朔の章 第一のパンドラ(1)

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 ……自分に弟が生まれたのは、半年ほど前の冬の朝。
 子宝に恵まれなかった「両親」の間に子供ができた。それは、自分にとっても心から嬉しいことだった。
 病院に駆けつけて、正直到底可愛いとは思えない生まれたての赤い嬰児を見て、なのに不思議と自然に目許がほころんでいた。
 手を伸ばして抱き締めたい気持ちを抑えて、これ以上気を遣ったことはないというほどそっと、そのあまりに小さな頬に指先をふれさせてみた。水分の占める割合の高い肌は恐くなるほど柔らかく、火傷したようにその指先をすぐ引っ込めてしまった。
 それを見て、おかしそうに幸せそうに、ベッドの上の母は笑っていた。

 寒くはあったが、明るい陽差しに照らされたあの日の光景。自分をくるむ幸せにまたひとつ明るい種が加わった、と信じて疑わなかった冬の朝。
 しかしあの明るい冬の陽差しの中で、自分の幸せだった日々は、知らないうちに亀裂が走るように終わっていたのだ。

        ◇

 掌のズキズキと芯まで響くような熱く重い傷みと、身体中が軋むような痛みとで目を覚ました。
 腕にも背中にも、硬く冷えたコンクリートの感触が当たっている。重い瞼をぼんやり持ち上げると、周囲を灰色の床と壁に囲まれていた。抜け落ちた天井から、雲の欠片の浮いた青空が見えた。
 起き上がることも億劫だったが、コンクリートの上に直接横たわっていることは、それ以上に苦痛だった。こんな硬いものの上で寝たことなどかつてなく、そしてここで眠り込むまでの経緯を思えば、全身にひどい脱力感があること、頭が高熱を発しているように痛むこと、骨から軋むように全身が痛みを発すること、そのいちいちがもっともだった。
 がらんとした廃墟の只中、周囲は静まり返って、何者の気配もしない。ただのぞく青空が、やけに眩しかった。

 無我夢中で銃弾から逃れ、ふらふらになって彷徨い込んだ、打ち捨てられてどれくらい経つのかも分からないビルの廃墟。その片隅に潜り込んで、一夜を明かしてしまったようだった。眠ったことは確かだが、まったく疲れが取れている気がしない。
「……つっ……」
 両の掌にひどい痛みがあり、恐る恐る広げてみる。
 固まった血と泥とに汚れた掌は、昨夜鉄条網を掴んだせいで無残な有り様になっていた。ところどころ皮膚がひきつれて破け、棘が肉を貫いた小さな穴がぽつぽつと開いている。よほど傷が深いのか、まだ血が固まりきっていないところもあった。
 座り込んだままぼんやりと周りを眺め、そして自分の姿を見下ろす。いつできたものか手足にも擦り傷がいくつもあり、夏ものの制服は砂とも泥ともつかぬ汚れでいっぱいだった。
 そうしたまま、とりとめもなく思う。頭からたっぷりシャワーを浴びて、湯船につかって、疲れと汚れを落としたい。清潔な服に着替えたい。傷の手当てもしたい。柔らかなベッドに入って、気が済むまで熟睡したい。
 喉がひどく渇いていた。異常事態に胃が萎縮しているのか、空腹感だけは感じなかった。そのかわり、胃が膨れ上がったような気持ちの悪さがあった。
 何故、こんなことになったのだろう。
 自分の身に何が起きたのかまだ理解しきれないまま、あるいは理解することを拒否したまま、胸の中で呟いた。

 ふらふらとあてもなく廃墟の中を歩きながら、考える。
 喉の渇きと身体の痛みと、そしてありえない周囲の光景​​​──廃都と呼ばれるその中に間違いなく自分がいるという事実が、認めたくなくても次第に「現実」を教え込んでくる。
 ──自分は、捨てられたのだ。
 人っこ一人いない、アーケード跡と思しき通りを歩きながら、ぼんやりと思った。
 もうどれほど開かれていないのか見当もつかない、錆び付いて原型を失ったシャッター。硝子の存在しない無数の窓。真っ黒に錆び付いた街灯。足元には瓦礫が散乱して、注意して歩かなければ簡単に足を取られる。実際に何度も転びそうになり、何度か転んだ。
 ​​​──自分は捨てられたのだ。両親に。
 瓦礫の中に転がり込み、よろよろと立ち上がりながら、その言葉を噛み締めるように心の中で繰り返した。
 抑えてもこみあげてくる様々な感情と熱いものが、痛みをこらえて震える喉を詰まらせた。


 子供のできない両親に、幼い頃に自分は養子として引き取られた。子宝に恵まれなかったことについては、どうやら問題があったのは父親の方だったらしい。
 とはいっても物心すらつく前のことで、当時の記憶を自分は持ってはいない。養子だというのは知っていたが、当たり前のように家族として在り、浴びるほどの愛情と適度な厳しさと規律を与えられて、経済的にも何不自由ない生活を送ってきた。
 元々自分が無数の孤児達の中から選ばれて引き取られたのは、身体が健康で、遺伝子的な欠陥もなく、外見も悪い方ではなく、知能指数もそこそこ高かったからだという。つまり「跡取り」として引き取られたのだ。
 自分でもうっすらと自分が引き取られた理由を分かっていたから、そして両親に感謝し愛していたから、少しでもその期待に応えるよう、喜んでもらえるように、勉強も運動も頑張ってきた。そして自分はあまり苦もなくそれらをこなすことができたから、それが原因で苦痛を感じることや、一家に溝や濁りが生じることはなかった。
 だがほんの時折、日常の中に違和感を覚える瞬間があった。
 最初にそれを感じたのがいつだったのか、既に覚えていない。その小さな違和感は、それほど長く幼い頃から付きまとっていた。
 それは、普段は優しく、あるときは厳しく、およそ世間でいう理想の父親像そのままだろうという父が、ふとした瞬間に自分に対して見せる眼差し​​​──ひどく無表情で無機質な、人間というよりモノを見るような​​​──から生まれていた。
 それは、いつも正面から向けられることはなかった。父と話していてふと視線をよそに向けたときや、居間や廊下ですれ違ったときに、背中越しに感じるもの。
 だから、確信を持ってそうだと言えるものでもない。気のせいだと言ってしまえば言えるほど、本当に小さなものにすぎなかった。
 その頃は、まだ。

 父親の家系は、代々土地の有力者だったという旧家だった。
 既に祖父は亡く、当代である父は、代議士を務める一方で様々な慈善事業を展開していた。多くの組織の顧問や会長を兼任してもおり、家長としてもおそらく一人の男性としても、父はこの上なく立派で充実した人物だった。
 自分の暮らしていた家は相当な邸宅と言っていいほど大きく立派だったが、それとは別に少し街中から離れた場所にも、さらに大きな純和風の屋敷があった。
 そこは「本家」と称されており、「大奥様」と呼ばれる祖母だけが使用人と共に住んでいた。
 本家に行くのは、親族が集う新年の挨拶くらいだった。ほぼ年に一度会うだけの祖母はひどく素っ気なく無口で、あまり話したこともない。だから祖母のことが正直苦手で、挨拶に出かける度に、本家の大きさと重厚さと堅苦しい親類付き合いに気圧され、げんなりして帰ってくるのが常だった。
 本家も苦手だったが、高校を卒業したら本格的に父を取り巻く豪奢だが面倒な社交界に加わらなければならないことも、内心では憂鬱だった。
 ゆくゆくは父の跡を継ぎ、そして本家を継ぐ立場であるという自分は、少しばかり同じ年頃の少年達とは異なるところもあったのかもしれない。だが普段は「ごく普通の高校生」をやっている自分のことを、今はまだ特に変わった立場だと考えたことはなかった。

 そう、何もかも「普通」だった。繰り返す日常も、両親との関係も。
 だがその中に、昔からふと紛れ込んでいた小さな違和感。尊敬できる立派で優しい父から時折向けられてくる、まるで人形でも見るような無機質な眼差し。
 それにふれる度に、心のどこかで、一抹の寂しさと共に諦観していた。
 ​​​──自分は養子なのだから、仕方がない。それでも充分に、両親は自分を愛してくれている。それでいいではないか。充分に自分は幸福なのだから。

 そんな小さな違和感の他は順調そのものだった日々に、事実上の終止符が打たれたのは、半年前。
 到底子供は望めないと誰もが既に諦めていたところに母親が妊娠し、無事に健康な男の子を産んだことが、すべての分水嶺だった。

 赤ん坊、つまり自分から見れば弟が生まれてからも、母は変わらず優しかった。
 だが自分に対し父がどこかよそよそしくなったことに、すぐに気が付いた。一つ屋根の下で親子としてずっと暮らしていた関係にとって、生じた歪みはどんなに僅かであっても克明だった。
 戸惑い、かといってどうしたらいいのか分からず、何をどうできるわけもなく。ただ父の変化に、気付いていないふりをした。
 そんなある日、ふと視線を感じて振り返ったら、そこに立っていた父があの眼差しを正面からこちらに向けていた。無機質なばかりでなく、今自分に向けられてくるそれは、かつて見たことがないほど冷ややかだった。
 目が合っても、これまでのように逸らされることはなかった。思わず強張って立ち竦んでいたら、やがて父の方から視線を外して、何事もなかったように居間に入っていった。
 その夜は眠れなかった。

 母親の様子は最初のうちは何も変わらなかったが、少しずつ自分に対する言葉数が減り、そのかわり物言いたげに、悲しげにじっと見つめてくることが増えた。だがこちらが気付くと慌てたように目を逸らし、それから取り繕うように笑いかけてきた。
 その奇妙な空気やぎこちない空間が悲しくて、だけれど何も気付いていないように、自分も「普通の顔」をして笑い返した。

 そしてある日。朝からどうにも体調が悪く、測ったら熱が高くて、学校から早退することになったときがあった。
 父は当然仕事だろうと思ったし、生まれたばかりの赤ん坊を抱えている母を煩わせるのも気が引けたので、何も言わずに家に帰った。
 そこに、思わぬ人物がいた。弟が寝ているかもしれないと呼び鈴を鳴らさずに鍵を開けて家に入ると、玄関にいかにも高価そうな草履があり、ドアを閉めた居間から、祖母と両親が話している声が途切れがちに聞こえていた。
 思わず息を殺し、足音を忍ばせて聞き耳を立てた。あまりよく聞き取れない箇所もあったが、やがて発熱しているはずの頭が脳天から冷えて、血の気が失せていった。
 あまり声を聞いたこともなかった祖母は、驚くほどよく喋っていた。祖母は実の孫の誕生を手放しで喜び、そしてしきりに父を褒めていた。家柄も才覚も実績もすべてを持っていた父が、唯一欠けていた「血を分けた跡継ぎ」を、ようやくもうけたことを。
 居間にいる大人達に気付かれないように、息を詰めたまま、再び玄関から外に出た。熱のせいで頭がぼやけているのか、今耳にした祖母と両親の会話がショックでぼんやりしているのか、よく分からなかった。
 ​​​──そうだったのか。と、朦朧としかかった頭で、漠然と理解していた。
 跡継ぎが生まれない父にとって、養子を取ることはやむをえないことだった。だがそれは、文字通り「すべて」を持っている父にとって、唯一の、そして絶対の欠陥​​​──男性としての​​​──を晒すことでもあったのだ。それはすべてに恵まれ、プライドの高い父にとって、本当は耐え難いことだったのだろう。
 父はずっと、良い父であろうとし、実際に良い父として自分に接してくれた。でも本当は、心の奥底では、欠陥の象徴そのものだった自分を疎んじていたのかもしれない。そう考えたとき、あの無機質な冷たい眼差しを思い出し、すべてが結びついた気がした。
 祖母が自分に素っ気無かった理由も、やっと分かった気がした。そして祖母にとっては、「血を分けた孫」が生まれた以上、「赤の他人」である自分を跡継ぎとしておくのは、家名や財産や苦心の末に築き上げてきた様々なものを「他人に奪われる」ことに他ならないのだろう、とも。
 ​​​──父と母にとっては、どうなのだろうか。
 反射的に、父のあの眼差しが脳裏に浮かんだ。母の物言いたげな悲しげな顔が浮かんだ。それを考えるのはひどく恐ろしくて、熱のせいばかりではないだろう、強い眩暈と吐き気に襲われた。
 ​​​──お父さん。お母さん。
 両親の眼差しと共に、今まで過ごしてきた様々な団欒の光景が脳裏によぎった。何気ない笑いにあふれた、数ヶ月前までは当たり前だった光景だった。
 門の横にうずくまって動けなくなっていたところを、やがて母親に見つけられた。熱を持った頭がひどくふらつき、支えられながら、やっとのことで家に入った。

 知ってしまった事実は、胸の中を冷たくした。
 これまでずっと、自分なりに頑張ってきたつもりだったが、そしてここにあるのはごく当たり前の家族の愛情だと信じていたが、それはいともたやすく打ち砕かれてしまった。血を分けた息子、というものの出現によって。
 弟が生まれさえしなければ、たとえ少しいびつでも、「家族」を続けていられたのだろうか。父も「良い父」であり続けることができたのだろうか。
「血を分けた息子」の存在が、長年ずっと取り繕い抑え続けてきたものを、父の中で決壊させてしまったのかもしれない。父の真意は分からない。でもきっと、実の息子さえ生まれなければ、父もあんなふうにはなりはしなかったのだ。

 ゆっくりと軋みを上げてゆくような、だが表面上は今までと何も変わらず穏やかな日常が続く中、唯一の救いになったのは、無垢な弟の存在だった。
 この弟が生まれたことで、何かが大きく歪み始めてしまった。だが生まれたての弟には何の罪もなく、そして弟は愛らしく、たまらなく柔らかくて、日ごと冷たく凍えてゆく胸の中に、暖かな光を灯し続けた。無邪気な弟の姿を見、その頬やあまりに小さな紅葉のような手にそっとふれてみることは、この上ないなぐさめになった。
 何度もひどく落ち込み、だがその度に、「弟が生まれたからって、別に何も変わってないじゃないか」と、自分を無理にでも鼓舞しながら思い直した。それまでと同じように日々を過ごし、何も気付いていないように明るく「息子」らしく振る舞い続けた。
 そうすることで、これまでと変わらない日々が続くと、無理にでも信じようとしていた。

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