二章 月の魔性 (四)

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 幸いそこまで傷が痛むことはなく、充分に寛いだ後、食事処を出た。店を出たところで、火月と水月がふわりと浮き上がり、葵と夜光を振り返った。
「それじゃあ、僕らはそろそろこれで」
「葵、あんまり無理しちゃダメだよ。まだ本調子じゃないんだから」
「おや。何か用事でもあるのか?」
 てっきり二人とも最後まで一緒だと思っていた葵が問うと、双子の小鬼はもっともらしく可愛らしい指を立て、ちちちっと舌を鳴らしてみせた。
「なぁにいってるの、僕らがいたらオジャマでしょ? これでも僕ら、話の分かるオトナのアヤカシだからね」
「あとはヨロシクやるんだよぉ、ふたりとも」
「な……何を妙なことを言っているのです」
 夜光がやや言葉を詰まらせ、目を三角に据わらせた。火月と水月は、きゃははっと賑やかな声を上げ、地上からは手の届かない高さに見る間に舞い上がっていった。
「それじゃあねー、夜光、葵っ」
「ごはんおいしかったっ。また連れてきてねぇ」
 赤と青の小鬼達は、色違いの童用の着物と兵児帯をひるがえし、たちまち遠くに見えなくなっていってしまった。
 夜光が塗笠の下で溜め息をついた。
「すみません。あの二人は、どうも口さがなくて……」
「いやいや。利発で可愛いじゃないか」
「葵は、心がお広くていらっしゃる」
 呆れたように言う夜光に、葵は袖に腕を入れながら、にまりと目を向けた。
「そうでもないぞ。素直にありがたいと思っただけだ」
「ありがたい?」
「あの二人も可愛いが、おまえと二人でゆっくり過ごせることが、ありがたくないわけがないだろう」
「なっ……何を、葵まで。お戯れを」
 塗笠から垂れた薄絹を通してさえ分かるほど、夜光の頬が赤らんだ。普段落ち着いて構えた夜光がそんなふうに動揺する様が、葵にはそれもまたおかしく、可愛らしくさえ思える。
「はは。戯れているわけではないがなあ」
「……葵は、たちが悪いです」
 つい、と笠の下で夜光が横を向く。淡い色の唇を尖らせたその顔は、随分と子供っぽく見えた。
「おや。嫌われてしまったか」
「き、嫌ったわけではありませんが」
「なら良かった。おまえに嫌われたら、俺はまた寝込んでしまうところだ」
「…………」
 笑うと、夜光は何か言いたげに口をとがらせたまま、やがてふぅと溜め息をついた。
「……もう。あまりそう、からかってくださいますな」
 心底からのような呟きに、葵は苦笑した。
「からかっているつもりはない。いや、少しはあるが」
「あるんですか」
 軽く睨んできた夜光に、葵は穏やかに、だがやや表情をあらためた。
「おまえの思わぬ表情が見られると、なんだか嬉しくてな。からかっているというのは、言葉が悪かった。戯れではないし、ふざけてもいない」
 真っ直ぐに目を見て言うと、夜光はまた、言葉に詰まったように瞬いた。慌てたように、垂衣の奥で顔を背ける。その目許はやはり、本来の白さの分だけはっきりと分かるほど赤らんでいた。
「あ……葵は、いささか趣味がお悪うございます」
「趣味が悪いか。そんなことはないと思うがなあ」
 軽く葵は吹き出した。顔を逸らして困ったようなふくれっ面をしている夜光が、普段は見られない姿を垣間見ているようで、何か胸の奥が暖かくなる。葵、と名を呼ばれることに、まるで桜の花びらが舞い込んだように、心が明るく嬉しくなる。
「おまえといて楽しいと思うことを趣味が悪いというなら、じゃあどんな趣味なら良いのかと問いただしたいところだ。おまえはもっと、自分に自信を持ったほうがいいぞ」
 今度は呆気にとられたように、夜光が葵を見上げた。ぽかんとしばらく葵を見た後、口許を袖で押さえ、こらえるように肩を震わせてくつくつと笑い始める。
「……まったく。おまえさまは、本当に……」
 そうやって本当におかしそうに、こらえ切れないように声を立てて笑う夜光を、葵は初めて見た。自分はそんなにおかしいことを言ってしまったのか、と首を傾げる。
「夜光?」
「……この夜光に、自分に自信を持てなどと。そんなことを言ったのは、おまえさまが初めてですよ。葵」
 ひとしきり笑い、笑って気が済んだというように、夜光はひとつ息を吐いた。紫色の瞳が、垂衣の向こうから晴れ晴れと葵を見上げた。
「少し歩きましょう、葵。ここの桜は、今がいちばんの盛りなんです」

 夜光の言う通り、これまでに見たことも無いほど、華陽山の桜は美事だった。街の中よりも、満開の時期が少し後にずれているのだろうか。巡らされた遊歩道を行けども行けども、頭上を覆い山肌を覆う桜は途切れることがない。
「怖いほどの桜だな」
 呟くと、隣を歩く夜光が葵を見上げた。
「怖い?」
「うん。まるで桜に呑まれて、見知らぬ何処かへ彷徨い込んでしまいそうだ」
 無限、あるいは夢幻のようにどこまでも続く桜の群れ。わずかな微風にも桜吹雪が舞い、遊歩道は花びらで埋まり、まるでこの世の道ではないようだ。
 葵が終の涯を訪れた頃には、既に最玉楼の庭では桜が咲いていた。あれから一月ひとつきまでは経っていないが、未だに終の涯では桜が咲き続けている。それが不思議だった。葵にとっては桜は、咲き始めたらすぐに散ってしまうものという認識があった。
 それを問うと、ああ、と夜光は頭上の枝を見上げた。
「この終の涯では皆、盛りの時期が長いのです。花のひとつひとつが長く咲いているし、散っても次々に新しい蕾が出てくる。桜に限らず、どの植物でもそうですよ」
「ほう……そういえば、ひとつの季節もむこうより長いと書物にあった。全体にこちらは、時間の流れがゆるやかなんだな」
「蓬莱に比べればそうかもしれません。妖達は皆、寿命が長いですからね。蓬莱の四季は随分儚くせわしない、と言う方もおられます」
「違いない。こちらに比べたら、あちらは確かに儚かろう」
 儚いからこその生き強さもあるのだろうが、何百年と生きるという妖などに比べたら、確かに人間などあまりに脆く頼りないものだろう。
 そんな「人間」である自分が、これからこの妖の世界である終の涯で、どうやって暮らしていくべきか──と、葵は考えた。
 もうあちらに戻ることはできず、命を絶つという選択肢も無いのなら、この地に足をつけて生きてゆくことを考えねばなるまい。身体の自由もきくようになってきた以上、いつまでも最玉楼の好意に甘えるわけにもいかない。
「俺でも何か出来ることがあるんだろうか。こちらでも」
 歩きながら、葵は呟いた。問わず語りなそれに、夜光が視線を巡らせた。
「出来ること?」
「俺は職人達のように、特別な技や知識を持つでもない。学問にしろまったく知らないではないが、飛び抜けて優れているわけでもない。身体も妖達に比べれば、弱く脆い。勿論、妖力というやつも持ち合わせていない。それで俺がここで糧を得るためには、いったいどうしたら良いものだろうかとな」
「ああ……これから先のことですか」
「うむ。こうしてあらためて考えると、俺は実にただ飯食らいだ。あちらでは若君だの何だのと持ち上げられていたが、そんな身分を剥がれれば、ただの穀潰しでしかない。さて、どうしたものか」
 我ながら呆れた気分で言うと、夜光はおかしげに、くすくすと笑った。
「そこまで身も蓋もなく言うものでもないでしょうに」
「しかし事実だからなあ」
 桜の枝の隙間から空を仰ぎ、大きく息をつく。
「葵さえその気があるなら、最玉楼でいくらでも雇ってもらえると思いますよ」
「最玉楼で?」
「はい。葵は見映えがそう悪くありませんし、こちらの文字を既にある程度読むことも出来ます。葵は自分を優れているわけではないと仰いますが、決してそんなことはありません。どの勤めに就くにしろ、すぐに慣れましょう。……ただ」
「ただ?」
「問題は、気質ですね。はなから葵は、誰かに雇われることは考えていらっしゃらないでしょう?」
「……確かにそうかもしれん」
 言われて、なるほどと自覚した。誰かに頭を下げて雇われる、という発想は、確かに無かった。
 また夜光が、くすりと笑った。
「やはり葵は、若様でいらっしゃる」
「どうやら、思った以上にそのようだ」
 やや決まり悪く、思わずこりこりとこめかみを掻いた。最玉楼を出たらすぐにでも食うに困る状態で、矜恃だけは固く捨てがたいとは。
「大丈夫ですよ。マレビトがここで生きるには不利であることくらい、長様は重々承知しておられます」
 なぐさめるふうにでもなく、夜光が言った。
「身体が治っても、出て行けとは仰いません。食客としてマレビトを置く程度の余裕はありますし、これまでもそうして最玉楼でお世話を申し上げたマレビトは少なくありませんから」
「むう」
 知らず足が止まり、腕組みをして唸る。確かにそうなのかもしれないし、実際助けてほしいと申し出れば、あの長であれば否とは言わないだろう、とは思えた。
 だが五体満足の身で一方的な庇護を受けるだけであるのは、あまりに自分が不甲斐ない。
 その様子に、夜光が取りなすように言った。
「まだ葵は、完全にお身体が癒えていないのですから。良くなってからじっくり街を歩いて、もう少しここのことを知ってから考えても良いかと思います」
「……そうだな」
 確かにまだ自分は、終の涯のことを知らなさすぎる。ふう、とまたひとつ息を吐いた。
 焦っているのではない。ただ、自分の先行きが見えないことが不安だった。確かにここにいれば、ただ生きながらえるだけなら出来る。だがそれだけでは、「生きる」ことには……少なくとも葵の思う、命を費やして生きることにはならない。
「葵」
 と、ふいに夜光に呼ばれた。何かあらたまったように、笠の下から透き通った美しい瞳が見上げてくる。
「うん? どうした、夜光」
「はい。この機会に、私からもお伝えしておこうかと」
 夜光はそう言い、僅かに黙り込んだ。言葉を探すようにも、何か言いよどむようにも見える間だった。
「……もう葵は一人で湯も使えますし、これ以上私がおそばに着いている必要はないかと存じます。私はそろそろ、勤めに戻らせていただこうかと思っております」
 言った夜光に、葵も心なしか姿勢をあらため、腕組みを解いた。
「そうか。……分かった」
 ここまで出歩けるほどに回復し、夜光がこういった場を設けてくれたことで、葵も薄々そういうことなのだろうと察しはついていた。夜光には本来、最玉楼での正規の勤めがあり、いつまでも葵にかまけてそれを放り出しているわけにもいかないだろう。
「俺のために、随分長いこと勤めを休ませてしまったな。おまえには本当に助けられた」
「いいえ。こうして知り合ったことも、何かの縁です。無事お元気になられて、本当に良かった」
 夜光は小さく首を振り、ああ、と思い出したように続けた。
「それから、お部屋のことなのですが。私の部屋の並びにある一室が、先日ちょうど空いたのです。今のところふさがる予定はないとのことですので、ひとまずそちらにお移りになられてはいかがでしょうか」
 そういえば、葵はすっかり夜光の部屋に間借りしてしまっていた。葵の身体がきかないうちはその方が都合が良かったが、ここまで回復し、夜光も勤めに戻るというのならば、確かに部屋を移った方が良いだろう。
「そうだな。そうさせてもらう」
「はい。では、そのように。何かと要り用なものもあるでしょうから、明日にでもお部屋を移りがてら、一緒に準備いたしましょう」
「すまない。何もかも、おまえには本当に世話になりっぱなしだ」
 言うと、また夜光は首を振り、葵を見上げて微笑した。
「いいえ。困ったときはお互い様ですから」
 葵も小さく笑う。
「お互い様か。おまえが困ったときに、俺が何か助けになれたらいいんだが」
「そんなこと……いえ、そうですね。もしそういうときがきたら、ぜひお力添えをお願いします」
 笑いながら葵を見上げた夜光の瞳の光が、桜の枝を透かす陽光の加減か、はたまた薄絹のゆらめきの加減か、そのときなぜか少し滲んで見えた。
「夜光?」
「さ。いつまでも立ち話をしていては、せっかくの桜が勿体のうございます。この先に小さな滝があるのですよ。見に参りましょう、葵」
 夜光はふわりと垂衣を返し、先に立って歩きながら葵を促した。葵はその姿を目で追いかける。
 今の一瞬の夜光の眼差しは、見間違いか錯覚だったのだろうか。そうだったのかもしれない。だが、そうではないのかもしれない。
 見間違いでなかったとしても、夜光があんな──今にも泣き出しそうな顔をする理由が、葵には分からなかった。分からないが、考えるよりも先に、夜光を呼び止めていた。
「夜光」
 夜光が振り返る。塗笠にも揺らめく垂衣にも、はらはらと桜の花びらが舞い、一瞬その姿は淡い春陽の中に消え入ってしまうように見えた。
 葵はひとつ息を吸い込み、夜光を真っ直ぐに見た。何かうまい言葉を探してみたが、真心からの一言の他は浮かばなかった。
「ありがとう」
 夜光は透き通る紫の瞳で、葵をじっと見つめた。やがて小さく、はい、とだけ、そのほっそりした顎を引いて頷いた。

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