一章 終の涯(四)

栞をはさむ

「おまえが男だったとはなぁ」
 寝床に起き上がり脇息に凭れた男が、まじまじと夜光を眺めながら、まだ信じがたいように呟いた。
 閉められた障子の外には、もうすっかり夜の帳が降りている。立てた紙燭に灯る明かりの中、男の寝床の脇に正座をした夜光が、くすりと小さく笑った。
「あいすみませぬ。初対面では、間違われることも多いのですよ」
「いや、こちらこそすまなかった。よく見れば着物も男物だしな。それに……その、いきなり無体なこともしてしまった」
 決まり悪そうに目を逸らして、男が詫びる。
 夜光は手元に置いた小さな土鍋から、湯気の立つ雑炊を小鉢に取り分けつつ、覚えのないふりをしてわざと問い返した。
「無体なこと?」
「その。……いきなり、口付けてしまっただろう」
 男はそのときのことを思い出したのか、恥ずかしそうに口許に拳をあてる。その様子が妙に可愛く思えて、夜光は少しからかいたくなった。
 紙燭の仄灯かりの中で、夜光は艶やかに微笑した。
「ああ。構いませんよ、あれしきのこと」
 あまりにあっさりと言われ、男は拍子抜けしたようだった。むう、と考え込むように眉根を寄せる。
「そうか」
「なぜそのような、複雑な顔をなさっておられるのです?」
 小鉢に分けた雑炊を匙でゆっくり回して冷ましながら、夜光は問う。男は難しげな顔をしたまま、ちらりと夜光に視線を投げた。
「いや。意外に気にしていないんだな、と思って」
「怒った方が良かったですか?」
「いや。叱られても文句は言えんが、できるならそれは」
 男の見せるいちいち素直な反応がおかしく、夜光はごく小さくはあったが、しとやかに笑い声を立てた。
「おまえさまが、もしまことの心で私の唇をさらったのであれば、今頃おまえさまはそのようにのほほんとしておれませぬよ」
「うん? それはどういう……」
「さあ。そろそろ良い具合に冷めましたよ」
 夜光は雑炊を匙に掬い、男の口元に運んでやった。
 はぐらかされた男が、差し出された匙と添えられた夜光の手と、それから夜光の顔を困ったように見比べた。
「待て。自分で食べられる」
「そのように、指にまで包帯を巻かれているではないですか。もし間違って器を引っくり返して、布団を汚されては困ります。火傷をして、ますます怪我を増やされても困ってしまいます」
 夜光は匙を差し出したまま、男をじっと見つめる。真面目を装っているが、内心は男が困惑する様子が楽しくて、もう少し困らせたいような心持ちですらあった。
「むう」
 男はしばし眉根を寄せていたが、やがてふぅとひとつ息を吐いた。
「わかった。馳走になる」
「そうなさいませ」
 差し出された匙から、男は諦めたように、ほどよく冷まされた雑炊を口に入れた。と、やけに驚いたように、青みがかった瞳を瞬いた。
「……美味いな」
「あまり胃の腑にはものが入ってないでしょう。急ぐとむせてしまいますから、ゆっくり召し上がって下さい」
「そういえば、昼間も赤い水菓子を置いていってくれたな。あれも甘露かと思うほど甘くて美味かった」
 その味を思い出したように、男が顔をほころばせた。夜光は知らず、受け応える心が凪ぐのを感じた。
「丁度よく熟れたものが手に入ったのです。皆もおまえさまの身を案じているようで、快く分けて下さいました」
「そうか……ありがたいことだ」
 しみじみとしたように男は呟き、そこからはしばらく黙って、口元に運ばれる雑炊を食べた。
 半分ほど小さな土鍋の中身が減ったところで、今はこれ以上はと、申し訳なさそうに夜光に小鉢を下げさせた。
「ふう。腹にものがたまると人心地がつくな」
 男は一息つき、あらたまったように夜光に身体を向け直した。脇息に凭れながらも、上掛けをよけてきちんと寝床の上に座り、膝に手を置く。まだあちらこちら痛むのだろう、動きは緩慢だったが、男は毅然とした眼差しで夜光を見た。
「やこう、といったな。あらためて礼を言う。それから他の者達にも。俺のような素性の知れない者に、よくここまで親切にしてくれた。恩に着る」
 深く頭を下げた男に、夜光もいささか背筋を伸ばし、しかし表情はやわらげたままで首を振った。
「いいえ。ここを訪れた者は、誰もが例外なく客人です。それに、傷ついた者をお助けするのは当然のこと」
 ふと夜光は、男の視線がじっとそそがれてくるのを感じた。深い青みを帯びた瞳に、紙燭の明かりが照り映えている。ほんの一瞬、心の臓がどきりと揺れた。
 穏やかでありながら、同時に強い、印象的な目をしている。真っ直ぐに見つめられると、ふと落ち着かなくなるほどに。
「やこう、というのは、どんな字を書く?」
 訊ねられて、はっと夜光は我に返った。
「……夜の光、と書きます」
「夜の光か」
 言われた言葉をなぞるように、男が繰り返した。夜光を再び見て、にこりと笑う。すると、少年じみた愛嬌が増した。
「美しい名だな。おまえによく似合っている」
「……そうでしょうか」
 名前について褒められたのは初めてだった。夜光、というのは、引き取られたときに長が付けてくれた名だ。大切なものなど数えるほども持っていない夜光にとっては、長との思い出と共に、名前は大切な宝そのものだった。
「おまえさまの名は、なんというのです?」
 そういえば名前を未だ聞いていなかったことに気付き、夜光は問いかけた。
「ああ、まだ名乗っていなかったな。俺の名は葵という」
「あおい」
 今度は夜光の方が、口の中で繰り返した。男──葵は笑い、それで傷が痛んだらしく、笑いながらもやや顔をしかめた。
「向日葵のあおい、だ。名前負けだとよく言われたよ」
「名前負け? 何故ですか?」
「葵といえば、何かこう、気品があってきりりととしたような凛とした趣があるだろう? それなのに俺ときたら、締まりのない放蕩者で、嫁も取らずに遊んでいるばかりだったからな。家宰をよく嘆かせていた」
 苦笑している葵に、夜光は僅かに首を傾げた。肩口につく程度の長さの乳白色の髪が揺れ、襟の陰に細い首筋を覗かせた。
 締まりのない放蕩者、と自分では言っているが、夜光の目からは葵はそういった類いの人間には見えなかった。のびやかさは感じるが、その根には一本通った真っ直ぐさもある。むしろ素直な気性が、人からは愛されたのではないかと思えた。
「……姓は?」
 家宰、という言葉が出るからには、やはりそれなりの上流階級の若君なのだろう。多少の探りをもって問いかけた夜光に、葵は一瞬言葉に詰まった。
「忘れた」
 ややあって、葵は苦笑したままかぶりを振った。
「忘れた?」
「ああ。もう俺にとっては要らないものだ。だから、忘れた」
 あっさりと言い切り、笑いながらも、葵は夜光から目を逸らした。
 ほぼ瀕死の状態で流されてきた、その様子を思い出す。ぼろぼろに傷ついていた甲冑に身体。明らかに「あちら」では身分ある若君なのだろうと確信できる状況でありながら、姓を──「家」を要らないと言い切る。
「……そうですか」
 何か、事情があるのだ。己の帰属する先を抹消せざるを得ないような、答える表情を隠さなければならないような事情が。
 言いたくないのならば無理に聞き出すまいと、夜光は気が付かなかったふりをし、かわりに促した。
「さあ、そろそろ楽になさって下さい。あまり起きていると、身体にさわりますから」
 夜光は上掛けを持ち上げ、葵の肩の後ろに手を添えて、出来る限り痛みを抑えて横になれるよう支えてやった。葵は顔をしかめながらやっと横になると、面目なさそうに溜め息をついた。
「いッ……っつ、……さすがにまだ、けっこうこたえるな」
「当分は仕方がありません。それほどの深手なのですから」
 夜光は上掛けを整えてやり、その枕元に置いてある土瓶と湯飲みを指し示した。
「そこに鎮痛作用のある薬湯がありますから、傷が痛んで寝付かれないときにはおあがり下さい。少しはましになるはずです。私もこの部屋で休みますが、戻るのは遅くなると思います。私に構わず、眠ってしまって下さいね」
 夜光は立ち上がり、事前に運んできておいた布団を、今のうちに部屋の隅に敷き始めた。
 葵がその様子を眺めながら、寝床の中から訊ねた。
「そういえば、ここはおまえの部屋なのか?」
「はい。手狭で窮屈でしょうが、しばらくは我慢して下さい。急なことでしたし、おまえさまもまだあまり動けないでしょうから。一人でも歩けるくらいになったら、他の部屋に移りましょう」
「いや、窮屈なことはない。俺の方こそ邪魔をする」
「いいえ。私も、寝に戻るくらいの使い方しかしていない部屋ですから」
 夜光は自然に微笑んだ。葵がどこの誰であれ、礼と詫びをすんなりと口にできるのは良いことだと思った。
 布団を敷き終え、土鍋の載った盆を取りに葵の枕元まで戻ると、葵は静かな寝息を立ててもう寝入っていた。やはりまだまだ、身体がつらいのだろう。
 意外にその睫毛が長いことに気付く。気力が途切れたような無心な寝顔に、見守る夜光の眼差しがやわらいだ。
 夜光は紙燭の灯りを消し、物音を立てないように、静かに部屋を出て行った。

栞をはさむ