一章 終の涯(八)

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 次第に身を起こしていられる時間が増えてきた葵は、むやみに歩き回らないことの代わりに、暇つぶしに書物を所望した。
 蓬莱の文字と終の涯で使われている文字は似通っている部分も多く、何より文法が共通している。マレビトである葵は完全にはこちらの文字を読むことができないが、夜光に訊ねながら、前後の文脈から見当をつけながら、少しずつ学びながら書物を読み進めていた。
 この終の涯について記した書物を、葵は特に熱心に読む。脇息や文机に凭れ、傍らに用意した紙に覚えたことを書き付けつつ読み進めていく、その読解力と飲み込みの早さに、様子を見ていた夜光は感心していた。
 そんなある日、夜光が一息つこうと湯の入った土瓶と抹茶椀を持って部屋に行くと、葵しかいないはずの部屋の中から賑やかな声がした。
「うーん……これは何と読む?」
「どれ? ああ、これはねぇ」
「ふむふむ。では、これはどういう意味だろう?」
「えっと、どれどれ。んーと、これはね……」
 小春日和な陽気は肌に優しく、部屋の障子は縁側に向けて大きく開け放たれている。
 夜光が部屋の前に着くと、葵と一緒になって、赤と青の小さな小鬼達が、広げた書物を覗き込んでいた。
「あ、やこうー。おかえりなさぁい」
「おかえりぃ、夜光」
 火月かげつ水月みつき、という名のあどけない双子の小鬼は、縁側の夜光を振り返って紅葉のような手を振った。大きな瞳が、どちらもぱっちりと愛らしい。当たり前のような顔で二人の小鬼と一緒にいた葵も、書物から顔を上げた。
「おかえり、夜光」
 いつの間に仲良くなったのだろう、と思いながら、夜光は部屋に入った。
「休憩に戻りました。知らぬうちに随分親しくなっていたのですね、おまえたち」
 やんちゃな盛り、という外見の火月と水月は、夜光と同じくらいの時期に長に拾われた鬼火の妖だ。夜光同様にこの最玉楼を住まいとし、気ままに雑務などを手伝いながら過ごしている。
「だって、葵を見つけたのは僕らだもん。どうしてるかなぁって気になったもん」
「そうそうー。あのときはホントに心配したしさ。元気になって良かったねぇ、葵」
 ちょこんと葵の両脇に座った火月と水月は、元々人なつっこい性分なのも手伝ってか、いつの間にか葵とすっかり打ち解けている様子だった。葵も笑って頷いている。
「ああ、二人が見付けてくれたおかげだ。もうじきに起き出せるようになるぞ」
「えへへ。ねえねえ葵、今度一緒に遊びにいこう? 僕らが終の涯を案内してあげるよ」
「さんせーい!」
「あまり動くと、すぐ傷口が開きますよ。出歩くのはまだ少し待ちなさい」
 夜光は座卓に盆を置き、腰を下ろしながら、葵と二人の子鬼をじろりと見やった。
 葵の負った傷は浅いものではなく、長く水に浸かり体温と体力を奪われたこと、出血が長時間に渡ったこと、何より傷を負ってから時間が経っていたことで、あと少し手当てが遅ければ命を落とすところだった。体力はゆっくり回復しつつあるとはいえ、元通り動けるようになるには時間がかかる。それに夜光の手当ては、劇的な癒やしの力を持つわけではない。傷はひとまずふさがりつつあるが、無理に動けばどうなることか目に見えていた。
「えー。つまんなーい」
「夜光、おっかなーい。せっかくヤサシイ顔してるのにぃ」
 火月と水月がぷうっと頬を膨らませ、夜光がさらにそれをひと睨みした。
「葵殿のお身体は、妖とは違うのです。一度弱ったお身体を元通りにするのにも時間がかかる。せっかく良くなってきたものを無理をすれば、またつらい思いをするのは葵殿なのですよ」
 子鬼達が不承不承に「むー」と口を閉じ、葵が苦笑した。
「二人とも。俺が動けるようになったら、そのときは案内を頼めるか。俺もこの終の涯という場所を見て回りたい。できれば、夜光も一緒に」
「私もですか」
 物入れから茶筅や茶入れを取り出し、抹茶を濾していた夜光は、その手を止めて葵を見た。
「うん。どうせなら、人数が多い方が楽しいだろう?」
「それは構いませんが……」
「夜光もいっしょなの? っていうか、それならむしろ僕らは遠慮するよ?」
「そうだねー。僕らもそこまで無粋じゃないよねえ」
 やりとりを聞いていた火月と水月が、それぞれ茜と氷雨の色をした瞳を見合わせ、意味ありげに頷き合った。
「何の話です、おまえたち」
 夜光がまた二人の子鬼を睨み、葵が目をぱちくりさせる。火月と水月はくすくすと含み笑い、と思うと、ぱっと立ち上がった。
「なんでもないよぉーだ。それじゃあ僕らもおやつの時間だから、そろそろ行くね。葵、また来るねぇ」
「早く元気なってね。じゃないと一緒に遊べないからさ」
 それじゃまたねぇ、と、二人の子鬼達は連れ立って賑やかに立ち去っていった。元気良く小さな手を振って去ってゆく二人に、葵も笑って手を振り返していた。
 夜光は溜め息交じりに手早く二人分の茶を点てると、盆に抹茶碗をふたつ載せ、脇息に凭れた葵のもとに運んでいった。
「あの者達がすみません。騒々しくてゆっくりお休みになれなかったでしょう」
「いや、むしろ大助かりだ。俺一人では、やはりまだこちらの書物を読むのは骨が折れる」
「それならば良いのですが」
「あの二人は、見かけによらず大変な博識なんだな。こちらのことを教えてもくれるが、俺のいた方についてもいろいろと話してくれる。俺でさえ知らないような話ばかりで、興味深かった」
 葵の言葉を聞きながら、夜光は畳の上に正座をして香り良いお茶を一口含む。葵も抹茶碗に手を伸ばし、美味そうに口に運んだ。
 終の涯の茶は、多くがよその異界から持ち込まれたものだ。それらには多くの種類があり、蓬莱の抹茶は風味と香りの良さから妖達にも人気があった。
 煎じ茶と違い抹茶は少し手間がかかるが、終の涯には湯の冷めない容器やら便利な道具があるから、ただ点れるだけであれば案外と簡単にできる。夜光自身も嫌いではなかったので、抹茶や簡易的な道具を揃えて、葵には蓬莱の茶を出すようにしていた。それは葵にとって、心落ち着く味なのではないか、と思うからだった。
 庭先では小鳥が鳴き交わし、枝葉を透かす春陽が縁側に斑の影を作っている。柔らかい光は、葵の右肩の上で軽く結われた長い朱色の髪をふんわりと照らしていた。茶の香りと空気の穏やかさに、夜光の気持ちも自然と和んでいた。
「あの二人は、この終の涯の外にもよく遊びに出かけますから。あれで齢も、おまえさまよりずっと重ねているんですよ」
 茶を飲んでいた葵が、夜光の言葉にむせかかった。
「なんと。あれでか?」
「はい。妖の多くは、ある程度育つと外見の成長は止まります。完全に止まるわけではありませんし、個体差もありますが。それから、好んで特定の姿形を取る者もいます。妖には、外見と実年齢とはあまり関係がないのですよ」
「な、成程……そういうものなのか」
 葵は腕組みし、何やら夜光に胡乱げな目を向けた。
「ということは、おまえの歳も実は俺より上だったりするのか」
 夜光と葵は、外見は同じくらいの年頃に見える。人間であれば二十歳前後。背丈は、葵の方がいくらか高い。身体つきは、葵は今は随分痩せてしまっているが、それでも夜光よりは関節や筋肉の付き方がしっかりしている。
「私も、おまえさまよりは長く生きておりますね」
 夜光はお茶を飲みながら、あっさりと答えた。
「どれくらい長く?」
「さぁ。数年か、十年か。それとも二十年、三十年か」
 からかうような笑みを含んだ夜光に、葵は不満そうに口を尖らせた。
「どうしてそうはぐらかす」
「はぐらかしてなどおりません。ご想像にお任せする、というだけです」
「それをはぐらかすと言うんだ」
「おや、そうでしたか。あいすみませぬ」
 葵が素直に反応するのが楽しくて、夜光はつい、ことあるごとに葵をからかいたくなる。小さく笑ってから、夜光は言葉を続けた。
「齢は重ねていますが、おそらくおまえさまと感覚はそう隔たってはおりませんよ。人と妖とでは、そもそも時間の流れが違います。数百年は当たり前に生きる私達に比べて、人間達の寿命はとても短く儚いもの。むしろ葵殿の方が、私から見ればひどく生き急いでいるように感じます」
「ふむ……」
「それに実を言えば、私も自分の年齢を正確には知らないのですよ」
 難しい顔をしていた葵が、その言葉に「え?」と夜光を見た。
「私は、自分の本当の親も知りません。物心つく頃には既に独りでしたから。それを長様が、この最玉楼に……養子にと迎えて下さったのです」
 穏やかに語りはしたが、昔のことを思い出すと、どうしても心の奥がざわついてくる。自然、これ以上は話したくないという空気を醸し出していたのだろう。葵は夜光を見つめてはいたが、そうか、と言っただけで、それ以上は取り立てて何も訊ねてこなかった。
 そのかわり、葵は空気を変えるように他の話題を振ってきた。
「ああ、そういえばな。さっき初めて表側をちょっと覗いてみたんだが、仰天したぞ。まったく、ここは目もくらむような豪華絢爛さだな」
「表に行ってみたのですか?」
 表側、すなわち楼閣側。そちらを覗いたということは、最玉楼にいる多くの妖達も見かけたはずだが、葵がそこに動じているふうはなかった。夜光に長、火月に水月。その他この部屋の周囲で出会う「人ならぬ者達」に接するうちに、葵もだんだん順応し始めているのかもしれない。
 葵はお茶を飲みながら、満開の白木蓮が見える庭先に目を向けた。
「こちら側は、あまり俺のいた場所と変わりないが。表側はどこもかしこも花であふれていて、柱にも床にも彫り物がされて、玉が嵌まっている。何もかもが、俺の育った館なんぞとは比べものにならん。その上、建物が幾重にも重なっている。そもそも、どこまでがここの敷地なのかも分からん」
「ここは、終の涯で一番大きな楼閣ですからね」
「ほほう。長殿が住まわれているだけに、ただならぬ御殿なのだな」
「いえ。長様はこちらの楼閣とは別の、離れの小御殿で過ごしておいでです。この最玉楼は、大きな妓楼なのですよ」
 葵が目を丸くした。
「なんと、妓楼なのか。さすが、人ならぬ者達の造るものは規模が違うな」
 終の涯の街の北側には広大な歓楽街が広がっており、その入り口には朱塗りの円柱に色とりどりの彫刻が施された絢爛な櫓門がある。その櫓門を抜けて目抜き通りを真っ直ぐに行くと「花街」と呼ばれる一角があり、そこにはいくつもの妓楼があった。
 最玉楼は、それらの中でもひときわ大きな妓楼だ。『花』と呼ばれる娼妓や男娼達の他、様々な遊びや歌舞音曲に秀でた沢山の芸子達がいる。妖力が増し身体に素晴らしく良いと評判の湯が湧き、のんびりと湯治をして過ごすこともできる。妓楼という枠にとどまらない、巨大な娯楽施設でもあった。
「この終の涯を訪れる方々は、この最玉楼で遊ぶことを目的としている方も少なくありません。様々な異界から、毎日それはたくさんの妖や神々がいらっしゃいます」
「ほほう……やはり妖や神々も、よそに遊びに出歩いたりするんだな」
 面白げに感心したふうの葵に、夜光は頷いた。
「この終の涯には、特に。この終の涯は、親和と遊興の街として広く知られているのですよ」
 終の涯は来るものは拒まないが、長の意向よって、争いごとの一切を持ち込むことが禁じられている。終の涯の外で行なわれている如何なる争いごとに対しても中立を維持し、個人間の小さな小競り合い程度ならまだしも、街の平穏を乱そうものなら、問答無用で衛士に摘まみ出される。
 美しく実り豊かなだけではなく、その群を抜いた平穏さから、終の涯には多種多様な妖達が集まってくる。それと共に、様々なものが終の涯を経由して異界中に流通してゆく。その循環で終の涯はますます賑わい、いつしか様々な妖や神々が隔てなく群れ集う、多くの異界の中でも類を見ない街となった。
 葵はすっかり感じ入ったように、ほう、と大きくひとつ嘆息した。それから視線をうつむけて、独り言のように言った。
「たいした話だな……争いごとを持ち込まない、か。俺達人間には、そんなことは出来たためしがない。まさか妖達の世界で、そんなことが可能だとはな」
「昔は、この終の涯にもいろいろあったようですが。今はここにいる限りは、たとえば本来はどれほど仲の悪い異種族間であろうと、争うことはありませんね」
「なるほど。だから人間である俺のことも、客人マレビトと呼んでもてなしてくれるのか」
 合点がいったというように、葵が頷いた。
「それで、桃源郷か。納得した。確かにこちらは、俺達人間にとってはまさしく夢のような場所だ。あちらは、ここのように豊かでも平穏でもない。……争いごとや憎しみの絶えない場所だ」
 どこか重い諦めを含んだような葵の呟きに、夜光はふと、鎌をかけてみたくなった。
「流れ着いたマレビトの中には、蓬莱に帰った者もおりますから。きっとその者達が、こちらのことをそのように伝えたのでしょうね」
 はっとしたように、葵が目を上げた。青みがかった瞳が夜光を見つめ、驚いたように、そして苦しげに翳った。
 今まで見たことの無いその表情を夜光が確かめるより先に、葵は再び逸らすようにうつむいた。
「……マレビトが帰ることは可能なのか? あちらに」
 何かを押し殺すような、低い声。
 夜光はあえて声音を変えず、表情も変えず、頷いた。
「はい。ただし、簡単ではありませんが。大抵の妖は、自分一人であれば異界の境を越えることはたやすい。でも、他人に境を越えさせることはできません。それができるのは、特別に妖力の強い御方……たとえば長様です。長様に頼めば、葵殿を蓬莱に帰して差し上げることは可能です」
「……帰れるのか。俺は、向こうに」
 うつむいたままの葵の手が、凭れた脇息を握り込むように掴んだ。朱色の髪が長く落ちかかり、その表情は見えない。ただその指には、白くなるほど力がこめられて、かすかに震えていた。
 夜光はそれを見つめながら、ふと切ないような気持ちに襲われた。どうしてか、続く言葉を言いたくない。でも、葵のためには言わないわけにはいかない。
 複雑な物思いを抑えながら、夜光は静かに続けた。
「帰れますよ。傷が治ったら、葵殿がお望みであればそのように取りはからいましょう」
「…………」
 葵はうつむいたまま、何も言わない。庭に響く雀や鶯や柄長エナガの囀りを、夜光もまた何も言わず聞いていた。
「……そうか。わかった。すまないが、少し一人にしてくれないか」
 やがて葵が、夜光を見ようとはしないまま言った。その声音だけは、不自然に明るかった。
 夜光はしばらくじっと葵をみつめていたが、やがて小さく息を吐き、からになった抹茶碗を盆に載せて立ち上がった。
「分かりました。それでは、私は稽古に戻りますね。葵殿は、読書もほどほどに。また後ほど参ります」
 盆に一通り洗い物を載せて縁側に出たところで、夜光はふいに呼び止められた。
「夜光」
「はい?」
「……ありがとう」
 葵の顔は、相変わらず朱の髪に遮られて見えない。
 夜光は少しだけ微笑み、小さくお辞儀をして、部屋を後にした。


 夜光が箏の稽古を終えて部屋に戻ったときには、空にうっすらと黄昏の気配が広がりつつあった。
 部屋の障子は閉められている。やすんでいるのかもしれないとそっと障子を開けてみると、部屋の中に葵の姿はなく、しんと静まり返っていた。
 寝床はもぬけのからになっている。手水ちょうずにでも立ったのだろうかと思ったが、すぐにそうではないことに気が付いた。
 布団の上掛けが、きちんとたたまれている。寝床のしわも、出来る限りのように伸ばされている。
 またどこかを歩いているのだろうかとも思ったが、そのいつになく几帳面な寝床の様子が気になった。
「葵殿?」
 縁側に出て、あたりを見回してみる。のどかな鳥の囀りが聞こえる中、夜光は風に流される乳白色の髪を押さえながら眉をひそめた。
「葵殿……?」
 まさか。妙な胸騒ぎを覚え、部屋の中に取って返す。
 部屋の隅の櫃には、流されてきたときに葵が身につけていたものをまとめて入れてあった。櫃の蓋を開け、ぼろぼろではあるものの綺麗に洗ってある着物や甲冑を、夜光は一つずつあらためてゆく。
「……匕首あいくちがない」
 葵が唯一身につけていた武器。懐深くにあったせいか、それだけは傷一つなく刃も欠けていなかった。それが無くなっている。
 ここに身につけていたものの一式をしまってあることは、葵にも伝えてあった。葵のものなのだから、ここから葵が何を持ち出そうと問題はない。
 だが、なぜ匕首だけが無くなっている。
「まさか、葵殿」
 顔色を失って、夜光は立ち上がった。

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