五章 星の流れる先 (3)

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 フィロネルは動揺し赤面しているユアンを見、また小さく笑った。あたりは暗いから、肌色の変化を見て取られたのかは分からなかったが。
 フィロネルはユアンの腕を引いて、その赤みを増した頬に軽く口付けると、仰向けだった身体をうつ伏せにさせた。衣服を取り払って剥き出しになった、痩せ気味で骨の浮いた背中に、フィロネルの唇がふれてくる。
 ユアンは思わず、快い溜め息を零して背を反らした。背に口付けられる一方、フィロネルの掌は後ろから、ユアンの締まった薄い腹や腰まわりを撫でてくる。手触りを愛でるようなその愛撫は穏やかであるのに、脈打つ鼓動をいっそう早めさせた。
 フィロネルの唇が、ユアンの右肩の後ろに押し当てられ、それから左肩の後ろに移動した。それは同じ口付けでありながら、どこか他とは違うように思えた。まるで確かめるように、フィロネルの唇は、尖った肩甲骨の間のやや下寄りあたりに移る。
「あ……」
 フィロネルの唇がふれているのが焼印の痕であることに気付くと、ユアンの身に強い疼きと鳥肌が生じた。焼印など奴隷か家畜のようだと、押されたときには惨めに思った。けれど皇子が口付けを与えることで、それはユアンの中で異なるものに変貌した。
 生身に焼き付けられた、相食み絡み合う高貴な蛇の紋は、この身がフィロネルの寵愛を受けていることの証だ。
「は、……っあ、う」
 気が付けばユアンは、シーツに顔を押しつけて腰を持ち上げ、乱れてよけられた毛布を縋るように握り締めていた。フィロネルの愛撫は臀部や太腿にも及び、ささいな一撫でにも感じてしまうほど、今や全身が火照っていた。
 フィロネルの唇や掌や指先はうっとりするように心地良く、しかし滾る腰の中心には決してふれてこようとはしなかった。焦れて疼く腰が切なく、だんだん息が上がってくる。
 放置されたままの熱い腰が無意識にくねり、自らの動きで揺れた陰茎の重さに息を呑んだ。そこへの刺激が欲しくて仕方がなかった。いつもであれば皇子はユアンのそこを遠慮も無く弄ぶのに、今日は一向にふれてこない。
「あ……あっ」
 うつ伏せになった背後から胸元に手を回され、ユアンの小石のように硬くなった突起に指が及んだ。膨れた乳首をくにくにと揉み転がされ、尖った頂きを引っ掻かれ、悪戯するように弾かれる。ユアンの唇から、その度に上ずった声が洩れた。強く摘ままれて捻るように引っ張られると、声が喉の奥から押し出されて、身を支える腿が、肩が小刻みに震えた。
「も、もう……はやく、さわって、くれ……」
 とうとう我慢できず、真っ赤になった顔をシーツに押しつけたまま、ユアンは訴えていた。下をこれ以上放っておかれたら、おかしくなる。自分が素直にねだる言葉を発したことに驚いていたが、頭の芯から思考が蕩けつつあり、今はもうそれ以上に身体が熱く疼いてどうしようもなかった。
「さわる? どこに」
 フィロネルはユアンの耳殻を噛みながら、わざと吐息を吹きかけるように問いかけてきた。その声が、明らかに笑みを含んでいる。それにも震えてしまいながら、ユアンは腰をくねらせた。
「わ、わかって、いるだろう……は、はやくっ……」
「さて。俺は馬鹿だから、はっきり言われないと分からんな」
 ユアンが焦れて悶えるのを、フィロネルは明らかに楽しんでいる。その白々しさを憎らしくも恨めしくも感じながら、しかしユアンの身体の奥は、いっそうどくりと強く脈打った。
 ユアンは何も考えず、胸元にあったフィロネルの手を掴み、自らの股間にぐいと引っ張っていた。そこで呆れるほど怒張していたものを、強引にフィロネルの手に掴ませる。
「あ、あぁ……ッ!」
 たったそれだけで、ユアンは身を引きつらせていた。そこにやった自分の手とフィロネルの手が、先端からあふれてやまない淫らな蜜に濡れる。積極的なユアンにフィロネルはやや驚いたようだったが、すぐに軽い笑みが耳元にふれた。ユアンのペニスに絡んだ皇子の指が、きゅうと力を加えて、灼熱する軸を締め付けてきた。
 そのまま蜜を絡めて上下に扱き始めた動きに、ユアンはシーツに顔を押しつけ腰を持ち上げたまま、びくびくと震えた。悦い。たまらないほど、息もできないほど、股間が熱く熔ける。長く焦らされた後の刺激に、ユアンは声を堪えることも忘れ、ひたすら喘ぐように呼吸した。
「反抗的なのも良いが、そうして素直なのも、なかなか可愛いものだな」
 からかうような声と共に、いったんペニスから皇子の手が離れた。まだまだ物足りなく、だが既に理性が緩んでしまうほど感じていることが空恐ろしいようでもあり、ユアンは大きく息を吐き出した。可愛いとは何事だと反論したかったが、既に頭の回転が鈍っていて、まとまった言葉が思ったように出てこなかった。
 あまり力の入らないその身体を、仰向けにされる。しどけなく手脚が開いてしまうことに、既に意識を割けなかった。恥ずかしさよりも、愛撫の欲しさがまさる。火照る身体を、もっと蕩けさせてほしかった。
 だが細く筋張った脚を広げられ、そこの間に皇子が入ってきたのみならず、その先に続いたことに、さすがにユアンは目を剥いた。
「なっ……な、何を……」
 あろうことか、フィロネルは黄金の髪に縁取られた頭を、ユアンの広げられた股間に落とした。その片手は汗に濡れた太腿を撫で、もう片方の手で睾丸やペニスを撫で支えながら唇を押し当ててくる。
「何を……あ、あんたは、皇子だろう……!」
 さすがに羞恥心で真っ赤になり、驚きと衝撃に一瞬快楽すら忘れて、ユアンは身を起こしかけた。だがフィロネルは平然と、ユアンの陰茎を握り、その先端にちろりと舌を這わせた。ユアンはひとたまりもなく、起き上がりかけた四肢から力が抜けてしまった。
「愛しいと思えば、すべてにふれたくなる。こんなことに皇子も何も関係なかろう」
 深い紫色の瞳でユアンの顔を横目に見ながら、皇子はその皮膚の薄い内腿に口付け、唾液の跡をつけながら舌をなぞらせた。その眼差しの扇情的な妖しさに、ユアンは完全に気を呑まれてしまった。
 動揺しているうちに、皇子がユアンのものを口に含んだ。あたたかな粘膜に包まれて軽く締め付けられると、ユアンの身をかつて味わったことのない快楽が駆け上がった。
「あ、あ、あッ……ふ、あっ」
 ユアン自身の先端からあふれる蜜とフィロネルの唾液とで、たちまち下半身から淫らな濡れた音が立ち始める。口でされることはこれほど気持ちが良いのかと、ユアンは震える手脚を突っ張らせながら思った。皇子は巧みに、唇と舌と指を駆使してユアンのペニスを刺激する。口付けと吸引を繰り返し、根元から舌を這わせ、先端の小さな孔をくちゅくちゅとくすぐりながら、すっかり重たく膨れている陰嚢を柔らかく揉む。
 喉の奥まで咥え込まれて締め付けられると、ユアンは声もなく喉をのけぞらせた。汗まみれの腰が、悦びのあまりひくひくと引きつった。
 そのままであればすぐに射精していただろうが、フィロネルはユアンを絶頂間際まで高めると愛撫を弱めた。そうしながら、広げられた脚の間で充血しているもうひとつの箇所に、指を這わせてゆく。
 香油も要らないほど、いつの間にか下の窄まりまでもが、あふれ伝う蜜で濡れていた。フィロネルの感触の良い指先は、たっぷりとぬめりを絡ませながら、その入り口をぬるぬるとなぞる。びくり、とユアンが腰を揺らした。
「うぁ、あッ……そ、そこは、今はだめだっ……あ、ぁあッ」
 今そこまで一緒に弄られたら感じすぎてしまうのではと恐くなり、ユアンは咄嗟に拒んだ。だが色づき締まった襞をやわらげるように入り口で遊んでいた指は、構わずにずぶりと挿し込まれてきた。
 あらぬ箇所に侵入してくる皇子の指の感触に、ユアンの全身が粟立った。ここしばらく皇子との営みが無かったそこは、少し緊張し硬くなっていた。しかし熱く狭い中に進められてきた長い指を、蠢いたそこは難なく根元まで迎え入れる。フィロネルは何度か指を往復させると、すぐに挿れる本数を増やした。
「うぁ、ッく、あ、あ」
 粘膜をこすりながら抜き挿しされるフィロネルの指に、狭まったそこはすぐに馴染んで絡みついた。恥ずかしさと快感に、ユアンの頭が熱湯を注がれたように熱くなった。
 身体の奥にある悦びの火種を、内臓に直接ふれてくる指先にこりこりと嬲られる。それと同時に、今にもはじけそうに反り返ったペニスを咥えられる。ユアンの喉から、繰り返し甘やかな悲鳴が上がった。背が浮いて手脚が突っ張り、かくかくと震えた。
 腰の奥の悦い箇所を指先で弄られながら、ことに敏感なカリ首のあたりや亀頭を、あさましい蜜をこぼし続ける鈴口を、しばらくの間責められ続けた。ユアンの身体の反応をすっかり把握しているらしい皇子の愛撫は、加減が実に絶妙だった。達するぎりぎりまで昂めて、ふっと弱め、じれったさにユアンが啜り泣いて腰を揺らすと、また甘美な責めを施す。
 何も考えられないほど気持ちが良すぎて、もうどうにもならなかった。ユアンは珠のような汗の浮いた身体を弓なりにしならせ、何度も焦らされた末に、とうとう激しい痙攣と共に絶頂に駆け上がっていた。
「あ、あ……はぁ……」
 その瞬間から数秒は頭が真っ白になっていたが、どくどくと熱い体液が放出されてゆくにつれ、ユアンはかろうじで我に返った。
 ペニスは、まだフィロネルの口の中に咥えられている。とんでもないと思いながらも、放出し始めてしまったものを止められるわけもなかった。
 快楽に打ち震えながらもユアンは戸惑い、どうしたらいいのか分からなかったが、フィロネルは動じた様子もなく、ユアンが吐き出したものを飲み下してしまった。やがて萎えたユアンのものを、その舌が淫蕩に蠢いて拭う。達したばかりなのに、その眺めと感触に、ユアンの腰はまた熱の嵩を増した。
「その……す、すまない……」
 しかし今は、それよりも動揺がまさった。皇子になんということをさせて、しかも飲ませてしまったのかと、ユアンは我ながら間の抜けたことを、しかし他にどう言えばいいのかも分からず詫びた。
 やや乱れかけた長い髪を掻き上げ、濡れた唇を嘗めながら顔を上げた皇子は、鳥肌が立つほど妖艶に微笑した。
「すまないと思うなら、少し分けてやろう」
 言われるなり、ユアンは身を乗り出してきた皇子に唇を重ねられた。己の吐き出した精液の匂いと味が克明に残る舌を、舌に押しつけられ絡ませられる。深く激しい口付けにユアンは圧倒されたが、いつしか眩暈と共に、自分からも皇子の舌と唇を貪っていた。ずっとシーツや毛布を掴んでいた手が持ち上がり、皇子の背に回っていた。
 ​​​──愛している、と。認めてしまうのか。これを。
 くらくらするような悦びに耽溺していきながら、ユアンの頭の片隅で、ひどく冷めたままの自分の声がした。
 フィロネルに対する感情が、それだと。認めてしまうのか。俺は。
 溺れるような口付けを交わし、快楽に染まりながら、頭の奥で思う。圧倒的な悦びの内に、泣きたいほどの切なさと痛みがあった。
 何度も口付けを交わしながら、下の孔にあてがわれる、フィロネルの男性を感じる。ずぐりと小さな窄まりを押し広げられ、狭い中に押し入ってきた灼熱する肉茎に、ユアンは喜悦の悲鳴を上げて皇子にしがみついた。
 たっぷりと淫蜜にまみれ熟れた器官は、ぐちぐちとぬめりながら、異なる熱い器官と結びついてゆく。ユアンの腰が自ら誘い込むように持ち上がり、その最も奥深くまで、ずぶずぶとフィロネルの猛ったものが飲み込まれてゆく。
「うあ、あ、あ、あ」
 少し久し振りに皇子のものを迎え入れた下腹は、苦しいような圧迫感と、神経の末端まで痺れるような歓喜とに埋め尽くされた。ユアンは上に乗った皇子の、真っ裸にされた自分と違って衣服の前をはだけただけの逞しい身体に縋り付き、強すぎる刺激に悶絶した。
 ​​​──認めてしまうのか。こいつは仇なのに。大事な者達の命を奪ったのは、他ならぬこいつなのに。それなのに、殺された者達の苦痛や恨みを置き去りにして、俺はここに堕ちるのか。
「​​​──あ、あぁあっ!」
 大きく動き始めたフィロネルに、ユアンの喉を悲鳴じみた嬌声が破った。下半身が、きちんと形を保っているのかと自分で疑ってしまうほど、ぐずぐずに蕩けている。灼熱したそこの中心を貫かれ掻き回されると、ひどく甘くかすれた声が、助けを求めるように上がった。獣のように喘ぐ唇の端から涎が零れ、それをどうにもできないほど悦くて、気が遠くなりそうだった。
 ぐちゃぐちゃとせわしなく淫靡な音を立てながら己の内臓を押し広げ、穿つように行き来するフィロネル自身が、胸が震えるほど愛しい。屈辱や苦痛を与えるためではなく、それは愛情ゆえの行為だと、今は知っている。だからそこに感じるフィロネル自身の昂ぶりも、乱れてゆく息遣いも肌の熱さも、伝う汗も、何もかもが愛しい。
 ​​​──駄目だ。
 燃え上がる行為の中に溺れてゆきながら、しかし氷のように冷めた声が、ユアンの頭の奥に深く鋭く響いた。
 ​​​──駄目だ。ここに堕ちるなど。自分一人、どうしてそんなことができる。殺せなかっただけでも皆に顔向けが出来ないのに。その仇に身も心も絡め取られて、一人だけのうのうと生きるなんて。そんなことがどうしてできる。
 圧倒的な愛しさと悦びに身体が浮き上がり、だが鋭い一欠片の氷を含んだように、胸が強く痛んだ。
 もう言葉を交わすよりもひたすら互いを求め合う行為の中で、言葉のかわりに熱く濡れた身体を抱き締め合い、乱れた呼吸を吐き出す唇を貪り合った。愛しい。哀しい。熱い悦びの涙にまぎれて、それとは異なる涙が、ユアンの眦から伝った。
 フィロネルのことを、嫌いになれない。数え切れないほど傷つけられ、世界のすべてを裏切る圧倒的な孤独の中に立たされてきた皇子。けれど苦しみ悩みながらも、運命に屈することなくすべてを背負い、傲然と顔を上げている美しい皇子が、愛しい。多少のいびつさや屈折など残らず受け止めてやろうと思うほど、その歪みさえもが愛しい。
 だからこそ、自分は傍にいられない。憎しみと怒りという刃を喪ってしまった以上。それどころか皇子の魂に完全に囚われ、愛しいと思ってしまった以上。それは、フィロネルの為に無惨に命を奪われた者達に対する、この上ない裏切りだった。
 ​​​──この国を、出ていこう。
 自分の上にいるフィロネルの腰に脚を絡ませ、あるいはフィロネルの上に跨がって腰を揺らしながら、ユアンは思った。今より後になれば、この国は本格的な冬に閉ざされて、身動きが取れなくなる。できるだけ早く。できれば明日にでも。この国を去ろう。時間が経てば経つほど、立ち去りがたくなる。だから。
 皇子との営みもこれが最後になるのだと思うと、胸が詰まりそうに軋んで、その分だけますます身体が燃え上がった。
 いつの間に、自分はフィロネルにこれほど心を奪われていたのだろう。美しいが傲慢で、獰猛な獣のようにユアンを押さえつけた男。その牙と爪に押さえつけられ、魔性のような紫の瞳で見下ろされながら、内臓まで暴かれて捕食されるような交わりを幾度も強いられた。それを許せるのかと問われたら、正直よく分からない。憎しみと愛情が、いつすり替わったのかも分からない。けれどそんなことも、どこかにもう押し流されてしまうほど。今はただ、フィロネルが愛しい。
 頭と肌身で、フィロネルのすべてを覚えておきたくて、繰り返し何度もその腰に腰を押しつけて身体の奥に入り込んだものを締め付け、唇を求めた。
 燃え上がる身体と共に切なく焼き切れそうなほど灼熱する頭に、自分の中にある激しく強い衝動を、あらためてユアンは知った。
 ……でも、自分もきっと、フィロネルに負けない。この、強く焦がれて激しく求める衝動は。
 もう何度目かも分からない口付けを交わしながら、流れる汗の筋に混じって、また涙が頬を伝った。
 これで最後になる。だから、よく覚えておこう。すべてのことを。フィロネルに抱かれて、確かに幸せだと思い、愛しさを知り、魂まで蕩けるような悦びに幾度も震え上がったことを。この先もう二度と会うことがなくても、すべてのことを、自分は忘れない。


 明け方まで互いを貪り続けて、限界を超えたユアンはぶつりと意識が途切れ、次に気が付いたら乱れたベッドの上に一人だった。窓の外は既に明るく、今日もまた寒々しい灰色の空が広がっていた。
 皇子が一人で起き出して、規則正しく政務を執るために先に部屋を出て行くことは、想像がついていた。
 手足が重く、立ち上がろうとしたら膝が軽く笑っていて、腰にうまく力が入らなかった。ユアンはなんとか転ばないように柱や壁を伝い、浴室に移動して湯浴みをした。
 全身にべたついていた昨夜の行為の名残を洗い流すと、さっぱりはしたが、ひどく虚しく寂しかった。自分とフィロネルを繋いでいたものが、湯と一緒に剥がされ、流されていってしまったように思えた。
 下半身が特にけだるく、下腹部の奥が少し痛んだ。昨夜どれだけそこを衝かれたのかと呆れた気分になったが、その鈍い痛みさえ愛しいようで、一人で笑った。笑いながら、睫毛がうっすらと湿った。
 運ばれてきた朝食を、いつものように普通にとった。ユアンの好みのスープや果物が添えられた、喉を通りやすい食事。ゆっくりとよく噛んで、味わいながら一口ずつを飲み込んだ。食欲はあまりなかったが、今後のことを考えて、なんとかすべてを胃の中におさめた。
 ゆっくりと食べ終えてから、身繕いをした。いつもの従者の服装ではない。あっさりとした、どこにでも紛れてしまえそうな質素な普段着だ。その上から、長時間外にいても凍えてしまうことがないよう、これも特に目立たない上着や外套で、防寒の支度を整えた。
 ここにはユアン個人の持ち物など、もともと一つもなかった。だから身支度は、短い時間で簡単に済んだ。ただ路銀に困り野宿になると、これからの季節は凍死しかねないので、従者として勤める中で受け取っていた賃金だけは、小分けして身支度の中に入れた。
 皇子から与えられた剣は、迷った末に置いていくことにした。できるならばフィロネルに繋がるものとして持って行きたい気持ちがあったが、何しろ皇子自ら下賜されたものであるだけに、その黄金の装飾や填め込まれたアメジストはあまりに見事で、皇宮の外では目立ちすぎた。気を付けてはいても、何かの拍子で物騒な賊に襲われる原因になりかねない。
 それに、下手に皇子に繋がるゆかりの品を持っている方が、心が引きずられてつらい。ユアンが姿を消した後、この剣が残されていれば、フィロネルにもユアンが自ら出て行ったことの察しがつくだろう。
 おまえが愛しい、とフィロネルはユアンに言ったが、フィロネルは本来、色恋沙汰の相手になど事欠かないはずだ。ユアンが姿を消す理由も、フィロネルには充分想像がつくだろう。ユアンはもともと、皇子を討ち取るために皇宮に来たのだから。それができなくなれば、皇宮にいる意味もない。
 ユアンが自ら姿を消したと分かれば、さすがにフィロネルもユアンを諦めるだろう。なにしろ多忙な最高執政者なのだから、どこに行ったのかも分からない、しかも自ら出て行った人間一人を捜そうとするほどの暇人でもあるまい。
 テーブルの上に、一見そうとは分からないように白い布でくるんで置いた剣を、ユアンは見下ろした。細い指が、布の上から剣にふれた。
 剣は置いていっても、この先死ぬまで、ユアンから消えず離れないものもある。両肩の後ろと背に焼き付けられた、貴く妖しく美しいフィンディアス皇家の紋章​​​──互いを相食み絡み合う蛇の姿を思い描き、ユアンはかすかに笑った。
 背中の焼印は、皇子の寵の証、そして甘く苦しい罪の証だ。仇を討つこともできず、そればかりか愛しいと思ってしまった。皇子を殺すことはできない、と苦悩の末に判断した自分の考えを、悔やんだり恥じることはない。だがそれとは別に、愛しい者達の仇を討てなかった、不甲斐なく惨めな自分を責め、命を失った者達に詫びる思いも、消えることはない。
 奇妙な、本来何事もなく生きていれば交わるはずのない、フィロネルとの縁だった。これでいい、と自分に言い聞かせた。機械的に、あえて深く考えず。考えてしまうと、ここを離れがたく思う、フィロネルに会いたいと思ってしまう感情に、負けてしまいそうだったから。

 ユアンはささやかな手荷物を持って、静かに部屋を出た。できる限り平素通りの顔と歩調を保ち、顔見知りに会っても、普段通りの何気ない挨拶を交わす。フィロネルの従者であるユアンの顔は、皇宮に広く知られていた。すっかり冬の庭に変わった庭園を抜け、無数にある裏門のひとつに、特に誰に怪しまれることもなく到着した。
 少し諸用があって街に出る、と言うと、ユアンのことを知っている門衛は、何ら疑う様子もなく外に出してくれた。整備された石畳の路を進み、そのうち皇宮に向かう馬車や様々な人々が行き交う本道に合流する。振り向かずに長いこと歩き、周囲の景色が次第に街路に変わってきたところで、やっとユアンは皇宮を振り返った。
 いくらか小高くなった丘陵の上に、優美で巨大な、重々しい歴史を感じさせるフィンディアス皇宮は横たわっていた。灰色の空の下に眺められるその姿に、初夏の頃に城下街から見上げた同じ姿が、脳裏に甦った。
 あの頃の自分を思い出すと、また別の痛みが胸を刺した。
 盲目的な怒りと憎悪を滾らせ、皇子を殺すための短剣を抱きかかえて、あのときユアンは城下の片隅にうずくまって皇宮を見据えていた。それほど昔のことでもないのに、記憶の中にいる自分が、やけに幼く思えた。
 あの頃の自分にもし話し掛けることができたら、何を言うだろうか。少し考えてみて、何も浮かばないことに苦笑し、ユアンは小さく首を振った。
 そんなことを考えても仕方が無い。過去に戻ることはできないのだから。それに誰にどう諭されたところで、あの頃の自分の激情は、決して鎮静しないだろう。無理矢理押さえつけて自ら悟る方向にユアンを向けさせたフィロネルのやり方は、確かに効果的だったのかもしれない。乱暴にすぎる方法ではあったにせよ。
 これ以上はもう、何を考えていても、つらくなる。
 後ろ髪をひかれ、それを振り切り、ユアンは皇宮から視線を外した。
 ぐっと拳を握り、奥歯を噛んで、皇都を取り巻く城壁に向かって歩き出す。門の近くには、移動の足を確保できる手段がいくつかある。まだ午前中だが、冬の陽は沈むのが早い。今日中にこの街を遠ざかって、違う街にまぎれておきたい。
 事務的に今後の段取りを考えながら、ユアンはひとつ深呼吸をした。ふいに震えそうになった喉をこらえ、強くまばたいた。
 ​​​──元気で。
 声には出さずに呟き、唇を引き結んで、ユアンは雑踏にまぎれるように路を歩いて行った。

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