朔の章 第四のパンドラ(1)

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 その一件以降、ますますアリサはサクを溺愛するようになった。
 だがサクの日常は、サクの感覚からすれば特に何も変わらなかった。昼はジムにいき、それ以外の時間は、夜通しアリサと過ごすために身体を休めつつ、何をするわけでもなくぼんやりとすごす。
 左肩の傷は思ったより深く、縫合が必要だったが、傷口が綺麗だったとかで癒えるまでにそれほど時間はかからなかった。ある程度そこが癒えるまでは、アリサもサクにそこまでの無理はさせなかった。
 以前のように嬲ってくれ、と言い出したのはサクの方だった。
 夜が来ることが異様に待ち遠しく思えるようになった。
 身体の奥の奥まで嬲り上げられ、狂ったように泣き叫ぶことが、身体の苦しさに反比例して、ひどく甘い陶酔感と言い知れぬ安堵感をもたらすようになった。だからことさらにアリサの言うことに逆らい、ひどい仕打ちを受けるように仕向けた。
 めちゃくちゃにされて、明け方死んだように転がるたびに、ぞくぞくするほどの甘さが胸を満たして、夢も見ない眠りにサクを誘った。


「ねえ」
 ある日いつものように、廃都の街並みを見下ろせる出窓に腰を下ろしたまま、サクは言った。
「用立ててほしいものがある」
 アリサは意外そうにサクを見返った。
「あら。初めてかしら? そういうおねだりは」
「うん」
 サクは灰色の景色を見下ろしたままで呟いた。
「ナイフと拳銃。とくにナイフは、うんとよく切れるやつを」


 アリサはすぐにそれを叶えた。昔サトシに持たせてもらった拳銃より、手にしたそれは小さく感じた。
「何に使う気か知らないけれど」
 出窓に座るサクの頬から首筋に、アリサは繰り返しキスをしながら言った。
「自分に向けて撃ってはだめよ」
「そんなことするわけない」
 手の中の重たい鉄の塊をしげしげと見回しながら、サクは答えた。改造されたそれは、見かけのわりに強力な弾薬が装填されていた。
「これの使い方も教えて」
「あとでね」
 アリサが熱い吐息を吹きかけながら、サクの右の耳の縁を舌でなぞった。血の色の小さなピアスのはまった部分にふれないように、その耳朶をちろちろと舌先でくすぐり、甘噛みする。
「んっ……」
 ぞくっと走った震えに、サクは小さく声を洩らした。
 アリサの白い手がその手から拳銃を取り上げ、そしてアリサは、その場にサクを押し倒して愛撫を始めた。サクもそれに逆らわなかった。


 あの男に会いに行こう。
 いつからその考えがサクの中で形になったのか、サク自身にも分からなかった。
 ずっと以前からそう考えていたようでもあるし、ふいに昨日浮かんだ考えのようでもある。
 何にしても、そんなことはどうでもいい。
 サクはアリサが洗わせてしまいこんでいた、ボロボロになった制服を引っ張り出した。生地がよれてところどころ破れたズボンと、かつては真っ白く綻び一つなかった半袖のシャツ。
 なぜこれをアリサが捨てなかったのかは分からない。そして今、自分がこれを着て行こうと思った理由も分からなかった。
 ただ漠然と、これを着ていくのが筋だ、と思った。
 この、外界と自分を結び付けていたものを、「朔」という名前を持っていた自分を、心と身体もろとも引き裂いてボロボロにした男。かつてそれを自分に与えた男に会いに行くのなら、これを着ていく以上に相応しいものはないと思えた。


 カズヤがねぐらにしているあの通りは、調べてみればすぐに分かった。
 カズヤはアリサに飼われている者達の中でも、その手を離れた今なお、ちょっとは知られた存在であるようだった。
「あんまり妙なことはするんじゃねえぞ」
 カズヤの居場所を聞き出したサクに、それを教えた男は首をすくませながら言った。
 サクはそれを無表情に見返しながら、唇を動かした。
「しないよ」


 ズボンの後ろポケットにナイフを突っ込み、ベルトに拳銃を挟んだ。
 落ちないかと思ったが、レザーの鞘に包まれた新品のナイフはあまり大振りではなく、問題なくポケットにおさまった。拳銃も、ベルトを少しきつめに締めれば落ちることもなさそうだった。
 一度拳銃を取り出し、間違っても暴発しないようにきちんと安全装置をかけ直してから、またベルトに突っ込んだ。

 アリサは今日は朝からいない。ひとりで部屋に運ばれてくる朝食をとってから、サクはその豪奢な部屋を出、大きなビルの中を歩いて、ここで暮らすようになってから一度も使用したことのないエントランスに到達した。
 そこを一歩出れば、周囲はどこまでも、荒れ果て物寂しい巨都の廃墟だった。
 地表の高さからこの光景を間近に見るのも、随分久し振りな気がした。
 サクはちらりと薄い雲の浮かぶ青空を見上げてから、西の方角に歩き出した。

 カズヤがあの場所から居住場所を変えていないことは、事前に調べてあった。
 あらかじめ聞いた情報と、下調べした地図と、そして手元に今持ち出してきた地図とを使って、サクは思ったよりも簡単にその路地にたどり着くことができた。
 カレンダーを見ておらず、日にちを数えることもしない日々を送っているから、あれがもうどれくらい前のことなのか分からない。
 アリサの豪奢な部屋に飼われていると、外気の変化にも疎くなる。まして廃都は、ただひたすら灰色なばかりで、季節の変化など、風景としては空の色や浮かぶ雲、太陽の角度に現れるだけだ。
 半袖の腕にふれる陽射しの感触は、いつのまにか夏を越えていたのか、やわらいで優しかった。
 まだ午前の早めな時間であるせいか、路地は静まり返っていた。
 あのとき連れて来られた、狭苦しく汚らしい路地。すえた臭いの漂うそこを、サクはすり切れたスニーカーでためらいなく歩いていった。
 かつてここで、いきなりナイフを渡され、そしてカズヤにナイフで襲い掛かられた。肌を切りつけられ逃げ回る背を、はやしたてる人垣に囲まれ、その真ん中に蹴り戻された。
 何ヶ月も前のことではない。にも関らず、もうずっと遠い昔の出来事であるように感じられた。
 誰に会うこともなく、カズヤの住居のドアの前に着いた。静かに押すと、何の抵抗もなく鉄錆び色のそのドアは開いた。
 広がったのは、あの日見たときとほとんど変わっていない、無造作で殺風景な灰色の部屋。
 無遠慮に踏み込み、ざっと眺めてみたが、物音ひとつせず人の気配もしなかった。
 雑誌やゴミくずやダンボールのきれっぱしが散乱したコンクリートの床を歩き、奥の部屋に入る。
 ここもあの日と同じ。斜めに置かれた大きめの粗末なベッドに、なぜか本物の高級レザーの張られたソファセット。
 あの日のままだ。
 そのガランとした光景を眺めながら、サクは声に出さず呟いた。

 サクは奥の部屋のドア枠の陰にうずくまって、じっとしていた。座り込んだまま、漠然と様々なことを考えていた。
 自分がこの廃都に来ることになった経緯。大好きだった兄がわりに向けられた銃口。逃げて乗り越えた鉄条網。曲がり角で突然出くわしたカズヤ。
 何もかもがそう昔のことでもないのに、幕で隔てたように、すべてが夢であったかのように遠い。
 廃都を訪れたばかりの出来事を辿っていくと、いやおうなしにかつてこの部屋でカズヤにされたことの数々を思い出した。
 何も分からず何も知らなかった自分を、容赦なく襲って犯したカズヤ。ソファの上で手首を押さえられた感触も、身体の上にのしかかられた重さも、背を撫で回されながら口付けられたことも、すべて覚えている。あのときの灼けつくような喉の渇き。床に這いつくばって飲んだ水の甘さ。無様に股間を踏みつけられて達したこと。シャワールームで、そこのベッドの上で、いいように弄ばれたこと。初めて身体を割り裂かれたことも、すべて覚えている。
 ……あの男をどうしてやろう。
 じっと見るともなしに灰色の床の一点を見つめながら、サクは思った。
 与えられたのと同じ苦痛を返してやろうか。泣き叫ばせてやろうか。どうしてやったら、自分の中にあるこの暗い疼きとくすぶりは消えるだろうか。
 ​​​──あの男に会ってみてから決めてもいい。

 どれほど時間が経った頃か。ドアがカチリと開く音がした。
 相変わらず足音をさせないようだ。気配を殺しているサクに気付く様子もなく、無防備に気配は近付いてくる。
 ドアの嵌っていないその枠を抜けて、カズヤが現れた。あの日と同じように、洗いざらしのシャツにジーンズ。艶のある、大雑把に括られた腰まで届くのではないかというほど長い黒髪。線の引き締まった横顔はよく整って、その首筋にはふいに引き寄せられてしまいそうな色気がある。
 サクは音もなく立ち上がっていた。しかしそこで、カズヤも気付いたようだった。
 振り返ったその顔面めがけて、サクは手の中に用意していた小さなスプレーを遠慮なく噴射させた。
「なっ……」
 驚いた顔をしたカズヤが、たちまち咳き込んだ。
 自分より大柄な男の前に無防備で来るほど、サクも馬鹿ではなかった。それは一吹きで猛獣も昏倒させる、というほど強力な麻酔効果を持つスプレーだった。
 まったくの不意打ちを食らったカズヤは、すぐにその場に倒れ込んだ。睫毛の長い瞼が完全に落ちている。
 気を失ったカズヤの前に、ゆっくりとサクは足を運んだ。そしてそれを、黙って見下ろした。
 ​​​──さて。どうしてやろう。

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