二章 月の魔性 (十)

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「夜光。いるか?」
 相変わらずぴたりと閉まったままの障子の前に立ち、呼びかけてみたが、返事も気配も無かった。やましさに心の中で詫びながら、少しだけ障子を引いてみる。やはり部屋の中は、もぬけのからだった。
 殺風景なほど片付いた眺めと、床の間にひっそりと飾られた菖蒲に、部屋の主の奥ゆかしい心映えが見える。そんな様子は、この部屋で共に寝起きしていた頃と何も変わっていなかった。
「あら。若様」
 何か切ないような気持ちで部屋を眺めていた葵は、急に呼びかけられて飛び上がりそうになった。見返ると、洗濯物を抱えて通りすがった仲居が、葵を眺めていた。
 夜光の部屋の前に立っている葵に、仲居は何か察したように、にこりと笑った。
「夜光さんなら、今はお稽古中のようですよ。別館の浅葱の間でお見かけしました」
 別館の浅葱の間、とは、最玉楼の裏側にある建物の一室、芸子達がよく稽古場として使っている大きな部屋だ。
「そ、そうか……ありがとう」
 どぎまぎしながら、葵はぎこちなく礼を言った。いえいえと、仲居は洗濯物を抱えて立ち去っていった。
「浅葱の間か……」
 芸妓や芸子達が熱心に、あるいは楽しげに稽古を積んでいる場に踏み込むのは場違いのようで、あまり近付いたことの無い一角だ。だが今日ばかりは、そんなことも言っていられない気分だった。
「よし。行こう」
 意を決して、葵はそちらに足を向けた。

 長い廊下を歩いて浅葱の間に近付くと、雅な楽の音が聞こえてきた。笛に琵琶、鼓や笙や鈴や箏の音が重なって、艶やかな旋律を奏でている。
 明るい縁側に向けて、浅葱の間の障子は大きく開け放たれていた。その端からそっと覗き込むと、数人の芸子達と共に、舞扇を手に舞の稽古をしている夜光がいた。
 その姿に惹き付けられ、思わず葵は立ち尽くした。いずれも見目麗しい男女数人で舞っているにも関わらず、そこにいる夜光には、贔屓目でなく圧倒的な存在感があった。
 ふとした指先の動き、長い睫毛にけむりながら流される眼差し、淡く煌めきながら揺れる乳白色の髪の一房にさえ、凜と美しく張り詰めた気迫と、胸に迫ってくるえもいわれぬ色香がある。誰よりも乱れなく隙のない、そのまわりに淡い光が差して芳しい花びらが舞うのさえ見えるような、翻る袖の様さえ美しい舞姿に、葵はすっかり見とれてしまった。
 演舞が終わり、演奏が余韻を引いて最後の一音を弾いたことで、やっと葵は我に返った。
「おや、葵さん」
 舞が終わったことで空気が緩み、さざめいた部屋の中から、芸子の一人が葵に気付いて声をかけてきた。葵が何を言うよりも先に、ああ、と笑って頷く。
「夜光さんですね? ──夜光さぁん、若様がお見えよー」
「えっ……あ、ええと」
 稽古中なら終わるまで待つつもりだった葵は、思わず声を上げかけたが、そのときにはもう他の舞子達と何か話していた夜光は振り返っていた。
 その紫の瞳が少しだけ瞠られ、ほんの一瞬、逸らされる。その僅かな動きに、葵の胸はしくりと鈍く痛んだ。
 思わず立ち尽くしていたら、夜光はまわりの者達に二、三言言い置き、こちらに歩み寄ってきた。
「こんにちは、葵。袴をお召しになったんですね。よくお似合いです」
 多少の上背の差の分だけ、にこりと微笑んで夜光が見上げてくる。久方振りに間近で見る姿、そして間近で交わす言葉だった。
「ああ、うん。この方が動きやすくてな」
「ここに見えるなんて珍しいですね。どうかなさいましたか?」
「いや。すまない、邪魔をして」
 夜光を前にして嬉しいはずなのに、心が浮き立たない。嬉しく思ってはいるのだが、それ以上に気持ちが不安に曇っている。
 その様子に、夜光が何か察したように小さく首を傾げた。
「少し向こうに行きましょうか。私も休憩したかったところです」
 その微笑は先ほどよりも柔らかく、記憶にあるものと何も変わらなかった。夜光は近くの者に「少し抜けますね」と言い置いて、先に立って歩き出した。
「良かったのか?」
「ええ。私の出番はもう終わりましたから」
 夜光は縁側の突き当たりまで、葵を導いた。そこに立って向き合うと、稽古場の物音もほとんど届かなかった。
「どうかなさいましたか、葵」
 あらためて問いかけられ、葵は言葉を詰まらせた。どうしても確認したいと思いやって来たが、いざとなるとどう切り出せば良いのか分からなかった。
 それに、しばらく顔を会わせていなかっただけなのに、夜光が妙に遠く感じる。以前のように何の気兼ねも隔たりもなく接することに、どうしてか躊躇いがあった。
 だが、いつまでも押し黙ってるわけにもいかない。ようやく重い口を開き、言葉を選び選び、葵は切り出した。
「……その。おまえの身請けの噂を聞いた。それで、本当のところはどうなんだろうと気になってな」
「ああ。そのことでしたか」
 黙って葵が口を開くのを待っていた夜光は、そんなことかとでも言うように、すんなりと頷いた。
「ええ、そういうお話はいただいております」
「やっぱり本当なのか?」
 我ながら思い詰めた訊き方をしてしまった。夜光はふわりと微笑した。
「でも、お受けすると決めたわけではありません。こういうことは、それほど珍しいことではありませんから」
「受けない、と決めたわけでもないのか」
 重ねて問うと、夜光は細い指を小さな顎先に当て、考える風情になった。
「そうですね……悪い話ではありませんし。私もそろそろ、ひとところに落ち着いても悪くないかもしれない、と思うことはありますので」
 その言葉を聞き、葵は思わず何も言えずに立ち尽くす。その様子を、夜光は何食わぬ顔で見上げた。
「でも、分かりません。まだまだ私はこの仕事を続けたいですし、最玉楼を離れるのも心残りですから」
「そうか……」
 夜光の微笑が穏やかであるほど、言い様もなく突き放されたような気がした。なんとか押し出すようにそう言う他、何も言えなかった。
「そのお相手は、貴彬殿か?」
 答えを期待せずに、問うていた。その紫の瞳の奥にあるものを探ろうと、夜光を見る目を無意識のうちに眇めていた。
 夜光はそんな葵に、しばらく黙って視線を返していた。やがて静かに逸らし、夜光は一言だけ声を発した。
「いいえ」


 稽古に戻っていく夜光を見送ってから最玉楼を出て、葵はあてもなく街の中を歩きまわった。胸がもやもやとして落ち着かず、じっとしていられなかった。
 歩き回るうちに、気が付けばひとつの建物を目指していた。やがて葵は、大通りを一本入ったところにある大きな建物の前に着いていた。
 銭舗、と記された扁額。白い壁と柱と黒い甍が美しい建物。いかにも頑丈そうな黒木の門扉は、重く閉ざされている。以前見かけたときはここが何だか分からなかったが、貴彬から大雑把な説明を聞いた今では、おおよそのところは理解していた。
 貴彬は、先日の話によればここに勤めているという。しかしそもそも、今日貴彬が勤めに出ているとも限らない。貴彬に会ったところでどうするつもりなのかと自問してみるが、それも分からない。
 ぐるりと周囲の塀をまわってみると、従業員らしき姿がしばしば出入りする通用口があった。だいぶ長いこと所在なく佇み、そろそろ諦めようかと思い始めた頃、見覚えのある姿が門を潜って現われた。
 貴彬は、それなりに離れて立っていた葵にすぐに気が付いた。眉を怪訝そうに寄せ、物言わず歩み寄ってくる。
「おまえ、ここで何をしている」
 相変わらず愛想の欠片もない調子で問われ、葵は少しだけ笑った。
「いや。なんとなく、あんたが出てくれば良いなと思いながら眺めていた」
 呆れたように、貴彬は遠慮のない溜め息をついた。
「何があったか知らんが、変になつかれても迷惑だ」
「だ、誰がなつくか。あんたこそ、よく一目で俺に気付いたな」
「そんないかにも馬鹿っぽい目立つ朱毛あかげが立っていたら、俺じゃなくたってすぐに分かる」
「あんた、本当に口が悪すぎるぞ? よくそれで働けるな」
「相手くらい選んでいる。話があるなら聞いてやる。こちらに来い」
 貴彬はうるさげに葵を顎でしゃくり、後も見ずに歩き出した。葵は憮然としながらも、案外腹は立たなかった。こいつは口が悪い上に愛想も無いが、心根はそう悪くない。それを知っていたから、素直に貴彬の後についていった。

「ここで良いか」
 少し歩いた先にある園生の藤棚で、貴彬は足を止めた。藤棚の下には、年季の入った木の長椅子が並んでいる。桜が散るのと入れ代わるように、終の涯では藤の花があちらこちらで見頃を迎えていた。
 爽やかさの中に甘さのある藤の香りが、あたりに漂っている。青紫の美しい天幕が降りたような下で、微風に揺れる藤の群れに思わず見とれていると、貴彬が葵を振り返った。
「で、なんだ話は」
「ああ……うん」
 現実に引き戻された葵は、そこにあった椅子に腰を下ろした。
「夜光が身請けされるかもしれない。──という話を、あんたは知っているか」
 結論から口にすると、貴彬は明らかに身を強張らせた。
「夜光が、身請け?」
「最玉楼で噂になっている。本人にも確認してきた」
「夜光はどう言っている?」
 常に淡々とした貴彬らしくない、急くような口調だった。それはあの街中での、激しく鋭い声音を思い出させた。
「身請けの話があるのは事実だ、と言っていた。珍しいことでもないとも、受けないと決めたわけでもないとも言っていた」
 貴彬は絶句したように黙り込んだ。棒を飲んだように立ち尽くした後、ふっと、その肩から力が抜けた。
「……そうか」
 やや上ずったような声で呟き、貴彬はふらりと力無く、長椅子に座り込んだ。
 見ると貴彬は、まるで睨み付けるようにじっと足下を見つめ、やがて苦い笑い声を落として、伏せた目の上に指先を当てた。
「やはり高嶺の花だったのかな。これでも本気だったんだが」
「夜光のことか?」
「他に誰がいる。……出来るなら俺が請け出したいと思っていた。だがいかんせん、さすがに最玉楼の最高級の花だ。おいそれと請け出せるような相手ではなくてな」
 溜め息交じりに言って、貴彬は黙り込む。葵も言うべき言葉が見つからず、黙ってうつむいた。
「おまえも夜光に惚れているのか」
 そのうち不意に、貴彬が問うてきた。葵は返す言葉に、しばし悩む。
 自分は夜光に、貴彬と同じような意味で心を寄せているのだろうか。夜光が欲しいのかと問われると、正直分からない。ただ特別で、大切で……憧れにすら近いような感覚がある。
 だが貴彬に問われ、ふれれば壊れてしまいそうなその想いの奥に、思い切って踏み込んでみた。真摯に真っ直ぐに夜光を想う貴彬からの問いかけに、葵もまた真っ直ぐに答えるのは、誠意であるような気がした。
 自分は夜光が欲しいのかと、己に真っ直ぐ問うてみる。正直、夜光をそういうふうに考えるのは恐い。なぜか。それは大切すぎるからだ。大切に思う、その裏には何がある。それは、夜光の笑顔や声、どんな表情でも、どんな思いでも、とても貴重に思えて守りたいと思う、失いたくないと思うからだ。──恐いのは、この想いを伝えることでそれらが壊れてしまうのではないか、と思うからだ。
 自分の気持ちと初めて正面から向き合うと、胸の奥から滾々と、夜光を慕う想いと切なさが湧き上がってきた。
「そうだと……思う」
 考えた末に、呟いた。貴彬が呆れた顔をした。
「なんだそれは。随分と曖昧だな」
「悪かったな。俺はあんたみたいに、簡単に口に出せる性分じゃないんだ」
 む、と口を尖らせて貴彬をにらんだ。だが初めて言葉に出したことで、行き場に迷っていたものが、すとんと落ちるところに落ちた気がした。
 夜光への感謝と思慕は深く、好いたはれたの単純な言葉だけで言い表せるものではない。夜光を深く慕わしく思うが、恋慕の情だけで奪いたいと思うような、ただそれだけの想いではない。だが確かに自分の中には、夜光を特別愛しく思う感情があるのも事実だ。
 言われた貴彬が、意外そうに、だがつまらなくもなさそうに言い返した。
「俺だって簡単なわけじゃないさ。おまえのような、煮え切らん奴とは違うだけだ」
「いちいち突っかかる言い方をするな」
「突っかかってなんぞおらん。哀れな阿呆を諭してやってるんだ」
「阿呆とはなんだ」
「阿呆だろうが。惚れているくせに、何をぐずぐずしている。挙げ句、こんなところまで来て人に絡みおって。おまえはどれだけ暇人なんだ」
 身も蓋もないことを歯に衣着せず言われ、葵はほとんど呆気にとられる。だが好き放題言われすぎて、次第に笑いが込み上げてきた。
「あんたくらいずけずけもの言うと、いっそ気持ちが良いな」
「そこで笑い出すおまえは、やはり相当な阿呆だ」
 処置無しというように、貴彬が溜め息をついた。
「阿呆は阿呆なりに、いろいろ考えてるんだぞ」
「下手な考え休むに似たり、という言葉を知っているか。考えて何か解決するようなものなのか、おまえの悩みは」
「しないかもしれないな。特に、人の心に関わることは」
 考えて解決するようなら、理屈で片付くものなら、これほど切なく胸苦しくなったりはしない。
 目の前を、青紫の藤の花びらが散り落ちてゆく。しばらく黙って藤棚を見やっていた貴彬が、不意に立ち上がった。その直垂の裾が、初夏の爽やかな風をはらんで揺れた。
「話が終わったなら、俺はもう行くぞ」
「あんたはどうするつもりなんだ?」
 問いかけると、貴彬はあの鋭く思い詰めたような眼差しで、葵を見返った。
「夜光に会って、本当はどうするつもりなのか問いただすさ。優しい顔でのらりくらりと言を左右にするのは、ああいう勤めにあるものの常套手段だ」
「……なるほど」
 夜光をそういうものだと言われるのはあまり楽しくなかったが、振り返れば葵に見せた夜光の対応は、まさしくその通りなのかもしれなかった。
 苦い顔で、貴彬は笑った。
「それで、もし本当に請け出されるということになれば、そうだな……どうするかな、俺は。……正直、分からん」
 一瞬だけ苦しい本音を覗かせるように呟いた貴彬は、すぐに袖をひるがえし、葵に背を向けた。
「おまえのことなんぞ、俺は知らんからな。それと、二度と勤め先の出入り口で待ち伏せなんぞするな。用があるなら普通に訪ねて来い」
 吐き捨てるように言い、振り返りもせずに貴彬は歩み去っていった。
 苦笑気味に、葵はそれを見送った。ぞんざいな言い様の裏に、貴彬の本当に言いたいことが読み取れる気がする。おまえのことなど知らない、と言った裏で、だからおまえも俺に構わず好きにしろ、と言われた気がする。
 満開の藤棚の下から、葵は空を見上げた。
 自分は貴彬ほど、夜光に真っ直ぐ向き合っているだろうか。自分は確かに、貴彬の知らない夜光を知っているかもしれない。だが逆に、自分の知らない「花としての夜光」を、貴彬は知っている。
 夜光のそういう姿を知らずにいることは、夜光と本当には向き合っていないことになるのだろうか。だが、夜光もまた葵にそういう自分を見られたくないと思っているなら、そこに踏み込むことが正しいのだろうか。
 それに、夜光がもし本当に身請けされてしまうなら、自分はどう動くべきなのだろう。
 ──しかし、と葵は眉間を寄せた。
「おまえは本気なのか、夜光?」
 葵にはどうも、夜光が到底本気であるとは思えない。身請けについて問い詰めたとき、夜光の瞳はどこか、玻璃の薄膜を張ったようだった。あのときの僅かな違和感。それは世話をされる中で、心から表情をやわらげ、滲み出るような微笑みを浮かべる夜光を見知っていたからこそ、感じ取れたのかもしれなかった。
 葵にはどうも本気であるように思えない身請けの話を、なぜ夜光は否定せずにいるのだろう。怪訝に思ったが、しかし葵がそこに詰め寄ることを、夜光は柔らかな微笑で拒絶した。少なくとも葵には、そのように感じられた。
 夜光がますますもって遠くなってしまったように思える。考えるほど堂々巡りに陥り、葵は深々と息を吐いた。
「俺も帰るか……」
 いくら考えても、今は何の答えも出せそうにない。なんだか疲れた気分で、葵は立ち上がった。

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