二章 月の魔性 (五)

 翌日、長く間借りしていた夜光の部屋から寝具や行李を運び出した。といっても、葵が持ち上げようとしたのを夜光が制し、開け放った障子から通りがかりにそれを見た仲居がさらに夜光を制し、ひょいとあっさり持ち上げて、移動先の部屋まで運んでくれたのだが。
「夜光さんは、力仕事なんかなさっちゃ駄目です。こういう仕事はあたし達の仕事なんですから。それに、そっちの若様も。傷が痛むうちは、まだ無理をなすっちゃいけません」
 むじなの尻尾を持つ仲居は歯切れ良く言い、他にも簡単な調度品などを、てきぱきと運んでくれた。
「すまない、助かった。今度、何か俺に出来ることがあったら言ってくれ。手伝わせてもらう」
「おや、若様がやってくれるんですか。それじゃあ、しっかり良くなったら頼むとします。薪割りでも皿洗いでも、それともあたし達の肩揉みでも。いくらでも仕事はありますからねぇ」
 あははと快活に笑い、物を運び終えると、仲居は立ち去って行った。葵と夜光は軽くお辞儀をして見送り、荷物を片付けるべく葵の新たな部屋に入った。
 新たに葵に割り当てられたのは、夜光の部屋からふたつ奥の一室だった。間取りは夜光の部屋と変わらない。決して広くはないが、床の間があり押し入れや物入れがあり、慎ましく一人が生活するには充分な空間だった。
 何も持たずに終の涯に流されてきた葵のことだから、荷物などそれこそ寝具と書物、こちらで用意してくれた衣類の他は無いに等しい。日常的に使う鏡や木桶、ちょっとした物入れや衣桁や脇息に文机などは、最玉楼で使っていないものを分けてもらった。
「あとは、街に買いに出ましょうか。真新しい方が良いものもありますからね」
「使えればなんでも構わないぞ、俺は」
「そう仰らず。普段必要なものを選ぶくらい、贅沢のうちには入りませんよ」

 夜光に促され、葵は結局街に買い物に出ることになった。夜光は先日と同じよう、素顔を隠すように垂衣のついた塗笠をかぶった。
 穏やかな青空の下、賑やかに妖達が行き交う通りを、葵と夜光は並んで歩いて行った。
「おまえは、いつから仕事に?」
「はい。明日からは戻ろうかと」
「明日か。すまんな、最後まで付き合わせて」
 今日くらいゆっくりしていた方が良かったのでは、と思った葵に、夜光は首を振った。
「お座敷は夜からですから。それに、葵のお世話がすっかり板についてしまって。一人でいても、どうせ暇を持て余してしまいます」
 珍しく軽口めいたことを言う夜光に、葵も笑う。
「そうか。おまえが世話焼きな性分でよかった」
「葵はしっかりしているようで、少々危なっかしいですからね」
「危なっかしい? 俺が?」
「はい。少し目を離すと、思いがけぬことをしてらっしゃる。まるで童のようです」
「童はひどいな。そんなに落ち着きが無いつもりはないんだが」
「自覚が無いのが、その証拠ですよ」
 のんびりと話しながら、通り沿いにある何軒かの店を覗き、必要な日用品を取り揃えてゆく。
 休憩に立ち寄った甘味処の店先で、赤い布の張られた長椅子に並んで腰を下ろしていると、そこに声をかけられた。
「あら、お珍しい」
 二人を見かけて歩み寄ってきたのは、琥珀色の瞳に艶やかな黒髪を結い上げた、一人の可愛らしい娘だった。薄桜色の着物に華やかな椿の柄。黒髪の間に生えた大きな三角型の耳は、これも艶やかな黒い毛が覆っている。
 年の頃は葵よりいくらか下に見えるが、妖は外見と実年齢が一致しないのが常なので、実際のところは分からなかった。
「ご機嫌よう。どうしたの、こんなところで」
 娘は近付いてくると、にっこりと笑って腰を折り、夜光に向かって問いかけた。葵も会釈を返し、夜光が娘に答えた。
「こんにちは、良いお日和で。今日はこちらの、葵殿の買い物に付き合っていました」
「あら、それは珍しい。あなたでもそんなことをするのねぇ」
 娘がぷるりとした唇を、桜色に爪を染めた白い指で覆う。黒く長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳が、興味深そうに葵を見た。
「こちらの御方は、どういう?」
「葵殿は大怪我をして、虚ノ浜に流れ着いておられたのです。偶々私がお助けしたものですから、最玉楼でお世話申し上げております」
 夜光が娘に説明し、次いで葵を見た。
「葵。こちらの御方は、鏡花さんと仰います。私の古い友人です」
「鏡花殿」
 葵は鏡花を見やり、持っていた抹茶碗を置いて、改めて頭を下げた。
「お初にお目にかかる。最玉楼の食客で、葵と申します。お見知りおきを」
「葵様……」
 呟いた鏡花がじっと葵を見つめ、大きな瞳をきらめかせた。
「これは、随分と稀な。あなた、そんな髪をしているのに人間なのね」
 あっさり見抜かれて、葵は少し驚いた。最玉楼の者達は葵が人間だと知っているが、街を歩いていても特に葵に注意を払う者はいない。黙っていれば妖と思われるようだと、すっかり安心していた。
 それで察したのか、鏡花は口許を袖で覆い、くすくすと笑った。
「少し注意して見れば、すぐに分かるわ。それでなくても、若い人間は甘い匂いがするもの」
「甘い匂い……?」
「そうよ。甘くて美味しそうな、若い人間の精氣と血肉の匂いよ」
 口許を隠したまま琥珀色の瞳を細め、ふふ、と鏡花は笑う。その言い様に葵はぎょっとし、夜光が少し尖った声で口を挟んだ。
「鏡花さん。葵殿は、まだこちらに流されて間もない。妖の冗談も本気も区別がつきません。あまり驚かせて下さいますな」
「あら。それはごめんあそばせ」
 悪びれずに、鏡花はぺろりと赤い舌を覗かせた。意味ありげに、その瞳が葵から夜光の上を辿る。
「最近、あなたが全然座敷に上がらない。どうやらずっと休んでいるようだ、とは聞いていたけれど。そういう事情だったのね」
「息抜きもかねて、葵殿のお世話のためにしばらくお休みをいただいておりました」
「ふぅん。どんなに私が誘ってもつれないのに。随分とそちらの御方には熱心なのね」
 本気なのか冗談なのか、何やらつけつけと鏡花はものを言う。夜光が垂衣の下でひとつ小さく息をつき、それから微笑んで鏡花を見た。
「まだ桜は咲いておりましょう。明日の夜から勤めに戻りますので、近いうちにお座敷にいらして下さい。それとも、私から鏡花さんのお座敷に伺いましょうか」
「あら、うちに来てくれるの? それならそれで、勿論構わないわよ。歓迎するわ」
 それらの遣り取りから、どうやら鏡花も夜光と同じ芸妓の類いであるようだと葵は思った。鏡花は物腰も優雅で、見かけにも独特の華がある。花街には最玉楼の他にも、いくつも遊び処があるから、それらのいずれかに勤めているのだろう。
「でもまあ、当分はあなたも身体が空かないわね。何しろ一月ひとつき近くもご無沙汰なんて。貴彬たかあきら様も、最玉楼はつまらんとうちに遊びにいらして下さったのは良いけれど、荒れて大変だったのよ」
「貴彬様が?」
 夜光がその名前を繰り返したときだった。
「夜光……? そこにいるのは、夜光か?」
 道行く者達の間から、葵には覚えのない声がした。見ると雑踏の中を早足で通り抜け、一人の若い男が歩み寄ってくるところだった。
「あら。噂をすれば」
 そちらを見やった鏡花が、小さく呟く。
 歩み寄ってくる男は、他の一切が目に入っていないように、ただ夜光だけを凝視していた。
「夜光! やはり夜光か」
 雑踏の中に夜光の名前が響いたことで、今さら葵は、鏡花がおそらく意図的にだろう、夜光の名前を一度も呼んでいなかったことに気が付いた。
 夜光の前に立っていた鏡花が、さり気なく後ろに下がる。貴彬という男は、足音荒く、真っ直ぐに夜光の前に歩み寄ってきた。
 夜光は貴彬が目の前に立つよりも先に、静かに椅子を立ち上がっていた。葵も何事か分からぬまま、男の剣幕に思わずただ事では無いと、椅子を立っていた。
「貴彬様」
 夜光の唇が、あくまで穏やかに男の名前を呼ぶ。その前に立った貴彬は、厳しい相貌で鋭く夜光をめつけた。
「この一ヶ月、どうしていた。急にこんなに長く暇を取るなどと……何かあったのかと心配していたんだぞ」
 夜光は静かに、深く貴彬に向かって頭を下げた。
「申し訳ありません。こちらのマレビト……葵殿を最玉楼の方で保護いたしまして。お命に関わる大変な傷を負っておられましたので、そのお世話をしておりました」
 それを聞いた貴彬が、「マレビト?」と呟き、葵を見た。
 まるで睨み付けるような鋭い眼光に、葵は思わずたじろいだ。黒髪を乱れなく結い上げた貴彬は、細面のなかなか整った顔立ちをしている。一重の目許にどことなく品があり、と同時にいささか神経質そうでもあった。直垂を乱れなく着こなし、その装いには一分の隙も伺えない。
 ──どことなく雰囲気が似ている。兄である清雅に。
「なんだ、おまえは。妖じゃないのか」
 尖った声で、そう言われた。葵は気を取り直し、思わず肚に力を込めるようにして、貴彬を見返した。
「妖ではない。人間だ」
「ほう。そのようななりで人間とは、妖より変わった奴だな」
 貴彬は薄い唇だけで笑う。そこに、夜光が塗笠を外して貴彬を見上げた。
「貴彬様。大変ご心配をおかけいたしました。何しろ急なことで、お伝えする間も無く……明日の夜には、またお目にかかれますゆえ。どうか今は、ご寛恕下さいませ」
 夜光は深々と、貴彬に頭を下げる。ふと気付けば、周囲の目がこちらに集まりつつあった。
 ざわざわとした中に、「どうしたんだ」「あれは夜光さんじゃないか」という怪訝そうな声が、いくつか聞こえる。それを聞いてか、貴彬が舌打ちした。
「明日には、勤めに戻るのだな」
 鋭く問われ、夜光はますます低頭した。
「はい。間違いなく」
「分かった。では明日、訪ねる。明日は他の座敷には上がらずにいるように。良いな」
「かしこまりまして……」
 顔を上げないまま、夜光は答えた。
 そこで貴彬は、初めて脇に避けて立っていた鏡花を見た。いくらかは声音をあらため、貴彬は言った。
「邪魔をした。お寛ぎのところを、騒ぎ立てて申し訳ない」
「いいえ。最玉楼も良いですが、また麗芳楼にも遊びにいらして下さいませね、貴彬様」
 にこり、と艶やかに微笑んだ鏡花に、貴彬は無言で一礼すると、そのまま場を一顧だにすることなく足早に立ち去っていった。
 遠ざかり雑踏にまぎれてゆく後ろ姿を見やりながら、葵は知らず強張っていた肩の力が抜け、思わず深く嘆息した。
「……なんというのか。ちょっとした嵐のような御仁だったな」
「まあ、貴彬様は夜光に大層ご執心ですからねえ」
 鏡花が口許を袖で隠すようにしたまま言った。その何気ないような、しかしふと引っかかる言い回しに、葵は鏡花を見た。
「……というのは?」
 問いながら、何か嫌な感触で胸がざわりとする。ご執心、というその表現。確かに先ほどの貴彬には、人が人に強くこだわる、ひどく感情的な……まさに執心、執着と言うに相応しいような強い情があるように感じられた。
 鏡花は葵を見返し、琥珀の瞳を意味ありげに笑み細めた。
「言葉のままよ。貴彬様は、夜光の大のご贔屓筋なの。大層夜光に入れあげていらっしゃるのに、突然ひと月も袖にされてはね。お怒りになるのもごもっともだわ」
 鏡花を見たまま、葵は返す言葉が浮かばない。入れあげる、袖にする──それはまるで、遊女に対するものの言い様ではないか。
 困惑の中、しかし唐突に腑に落ちた。
 最玉楼はどういう場所だと言ったか。妓楼だと、とっくに聞いていたではないか。たとえそれ以外の遊びや湯治も盛んな場で、色事には関わらない芸子達も多いのだとしても。
 夜光の美しい容貌や立ち居振る舞い、管弦の腕前などから、さぞかし人気のある芸子なのだろうと勝手に思い込んでいた。それも一面、正しいのだろう。だが──。
 隣に無言で佇んでいる夜光に、葵は目をやった。うつむいているその頬には、柔らかな陽光を受けてふわりと輝く白い髪が落ちかかり、表情は見えなかった。
 春をひさぐのは、何も女性ばかりではない。なぜそういうものに、夜光を一切結びつけて考えなかったのだろう。
「──葵」
 自分に当惑していたところに、ふいに夜光に名前を呼ばれた。思わずどきりと、心の臓が揺れる。
「えっ……ああ、すまん。ちょっとぼんやりして」
 葵を見上げた夜光は、何事もなかったかのように、柔らかく微笑んだ。
「お騒がせしてすみません。少し疲れてしまいました。今日はもう、ここまでにいたしませんか」
 葵の返事を待たず、夜光は塗笠をかぶり直し、荷物を手に取る。
「鏡花さんも、騒がせてしまってすみませんでした。私達はこれで、最玉楼に帰りますね。また後日」
「ええ。また今度ね、夜光」
 鏡花もまた、何事もなかったかのように笑って、白い掌を振る。
「葵、参りましょう。今日買ったものだけでも、けっこうありますからね。私がお手伝いできるうちに整理しなくては」
「……ああ、そうだな。うん」
 何をどう答えて良いのか分からないような気持ちが揺らめき、しかし特別な素振りは何も見せない夜光を前に、葵はそれを言葉に出せなかった。
 何か胸が苦しい。だがそれを、いつもと変わらぬ様子の夜光に見せるわけにはいかないように思った。
 だから葵も、何食わぬ顔をして、夜光に頷いた。
「帰ろうか、最玉楼へ」

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