エレクシオン (4) -完結-

栞をはさむ

 レインスターから戻って来た後、最も皇子を滅入らせたものは、あの暗く冷たく青褪めた海の底のような皇帝の病室を見舞うことのようだった。
 フィロネルは以前から週に一度、決まった日に欠かさず病床にある皇帝を見舞っていた。余程のことがなければ、日取りを前後にずらすことすらしなかった。
 それはきっと「一度でも欠かせば後が続かない」と、そこで怖じ気づいてしまう自分の心を、何より皇子は恐れていたのだろうとユアンは思う。
 それだけに、外遊で国をあけた後の見舞いは、フィロネルにとってひどくこたえたらしかった。それを物語るように、帰国後すぐに一度見舞った後は、多忙ということと、あまり頻繁に見舞うと症状の悪化している皇帝の身の負担になるという理由をつけて、フィロネルはしばらく皇帝の寝所に足を向けなかった。
「……情けないな。おまえを抱く気にすらなれんとは」
 ようやく再び皇帝を見舞ったその日の夜、ユアンは部屋には呼ばれたものの、いつものように寝台に連れ込まれることもなく、カウチソファにフィロネルと並んで座っていた。
 フィロネルは珍しいほど酒をあおっていたが、いくら飲んでも酔えないようで、そのうち付き合っていたユアンの方が少し酔ってきてしまった。
「そこに凭れていろ。そうしたら、俺もおまえに凭れる」
 目許にうっすらと酔いを纏わせているユアンに、フィロネルは軽く笑いながら言った。酔いのせいではなくユアンは赤くなってうろたえたが、少しでも皇子が笑顔を見せてくれたことの方が嬉しくて、おとなしく従った。
 手触りの良い柔らかな布を貼られたカウチソファは、大きくて座り心地が良い。皇子もこれを気に入りのようだが、ユアンもこのカウチを気に入っていた。
 凭れてゆったり横になることもできる肘掛け部分は、正面から見ると巻き貝の曲線を思わせる優美なラインを描いている。ユアンがそこに半ば横たわると、フィロネルもユアンに凭れるように身を預けてきた。確かに事前に言われてはいたが、ユアンはなんとも落ち着かず恥ずかしくて、やけに緊張してしまった。
 いつもベッドではそれこそ丸裸にされて、あられもないなどというものではない姿で抱かれているのに、きちんと服を着てただ身を寄せているだけの今の方が、妙に恥ずかしく感じるのはどうしてだろう。
 フィロネルはユアンに凭れたまま、目を閉じて何をするでもない。長い手脚からも、完全に力が抜けている。
 眠ってしまったのだろうかと思い、ユアンは声をかけるのはやめておいた。フィロネルの長い睫毛が燭台の灯りに白金に光り、それは見惚れるほど綺麗だったが、その睫毛のかかる目許の翳がいつになく深いように見えた。
 きっと疲れているのだろう。国の統治者として不足なく振る舞ってはいても、フィロネルは今年でやっと二十歳になる一人の若者でもある。普段は決して弱音を吐かないが、その胸の奥には様々な激しい感情や苦しみを抱えている。
 衣服を通して伝わり、こちらの肌も次第にぬくもらせてゆく静かな体温が、ふと、哀しいほど愛しく思えた。密着した距離が、ベッドにいるとき以上に近く感じた。
 大きく空間をとられた皇子の部屋は、小さな吐息すら相手の耳に届きそうなほど静かだった。その静けさの中、皇子の身を預かって座り、その見事に光る絹糸のような黄金の髪を眺めていると、まるで世界中の時が静止してしまったように感じられた。
 ふと気が付くと、フィロネルの瞼が開き、その深いアメジスト色の瞳が虚空をぼんやりと見つめていた。
 何を考えているのかは分からないが、虚脱したように疲れて見えるフィロネルに、ユアンはそのまま何も口を開かなかった。そのかわり、自分の身体の上にかかり、ソファの上にも流れ落ちている、フィロネルの長く見事な黄金の髪に手をふれてみた。梳いてみると、それはしっとりとした絹のような重さと柔らかさを持っていた。
「……俺は」
 ユアンに背を預けて凭れたまま、不意にフィロネルが呟いた。だがそれ以上は言葉は続かず、むしろ飲み込むように、フィロネルは整った唇を軽く噛んで視線を俯けた。
 何も語らないフィロネルが何を考えているのか、ユアンにはよく分からなかった。ただ、先程まで投げ出されていた皇子の手がいつの間にか握られ、僅かに震えていることに気付いた。
 ユアンはその手に手を伸ばして重ね、少し強めに握った。
「あんたは大丈夫だ。俺がいるから」
 ゆっくりと考えながら、ユアンは口を開いた。
 フィロネルが何を思い、考えているのかは、すべてはよく分からない。でもフィロネルにとって自分が何なのか、フィロネルが自分に何を求めているのかは、漠然とではあったが分かっていた。
「あんたは言っただろう、俺がいれば正気でいられると。あんたは狂ったりしない。どうしても発散せずには耐えられないなら、いくらでも俺に当たればいい。俺は大丈夫だ。今さらあんたに何をされても」
 かつてフィロネルは、懸命に生きてきたことのすべてを根本から否定され、自分自身も取り巻く世界も崩壊するほどの衝撃に打ちのめされた。その中でかろうじで己を保つために、すべての歪みの元凶であり己のすべてを崩壊させた存在を​​​──「両親」と呼んでいた二人を、この世から抹消しようとした。
 その結果、フィロネルを産んだ女性は自ら身を投げて死ぬ道を選んだ。フィロネルに「父」と呼ばれていた男、すなわち皇帝ルカディウスは、フィロネルの中に宿った恐ろしい殺意と衝動に気付かないまま、盛られた毒によって生きたまま朽ち果ててゆく未来を与えられた。
 皇帝の症状は、レインスターに逃げ出す前に、一度だけユアンも見たことがある。あの時点でも、ルカディウスの身体は正視することが難しいほどひどい状態だった。今はおそらくもっと、症状は進んでしまっているに違いない。
 そんなおぞましく残酷な生をルカディウスに与えたのはフィロネルであり、それはフィロネルにとってはどうしても必要なことだったのだろう。だが、じわじわと長い時間をかけて朽ちてゆく皇帝を見守り続けることは、フィロネル自身にとっても恐ろしい負担になっているのだろう。
 フィロネルがやったことを、ユアンは否定も肯定もしない。おまえのやったことはあまりに惨い、まともな人間のやることではない、と責めることはたやすいが、今それをまったくの部外者でしかない自分が口にしてどうなるというのだろう。
 それにおそらく、フィロネルは自分の行為は許されないことだと理解している。そうであればこそ、あれほど心では疲労困憊し拒否していながら、生きたまま朽ちてゆく皇帝のもとに通い続け、苦しみ悶える無惨なその姿から目を逸らさずにいるのだろう。自分のやったことの結果を、最後まで見届けるために。
 何も答えない、しかしユアンの手を振り払おうともしないフィロネルに、ユアンは静かに語りかけた。
「フィロネル。今度から陛下のもとに見舞いに行くときは、俺も部屋に入れてくれないか」
 フィロネルはすぐには答えず、だいぶ長い沈黙を挟んでから問い返してきた。
「……なぜだ?」
 あまり感情の宿らない、だが普段は毅然と歯切れ良く喋るフィロネルとは別人のような声だった。それは初めてユアンが皇帝の寝所に立ち入り、フィロネルから出生の経緯についてを聞かされたときの声音に似ていた。
「俺も見ておきたい。皇帝陛下の姿を」
 フィロネルの中に今尚燻り続け、フィロネル自身をも呪縛し炙り続けている絶望と虚無と怒りそのものであろう、その姿を。
 フィロネルは長いこと黙り込んでいた。やはりこちらから踏み込むのは無理だったかと、ユアンは少し寂しい気持ちで苦笑した。フィロネルのことはよく分からないことだらけだが、中でも「両親」を巡るこの部分にだけは、どうにも近付くことができないようだ。
「無理にはいいんだ。すまないな、急にこんなことを言って」
 フィロネルの手の甲を軽く叩き、引こうとした指を、ユアンは緩くではあったが掴まれた。素早く手を返した皇子の指に。
 フィロネルは俯き加減の顔を上げることもしなかったが、やがて乾いたような声で、小さく一言だけ答えた。「わかった」と。


 遅い春を通り過ぎ、初夏になろうとしているフィンディアス皇宮の随所には、目に眩しいほどの花々の群れや瑞々しい新緑があふれていた。しかし病に伏せった皇帝の寝所のある一角は、相変わらず海の底のように青褪めて寒々しかった。
 分厚い二枚扉と小部屋とに隔てられた奥にある、フィロネルの罪と歪みと様々な負の感情が泥濘のように降り積もった場所。その部屋の前までは、レインスターから戻って来た後も、ユアンは以前のように皇子に付き従って足を運んでいた。
 以前と違っていたのは、最近は皇子は医師団をいったん外に出し、まず一人だけでしばらく皇帝と対面するようになっていたことだった。皇帝の症状が近頃ますます思わしくないことから、医師達も皇子の心情を慮って、少しでも親子二人だけの時間を作るよう配慮しているようだ。
 その日の見舞いは、扉の外に医師団や護衛達を残し、フィロネルとユアンだけが皇帝の寝所に入った。いつぞやのように医師達はぶしつけにユアンを眺めてはいたが、以前よりは胡乱げな気配は薄まっている。近頃はユアンも、珍しく皇子の目に適った側近だと、少しずつ周囲に認められてきているらしい。
 二重の扉と緞帳のような厚い幕を抜けて、まるで墓所のように静まり返った奥に進むと、あの香木の香りと腐臭とが混ざり合った異様な臭いが室内には籠もっていた。それをかいだだけで、以前目にした皇帝の無惨な姿を思い出し、ユアンは胸が悪くなった。
 フィロネルの顔は死人のように青ざめ、唇を固く引き結んだまま無表情だった。以前この部屋にユアンが初めて入ったときも、フィロネルはこんな顔をしていた。普段の華やかさや覇気が見る影もなく消え失せ、ここにいるときの皇子は、まるでどこまでも暗い冥界の底を漂う幽鬼のように見えた。
 ユアンからもとくに何も言葉を発することはなく、ただ無言で、ひときわ豪華で大きな寝台の傍らに立った。天蓋から落ちる幕は、以前よりも厚みと枚数を増しているようだった。
 生臭さと腐臭の中、皇帝は寝台の上で半ば腐りかけていた。当てられた布や包帯に得体の知れない体液が染み出し、その隙間から垣間見える人肌の色を失った身体のあちらこちらで、よく見ると白く小さな虫がもぞもぞと何匹も蠢いている。それを認めたユアンは、猛烈な悪寒と吐き気に襲われた。勿論それらを取り除く処置も施されているのだろうが、ここまでくるとそれもなかなか追いつかないのだろう。
 これでまだ生きているのか、と思うような姿に、ユアンは思わず後ずさり、口元を押さえた。
 悪夢そのものの光景に頭がふらつき、だがなんとか踏みとどまる。ユアンは怖気と目に染みるような悪臭に耐えながら、真っ直ぐに寝台の上を見下ろした。
 ​​​──これが、フィロネルの魂の根に渦巻く、救いようのない絶望と狂気と嘆きの行き着く象徴だ。
 こんな有り様になっても、まだ皇帝が死ぬまでには時間がかかるのだろう。肌は部分的には再生能力を失っていないようだし、内臓が機能しているうちは、なかなか死に切れないのだろうから。いっそ何か感染症でも患えば早いのだろうが、専属の優秀な医師団がついて皇帝を「生かそう」と手を尽くしていることが仇になっている。
 純粋に、こんな状態をあまりにも哀れだと思う。これほどフィロネルに憎まれ恨まれることをしたにせよ、ここまでくればこの男も報いはもう充分に受けたのではないか、と思う。
 それにこのまま皇帝が死ねば、それはますます救い無くフィロネルを呪縛するだろう。自らの手で、これほどまでに惨い方法で、父と呼んだ存在を死に追いやったこと。たとえ血の繋がりはなくとも、そもそもフィロネルがあらゆる感情や繋がりをもっと冷たく割り切れていたのならば、こんな惨い悲劇は起こらなかったのだから。
 暗く呪わしい部屋に佇みながら、ユアンの中でひとつの考えが明確に形を成し、ひとつの決意に向けて収束されてゆく。それはいつの頃からか、皇帝を見舞いに行く皇子を見る度に、漠然とユアンの中に浮かんではいたものだった。
 フィロネルもユアンも、佇んだきり何も言わなかった。ユアンが視線を向けると、無言で寝台を見下ろす皇子の瞳は、ぞっとするほど虚ろだった。いつもはあれほど鮮やかで美しいはずの瞳なのに、乾いて光を失ったそれは、まるで死者の眼差しのようだった。
 ​​​──この連鎖は断たなければならない。たとえそれが、ユアンの傲慢であり、人の道に反したことであっても。
 ユアンは寝台の上に横たわる半死半生の哀れな男を、ひたりと見据えた。薄暗い部屋の中で、濁りなく深まった藍色の瞳が凝らされ、揺らめく白焔のような光を帯びた。


「殿下」
 何食わぬ様子で時間は流れてゆく。今日もいつものように執務室で政務を執っているフィロネルに、ユアンは資料を纏める手を休めて口を開いた。
 一年を通して晴れ間より曇天の方が圧倒的に多いこの国の空だが、今日は珍しく穏やかな晴れ間が出ているせいか、皇宮中の空気ものんびりと和んでいた。
 来客予定が一通り片付き、ひとまずもう邪魔は入らないだろうという頃を見計らって、ユアンは皇子にひとつ質問を投げかけた。
「殿下は、ご結婚はなさらないのですか?」
 唐突極まりないユアンの問いかけに、フィロネルは驚いたようだった。難しい顔で視線を走らせていた書類から顔を上げ、フィロネルはまじまじとユアンを見返した。
「急に何を言っているんだ、おまえは?」
「別におかしな質問ではないでしょう。殿下はこの国の唯一の皇子であって、細君を娶る理由は山ほどあっても、娶らない理由はないのですから」
「確かに皆うるさいがな。要はさっさと跡継ぎを作れと言いたいんだろう」
「当然の話だと思いますよ。後継者の問題は、一歩間違えれば国を揺るがしかねない重大事です」
 眉根ひとつ動かさずに言うユアンの顔を、フィロネルは頬杖をつきながらじっと見つめた。突然こんな話を切り出したユアンの真意を探っているようだった。
「誰かに何か厭味を言われた、というわけではなさそうだな」
「俺がですか?」
「おまえが俺の伽役でもあることを察している者もいるだろう。おまえが惑わせているせいで俺が妃たる者のことを考えないのだ、と思う者がいても、おかしくはない」
 にや、と笑った皇子に、ユアンは意味を理解してうっすら赤面した。
「……下衆な勘繰りもいいところですね」
「まったくだ。それとこれとは別の話だろうに」
 あっさり言う皇子に、ユアンはひとつ咳払いをして話を進める。
「それはそれとして、跡継ぎのことを皆が考えるのは当然のことです。殿下が新皇帝として即位するのは、もう時間の問題だろうと皆も思っているでしょうから」
 はっきりとそう口にしたユアンに、フィロネルはすぐには何も返さなかった。
 ユアンは自分のこの言葉が、フィロネルが意図的に避けているタブーにふれることを分かっていた。新皇帝の即位、すなわち現皇帝の崩御​​​──皇帝ルカディウスの死。
 ユアンは無言で、皇子の反応を窺っていた。一見したところ、フィロネルの様子は何ら変わらなかった。しかしその類い稀な宝石もかくやというほど美しい紫の瞳が、あの虚ろな死者の眼差しの色を帯びたことを、ユアンは見逃さなかった。
 いかにフィロネルが既に事実上の最高執政者とはいっても、やはり皇太子と皇帝とではまったく立場が違う。公の場での重みも違う。そしてフィロネルがこのまま新皇帝として即位すれば、フィロネルにまだ子がいない以上、皇太子の位は空位となる。
 皇帝の崩御は、皇子自身が蒔いた種でもあり、決して避けられない出来事でもある。そしてフィロネルにとって、ひどく憂鬱で神経を抉られる、正気を磨り減らされる出来事だろう。
 このまま皇帝が崩御すれば、ユアン以外の誰が真相は知らなくとも、フィロネルは父と呼んだ存在を己の手で殺したという事実を刻印される。その無惨で哀れな遺体を足場に、皇帝の座へと続く階段を上がることになる。
「……俺の跡継ぎは、今いる皇族の中から選ぼうと思っている」
 やがて沈黙を破り、呟くようにフィロネルが言った。その内容の意外さに、ユアンは思わず皇子を見返した。
「皇族の中から?」
「俺の血を後世に残す気はない。どうせ俺からは、皇家の正当な血脈なんぞとっくに失われている」
 フィロネルはいずれ妃を娶って後継者をなすのだ、と普通に考えていたユアンは、驚きのあまりしばし返す言葉が出てこなかった。
 絶句しているユアンに、フィロネルは目線だけを動かした。
「俺が即位したら、皇位継承権を持つ者の中から、それと相応しい者を選んで立太子するつもりだ。必要があれば養子にしてもいい。直系の血筋にこだわらない分、性格と才幹をよく吟味して選び出すこともできる。こういった例は過去にもあったから、さして問題はなかろう。多少はうるさい奴もいるだろうが」
「……そういうお考えでしたか」
 話を聞くうちに、ユアンは驚きはしたものの、「それが一番良いのかもしれない」とすんなり納得していた。
 皇家の血筋は、この古く長く続いているフィンディアスという国にとって特別に重く、支配階級とは切り離せない。支配者の象徴であり、人々からの畏敬と忠誠心を得る重大な要素だ。
 歴代の中にも、何らかの理由でどうしても子をなせなかった皇帝はいる。元々皇族間での近親婚が多いから、直系以外から後継者が選ばれても、そういう事情ならば仕方がないと人々も納得する地盤はある。
 自分の出生の秘密を知っているフィロネルが、皇帝として自分の血は残せないと考えることは、むしろ当然のことなのかもしれなかった。フィロネル自身のせいではなく、たとえ誰が知らなかったとしても、これ以上周囲の人々を、民を騙したくない、とも思っているのかもしれない。そもそも皇帝の子ではない自身が帝冠を戴くことにすら、フィロネルは本心では疑問を抱いているのかもしれない。
 フィロネルは退位するのも早いだろうな、とユアンは思った。元々、皇子として生まれたことが不幸でしかなかったフィロネルだ。傍目にはどれほど恵まれ華やいで見えていたとしても、生まれる前から歪められ貶められていた皇子としての人生を、フィロネルは恨むことこそあれ、一度たりとも身の上に感謝したことなどないのでは、とさえ思った。
 しかし早いとはいっても、それはまだ相当先の話ではあるだろう。若く優秀な執政者であるフィロネルを、そうそう周囲も退位させはすまい。
 未来の形がおぼろげながら見え始めてきた中、ユアンは真っ直ぐに皇子を見つめた。この先のことを考えると、そしてフィロネルにとってどうすることがまだしもましなのかと考えると、何度考えてみても、ユアンには胸の奥にひそかに抱いている一つの結論を覆すような代案が浮かばなかった。
「フィロネル」
 静かに呼びかけて、どっしりとした年代物の執務机に掛けている皇子のもとに足を運ぶ。今日は随分と明るく穏やかな窓からの陽光に、緩く括られた皇子の長い黄金の髪が、まるで天からの使徒のように穢れなく美しく輝いている。
 その傍らに立ち、ユアンはゆっくりと告げた。
「今後、陛下の寝所で何が起きても。何を見ても、何に気付いても、あんたは何も知らないふりをしてくれ」
 一滴の濁りもない、凍てついた冬の夜空のような藍色の瞳に見下ろされ、フィロネルが徐々に紫の瞳を見開いた。それほど驚愕した顔をするフィロネルを、ユアンは初めて見た。
 だがユアンは、眉の一筋も動かさなかった。心はもう微塵も揺らぐことなく、定まっていた。
 たとえユアンの取る手段が人道に外れようとも、哀れな皇帝の苦しみをこれ以上長引かせる必要はない。
 そして何より、フィロネルに親殺しの烙印を押してはいけない。あの緩慢に死んでゆく男に、このままフィロネルの魂まで、呪わしい死者が蠢く暗い淵に道連れにさせるわけにはいかない。ユアンの決断がどれほど皇子を救うのかはさだかではないが、少なくともユアンがルカディウスの命を摘み取れば、皇子は「親殺し」にならずにすむ。たとえ詭弁であろうと、事実上殺したのはフィロネルに相違なかろうと。その一縷の細く僅かな逃げ道に、自分で自分を許すことは決してできない皇子を、せめて逃がしてやりたい。
 こう思うことは、フィロネルを誰よりも大事だと思うユアンの身勝手だ。だが他の何を差し置いても、ユアンはフィロネルを守る、フィロネルのために生きると決めた。どう考えてもフィロネルのためにならないと思うことならば、それを排除することに逡巡は必要ない。そしてユアンが共犯者になることで、ますます深くフィロネルと結びつき、魂まで浸蝕するその罪と苦しみを分かち合うことができる。それはいっそ、ユアンを陶然とさえさせた。
 凝固してしまったような皇子の広い肩に、ユアンは静かに両腕を乗せ、彫像さながらに整ったその顔に顔を近づけた。
「あんたは何もしなくていい。ただ、何も言わずに目を瞑っていてくれ」
 フィロネルのことを何もかもは理解できないが、フィロネルのために自分が何をするべきかは理解している。それは、フィロネルの盾になり、時には剣になり、何よりもユアン自身がフィロネルの狂気や衝動を納める鞘になることだ。
 少し冷たく感じるフィロネルの唇に、ユアンは重ねるだけのキスをした。すべてを捧げて構わないと思う相手のために生きられる。それは恍惚とするほどの、なんという極上の幸せかと思う。
 しばしの間、フィロネルは凍り付いたままだった。身動きしない中で、ユアンの言葉の意味を、ユアンの思考についてをめまぐるしく考えているのだろう。己の中にせめぎ合う多くの感情を闘わせ、ユアンを共犯に引きずり込むことの是非を己に問うているのだろう。
 俺に甘えてしまえと、それを無言で見守りながら、ユアンは思った。とうに覚悟は決めている。世界の誰が許さなくても、ユアンだけはフィロネルを許す。
 紫色の瞳が頼りなく泳ぐようにユアンを見上げ、その一片の迷いもない真っ直ぐな藍色の瞳に囚われた。
 やがてゆるゆると、フィロネルの肩から力が抜けていった。俯いたその精悍な頬は、まだ若干強張りを残してはいたが、呆れたように、どこか少しだけ泣き出しそうにも見える顔で、フィロネルは微かに笑った。
「……おまえも相当に酔狂だな。ユアン」
「まあ、あんたが惚れるくらいだからな」
 思わずユアンも笑ってしまった。どこかに毒の気配を帯びた、だがひどく甘美な酩酊感がある。左右の肩と背に焼き付けられた絡み合う蛇の刻印が、昂揚するように熱をもって感じる。
 それはユアンがフィロネルのものであるという証。ユアンにとって何にもまさる寵の証、そして甘い罪の証だ。
 ユアンはフィロネルの首に両腕を絡め、今度は深く唇を重ねた。フィロネルもそれを拒むことはなく、その両腕がユアンのあまり厚みのない身体を膝の上に引き寄せ、抱き締めた。
 呼吸も忘れるほど、相食むように熱く深く口付け合いながら、互いの身体が己の一部であるように、かなう限りぴったりと身を押しつけた。互いの体温と蕩けるような息遣いが、どんな麻薬でもかなわないほど頭の奥を痺れさせた。
 こんな場所でこれ以上のことをするわけにはいかないので、惜しくはあったがユアンは唇を離した。仄かに上気しているユアンの目許に、フィロネルがふといつものように妖艶に瞳を笑ませた。
「続きは夜にじっくりと、だな。今宵は何なりと、おまえが望むようにしてやろう」
「そっ……そんなことを、こんな場所で言うな」
「こんな場所で口付けてきたのは、おまえの方だろうに」
「それは……で、でも、俺はそんなつもりじゃない」
「そんな色っぽい顔で言われてもな。おまえは本当に阿呆だな」
 笑いながら、フィロネルはユアンを再び抱き締めた。ユアンは慌てたが、そのフィロネルの腕の力は思いのほか強かった。
 抱き締められたまま抜け出せずにいる耳元に、低く抑えられた、耳朶に滲むようなフィロネルの声が聞こえた。
「……本当に、あのときおまえを無理矢理にでも手に入れておいて、良かった」
 顔が見えないままのフィロネルの呟きに、ユアンは一瞬息を飲んだ。
 苦しく切ないほどの愛しさに、目頭と頬が熱くなる。ユアンは強く目を瞑って滲みかけた涙を抑えると、わざとぶっきらぼうに呟き返した。
「本当に、無理矢理だったけどな……」
「その分、今後は大事にするつもりでいるぞ。一国の皇子に尽くされるのも悪くはあるまい?」
 腕の力を緩め、にやりと悪びれずに笑うフィロネルに、ユアンはむっと紅潮したままの頬を膨らませた。厄介なことに、こんなふうに笑う皇子が、ユアンは思った以上に好きだった。それに、あんな弱々しげな姿や、幽鬼のような姿を見るよりもずっといい。フィロネルは傲慢で偉そうで、少し横暴なくらいでちょうどいい。
 ユアンは頬から赤みがひかないまま、もう一度フィロネルの唇に、かすめるようなキスをした。そして、その深く鮮やかなアメジスト色の瞳を睨み付けた。
「尽くされてやるよ。だからこの先もずっと俺を大事にしろ。いいな」
「分かった」
 おかしそうに小さく笑いながら、フィロネルもユアンの顎に指をかけた。そっと静かに、これまでで最も柔らかく、少しの畏れを含んでいるように唇が重ねられた。
 それはささやかな、しかし何よりも確かな誓いのようだった。


(了)

栞をはさむ