、やらないか。ただそれだけでしかない。考えるほどに分からなくなるのは、当たり前のことだ。そこにある単純な答えから、複雑に考えるほど遠ざかってゆくのだから。
 ​​​──俺はおまえを殺すために、ここまで来たんだ。
 その言葉を心の中で繰り返し、ゆっくりと瞬きながら、青白い手でもう一度、ユアンは確かめるように剣の柄を握った。


 雪はじきに止んだ。本降りになるには、さすがにまだ季節が早かったようだ。
 それでも初雪を招くほど、空気は底冷えしている。石造りの宮殿内に響く足音は、もっと暖かかった頃よりも硬質に耳を打つように感じた。
 皇子の従者であるユアンは、皇子に何か訊ねられたときにすぐ答えられるよう、大抵はすぐ後ろに控えている。数名からなる護衛の顔ぶれは日によって入れ替わるが、人数は最低でも五名は用意されており、結果としてユアンも彼らに囲まれて歩く格好になっていた。
 無駄口を叩く者もない中、皇子に付き従って、一行は冷えた回廊を歩く。そんな中、無表情に歩くユアンの右腕が、音も無く持ち上がった。
 左腰に帯びた美しい剣の柄に、静かにその手が乗るのを、側にいた護衛達も目にとめていた。少し怪訝そうにはしたものの、その時点では彼らはそれだけだった。今ではユアンは、皇子に気に入られ、皇帝の寝所にまで立ち入りを許されている特別な従者だと、周囲から一目を置かれている。そのユアンが皇子に対し狼藉を働くなどと、誰が予想するわけもない。
 ほんの一呼吸のうちに剣の柄を握って鞘を払い、その動きと共に、ユアンは流れるように皇子に斬りかかっていた。まさかのことに周囲の反応は一瞬遅れ、フィロネルが息を呑んだように振り返るのが見えた。
 剣先が届くまで、僅かに距離があった。ユアンより数段熟練した皇子が切り返すには、その僅かな距離と時間で充分だった。
 見事に身を翻す動作と共に、黄金の髪が広がって流れる。いつ抜かれたのかも分からない剣閃が、ユアンの手から剣を強く弾き飛ばした。
 咄嗟のことに、皇子も力の加減をし損ねたのだろう。握り締めた剣を弾かれたとき、ユアンの手首が捻れて痺れが走った。思わず悲鳴を飲み込んだ身体に、たちまち凄まじい力が左右や背後から掛かってきた。
「気でも違ったのか、貴様ッ!」
 何人もの腕と容赦のない力で、腕も脚も胴体も、骨が折れるのではと思うほど強く、ユアンはあっという間に冷たく硬い床に押しつけられていた。背中に誰かの膝が体重をかけて乗せられ、軋んだ肋骨の痛みと肺が潰れるような息苦しさに、ユアンはかすれた苦鳴を上げた。
「この痴れ者が! どうなることか覚悟の上だろうなッ!」
 恫喝するような護衛達の恐ろしい声が、頭の上から降ってくる。たまたま付近にいた者達も、物騒な怒声に何事かとざわめき始めていた。
 何を答えるつもりもなかったが、どのみち息苦しくて、ユアンは言葉を発することができなかった。強く押しつけられた床が、凍えるほど冷たい。あばらが折れそうに痛くて、うまく息ができない。全身にかかった重圧に視界が眩んでくる。
「やめろ」
 酸欠で耳鳴りがし始めたところに、そんな皇子の声が聞こえた。いつものように淡々とした声音だった。
「そいつを捕らえる必要はない。放せ」
「しかし、殿下!」
 明らかに剣を抜き、皇子に斬りかかったユアンを目の前で見ていた護衛達が、驚いたように抗議した。フィロネルは何事もなかったかのように、剣を鞘に収めながら言った。
「放せと言っている。ユアンには私が命じたのだ」
「……は?」
「私とそいつとで、ちょっとした賭けをしていてな。ユアンは本気で私を斬ろうとしたわけではない。私に命じられて嫌々ながら従った上に、おまえ達に怪我までさせられては、さすがに気の毒だろう。放してやれ」
「あ……そ、そうなのですか……?」
「そうだ。そいつには何も咎はない。ただの茶番だ」
 困惑していた護衛達が、まだやや首を捻りながらも、再度「放してやれ」と皇子に命じられると、慌ててユアンの上から退いた。
 押さえつけられていた手脚を解放され、身体が軽く自由にはなったものの、ユアンはすぐに動くこともできず、急に肺の中に空気が通って咳き込んだ。
 呻きながらなんとか起き上がろうとすると、「すまん、やりすぎた」と数人が詫びながら、背をさすって身を支えてくれた。
「殿下。遊びに興じるなとは申しませんが、このようなまぎらわしい上に危険なことは、今後は一切お止め下さい。殿下も危のうございますし、従者殿の身の安全も保証しかねます」
 護衛の一人が皇子の前に立ち、厳めしい顔でぴしゃりと言った。真剣に案じているからこそ怒っているのだと分かるその様子に、フィロネルは涼しい顔をしながらも、取り立てて気分を害した様子もなかった。
「そうだな、少し悪ふざけがすぎたようだ。これからは控えることにしよう」
 周囲もざわめいてはいるが、人払いをかけられて、集まりかけていた衆目は散り始めていた。それらの中を、フィロネルは悠然とユアンに歩み寄ってくる。髪の僅かな流れから指先まで整った姿が、まだ冷えた床の上に座り込んでいたユアンの前に、軽く腰を屈めた。
「立てるか。すまなかったな。今日はもうたいした用向きもないから、どこかが痛むようなら部屋に戻って休め」
 うなだれたまま、ユアンはフィロネルの言葉を聞いていた。普段と何ら変わらない声。何を考えているのか分からない態度。
 ​​​──黙って見殺せばよかったものを。
 惨めで無様で身体が震えて、ユアンは俯いたまま強く目を閉じた。そうしなければ涙が零れてしまいそうだった。
 全力で斬り掛かったつもりだった。あの一瞬、フィロネルに刃が届くと思った。思ったはずだったのに、ほんのかすか、ほんの僅かに、抜き払った剣先が鈍った。その僅かな躊躇いが、皇子にユアンの剣を弾かせる猶予を与えた。
 涙のかわりに、空虚な笑いが零れた。
 あのすべてを磨ぎ澄ませ引き絞った一瞬に、けれどフィロネルを討つことを、身体が拒絶した。自分でも自分の感情が分からないまま。だが理屈ではない自分自身の反応に、ユアンはそれを、敗北感と共に認めざるを得なかった。
 打ちのめされるような惨めさと空虚感に、なぜか笑いがこみ上げる。「大丈夫か?」と、護衛達が心配そうに手をかけ、顔を覗き込もうとしてくるのを、ユアンは笑いながら軽く避けた。
「休ませてもらいます……ご心配なく。失礼」
 俯いたままそれだけを言い、ユアンはよろめきながら立ち上がって、通路の隅に移動した。壁に凭れていると、皇子に弾かれてどこかに放り出されたままになっていた剣を、護衛が拾って持ってきてくれた。
 それを受け取り、のろのろと鞘に収めていると、こちらを案じる気配を残しながら、皇子の一行が歩き出して遠ざかってゆくのが見えた。
 ぼんやりと壁に寄りかかったまま眺めていたら、音もなく滲んできた涙が、うっすらと下瞼を濡らした。誰かに見とがめられぬよう、慌ててユアンは下を向いた。
 ​​​──ごめん。タリア。父上、母上。申し訳ありません。
 思った途端、発作のように涙があふれた。頭が熱くなって、涙腺と共に感情が決壊した。
 俺にはできなかった。こんなありさまで、無様で情けなくて申し訳ありません。皆を殺されておきながら、仇も討てず申し訳ありません。貴方達の無念を、俺には晴らせない。申し訳ありません。
 でも、分からないんです。フィロネルを討てば、何処かで誰かが殺されて、誰かが俺と同じ思いをする。それでも、俺がフィロネルを討つことは正しいのですか。泣く必要のない者が泣いて、流す必要のない血が流れるのに、俺がそれをしていいのですか。
 どうしようもなく惨めで情けなくて、何に対してかも分からないけれど胸を掻き毟りたいほど悔しくて、声を張り上げて泣きたかった。胸に大きな空洞があいたように途方もなく虚しく、今声を上げて思い切り泣かなかったら自分が壊れる、と思った。
 床に押さえつけられたときに軋んだ肋骨のあたりが、息を吸う度に痛んだ。無様な敗走者のように打ちひしがれて、ユアンは壁を伝いながら、自室に向かって力無く歩き出した。
 もう何も分からない。何をどうすればいいのかも分からない。ただひたすら、今は声を上げて泣きたかった。

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