二章 月の魔性 (八)

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 この店の甘味が好きなのだ、という。そういえば、以前もこの甘味処の前でこの男に遭遇した。もしかしたらあのときも、貴彬はこの店目当てにやってきたところだったのかもしれない。
 古びた木の卓に貴彬と向かい合って座り、思わぬ成り行きに葵は困惑気味だった。
 貴彬は「一緒の物でいいか」と葵に訊ね、葵も何しろ品書きに詳しくないから、ひとまず頷いた。貴彬は慣れた様子で店員を呼び、「あんみつ」というものを注文した。
 甘味の皿よりも先に、茶の入った抹茶碗が運ばれてくる。疲れていたせいもあり、口に含んで思わずほっと息をつくと、貴彬が淡白な声音で切り出した。
「ここの茶はあちらのものだ。出すものにも、あちらの食材を多く使っている」
「あちら?」
「おまえもマレビトだろう。随分とおかしな髪をしているが」
 おまえも、という言い方に、葵は思わず目を瞠った。
「それじゃあ、まさかあんたも?」
「ああ。俺も数年前にこちらに流されてきた。おまえと同じ、マレビトだ」
 ざっくりとした名乗りに、葵は絶句した。終の涯に流されてくる人間もいる、というのは知っていたが、帰れるのならばあちらに帰っている者が多いのだろうと思い込んでいたし、今現在なかなか会える相手はいないだろうと思っていた。
「驚いたな……まさかお仲間に会えるなんて」
 思わず呟くと、貴彬は皮肉げに唇を吊り上げた。
「俺も驚いた。何しろ妖にしか見えんような奴が人間だというんだからな」
 ずけずけと言われ、葵はむっと唇を曲げた。
「言いたいように言ってくれるな」
「他意は無い。気に触ったなら謝る」
 意外にあっさりと貴彬は詫びた。あまり感情のこもらない物言いに、葵はまた困惑する。
 どうやら他意は無いことは本当のようだが、かといって何を考えているのかがまったく分からない。そもそもこの男は、何のために葵を誘ったのだろう。
 そのうち、顔を布で覆った店員が「あんみつ」を運んできた。その布の下はどんなふうなのだろう、布で覆っていて前が見えるのだろうかと素朴な疑問を抱きながら、器を卓に置いて去ってゆくその姿を見送った。
「甘いものが嫌いでなければ、食べるがいい。美味いぞ」
 貴彬はそういって、添えられていた木の匙を取った。葵は相手の思惑が読めぬまま、しかし食べ物に罪はないかと、同じように匙を手にした。
 終の涯に来てから、蓬莱では見たこともない食材や料理を多く見て来たが、これもやはりそうだった。賽の目に切った半透明の寒天やころころとした蜜豆、白玉団子に色とりどりの果物が甘い蜜に浸かっており、その上にこれも甘い餡子が乗っている。淡い青と柄の入った切子の器がよく合って、なかなか綺麗な食べ物でもあった。
「ん。美味い」
 思い切って口に運ぶと、寒天や酸味のある果物が甘さを良い具合に中和し、とても食べやすかった。思わず出た言葉に、貴彬が一重の目許を僅かにやわらげた。
「だろう。小豆あずきのせいか、どこか懐かしいようでもあってな。時折無性に食べたくなる」
 大の大人の男が向かい合って甘味を食べているというのもおかしな構図だが、疲れていた身体に甘いものはよく沁みた。
 半ばほどあんみつを食べたところで、貴彬が手を休めて切り出した。
「ところで。先日は、見苦しいところを見せた。機会があれば詫びておかねば、と思っていたのだ」
「いや……まあ、見ていて気分の良いものではなかったが。あんたにも何か事情があったんだろう」
 甘いもので一瞬緩んでいた気持ちを引き締め、葵は少々固い声で返した。
 貴彬はそこに何か感じたのかは分からないが、淡々とした様子を崩すことはなかった。
「そうか。……俺は貴彬という。こちらに流されてきてから、もう五年ほどになる」
「俺は葵だ。こちらに来たのは、この春だな」
「瀕死で虚ノ浜に流れ着いていたと聞いた。いくさか?」
 貴彬の一重の目が、僅かに細められた。訊ねられた一言に、葵は言葉に詰まる。穏やかに思い出すにはまだ日が浅すぎる、重くつらい出来事が、瞬時に脳裏をよぎった。
「そうだ」
 視線を下に向け、それだけ答えた。貴彬はとりたてて表情を変えることなく、じっと葵を見つめた後、匙で掬った果実を口に運んだ。
「俺もそうだった。あちらは未だ、そんなありさまなのだな」
「あんたもなのか」
 こちらに来てから初めて出会った、蓬莱の話ができる相手に、思わず葵は問い返す。貴彬は僅かに顎を引いた。
「俺は、ある東国の武家に仕える家人だった。街も館も焼けて、追っ手から逃れて山の中を彷徨っているうちに、いつの間にかこちらに迷い込んでいた」
「へえ。誰もが海から流れ着くわけじゃないんだな」
「虚ノ浜には、異界のものが流れ着きやすいとは聞く。だが、必ずしも海を渡ってくるわけではないようだな。なんでも人の世が乱れると、天地を律する氣も乱れ、こちらとあちらが繋がりやすくなるそうだ」
 貴彬は淡々と説明しながら、抹茶碗を口に運んだ。
「俺もこちらに来てしばらく、最玉楼の世話になっていたことがある。こちらは本当に奇妙なところだが、人でも妖でも分け隔て無いのはありがたい」
「ああ……それは、本当にそう思う」
 素直に頷いた。それは葵も常々思うことだった。そして貴彬もまた最玉楼に世話になっていたと聞き、何か親近感のようなものを覚えた。
 そもそもこの、妖達の暮らす御伽草紙のような世界の中、同じように流されきた「人間同士」であるというだけでも、無意識に妖達に対するよりも近しい意識は持ってしまう。
 貴彬の話を聞くうち、葵はふと疑問に思ったことを問いかけた。
「あんたは、向こうに帰ろうとは思わなかったのか?」
「ああ。どうせ戦で何もかも焼けてしまったからな」
 変わらぬ調子で貴彬は答えた。やはり感情をあまり伺わせない顔付きだったが、その伏せられた目許に暗い翳りがよぎったように見えた。
「そうか……」
 帰ろうと思えば帰れる環境で、あえて帰らずにいる。葵と事情は異なるだろうが、そこにはやはり、同じように深くやりきれない苦悩があったのだろう。
 重くなった空気を払拭しようと、葵は別の話を振ることにした。
「五年もこちらにいて、今は最玉楼の世話にもなってないということは、あんたはここで何をしてるんだ?」
「ここで何を、というのは?」
「自力で暮らしていくには、食い扶持を稼ぐ必要があるだろう。俺もいつまでも最玉楼の世話になるのは心苦しいんだが、何しろこちらのことがまださっぱりでな。方法の見当もつかない」
 ああ、と、貴彬は匙を置いた。いつのまにか葵よりも早く、その切子細工の器はからになっていた。
「俺は銭舗せんぽで働いている。蓬莱でも勘定方に務めていたから、そのあたりのことを扱うのは得意でな」
「銭舗?」
「この街の通貨の管理と、金融の仲介を担うところだ。貨幣の製造元でもあるな。これは主に、金霊という妖達が取り仕切っているが」
 そういえば、以前夜光がそんな話をしていた気がする。人間でありながらそんなところで妖達と肩を並べて働いているという貴彬が、何やらにわかにたいしたものに思えてきた。
「そんな仕事をしてるのか。すごいな、あんた」
 思わず言うと、貴彬は薄い唇をにやりと笑ませた。
「ここは蓬莱との遣り取りも多い。妖達が人間に化けて、あちらの品を仕入れてくるんだ。そこであちらの品物や相場を知る者がいると、流れが円滑になる。いなくてもなんとかなるが、いた方が効率が良いだろうと、大見得を切って売り込んでやったのさ」
 基本淡々とした貴彬が、何やらここは得意気に語るのを見て、葵もつい笑み誘われた。
「妖相手に度胸があるな。いや、本当に大したものだ。悠々自適のまま、最玉楼の食客で居続けることも出来ただろうに」
「ただ飯食らいは性に合わん。おまえもそれは同じだから、世話になるのは心苦しいと言うんだろう」
 随分と砕けた印象で笑うようになってきた貴彬に、葵も自然に尖っていた神経を和らげていた。こいつは存外に話しやすい、と思うと同時に、やはりふとしたときに感じる雰囲気が、清雅にどこか似ている。昔の優しかった兄を、ふと思い出してしまう。
「その気持ちはあるが、何しろあちらでは若様だっただけに、稼ごうにもたいした取り柄もなくてなあ」
 嘆息すると、貴彬は「ふむ」と思案顔になった。
「……若様であったならば、文字の読み書きが達者なことは勿論、阿呆でなければ漢詩や論語も有名どころはだいたいそらんじているだろう?」
「それはまあ、知らんではないが」
 しかし阿呆とはなんだ、と唇を曲げる葵に、貴彬は頓着もせずに続けた。
「他にも、若様ならではの知っていることも多いだろう。庶民にはなかなか縁の無いもの。たとえば旨い酒の味、美しい絹、歌舞音曲の優れた演目。武芸や馬術の嗜みにしてもそうだ」
「絹や演目か……都に近かったから、美しいものは多く目にしたな。あと街をうろつくのが趣味だったから、酒は上物から庶民が自分達で醸したものまで、色々味わった」
「若様らしからぬ放蕩だな。だからおまえはそんなに庶民にとけ込んでいるのか」
「いちいち棘を感じるな、あんた」
「馬や武器の扱いはどうだ?」
 口を尖らせても頓着しない貴彬の問いに、流されるように葵は答えた。
「馬はよく遠乗りをした。可愛いし賢いから馬は好きだ。綺麗な青鹿毛のやつを、生まれた頃から大事に育てていてな」
 その青鹿毛も、あの戦の中で失ってしまったもののひとつだった。あの黒く澄んだ美しい瞳を思い出し、葵は切なくなった。
 それにふれようとはせず、貴彬は平坦な声音で続けた。
「ほう。では一通り面倒も見れるのだな」
「自分で世話をした方が、心から信頼してくれるからな。武芸は……槍はいまひとつ苦手だが、刀と弓に関しては、いちおう師範代の扱いを受けていた」
「ほう。悪くないじゃないか」
 褒められて、葵は思わず兄に褒められたような気分になった。武芸に関しては、弓を除いては兄の方がより優れていたし、師範がそれこそ達人だったから、自分をとりたてて優れていると思ったことはなかったのだが。
「どちらかというと弓の方が得意だ。これでも流鏑馬やぶさめでは、いつも取りを務めていたんだぞ」
 軽く胸を張ると、ふ、と貴彬は小さく笑んだ。意外に皮肉気ではない笑い方だった。
「あちらの文化に長じていれば、こちらではそれが売り物になる。特にこの終の涯は、異文化の坩堝だ。むこうの書物を読みたい妖、話を聞きたがる妖も多い」
「ほほう」
「移動手段がほぼ空路だから、ここでは馬に乗れる者は少ない。必要が無いからな。だがその賢さ、見た目の美しさから、愛好家は多い。自前で飛べない妖の中には、船や車ではなく、気軽な移動手段が欲しいと思う者もいる。扱える者が少ないがゆえに、馬はこちらでは貴重品だ。畢竟、馬を扱える者は重宝される」
「へえ……」
「武芸に長じる者は、師範役として引く手あまただ。妖達は妖力に頼る分、基本的にそこまで武芸を極める習慣がない。だから武芸に長じた者は少ないし、学べるのなら学びたいと思う者も多い。おまえの持っているものは、こちらでは充分に売りになるぞ」
「そうなのか?」
 貴彬は一気に語り、その説明に葵はぽかんとした。身体能力の高さでは言うに及ばず、妖力とやらいう特殊な力も持たない脆く非力な人間である身が、まさか身体を使うことで妖達に優ることがあるとは思わなかった。
「ああ。あとは、どれだけ大きく自分を売り込めるかの問題だな。妖達は、だいたい調子が良く勢いに乗りやすい。口八丁手八丁で居直ることが肝だ」
「なるほど」
 まるで詐欺師のようなものの言い様に、葵は吹き出してしまった。だが同時に、納得していた。確かにそうかもしれない。この妖達の街では、人間である自分に何が出来るのだろうと考えるより、自分があらかじめ持っているマレビトとしての特質を売り込む方が早いのかもしれなかった。
「笑いすぎだ。やはり阿呆か、おまえは」
 やや呆れたように貴彬が言い、葵はやっと笑いをおさめると、その顔をじろりと見返した。
「あんたも口が悪すぎだ。もう少し気を遣っても良いと思わないか」
「俺は正直だからな。だいたいそんな、いかにも馬鹿そうな朱い髪をしている奴に、そうそう賢い奴がいるとも思えん」
「なっ……いかにも馬鹿そうとは何だっ」
「もう少し声を下げろ。そういうところが馬鹿なんだ」
 貴彬に言われ、葵もここが店の中であることを思い出した。むう、と唇を曲げて貴彬をにらみ、取り上げた茶を飲んでひとつ息を吐く。
 しかし本気で怒るような気分ではない。こんなふうに誰かと遠慮なく言い合い、声を立てて笑うなど、随分久し振りだった。それに貴彬の話してくれたことは、葵にとって今後への大きな足がかりになる内容だった。
 残っていたあんみつを片付け、一息入れてから、葵は貴彬を真っ直ぐに見た。
「あんたの話、ためになった。よく覚えておく」
「俺も昔、おまえと同じように先達のマレビトに訊ねた。半分以上は受け売りだ」
「そのわりに説得力があったな」
「それが調子に乗せる、ということだ」
 貴彬は軽く笑い、そんなやりとりをしながら、最後に茶を飲み干して席を立った。
「勘定は俺が持つ。この間の詫び代わりだ」
 言った貴彬に、葵は小さく笑った。
「あんた、思ったより悪い奴じゃないんだな」
「ふ。甘味であっさり買収されたか」
「……だが、本当に口は悪い」
 そんな軽口を言い合いながら甘味処を出、その日葵は、随分軽い気持ちで最玉楼に戻ったのだった。

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