二章 月の魔性 (三)

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 華陽山は今の季節、山全体が満開の桜に染まっている。山から吹く風に、花吹雪が船を巻き込んで空を舞う。近付いてくる桜色の山に、屋形船に乗り合わせた者達から歓声が上がった。
 やがて何事もなく、船は船着き場に滑り込んだ。降りてゆく者達の歓声と花吹雪の中、葵達も舷梯を渡り、船着き場に降りた。
「すごいな……山全体が桜一色だ」
 船着き場を歩くうちにも、桜の花びらがおびただしくあたりを舞っている。火月と水月がきゃっきゃと嬉しそうに、くるくると踊るようにはしゃぐのを見ながら、夜光が言った。
「なかなか美事でしょう。少し行った先に、見晴らしの良い部屋で食事が出来るところがあります。そこでお昼にしませんか」
「ごはん? ごはん、たべるっ」
「おなかすいたー。ごはんごはんっ」
 火月と水月が瞳を輝かせて飛び跳ね、葵も笑って頷いた。
「案内してもらえるか。俺も腹が減った」
「では、参りましょう。火月と水月は、一緒に来たければもう少し静かにするように」
 夜光に言われた小鬼達がしおしおとおとなしくなり、その後ろに笑いをこらえながら、葵も続いた。

 じきに見えてきた食事処は茅葺きで、あまり大きくは無いが雰囲気のある佇まいをしていた。料亭というより、小料理屋といった風情だ。
 昼時とあってかなり混み合っていたが、夜光の姿を見た三ツ目の女将おかみが「これは夜光さん」と笑顔になり、一行は奥の座敷に通された。
 窓からは満開の桜と、遠くに広がる終の涯の街が眺められた。床の間には桜の枝が生けられ、部屋の隅には行燈が置かれている。
 こちらに来て葵がその豊かさを実感することのひとつが、こうした居室にはどこもきちんと畳が敷かれていることだ。葵のいた「あちら」では畳は高級品であり、いくらか豊かな者であれば寝間の寝床に敷ける、というくらいの代物だった。
「良いところだな。ここにはよく来るのか?」
 荷や笠を解いて、脇息の添えられた座布団に各々落ち着いてから、葵は夜光に訊ねてみた。斜向かいに座った夜光は、色の淡い唇の前に白い指を一本立て、小さく笑った。
「内緒ですよ。ここは落ち着くので、気疲れしたときなどに時々ひとりで来るのです」
「そうか。最玉楼の格式なんて俺にはよく分からんが、まあ……華やかではあるが、気苦労も多いだろうな」
 夜光は立ち居振る舞いが、自然に身についたもののように静かで、しとやかに洗練されている。直接見聞きしたことはないが、舞や管弦もよくするようだ。夜光を見ていれば、それから葵に対する最玉楼の従業員達の行き届いた対応を見ていれば、最玉楼の格式の高さも自ずと知れるように思った。
「それは、色々なお客様がいらっしゃいますからね。楽しくもあり、日々勉強にもなります」
 言いながら、夜光の白い指が運ばれてきた盆から抹茶碗を取り上げる。一口含み、その紫の瞳がやわらいだ。
「美味しい。やっぱり、蓬莱のお茶は風味が良いですね」
 それを見て、葵も抹茶碗を取った。夜光と葵それぞれの隣にちょこんと座っていた火月と水月も、それを見て真似をするように抹茶碗を取った。
 ほどよい熱さの茶を含むと、爽やかな苦みとほのかな甘みが口に広がり、自然と葵の表情もなごんだ。
「うん。美味い」
 葵にとっては、生まれ育った国でよく親しんでいた味だ。蓬莱の茶は、こちらでも人気があるという。もうあちらには戻れなくても、こうしてあちらの味に親しむことはできる。それはささやかだが、胸に暖かく沁み入ることだった。
「夜光、あらためて礼を言う。本当に世話になった」
 茶を飲みながら、夜光が見知らぬ葵に対してどれほど親身に世話をしてくれたのかを思い起こした。最玉楼で葵に出される茶は、今でこそこちらの茶もあるが、当初は必ず蓬莱の茶だった。
 夜光は終始嫌な顔ひとつせず、不自由な葵の身の回りの世話をしてくれた。いくらしきたりだといっても、そこまでしてくれるのは余程のことだろう。まして夜光は、幼い頃の経験から、本来人間を嫌っているのだ。
 夜光は緩く首を振った。
「いいえ。私も、葵にお付き合いするのは楽しかったです。良い息抜きにもなりました」
「そうか」
 そのうちに料理が運ばれてきて、自然に会話が途切れた。
「わぁい。いただきまーすっ」
「おいしそー。いただきまぁす」
 運ばれてきた膳を前に、二人の小鬼が歓声を上げる。葵も小さく頭を下げ、箸を取った。
「では、馳走になる」
「どうぞ。ここのお膳は、蓬莱ふうのお料理が多いんです。ここの女将さんが蓬莱贔屓で」
「ああ。それで、このお茶も」
「ええ。妖の中には、けっこう蓬莱好きは珍しくないのですよ」
 彩り良く膳に並んでいる料理は、葵の目からは随分豪華なものに見えた。まず白米がとても美味いし、味噌煎りや煮付け、汁物には、茸や野菜ばかりでなく肉や貝も使われている。それらの食材や味付けは、何を使っているのか葵にはいまいち分からないものもあるが、いずれも味は悪くない。炙り焼いた魚にはよく脂が乗っており、旨味のある塩がとてもよく合っていた。
「あちらふうとはいっても、正直料理はこちらの方が美味いな。食材が豊富なのもあるかもしれん」
「蓬莱には、船や車がありませんからね」
「空を走るようなものはないな。あれば、あちらでももっと美味い飯を食いやすくなるんだろうが」
 ──こちらの料理の方が豪華で美味だと分かっていても、それでもむこうの質素で素朴な食事の方を、きっと自分はこの先ずっと懐かしむのだろう。そんなふうに思った。
「ああ、でも。お茶の他にも、蓬莱のもののほうが人気があるものもありますよ」
 箸を進めながら、夜光が思い出したように言った。火月と水月はすっかり食事に夢中で、いつになくおとなしいが、どうやらあまりうまく箸を使えないようだ。葵は時々箸を取り落としたりする小鬼の面倒をみながら、夜光を見返した。
「茶の他にも?」
「お酒です。じっくりと醸した蓬莱のお酒は、とても味が良いので。なかなか高価ですけれどね」
「酒か」
 言われて、もう久しく酒を呑んでいないことに思い当たった。酒豪というほどではないが、あちらにいた頃、酒はよく呑んでいた。市井の者達と打ち解けるための材料として、酒はどんな言葉よりも手っ取り早かった。
「……懐かしいな。機会があれば、また呑みたいものだ」
「ここにも、蓬莱のお酒は置いてありますよ。少しいただきますか?」
「いや。そんな高価なものは、さすがに申し訳がない」
 葵はまだ、こちらでの金銭を一切持っていない。何かあった時のためにと最玉楼からいくらか預けてもらっているが、それは葵の金ではない。
 何もかもを最玉楼と夜光の世話になっている上に、こうして出かける費用も、すべて夜光持ちだ。そこにきて、こちらでは高価な酒が呑みたいなどというのは、さすがに気が引けた。
 それを察したのか、夜光が提案した。
「最玉楼でなら、お客様用のものを分けてもらえますよ。今度、花見酒でもいたしますか」
「しかし高価なんだろう? いくらなんでも、そこまで甘えるわけには」
「そう毎度では、さすがに怒られてしまいますが。少しくらいなら大丈夫ですよ。何しろ葵は、長様のお墨付きのマレビトなんですから……こら、火月。自分で食べなさい」
 途中から夜光が言ったのは、火月があーんと開けた口に、葵が煮物を入れてやるのを見てのことだった。箸をうまく使えない火月が、しまいにはつぶらな瞳で葵を見上げながら、あーんと口を開けて催促し始めたのである。
「だってぇ」
 もごもごやりながら、火月が夜光を上目にする。
「だって、じゃありません。葵も、あまり甘やかさないでください。放っておけば、その子達はなんとでもしますから」
 ぴしりと言われ、葵までなんとなく恐縮してしまった。
「そ、そうか。分かった」
 その様子に、夜光がふと、瞳を細めるようにして笑んだ。
「その二人は、甘えられる相手には徹底して甘えるんです。その見るからにいとけない、愛らしい外見を利用してね。葵は、見事にその手の内にはまっているのですよ」
「えっ……そうなのか?」
 葵はまじまじと、傍らの火月を見る。まだもぐもぐやっていた童姿の小鬼は、愛らしい瞳で葵を見返し、にぱぁと悪びれずに笑った。
「えへへ」
「……なるほど」
 こういうところが、夜光の言う通り確かに自分は「良い鴨」なのかもしれない。とはいえそれでも、こんな童姿の小さな相手にはついつい甘くなってしまうし、憎らしくは思えない。
「じゃあ、お礼に今度は僕が葵に食べさせてあげる。あーんして、葵」
 いかにも無垢な様子で火月が立ち上がり、箸の先に煮物を刺して葵の口許に持ってきた。葵は苦笑しつつ、言われた通りに口を開けた。
「うん。じゃあ、もらおう」
「あーん」
 といって、火月が葵の口に煮物を入れる。その様子を見ていた水月が、やにわに瞳をきらめかせながら立ち上がった。
「なにそれずるいっ。僕も。僕もあーんてするっ」
「え。いや、それは」
 もごもごとやりながら、葵は水月から夜光を見た。案の定、夜光は溜め息をついていた。
「……まったく。静かに食べられないのなら、そこの窓から放り出しますよ、おまえたち」
「えー。つまんなぁい」
「夜光のおこりんぼー」
「火月、水月?」
「はぁい」
 夜光にひとにらみされた小鬼二人は、渋々と自分の席に戻り、何食わぬ様子で料理を食べ始めた。小さな手で今度は器用に箸を操っているのを見て、葵はもう笑うしかなかった。
 何度叱られても懲りずにきゃっきゃとはしゃぐ双子の小鬼達も、それをやれやれと苦笑しながら見ている夜光の姿も、見ていると心が和んだ。

 食事のあと、夜光が店から借り受けた琵琶を弾いてくれた。店の女将の秘蔵の品だという。
「夜光さんに弾いていただけるなら、これも大満足でしょう。あたしの手なんかじゃ、全然。どうして同じものを扱って、こんなに音が違うんでしょうねえ」
 三ツ目の女将はにこやかに言い、皆の耳にも楽しいですから気にせずにと、部屋を去って行った。
 夜光は桜の見える窓を背に居住まいを正し、膝の上に琵琶を構える。張られた弦をばちが弾くと、耳に心地良い音色が響いた。
 ほう、と葵はその音に聞き惚れた。夜光の琵琶は初めて聴く。四本の弦の上を渡る撥が弾き出す音色は、はっとするほど冴え冴えとしたかと思うと心が躍るように軽妙になり、旋律が変われば今度は深く哀切のある音を響かせる。何より夜光の音には、何処かしら惚れ惚れするような色香があった。
 二人の小鬼は、おなかがふくれたところに心地良い音色を聴いたせいか、寄り添って座布団の上に丸くなり、いつの間にかくうくうと寝息を立て始めた。
「お粗末様でした。本当は、あまり琵琶は得意ではないのです。葵を練習台にしてしまいました」
 一通り弾き終わると、夜光は照れ隠しのように笑った。
「そんなことは無い。実に良い演奏だった」
 これで不得手だというのなら、得意な楽器ならどれほど素晴らしいのだろう。そう思って問うと、夜光は気恥ずかしげに答えた。
「私は、やはり箏でしょうか……幼い頃から、いちばん早くに覚えたのが箏でした。長様が手ずから教えて下さったのです。長様は私と違って、なんでもたしなまれますが」
「ほう。では今度、ぜひその自慢の箏を聴かせてほしい」
「葵は、何か嗜んではおられないのですか?」
「俺は無骨者だからなあ……篠笛であれば、いくらかは」
 聴くのは好きだが、楽器を奏するよりも馬を駆ったり武芸を嗜む方が、幼い頃から楽しかった。かろうじで篠笛であれば、まあまあ音色らしい音色は出せる程度だ。
「では今度、私の箏と併せてみませんか。花見酒の席にでも」
「それは構わないが。しかし俺の笛なんぞでは、せっかくのおまえの箏が台無しにならんか」
 それは勿体ない気がして言うと、夜光はおかしそうに笑った。
「楽器を併せる楽しみは、そればかりではありませんよ。併せることで、思いもよらない新しい音色が生まれることもあります。一緒に演奏してみるのも、趣があって楽しいものですよ」
 夜光はそう言うと、再び琵琶を手に取った。
「さあ。よろしければ、もう一曲参りましょうか。私のつたない手遊てすさびに、葵がおつきあい下さるのなら」
 苦手と言いながら夜光も楽しげにしているのに、葵も笑みを誘われた。
「喜んで。一曲といわず、おまえが飽きるまで聴かせてくれ」
 夜光はどうやら、管弦のことになると少し口数が増えるらしい。表情もいつになくおおらかになり、その凜としながら艶のある演奏姿を見ていることも、音色に耳を傾けることも、葵には楽しかった。
 脇息に凭れて聴き入っていると、ふと曲の合間に、夜光が苦笑した。
「やっぱり、お酒があった方が良かったですね」
 確かに、この一席に酒があれば、まさに極楽もかくやだっただろう。
 葵は笑い、心から言った。
「それは、またの楽しみにしよう。今は、じっくりおまえの演奏を聴いていたい」

 快い琵琶の音が渡る中、ひらりはらりと舞い込んだ桜の花びらが、音も無く畳の上に落ちる。窓からはうららかな景色が眺められ、桜の合間から見える青空には、目白や鶯の鳴き声が軽やかに響いている。
 ──何もかもが、自分の生きたあちらとは違う世界だ。今となっては、まるであちらの方が夢のようにさえ思えるほどに。
 もう帰れない故郷ふるさとを思うとき、どうしても葵の胸の奥は切なく疼く。その痛みを、この穏やかなくには、春陽に包むようにやわらげてくれる。
 ふと、琵琶を弾く夜光と目が合った。葵を見返す紫の瞳が、春にぬくもる清水のように優しく透けた。
 夜光は葵の、言葉に出せぬ苦しみに気付いていながら、立ち入ったことは何も言わない。ただ少しでも楽になれるように傍に居て、そっと手を添えてくれる。
 死んでくれるなと言われ、その白い手にあの黒塗りの匕首を手渡したとき。それを、夜光が握り締めてくれたとき。葵は夜光に、自分の命の半分を預けた気がした。
 ──ここでなら、もう一度生きられるかもしれない。
 ほんの少しだけ胸苦しい、だが穏やかな心地で、葵は脇息に凭れたまま目を閉じた。

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