Trance(1)

栞をはさむ

 白い手の中で構えた拳銃の金具が、じゃき、と小さな音を立てた。
 シャツのはだけた姿でひたりと目の前の男を見据えたまま、ベッドに起き上がったサクは黒い瞳を細める。
「何する気」
 妙に劣情を誘うけだるげな声が、普段よりも低さを増す。
 突然鼻先に向けられた黒光りする銃口に、たった今までサクを組み敷いていた男は喉をひきつらせた。
「い、いや……じょ、冗談だよ。そ、そんなもん引っ込めろって。な?」
 銃口を向けたまま、サクはちらりとだけ男の手元に目を落とす。男の手にあるのは、サクの履いている黒いスラックスから引き抜かれたベルトだった。
 こちらが軽く喘ぎ始めたのをいいことに、男の手がベルトを掴み、手首を拘束しようと動いた気配を、サクは見逃さなかった。それを察した瞬間に男を突き飛ばし、常に手の届く場所に忍ばせた拳銃を手にすることに、何の躊躇いもなかった。
「あんたごときが俺に何する気なの? やらせてやるとは言ったけど。ふざけんなよ」
 銃口を下ろさないまま、サクは冷えた怒りを帯びた声で重ねた。
 声も表情も、今まで多少なりとも濡れていたとは思えない冷え切り方に、男が圧倒されたようにベッドの上で後ずさった。
 この界隈にいる者なら、誰でも知っている。この黒髪の少年の拳銃とナイフには、脅しも遠慮もない。この少年が自らを犯した相手を報復で惨殺したことは有名な話であり、機嫌を損ねたら何をされるか分かったものではないと、それを知る誰もが思っていた。
 サクは男に銃口を向けたままベッドを降り、投げ出してあった黒い上着を取り上げた。はだけたシャツを直そうともせず、ドアに向かう。
「二度と俺に近付くな。下衆」
 言い置いて、サクは後も見ずに部屋を出て行った。


 まだ息が白くなるほどの、冬の冷気が地表を這う。曇り空の下、普段よりも空気はいっそう冷たく感じられる。
 寒いと思ったら、外に出たら白いものがちらついていた。
 染み入るような冷気に、上着の襟を立ててかき合わせる。歩いてゆくサクは、自分を遠巻きに見ているいくつもの視線を感じながら、ごく小さく舌打ちした。
 鬱陶しい。
 軽く苛々しながら、どこかに気晴らしになる相手はいないかと、立ち止まってあたりを眺める。廃都の中に点在する、ものの売り買いや情報のやりとりのために人々が集まる界隈だった。
 パトロンことアリサがさせている丹精こめた手入れのおかげで、サクの外見はあまり飾りっ気はないが少年とは思えないほど美しく、見る者をぎょっとさせるほど妖艶だ。廃都の少年でありながら身につけているものはやたらと高価で上等で、しかしデザインは素っ気無く、そして色彩も白か黒かグレーでしかない。
 白い肌に黒い髪と瞳を持つサク自身、色彩らしい色彩を持たない。唯一帯びている色彩は、右の耳朶にひとつだけ輝く赤いピアスだった。血のように深く赤い、ガーネットの小さなピアス。
 少年自身の持つ逸話のせいばかりではなく、その外見と圧倒的なまでの雰囲気が、思わずというように周囲の注意を引く。多くはまずぎょっとして少年を見、それから怯えたように慌てて逸らしたり、逆に異様な熱を帯びて凝視する。
 そのうち、一人の男と目が合った。三十歳まではいっていないだろう。彫りの深い顔立ちの、わりあいに好みな印象のその男をじっと見つめていると、相手の方から近付いてきた。
 稀に女性から声をかけられることもあるが、サクに近付いてくるのは圧倒的に男ばかりだ。女がそもそも廃都には少ないせいもあるが、その僅かな女達も、大半がサクを恐ろしい魔物であるような目で見ながら遠巻きにする。
 彼女達は、きっと血の匂いに敏感なのだろう。サクが自分以外の者に対し、何かあれば血を流させることもまったく厭わないと考えていることを見抜いている。もともと女達は、男達よりも血と魔性に近い存在だから。きっと彼女達には、同類のことはよく分かるのだ。
「へぇ……おまえ、近くで見るとホンットにキレイだな。退屈してるんだ?」
 肩を抱き、サクの絹糸のような少し長めの黒髪に指を絡めながら、男がからかうように言ってきた。
「うん。遊んでくれる?」
 深い艶を帯びた黒い瞳をサクが上目遣いに動かすと、男が生唾を飲むようにした。自分のちょっとした仕種や目付きひとつで、群がってくる連中が面白いように反応するのが、サクにはおかしくてならなかった。
「幾ら?」
「んー……」
 耳元に囁かれ、サクは首を傾げて、相場より少し高めの値段を言った。自分の身体が金になることもサクは理解していたから、まったくの安売りをする気にもなれなかった。それで断られるなら、こちらも出すという相手を選ぶだけだ。
 男は路地裏や空家ではなく、安くはあったがそれ用のホテルにサクを連れていった。それにサクは感心し、悪くはないなと思った。そこには効きは悪いがエアコンがあったし、コンクリートの上に倒されるよりは、粗末でもベッドの方がずっといい。
 少し機嫌が良くなって、男に脱がされるままにサクは笑い声を立てた。男の下になって身体をまさぐられるうちに、次第に息が乱れて洩れる声が甘さを帯びてゆく。
「……気持ち良くしてね」
 笑いながらサクが言うと、男がたまらなくなったように、むしゃぶりつくようにキスしてきた。すっかり余裕を無くしてしまったように身体中にふれてくる男がおかしくて、またサクは白い喉から笑い声をこぼした。
 男はなかなか巧みで、やがてサクの雪のように白い裸身に少しずつ赤みがさして汗が滲み始めた。
「ん……あぁ」
 軽くサクの背が反らされて、形の良い唇が濡れた声を上げる。サクは誘い込むように脚を大きく広げた。自分から動くのも面倒くさかった。奉仕なんて、アリサ相手だけで充分だ。
 サクが喘いで身をくねらせることに強烈に刺激されるらしく、男は夢中でサクの白くなめらかな肢体を貪った。男に突き上げられ、汗にまみれて達する頃には、サクも快楽のこと以外は何も考えなくなっていた。
 この人、けっこうアタリだったかな。
 と、甘い痺れと乱れた呼吸の中でサクは思う。
 今の時点で金を使うあてはなかったが、その重要さはかつて飢え渇いて廃都を彷徨ったことのあるサクには骨身に染みていた。くれるというものを拒む理由もなく、退屈がまぎれて気持ち良くなって、その上金を得られるなら、こんなに都合の良いことはなかった。
 何度か達した後、急速に冷めてゆく身体と頭で、サクは自分の隣にいる男の体温と、身体の下にある安っぽいシーツの肌触りをぼんやりと感じていた。
 ……冷めたりしなければいいのに。
 もうずっと感じていられたらいい。身体中がおかしくなるほど感じてしまえたらいい。
 他に欲しいと思えるものが何もなかった。自分の中には、ぽっかりと何もない。だからだろうか。さんざん達した後は、無性に死にたくなる。
 押しのけた枕の下に突っ込んでおいた拳銃に、そろりと白い指が伸びた。冷えた鉄の感触にふれて、馬鹿らしくなって止める。
 今死のうなんて思わなくても、どうせ自分がそう長生きできるとは思えない。自分だけではない、こんな廃都なんてロクでもない場所で、這いずるように生きている連中全員もだ。
 もう何をしてもつまらない、としか感じなくなったら、どこかの高いビルの上で、青空の下で頭を撃ち抜いてやろう。さぞかしスカッっとするに違いない。
 そのときのことを考えると、やけに楽しくて自然に笑みがこみあげた。
 急にくつくつと笑い始めたサクに、男が怪訝な顔をする。サクは男の耳朶を唇で軽く食みながら、気持ち良かったよ、と甘えた声で言ってやった。
 ​​​──さめなければいいのに。
 空気の冷たさに鳥肌が立ち始めた中、サクは笑いながら、少し眠たげに瞼を閉じた。


 いつものように衣服をすべて剥がれたサクは、アリサに手枷をつけられ、吊るされて白い肌が真っ赤になるほど鞭打たれた後、複数の男達に投げ与えられた。
 サクを同時に何人もの男に襲わせることを、アリサは日頃からよく好む。サクが泣き叫びながら押さえつけられ、かわるがわる乱暴に犯され、無理矢理男のものを咥えさせられる姿が、アリサにはとても甘美な見世物であるようだ。
「あなたもこうされるのが好きなんでしょう? 犯されても感じるなんて、本当にあなたほど淫乱で変態な子はいないわよねぇ」
 男達が退去し、息も絶え絶えにぐったりと床に投げ出されているサクに、真っ直ぐな真紅の髪を綺麗に纏め上げたアリサが歩み寄った。スリットの深い、まろやかな身体の曲線を見せ付けるようなぴったりとしたチャイナドレスを纏ったアリサは、尖った靴の爪先でサクのうつ伏せた肩を蹴り付け仰向かせた。
「あなたのことだから、どうせまだ足りないんでしょう」
 言いながら、やわらかく萎えているサクのペニスを、アリサは固い靴の底でにじるように踏みつけた。
 サクは呻き声を上げて、弱々しく身をよじらせた。痛みと苦しさで、すでに目を開く力もない眦に涙が滲んで頬にこぼれる。だがアリサに絶妙な加減で踏みにじられているうちに、そこは意思を裏切って、また次第に熱を持ち始める。
 何度も達した後のそこに与えられる刺激は苦痛でしかなく、サクは全身をひきつらせて脂汗を流した。そしてかすれた悲鳴を上げながら無理矢理に絶頂に追いやられるのを、アリサは実に愉しそうに見下ろしていた。
 ぜえぜえと激しく胸板を上下させているサクの鳩尾に、アリサは容赦なく爪先を蹴り入れる。また呻いて、サクは身体を丸めて震えた。
「いつまで寝ているの。さっさと起き上がって、あんたが汚した靴を舐めて綺麗にするのよ。気の利かないこと」
 震えていたサクが、ようやく身体を引き起こしてアリサの前に跪いた。
 何度もえずき、荒い呼吸を繰り返して涙を流しながら弱々しく靴に舌を這わせる姿に、アリサは満足気に微笑んだ。優雅に膝を落として、サクの顎を柔らかな指先で持ち上げる。
「良い子ね。あなたは今まで飼ったどの犬よりも可愛いわ、サク」
「……ありがとう、ござい、ます……」
 やっとのように、けれど従順に言ったサクに、アリサは赤い唇で濃厚なキスをした。されるがままに、サクはただそれを受け入れた。


 ​​​──いつまでもこんな生活でいるものか。
 解放されて、明け方ぐったりと一人ベッドにもぐりこむたびに、考える。
 アリサに飼われている間は、少なくとも衣食住には充分すぎるほどに困らない。困らないが、こんな慰み者そのものの生活はもうたくさんだった。
 達した直後などはやけにからっぽで無常な思いに囚われるが、こうやって一人で横になっていると、どうしても腹の底からどす黒く吹き上げてくるものがある。頭が比較的まともに働いている時ほど、それらの思いは強まる。
 打たれて熱を持ち、ひりついている肌をさすり、自分を抱き締めるようにしながら、サクは柔らかなベッドの中でじっと虚空を見つめた。
 アリサはサクに、できるだけアリサ個人と、その周囲の情報を与えまいと努めているようだった。それは文字通り、サクを飼い殺しにするために他ならなかった。
 アリサの下を離れたら生きてはいけないように。アリサのもとから何かしらを持ち出すことができないように。もしかしたら過去にそれをした飼い犬がいて、アリサは苦い思いをしたことがあるのかもしれない。
 アリサのガードは固く、また周囲の人間もよく言い含められているようで、サクは今のところどうにも籠の鳥から脱することができない。
 サクを抱きたがり、飼いたがる人間なら、街に出れば他にもいくらでもいる。それほどまでにアリサの好みに磨き抜かれ、飾られたサクは淫らで妖しく、強烈に他者の欲望を刺激する。
 だがその誰もが火遊びで、後ろにアリサがいる限り、誰もサクを囲おうとはしない。
 ​​​──ここから脱け出さなければ。
 そう強く思いながら、しかし同時に異なることも強く思う。
 ​​​──あの変態女。どうしてやったら、あの女をズダズダにしてやれるだろう? どうしたらあの見かけばかりは美しい顔を、醜く歪ませてやれるだろう?
 あの女のことを利用するだけ利用して、あとくされないようにここを脱け出す方がいい。そう頭では思いながら、自分をいいように弄び、泣き叫ばせてはそれを見て愉しんでいるあの女に、思い知らせてやりたいと考えずにいられない。
 せめぎあう思考のどちらが勝つのか。そのうち不意に、衝動が自分を食い破るのだろうか。あの日、カズヤを引き裂いて撃ち殺したように。
 ……あのときは愉しかったな。本当に、おかしくなりそうなほど愉しかった。
 思い出しながらサクは微笑み、うとうとし始める。身体は疲れ果てていて、ふっと糸が切れたように思考が途切れて、眠りに吸い込まれてゆく。
 どちらに転んでも、どうでもいいような気もした。どうせなるようにしかならないし、つまらなくなったら死ねばいい。どうせ生きていることに意味もない。
 いや、意味があるとすれば、自分を壊して奪っていく者達がいるからこそ、それに抗うためだけに自分は生きている。誰もが自分を不要だと突き放し、死んでしまえというのなら、誰が死んでなどやるものかと思う。
 どうでもいいと思いながら、どうしてこんなに、ここにいるのが嫌だとも感じるのだろう。
 息が詰まりそうなほどの、趣味の悪いマーブル模様のように入り乱れた感情が自分の中にあふれている。こんなふうに何かを考えながら眠るのは、本当に嫌いだった。何も考えたくない。誰かに滅茶苦茶にしてほしい。何も考えずにいられるように、滅茶苦茶にしてほしい。
 ​​​──ああ、もう本当に、何も考えたくない。

        ◇

 初めて「その姿」を見たときに数秒間呼吸すら忘れたことを、サクは自覚も出来なかった。
 まだまだ空気は冷たく、けれど晴れた空から落ちてくる陽射しが、少しだけ冷気をやわらげている。
 いつものように、退屈しのぎに適当な相手を探して歩いていたときのことだった。顔にも名前にも興味もない連中がたむろっている中、ふいに一人の長身の姿に目をひかれた。
 ​​​──なんだこいつ。
 普段から外にいることが多いのか、冬だというのにいかにも健康的に焼けた肌色をしている。様々な人種がたむろっている廃都ではあるが、透き通るような長い金髪なんてあまり見かけたことがない。それをいかにも適当に後ろで括ったその顔立ちは、大人びているようでありながら、まだまだ少年のようでもある。誰かと明るく笑っている綺麗な青い瞳が、ひどく鮮やかに見えた。
 なんだ、こいつ。
 息を飲んで、サクはそこにいるその姿を見つめた。こんな灰色の澱んだ場所だというのに、その少年じみた姿の周囲だけ、やけに明るい陽が差しているように見える。ひどく混沌とした中に突然クリアな光が差した錯覚に、サクは目眩を覚えて瞬いた。
 こんな場所で何が楽しいのかと思うほど闊達と、長い金髪に囲まれた顔が笑っている。あまりにもこの廃都という場所に似つかわしくない明るさ。
 それにつられるように、周囲にたむろっている連中も同じように声を立てて笑っている。とてもよくありがちなようで、けれどこんな街にあっては信じられないような光景。
 ふと、相手が青い瞳を向けてきた。目が合った瞬間に、相手もまた息を飲んだのが分かった。
 自分を見る多くの人間がそうであるように、その相手もまた、呪縛されたように自分から目を離せなくなったのを感じる。青い瞳が見開かれ、周囲の連中と笑っていたことも忘れたように、まさに魅せられたように凝視してくる。
 気が付いたら、サクは歩き出していた。周囲の音も景色も、何も自分の中に入ってこない。ただ自分を見つめてくる青い瞳だけが、サクの手脚を動かした。
 ​​​──こいつは自分を抱きたがっている。
 言葉も何も必要がなかった。腕を伸ばして、サクは見知らぬ相手にキスをした。それは、初めて自分から誰かに望んでしたキスだった。
 くらりとするほどひどく甘い感触がして、サクはその存在を全身で味わうように、長身の身体を抱き締めていた。
 そしてやはり思った通り、相手もまたサクをまったく拒まなかった。抱き締め返されて、ますます口付けが深くなる。
 甘い。
 キスも身体も腕もすべてがとろけそうに甘くて、頭の先から指先まで痺れるほど気持ちが良くて、サクの唇から熱い吐息がこぼれた。知らず頬に笑みが浮いていた。
 ​​​──こいつになら抱かれてもいい。
 初めてそんなことを思った。見上げた青い瞳を、吸い寄せられるように青空のように綺麗だと思っていた。
「……する?」
 その問いかけは、もはや誘いですら、確認ですらなかった。

栞をはさむ