一章 終の涯(七)

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 その姿がそこに現われただけで、あたりの空気が明るく華やぎ、芳しい花の香さえ漂ったかのようだった。
「お……長様?」
「なんです、二人揃ってそんなぽかんとした顔をして」
 皆から「長」とだけ呼ばれているその人物は、金の花を散らした扇子で口元を隠しながら、やけに茶目っ気のある表情でくすくすと笑った。
「おまえが随分と執心なマレビトらしいので。気になって覗きに来てしまいました」
 そこでやっと夜光は我に返り、慌てて頭を下げた。
「長様、このようなところに……突然のおなりで失礼いたしました」
 完全にかしこまった夜光を、長は「こらこら」と穏やかにたしなめた。
「よその流儀は知りませんが、ここは私の庭。親に対してそう詫びる子がありますか。楽になさい」
「は? 親……誰の?」
 尋常ならざる長の雰囲気と華やかな存在感にすっかり呑まれていた葵が、ぽろりと呟く。夜光は思わず、それを睨みつけた。
「葵殿。失礼でしょう」
 それを見た長が、またほろほろと笑い声を立てた。
「楽になさいと言っているのに。初対面ならば、私を知らぬのも当たり前」
 長は手にしていた扇子をぱちりと閉じて、葵に金色の瞳を向けた。
「初めまして、葵殿。私はこの最玉楼の楼主であり、この終の涯の守護者であり、ここにいる夜光の義理の親でもあります。以後、よしなに」
 歌うようにおっとりと話しかけられた葵が、目を丸くした。
「ここの楼主殿で……守護者で……夜光の、親御殿?」
 呟いてようやく理解したように、葵は飛び上がるように立ち上がった。だが途端、「いたたたッ」と身体を抱え込んでよろめく。夜光も慌てて、それを支えた。
「ああ、もう。何をなさっておいでか」
「す、すまん。その、驚いて」
 あたふたする二人を、長は面白そうに眺めている。葵は夜光に支えられなんとか姿勢を保つと、長に向かってこうべを垂れた。
「ご無礼致しました。こちらこそ、お初にお目に掛かります。見ず知らずの俺に、ここまで何もかも親身に取り計らっていただいたこと、恐悦至極に存じます」
「ああ、堅苦しいのは無しで。座って下さい。私は便宜上ここのお偉いをやっていますが、序列などをどうこう言うつもりはないのです。自然にしていて下さるのがいちばん良い」
 長は軽く手を差し上げて葵を制した。その落ち着いた仕種のいちいちや、長く流れる髪の一筋から着物に生じた皺や影のひとつまでもが、天人画の如く匂うように美しい。
 促された葵は、戸惑いながらも再び石の椅子に腰を下ろした。夜光は立ったまま、傍に控えた。
「あなたのことは皆にもよく言い含めてはありますが、何か不自由はありませんか?」
 気さくに話しかける長に、葵は若干緊張した面持ちながらも、肩の力を抜いて笑顔を見せた。
「身のまわりのことは、夜光にも他の方々にも、不自由どころか充分よくして頂いております」
「そうですか。それならば良かった。……おや」
 笑んで頷いた長が、そこでふと、何かに気が付いたようにまじまじと葵を見下ろした。不躾なほどの眼差しに、葵がやや戸惑った。
「な、何か?」
 葵をじっと見つめていた長が、ふっと、紅い刺青の入った眦を笑み細めた。金色の瞳を悪戯っぽくきらめかせ、爪の先まで磨かれて手入れされたなよやかな手を、葵の頭上にかざすように差し伸ばした。
「ここではそのようなまやかし、要りますまい」
 そう告げた長の手が、葵の髪を頭頂からなぞったかに見えた、その刹那。
 長く背に垂れていた葵の黒髪が、ふわりと風に煽られたように揺れた。何事かと思う間もなく、長になぞられた黒髪が内側からまばゆい輝きを発する。
 葵は驚いて目を瞑り、ふたつ程度の呼吸の後、おそるおそる瞼を開いた。はらりと、頬から落ちかかった自らの髪が視界に映る。それを見た葵は、青みがかった瞳を見開いた。
「……え」
 ──陽光に照り映えるあけの色。
 葵は自分の髪を両手で掻き上げるようにし、指に絡まり梳いたその色彩をまじまじと見た。何度見ても、確かに黒かったはずの髪が、透けるようなあかい色に一変していた。
 見ていた夜光も、驚きに目を丸くしていた。どうしたからくりなのか、長が葵の髪を撫でるようにした途端、葵の長い黒髪の上に光が走り一瞬のうちに朱い色に変わってしまったのだ。
 しかしそんな不思議を起こした長は、事も無げに笑った。
「まるで夕凪の空のような色ですねぇ。その方が似合っておりますよ、人の子」
「い……いったい、あなたは何を……?」
 葵が茫然と見上げるのを、長は柔らかな眼差しで受け止めた。
「蓬莱にあったときは、その姿のせいで苦労もしたのかもしれません。ですが、ここではありのままの姿でいて良いのです」
「…………」
 葵は沈黙する。その言葉なく揺れる瞳に、長は僅かに哀れむように、言葉を重ねた。
「もしあなたが本当に望むのであれば、二度と落ちない闇夜の色に染め変えて差し上げましょう。ですが、そのままでしばらく過ごしてみるのも悪くないと思いますよ」
「……わかり、ました」
 葵がうつむき、頷いた。その横顔に、長い朱色あけいろの髪が落ちかかった。
 長はそれを穏やかに見下ろし、もう一度微笑んだ。
「葵殿。夜光は私よりもずっと心配性です。気持ちがはやるのも分かりますが、あまり気を揉ませないようお願いしますね」
 そう言い置くと、長はついと視線を夜光に巡らせた。
「ところで。顔色が良くありませんねぇ、夜光」
 するりと柔らかく入り込むような声音に、夜光は反射的に背筋を伸ばした。
「そ……そうでしょうか」
 長は夜光に歩み寄ると、その頬にやんわりと触れ、確かめるように撫でて指を離した。
「頬の色が随分くすんでしまっています。可哀想に。何か良くない夢でも見ましたか?」
 良くない夢、と言われ、少しどきりとした。確かにここのところ、夢見はあまり良くない。はっきりと昔の夢を見たのは数日前の一度きりだが、あれ以来あまりよく眠れないし、寝覚めも不快だ。
 長に心配や面倒をかけたくないと思うのと裏腹に、気付いてくれたと、思わず心が緩む。どうにも暗く濁って晴れなかった澱みが、すべてを見通しているような長の言葉と眼差しだけで、優しく洗い流されてゆくように感じる。
「……大丈夫です。お気遣いありがとうございます、長様」
 夜光がお辞儀をすると、長は微笑と共に艶のある花の香をふんわりと残し、淡紅藤色の長衣の裾をひるがえした。
「あまり無理をするのではありませんよ。それでは、私はこれで。邪魔をしましたね、二人とも」
 長は訪れたときと同様、垂れ下がる雪柳の幕の向こうに、優雅だが捉えどころのない微風そよかぜのように歩み去っていった。

 長が姿を消しても、まだしばらくあたりに華やかな花の香が残っているようだった。夜光と葵は思わず揃って、息を吐き出した。
「……なんというか。すごい雰囲気のある御方だな」
 葵がやっと夢から覚めたような顔で、長の消えた方角を見やった。
「終の涯のしきたりを作った守護者、ということは……つまり今の御仁が、ここの頭領なのか?」
「はい。皆は、長、とだけ呼んでおります」
「お名前は?」
 夜光は緩く首を振った。
「さあ、聞いたことがありません。皆、長とだけ。ここでは、長と言えば長様のことですから」
 答えながら、夜光はあらためて葵を見た。ここ数日で見慣れていた黒髪が、美事な朱色の髪に一変している。
 まじまじと見ていたせいで、葵が苦笑じみた顔で夜光を見上げた。
「騙していたわけではなかったんだがな。驚いたか? なぜ長殿には分かったんだろう」
「正直、少し驚きました。……長様はなんでもお見通しですから」
「なんでもお見通しか。あの御方の前では嘘はつけない、ということだな」
 冗談めかして葵は言い、しかしその表情はいつになく精彩を欠いていた。
 夜光がもの言わず見つめると、葵は自分で確かめるように長い朱の髪を掻き上げた。
「これは生まれつきなんだ。なぜか生まれたときから、俺はこんなおかしな髪だった」
「マレビトには珍しい色ですね」
 はは、と葵は笑った。
「珍しいどころか。こんな朱い髪なんぞ、俺は他に誰も見たことがない。言い伝えに聞く恐ろしい鬼そのものじゃないか、と言われていたよ。それで昔から、俺は鬼子と呼ばれていた」
「鬼子、ですか」
「ああ。それで、むやみに恐がる者も少なくなくてな。いつの頃からか、髪を黒く染めるようになった」
 夜光は首を傾げながら、葵の言葉を聞いていた。
 透けるような朱色は、確かにマレビトらしからぬ色彩だった。だが、混じり気のないそれはとても綺麗だ。その青みがかった瞳とあわせて、まるで夕暮れの色彩と夜明けの群青を、ひとつ身に持っているかのような。
「……別に、おかしな髪ではないと思います」
 言うと、葵が不意を突かれたように見上げてきた。夜光は葵を見つめながら、続けた。
「確かにマレビトには珍しい色かもしれませんが。でも、綺麗な色です。黒髪よりも、葵殿には似合っていると思います」
 葵は夜光を驚いたように見上げていたが、やがてその頬がやわらいだ。朱色の髪に彩られた顔が、どこかほっとしたように、真っ直ぐに夜光を見たまま笑みを刻む。髪色のせいなのか、葵が笑うとあたりの明るさが増したよう気がした。
「そうか。おまえが褒めてくれるのなら、そう捨てたものじゃないな」
「ほ……褒めたわけではありません」
 そう言われると、照れくさいような決まりが悪いような心地になり、夜光はついと横を向いた。葵は気を悪くしたふうもなく、軽い笑い声を立てた。
「おや、それは残念だ。だが、俺は嬉しかったから覚えておくとしよう」
「勝手になさいませ。──さあ、そろそろ戻りますよ。お疲れでしょう。いつまでも外にいたら、身体も冷えてしまいます」
 夜光は殊更つっけんどんに言い、有無を言わせず葵に手を貸した。
 葵は上半身だけでなく、左脚にもかなり大きな傷を負っているから、一人で立ち上がることが難しい。葵の腕の下に肩を入れ、顔をしかめながら立ち上がるのを手伝ってやり、肩を貸したそのまま部屋に歩き出した。
「──夜光」
 ゆっくり歩いていきながら、葵が切り出した。夜光を見ることはせず、半ば独白のように。
「いつか、おまえに聞いて欲しい。俺のこれまでの話を……構わないだろうか」
 その言葉を聞きながら、夜光が見付けたときの葵の姿がふと脳裏をよぎった。いかにも身分ありげでありながら、瀕死の状態に追い込まれ、蓬莱からこの終の涯に流れ着いてきたマレビト。鬼子と呼ばれていたその過去に、あの姿は関わりがあるのだろうか。
 そのとき不意に、夜光は気付いた。
 ──帰れるのかと、葵は一度も訊いてこない。
 今頃かもしれない。それくらい葵は、これまで蓬莱のことを持ち出そうとしなかった。
「……よろしいですよ。その気になったら、いくらでもお話し下さい」
「頼もしいな」
「聞いて差し上げるだけです。それ以上のことは、私には何も出来ませんから」
 夜光が念を押すと、葵は笑った。
「分かっている。それだけで充分だ」
「……はい」
 夜光はそれ以上は口を閉ざした。なぜだか妙に、この空気を壊したくないような気がした。
 葵に肩を貸したままゆっくりと歩き、縁側を上がり、部屋に着く。寝床に横になった葵が目を閉じるのを確認してから、夜光は部屋を出た。
 障子を閉めかけた縁側から、寝床に横たわった葵を見つめる。
 思えば突然蓬莱からここに流されてきたわりに、葵は比較的動揺が少なかった。帰りたくないと思っているのか、何か他の考えがあるのか、それは分からない。なんであれそれらは、そう簡単には口にできないほど複雑にもつれた事情なのだろう。
 葵の朗らかな笑顔を思い出す。あの笑顔の翳にある、秘められた物思いを知りたいような気がした。葵の考えていることを聞いてみたい。鬼子と呼ばれて朱の髪を黒く染め、日々の果てに瀕死でこの終の涯に流れ着くことになった、その理由に近付いてみたい。
 葵の笑顔を思い出すと、なぜだか少し胸の奥が切なくなった。
「……ごゆっくりおやすみ下さいませ」
 夜光は心から言うと、静かに障子を閉めた。

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