二章 月の魔性 (九)

栞をはさむ

 思いがけず貴彬と関わりを持ったことは、葵にとって物事が良い方向に動く足がかりとなった。少なくとも、人間の身で終の涯で生きることに対する漠然とした不安が、「自分にもやれることがある」と分かったことで、多少なりとも払拭された。
「うん。悪くないんじゃないかな? 武芸をきちんと学んでみたいっていう妖は、終の涯にはけっこう多いよ」
 しばしば遊びに来る鬼火の双子も、こういうときは聡明そうに赤と青の瞳をきらめかせて、葵の話を真面目に聞いてくれた。
「蓬莱の文字を読み書きできるようになりたい、ていう妖も多いよね。あっちの書物って面白いから」
「ほう。そのあたりを攻めれば、俺でもなんとかなりそうだな」
 明るい陽差しの差し込む部屋で、葵と小鬼達は角を突合わせて会話する。桜がすっかり散り、爽やかな新緑が勢力を伸ばし、最近は陽光が次第に初夏の兆しを帯び始めていた。
「そうだねえ。そのためには、まずは葵がしっかりこっちの読み書きに精通しないとだね」
「僕らも葵のお勉強につきあうよ。目的があると楽しいし」
「助かる。ありがとう、火月、水月」
「えへへー。そのかわり、稼げるようになったらおいしいものたくさん奢ってね?」
「はは。早くそうなれるといいなあ」
 ちゃっかりと悪びれない双子の小鬼に、葵も目許を和ませて一緒に笑う。
 と、ふと水月が氷雨色の綺麗な瞳で、葵の顔を覗き込んできた。
「ねえ、葵。さいきん、夜光とどう?」
「そうそう。ここんとこ、夜光とぜんぜん一緒にいないでしょ」
「……ああ」
 双子にじいっと覗き込まれて、葵は咄嗟にごまかせず、悄然となった。
「俺も、ゆっくり夜光の顔を見たいのはやまやまなんだがな。えらく忙しくしているようで、つい声をかけそびれている」
「そっかぁ」
 うーん、と小鬼達は子供らしくぷにぷにと柔らかそうな腕を組んだ。
「夜光も生真面目だしなあ。でも、休みを明けてだいぶたつし、いくらなんでもまったく会えないほど忙しいってことは、もうないと思うよ?」
「なにしろこんな近くにいるんだしねえ」
「そ……そうだよな」
 そう言われて、葵はますます気持ちが落ち込んだ。もしや本当に自分は夜光から避けられているのだろうか、という嫌な想像が首をもたげてくる。
「たぶんね。夜光は、葵に顔を会わせづらいって気持ちもあるんだと思うよ」
 そこに火月が言ったものだから、葵はますます情けない面持ちになってしまった。
「俺は何か、夜光に嫌われるようなことでもしただろうか」
 思わず呟くと、火月と水月はきょとんとした後、噴き出した。
「やだなあ、何言ってるの、葵。その逆だって」
「夜光はねえ、なんたって葵のことが大好きなんだから」
「え?」
 今度は葵の方がきょとんとする。火月と水月は顔を見合わせ、にんまりと笑った。
「だってさあ。夜光はあれでハッキリしてるし、自分の安売りもしないし。座敷でもないのに、嫌いな相手の前でなんか絶対演奏しないよ」
「華陽山だって、夜光はふだん、僕らですら連れて行かないよ? だいたい、あそこまで休みを引き延ばしてつきっきりで葵のお世話をする必要なんか、ほんとだったらなかったもん」
「そうだったのか……?」
「うん。夜光はなんたって人気者だからね。なんで姿が見えないんだ、って言ってくるお得意さんも多かったし、けっこう最玉楼は対応が大変だったんだよ」
「でも夜光は今まで、それこそまとまったお休みなしでずーっとお仕事してきたから。たまには休ませてやりなさい、て長様がみんなに言って、お客さんたちにも取りなして下さったの」
 裏側ではそんなことがあったのかと、葵は驚いていた。それに夜光があれほど尽くしてくれたことは、しきたりを越えた好意だったという。夜光にも最玉楼の皆にも、ありがたいとも申し訳ないとも思う一方、何よりはっきりと、夜光に対して「嬉しい」と思う自分がいた。
「夜光はさ。あれで、ひとにホンキになったことなんかないからさ」
 それらを思いながら黙り込んでいると、いっそうにまにましながら、双子の小鬼達が言った。
「そうそう。多分今はねぇ、自分でも自分が何やってるのか分かってないんだと思うよ」
「それにね。夜光はお座敷で、ひとに愛想を振りまくのがお仕事じゃない? 夜光は自分の勤めに誇りを持ってるけど、それとは別に、そういう姿を葵に見せたくないんじゃないかなあ」
「…………」
 複雑な気持ちで、葵は押し黙った。そうなのだろうか。確かに葵の中にも、夜光の勤めについては深くふれたくないような思いはある。だがそれは、夜光が「花」という勤めを生業にしている限り、避けては通れない話でもあった。
 この終の涯では、優れた技藝で人を楽しませる娼妓や芸子の地位は高い。花街で働く者達は、皆望んでそうしている。夜光もまたそうであるはずだった。何しろ夜光はこの最玉楼の楼主である長の、義理とはいえ息子であり、辞めようと思えばいくらでも辞められるのだろうから。
 やがて双子達が「じゃあ、またくるねー」とふわふわ青空に昇って立ち去っていき、それを縁側で見送りながら、葵はしばし考え込んだ。
 二つ隣の、やはりぴたりと障子が閉まったままの夜光の部屋を見る。もう昼を大きく回っているし、なんの物音も気配もしないから、今日も夜光は既に部屋にいないのだろう。
 夜光が自分に対して好意を持ってくれている、という双子の言葉を、そのまま信じるには少々躊躇いはある。それに好意自体を否定はしなくても、それを「特別な好意」と一足飛びに考えるのは、いささか早合点も過ぎる気もする。
 ──だが、そうであってほしい。そうであれば良い。と、理詰めで片付けようとする感情の奥から湧き上がってくる心の声があった。
「…………」
 思わず口許に手をやり、いかんいかん、と自制をかける。心なしか頬が熱い。
「まいったな……」
 こんな、まるで十代の子供のように、胸がたわいもなく高鳴るなんて。
 だが何であれ、単純に喜ぶばかりではいられない。ふと、貴彬のことがよぎった。
 甘味処の前で思わぬ再会をして以来会ってはいないが、貴彬に対する当初の印象は、既に大きく変わっていた。鋭利で冷たいように見えて、案外とそうでもない。同じマレビト同士だという縁もあったのだろうが、貴彬は会ったばかりの葵の話を親身になって聞いてくれた。いつぞや街中で遭遇し、ひどく感情的になっていたときのことも詫びてくれた。貴彬は本来、あの甘味処で話したときのように、淡々とあまり感情を見せずにいる性分なのだろう。
「本気なんだろうな。きっと……」
 ──貴彬は、夜光に対して。
 花としての夜光を葵は知らないが、それもまた夜光であるはずだ。きっと、さぞ美事な花なのだろう。貴彬は葵の目から見ても、やや癖はあるが好い男で、そういう男を夜光は心底から惚れ込ませることが出来る。きっと他にも、夜光に惚れている相手はいくらでもいるに違いない。それだけの魅力を、花である夜光は持っている。
 袖に腕を入れて組んだまま、ふう、と息を吐いた。
「他人がどうであれ、このままというのはすっきりしないな」
 夜光と距離が出来たことや、貴彬の存在で、なおさらはっきりと自覚した。自分はどうやら、夜光に対して浅からぬ感情を抱いている。
 だからといって、夜光とどうこうなりたいとか、そういうわけではない。夜光は「最玉楼の人気の花」で、いわばまさしく高嶺の花だ。それに将来的なことを深く考えるには、葵自身の身の上もまだまだ定まっていない。何より自分の中の夜光は、やはり白く清らかな珠のようで、うかつにふれることが恐くすらある。
 だが、このまま夜光にそれとなく避けられたままでは、気持ちもどんどん落ち込んでいくし、何より心楽しくない。
 多くを望むわけではない。ただ以前のように、笑ったり拗ねたりする夜光が見たかった。花見酒は無理でも、月見酒の機会はあるだろう。そこでまた、夜光の弾く音色を聴きたい。得意だという箏を聴いてみたい。
 なんとか近いうちに、夜光をつかまえて話をしよう。葵は心に決め、一人頷いた。


 ひとまず夜光のことはそれとして、終の涯の文字の読み書きを確実に修得すると共に、武芸の勘を取り戻すことを葵は始めた。それもまた葵にとって重要なことであり、先々は最玉楼の一方的な庇護を受けることなく、自分の寄る辺をしっかりと持ちたい。それは、夜光に対する向き合い方にも無関係なことではなかった。
 いちばん大きかった右脇腹の傷は、まだ若干の痛みやひきつれている感覚はある。他の深かった傷も、天気が今ひとつのときは疼くことはある。
 だがこれ以上動かずにいることの方が、もう辛抱できなかった。多少の痛みなら我慢すれば良い。きつめにさらしを巻き、無理をしすぎなければ、耐えられないほどではない程度に痛みを抑えることはできた。
 動けるようになってきてからは、出来るだけ萎えた筋力を取り戻すよう部屋の中で出来ることはしていたし、傷に響かない程度に最玉楼の雑用も手伝うようになっていた。だがこうしてきっちりと長い髪を結い上げ、動きやすいように用立ててもらった小袖と袴に久し振りに着替えると、格段に身も心も引き締まる思いがした。
 ひとまず何から始めたらいいだろう。と考え、弓を選んだ。すっかりなまってしまった身体で弓を引けるのか不安はあったが、剣術よりはものになる気がする。それに剣術の稽古は素振りも良いが相手が必要だったし、何より弓の方が好きでもあった。
 駄目元で最玉楼に道具が無いかと聞いてみたら、なんと一通り、弓矢と巻藁があるという。
「いろんな行事ごとで、流鏑馬をやることも昔はあったのよ。でも最近はあんまりでねえ。何しろうまく射れる奴がいなくてさ。当たらないとやっぱり盛り上がらないでしょ、こういうのは」
 そう言いながら、葵を案内した仲居達は蔵を開けて、道具一式を運び出してくれた。見た目は細腕だが、相変わらず妖ならではの力を持った彼女達には、それは造作も無いことのようだった。
「若様、弓をやるのかい? だったらこのあたりを使うといいよ、元々そのための場所だから。若様の腕が確かなら、この最玉楼に流鏑馬が復活するかもしれないねえ」
 屋根のついた的場まで巻藁を運んでくれ、一通り準備までしてくれた彼女達は、それじゃあね、と陽気に去って行った。夜光ばかりでなく、最玉楼の者達が本当に気さくで親切なことに、葵は頭が下がる。これもきっと、ここの楼主である長の人徳でもあるのだろう。
 襦袢だけ残して片肌を脱ぎ、袖が邪魔にならないようたすきをかけた。久し振りにこんな格好をすると、やはり心が昂揚した。
 出来るだけ手に馴染む弓懸ゆがけを選んできたが、やはり多少は違和感があった。しかし手入れはきちんとされていたのだろう、弓も矢も弦も状態は良い。弓把の高さを確かめながら弦を張り、弓柄を握ると、自然と背筋が伸びた。
 適当な目測で巻藁から距離を取り、構え、何ぶん久方振りなので、様子を見ながら慎重に矢をつがえた。だがそうすると、自然に呼吸が整ってきた。
 遠くに的を見据えながら、ゆっくりと息を吐く。そのうちまわりの風景が色を失い輪郭を失い、的だけが視線の先に浮かび上がる──ように見えたその瞬間、放つ。矢は真っ直ぐに飛び、音を立てて巻藁に突き立った。
「当たった……」
 思わず息を吸い込み、大きく吐いた。久し振りのことだったが、長年身体に馴染んできたことは、未だに変わらず葵と共にあるようだった。
 昔から、弓だけは自信を持って言えるほど得意だった。他の武芸はどれも兄に及ばなかったが、弓だけは兄にも、他の誰にも負けなかった。
 無心で矢をつがえていると、自然と雑念が失せてゆく。それは思わぬほど、兄に追われて以来葵の中に重く堆積していた、様々なおりを軽くした。消え失せることはないが、少なくともこうしている瞬間は、多くの苦しかったことが解けて心が澄んでゆく。続けて無心で矢を射るうちに、ここが故郷からは程遠い終の涯であるということさえ、意識から抜けていった。
 何度か射たとき、後ろの方からぱちぱちという拍手の音が聞こえてきた。
「へええぇ。若様、たいしたもんじゃない」
 見返ると、いつからいたものか、様子を見に戻って来ていたらしい仲居達が、躑躅つつじの植え込みの陰から現われた。
「ちょっと盗み見しちゃった。やっぱり本場仕込みは綺麗なもんだわあ。マレビトはこういうことが得意なのが良いわよね」
「ほんとに。いつになく凜々しくて素敵だったわよ、若様」
 仲居達は明るくはしゃぎながら、口々に言う。葵は集中力が切れたのと気が抜けて、弓を下ろして苦笑した。
「いつになく、ということは、普段は俺はいまひとつなのか?」
「うーん。普段も悪くはないのだけど、凜々しいとはちょっとねぇ」
「あら、葵さんはそこが良いのよ。優しくて穏やかで、なんだか暢気な感じでねぇ」
「そうそう。普段そんなだからこそ、こうしてたまーに毅然としたなりを見ると、一気にぐっとくるのよ」
「はは……」
 褒めてもらっているのだろう、と思うことにして、葵はそれらを受け流した。
 どうやら仲居達は、道具の片付けについて伝えにきたらしかった。今日はここまでにしようと片付けを始めると、彼女達はそれも手伝ってくれた。
「しまい場所も分からないでしょう? 私達も好きでやってるんですから、遠慮しなくていいんですよ」
「そうそう。良いものを見せてもらったお礼」
 そういって、彼女達は弓矢をしまうに丁度良い納屋まで案内してくれた。巻藁は、頻繁に使うならそのままで良いという。
 道具一式を片付け、礼を言って立ち去ろうとしたところ、葵は彼女達に「そういえば」と引き留められた。
「若様、お聞きになりました? あの噂」
「あの噂?」
 なんのことだろう、と首を傾げると、仲居達は顔を見合わせた。獣耳を持った中の二人のそれが、ぴこぴこと振れている。何か気遣うような、言いにくそうな雰囲気のあと、一人が口を切った。
「……ご存知ないなら、早いほうが良いだろうからお耳に入れておきますよ。夜光さんがね、もしかしたら請け出されるかもしれないっていうんです」
 その言葉を、葵はしばしうまく飲み込めなかった。
「──え?」
「どなたかは分からないんですけど、熱心に口説いている方がいらっしゃるとか。いえ、なにしろ夜光さんは人気があるから、そういう方は珍しくもないんですけど。今回の御方は、どうやら長様にまで直談判にいったらしいんです」
「勿論長様だって、夜光さんが頷かなけりゃ、絶対に承知するわけはないんですけど。他ならぬ夜光さんが頷いたら、ねえ」
 あまり心楽しくないように言い合う彼女たちの言葉を聞きながら、葵は半ば茫然としていた。
 夜光が請け出される。それはつまり、夜光が花であることを辞め、請け出した相手のものになり、この最玉楼から出てゆくということだ。
 まさかそんなことがあるのか、と衝撃を受けながら、だが落ち着いて考えれば、夜光のような身の上ならば確かに珍しい話でもないだろうと思い直す。
「あのね、葵さん。噂はあるけれど、本当かは分かりませんよ」
 あまりに葵が茫然と立ち尽くしていたせいだろう、仲居達が気遣うように言った。
「そうそう。よくあることだし、今回は長様にまで話がいったらしいっていうんで、ちょっと噂になってるだけなんですから」
「……分かった。教えてくれてありがとう」
 ようやく言って、葵は彼女達と別れた。
 夜光が請け出されるかもしれない。そう聞いた途端、足下が雲を踏むように頼りなくなり、頭がうまく働かなくなっていた。
 夜光はずっと最玉楼にいるように思っていたが、よく考えればそうとは限らないのだと、そんな当たり前のことに茫然としながら思いを馳せる。
 仲居達の言う通り、決まったわけではないのだろう。だが、もしも本当に請け出されることになったら。それに、いったい相手は誰なのだろう。高嶺の花である夜光に、堂々とそんなことを申し込める相手は。
 ──まさか貴彬だろうか。
 人間であるからといって、出来ない話ではないだろう。人も妖も、この街では平等なのだ。貴彬の身なりは良く整い、生活に不自由している様子はなかった。まさかと思いながらも、他に誰も具体的に知らないだけに、葵の中には貴彬の名前ばかりが浮かんだ。
 知らず立ち止まり、下げた両の拳に力がこもっていた。そんな自分に気付き、葵は大きく息を吐いて、腕から力を抜いた。
「駄目だ。こんなありさまじゃ……」
 心がどうしようもなく焦れて、ざわつく。本当のところはどうなのか、夜光に確かめたい。こんな生殺しの状態には耐えられなかった。
 いてもたってもいられず、葵は足早に、夜光の部屋に向かった。

栞をはさむ