一章 終の涯(五)

 日毎に葵は回復していったが、深い傷がすぐに癒えるわけではなく、手足も萎えているので、まだ歩き回るには支障がある。だが夜光が食事の膳を運んだり、身体を拭いたりするために部屋を訪れると、寝床から這い出して縁側の柱に凭れ、外を見ていることが増えた。
「あまり起き上がっていると、いつまでも傷が治りませんよ」
 湯を張った手桶を抱えて歩み寄りながら、夜光は言った。
「夜光。来てくれたのか」
 夜光を見上げた葵が表情を明るくした。夜光はそのまま部屋に入り、布団の脇に手桶を置きながら答えた。
「いつも来ていないような言い様をなさいますね」
「そ、そんなつもりは。いつも感謝している」
「分かりましたから、早く寝床にお戻りなさいませ」
 少し慌ててむきになる葵がおかしく、夜光はわざと軽口めいた言い方をしながら、寝床に戻る葵に手を貸した。
 この機会に当分座敷は休むことにした夜光だが、あまり何もしないのも落ち着かず、楼閣に飾る花を生けたり裏方の雑事を手伝ったり、舞や管弦の修練の時間を増やすことにしていた。それらをやりながら、厨房の片隅を借りて葵の食事を作り、身のまわりの世話をする。それは思いがけず、夜光にも普段とは違う充実した時間となった。
 まだ湯を使うことはできない葵の身体を、夜光は包帯を換え、傷の具合を看ながら拭いてやる。身体を拭かれている間、葵はまるで大人しい動物のように気持ちよさそうにしているが、夜光がその唇から精氣を吹き込むときだけは、いつも少し慌てた顔をみせた。
「ち、ちょっと待て。その……それは、他のやり方では出来んのか?」
「あいにく存じ上げません。何か問題でも?」
「問題ではないが……その、近すぎて目のやり場に困る」
 至近距離の夜光の瞳を見返す、葵のはっきりとした眦が、困ったように若干あかい。夜光はその若々しく引き締まった頬にふれながら、ふふと笑った。
「でしたら、目を閉じておいでなさいませ。誰も取って喰いはしません」
 構わずに淡い色の唇を寄せ、今にもふれそうな近くから、ふぅ、と体内で練った精氣を吹き込んでやる。夜光自身も多少なりとも疲弊するので、一度に何人も看ることはできないが、一人くらいであれば下手な医者にかからせるよりもこの方が早かった。
 乗り出していた身体を起こすと、葵が目を丸くして夜光を見返していた。結局閉じなかったのか、と思っていると、葵は大きく息を吐いて困ったように笑い、感嘆したように青みがかった瞳で夜光を見た。
「おまえは、まったく……本当に美しいな」
「そうですか。ありがとう存じます」
「人だとは思えんくらいだ。月光を集めて人の姿を取らせたらこうなるんだろうか、と思う」
「私の髪と瞳の色は、おまえさまと随分違いますからね。物珍しさもあるのでしょう」
 夜光は軽く受け流し、手桶に張った湯で手拭いを濯いだ。
「今度は髪も洗いましょう。一人で湯殿に行けるようになるまでは、もうしばらくかかりそうですね」
「そうか……世話をかける」
「死にかけた人間にしては、回復は早いですよ。無理さえしなければ、じきに良くなります」
 そこで夜光は、葵がいつになくじっと自分を見つめていることに気付いた。夜光が縁側を背にしており逆光になっているせいか、いささか眩しそうに目を細めている。
 言葉を選ぶような間の後、葵は心を決めたように口を開いた。
「夜光、教えてほしいことがある。ここは、いったい何処なんだ」
「え?」
「空の色も風の匂いも、俺の知っているものとどこか違う。それに、空を見たことの無い……船のようなものや、大きな生き物がよく飛んでいる。太陽にも、見たこともない虹色の環がかかっている。おまえも、ここは俺のいた場所とはいささか異なると言っていた」
 横になったまま、葵の眼差しが夜光の髪から瞳を辿った。
「おまえの髪も、瞳も、俺の知っている色とまるで違う。ここは極楽ではないらしい、というのは分かった。それならば、いったいここは何処なんだ?」
 葵の問いかけと眼差しを、夜光はすぐには返さずに受け止めた。
 いずれは聞かれるだろうと思っていたが、どう答えたところで葵にとっては衝撃が大きいだろう。まだ身動きはかなわなくても、葵の頭は清澄に晴れている。黙っていても、身体が動けない分だけ、余計に悩み悶々とすることになるかもしれない。
 それならば、そろそろ話しておくのも良いか。どう切り出したものかと、夜光は自分の中で言葉を手繰りながら、畳の上に座り直した。
「……ここが何処なのか。というのは、実を申し上げれば私にも分かりません」
 一呼吸を置いて切り出した夜光に、葵が意表を突かれた顔をした。
「おまえにも?」
「はい。ただ、漠然としたことであれば……ここは『終の涯ついのはて』と呼ばれております」
「ついのはて?」
 夜光の告げた言葉を、葵は繰り返した。夜光はひとつ頷いた。
「終わりの涯て、と書きます。いつから、誰がそう呼んだのかは分かりません。ここには街があって、野山があって、海があって……それだけです」
「それだけ、というのは」
「周りすべてを海に囲まれた、大きな島のようなもの。と申し上げれば分かりやすいでしょうか」
「それではここは、海を渡った異国とつくにというところなのか」
「いいえ。ここはもう、葵殿のおられた場所とは根本的に違うのです。この終の涯のまわりには、ただ海があるだけです。他には何もありません。他の陸地も街も、何も」
「どういうことだ?」
 難解な問題を出されたように、葵が眉を寄せる。夜光はゆるく首を振った。
「私にも分かりません。私がここにきたときから、ここは既にこの状態でした。ですがここには、海の果てや空の向こうから、多くの客人がやってきます」
「客人?」
「ここではない、別の場所からやってくる方々です。そうですね……葵殿の感覚に分かりやすく言うなら、神々、妖怪、物の怪、などと呼ばれる方々が、ここにはおいでになります」
 夜光の言葉を聞くうちに、葵が目をこぼれるほどに見開いた。驚きのあまり咄嗟に声も出ない様子でいるのを、夜光は静かに見返した。
「ここに住んでいる者達も皆、訪れる方々と同じように、人間ではありません。この終の涯は、人間の世界ではない。人ならざる者達の住む街なのです」
「ま、待ってくれ」
 葵が思わずのように、上掛けをはねのけて起き上がった。が、大きく顔をしかめ、呻いて身体を抱え込む。
「葵殿。お身体にさわります」
「神々に妖怪だって? どういうことなんだ。何がなんだか……」
 腕を差し伸べて支えた夜光に、葵が呻くように言った。急に動いたせいで傷に響いたのだろう、額に脂汗を浮かべている。夜光は濯いだ手拭いを手に取ると、額を拭いてやりながら話を続けた。
「蓬莱。あるいは現世うつしよと、葵殿のおられた場所を、こちらでは呼んでおります」
「蓬莱……現世」
「対してこちらは、葵殿のおられた場所からはこう呼ばれているようですね。幽世かくりよ、桃源郷、無何有の郷、華胥の国、ニライカナイ……呼び方は色々あるようですが」
 耳に覚えのある言葉を聞いたせいだろう、葵がますます目を見開いた。そこに頼りなげながら、徐々に理解の色が宿り始める。
「耳慣れん言葉もあるが、聞き覚えたものもある。桃源郷といえば、人には到底行き着けない場所にあるという夢のような幸せのくにだ」
「はい」
 夜光は葵の額を拭き終えると、そのまま座り直し、ひとつ頷いた。
「この世には『境界の狭間』に隔てられた無数の『異界』があります。葵殿のおられた蓬莱も、そういった異界のひとつなのです」
「異界……境界の狭間、とは、いったい何なんだ?」
「異界と異界を隔てる、見えない壁のようなものです。たとえばここの海にただ漕ぎ出しても、どこまで行っても海しかありません。けれど狭間を越える力を持つものであれば、壁を越えて異なる世界へと渡ることができます。逆に、余所からここを訪れることもできます」
「なんと……」
 葵はもう、驚きすぎて言葉も出ないというように、ただ目を丸くしている。夜光は平坦な声音を保って、先を続けた。
「何かの拍子に、特別な力がなくても狭間を越えてしまう者もおります。どうやら蓬莱とここは境が接しやすいようで、昔から時折、葵殿のようにこちらに流れ着く人間がいます。そういった人間を、私達は『マレビト』と呼んでいます」
 葵はぽかんとしていたが、そこで大きく息を吸い込んだ。唸るように呟く。
「……では、俺はここではマレビトと呼ばれるものなのか」
「そうなりますね」
 夜光は少し微笑んだ。葵の動揺や衝撃を、多少なりとも和らげてやるために。
「ここは、来る者は拒まない場所。人であろうと妖であろうと神であろうと、一切の例外はありません。ですから、葵殿も例外ではありませんよ」
 ほとんど呆然と夜光の言葉を聞いていた葵が、やがて長く、深々と息を吐き出した。
「いやはや。驚いたな、まったく」
 まだしも動く左手を持ち上げ、頬に落ちかかる長い黒髪を掻き上げる。まいった、というように、さらにもう一度大きく嘆息した。
「驚いた。いや、ここが桃源郷だというなら極楽と大差ないじゃないか。俺は生きながらにして、とんでもないところに来てしまったようだな」
「葵殿」
 さすがに驚きと衝撃が大きかったのだろう。怪我人に一度に話しすぎてしまったかと、夜光は葵の顔色を窺うように覗き込んだ。
 その視線に気付いた葵が、夜光を見返す。透き通るような紫の瞳を、青みがかった瞳がじっと見つめた。真っ直ぐで歪みのない葵の眼差しに、夜光は思わずほんの少しだけ息を止めた。
「おまえは……おまえも、人間ではないのか? 夜光」
 ぽつりとした問いかけに、夜光の眦が僅かにみはられた。ひとつ息を吸い、静かに吐いて、夜光は静かに微笑んだ。
「このような外見です。人ではありますまい」
「……そうか」
 葵は何かを自分に言い聞かせるように頷く。そこからは顎先に拳を当て、考え込むように黙り込んだ。
 夜光は空気を変えるように、口調をあらためて葵を促した。
「少し長く話しすぎましたね。今は横におなり下さい。まずはお身体を癒やすことが大事です。動けるようになれば、外にも出られます。その目で終の涯の街を見れば、思うところもまた変わりますでしょう」
「うん。少し、横になる」
 言葉少なに頷いた葵を、夜光は手を貸して寝床に伏せさせた。目を閉じて深い息を吐いた葵は、長いこと起きて話していたせいか、顔色があまり良くなかった。
「すまないな。なんだか、ひどく眠くなってきた……」
「それだけお疲れなのです。何もご案じめされますな。ごゆっくりおやすみなさいませ。明日には、もっと身体が楽になっておりましょう」
 声音を落として言いながら、夜光は葵の肩に上掛けを引き上げてやった。
「うん。……ああ、夜光。それから」
 手桶を持って立ち上がろうとしたところで、夜光は葵に呼び止められた。
「はい?」
「礼を言う。驚いたが、合点がいった」
 思いのほか迷いのない声音だった。夜光は頬をやわらげ、小さく首を振った。
「いいえ」
 一言答えて手桶を抱え、立ち上がる。部屋を出る前についと見やると、そのときにはもう、釣る瓶落としのように葵は眠り込んでしまっていた。

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