三章 宵闇に夢を見つ (四)

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 わけの分からないまま、葵は身支度をし、当初の予定通り最玉楼を出て貴彬の屋敷に向かった。
 ここのところ連日訪れているそこは、今日も変わらず静まり返っていた。叩き金を鳴らし、塀を回り込んで垣根の間から中を窺う。締め切られたままの遣り戸に、もはや諦めの嘆息を落とし、貴彬の屋敷を後にした。
 道を歩く間もずっと心ここにあらずのまま、火月と水月との遣り取りばかりを反芻していた。あどけない童子のようであっても、二人もまた妖なのだということが、今さら骨身に染みる。
 ──なんで見ちゃったのさ、葵。せっかくうまくいってたのに。
 ──夜光には黙っていてあげる。葵はもう、ここにいちゃいけないよ。
 繰り返し思い返す言葉に、心臓がきりりと痛む。
 やはりあれは、夜光にとって見られたら都合の悪いことだったのか。もう終の涯にいてはいけない、と双子が葵に言ったのは、これ以上夜光に関わってはいけないということだろうか。自分はそれほど、見てはならないものを見てしまったのか……。
 答えの得られない疑問と困惑ばかりが膨れ上がり、思い詰めるあまり頭痛がしてきた。ひどい疲労感に、なんとか通り沿いにあるあの甘味処まで辿り着くと、その店先の緋色の布が張られた長椅子に座り込んだ。
 注文を取りに来た店員に、適当にお茶だけを頼むと、葵は深々と溜め息をついてうなだれた。
「夜光……貴彬殿」
 火月と水月は、貴彬の安否について言及しなかった。だが無事だと言わず、それどころか葵をも遠ざけようとしているということは、やはり貴彬の身に何か尋常ならざることが起きたと言っているも同然だ。
「おまえはいったい、貴彬殿に何をした。夜光」
 蛍火のような光が散り、跡形も無く消えてしまった貴彬。草叢の中に幽鬼のように立ち上がった夜光。なぜ見てしまったのかと、葵を責める双子達。
 ──足下から平穏な日々が崩れてゆく。
「終の涯を、出る……?」
 虚ろに呟いた。もう何処にも居場所のない葵を受け入れてくれた、人も妖も分け隔てることの無い、この稀有な場所。ここに居られなくなったなら、今度こそ葵は居場所を失う。生まれ育った国には帰れない。希望も未来も居場所も失った自分が、どこでどうやって生きられるというのだろう。
 ここでなら穏やかに生き直せると思った、それは夜光の手に繋がれていたからこそ可能だった。だがそれは、なんと脆く危ういものの上に成り立つことだったのだろう。
 疑惑と混迷が深まり、だが肝心なことは何一つ分からない。一層の泥沼に填まり込み、じわじわと蓄積してきた疲労が這い上がって、身体を鉛のように重くする。
「──あら?」
 葵が身動きもできずにいると、横からふいに声が聞こえてきた。
「やっぱり、若様。こんなところでどうなさったの?」
 うなだれた葵は、最初それが自分に向けられた言葉だと分からなかった。いつの間にか自分の間近に立っていた気配が動かないことにようやく気が付き、それでのろのろと顔を上げる。
「……え?」
 見上げると、美しい琥珀のような瞳が葵を覗き込んでいた。艶やかな黒髪を結い上げて花簪を挿し、その頭には髪と同じ艶やかな黒い毛で覆われた三角の獣耳が見える。赤香色の地に華やかな牡丹柄の着物。
 華のある可憐な娘の姿は、一目見たら忘れがたいものだった。葵は前に一度だけ会ったことのある彼女の名を、やや驚いて口にした。
「鏡花殿」
 自分はよくよく、この甘味処で誰かに会う縁があるのだろうか。それともこの甘味処に、縁を引き寄せる不可思議な力があるのだろうか。
 そんなことを漠然と考えていると、じっと鏡花が葵を見つめてきた。目に見えないものまで覗き込もうとするような、大きな琥珀の瞳。ふと葵は、猫に似ているな、と思った。大きな三角の獣耳に、ぱっちりとした大きな瞳。そういえば彼女の耳は、猫の耳に似ているような気がする。
「随分とひどい顔色をしておいでね。夜光と喧嘩でもなさったの?」
 葵を正面から覗き込んでいた鏡花が、悪戯っぽく首を傾げた。夜光の名前が彼女の口から出たことで、はっとする。
 そういえば、夜光は彼女のことを「古い友人」と言っていた。彼女なら、もしかしたら自分の知らない夜光の事情も何か知っているかもしれない。
 そこまで多くは期待できないかもしれないが、今は藁にも縋る思いだった。夜光を疑いたくない、恐ろしいものだと思いたくない。だからこそ、自分の知らない夜光の情報を得たかった。
 眼差しだけで、葵の思い詰めた必死さが伝わったのかもしれない。鏡花は大きな瞳を瞬くと、屈めるようにしていた腰を伸ばし、にっこりと葵に笑いかけた。
「葵様、よければ少しうちで休憩していらっしゃいな。営業時間外だけれど、お茶くらいお出ししてよ」

 鏡花に案内されていった麗芳楼は、最玉楼に比べれば小規模だったが、それでも充分に大きく豪奢な楼閣だった。
 建物も門構えも華やかさと格式を併せ持ち、突然一人で足を踏み入れるにはためらうものがある。
 鏡花は葵を連れて玄関広間を通り抜け、仲居に一言二言何かを申しつけてから、「遠慮なさらないで」と促し奥へと入って行った。
 妓楼というのは同じでも、麗芳楼の雰囲気は最玉楼とはだいぶ違った。豪奢で重厚な雰囲気のある最玉楼と比べると、麗芳楼は柱や床や窓枠の装飾に金箔や極彩色が多く使われ、全体に軽やかな華やかさにおいて優る。一方で、落ち着いた優雅さには劣る。
 鏡花が葵を案内していったのは、表の座敷ではなく、もっと奥にある畳張りの一室だった。表側に比べるとこれといった装飾も無く、格段に落ち着いた造りをしている。
 私物らしきものが見当たらず生活感が無いので、客間の類いなのかもしれない。床の間の大きな花瓶にはこぼれるほど石楠花が活けられ、縁の紅い桃色の花びらが目に明るかった。
「どうぞ寛いでいらして。葵様は、蓬莱のお茶で良かったわよね?」
 言いながら、鏡花は傍らに煙管盆の置かれた席に腰を下ろした。そう言われても、今は気持ち的に寛ぐ気分にはなれず、葵は鏡花の斜向かいに敷かれた座布団に胡座をかいて座るにとどめた。
「ありがとうござます。どうぞおかまいなく」
 そんな葵を見て、何を思ってか、ふふと鏡花は笑った。懐から煙管を取り出すと、のんびりと刻み煙草を火皿に詰め始める。
 さほどもせず、仲居がお茶を運んできた。葵の前には、水菓子と抹茶碗が置かれる。仲居が出ていってから、鏡花は煙管に火を点け、寛いだ体で脇息に凭れた。
「どうぞお召し上がりになって。お代はいただかないわ。私が勝手にお連れしたのだから」
 冗談めかして言った鏡花に、葵もようやく、長いこと強張っていた表情をいくらかやわらげた。
「では、ありがたく」
 抹茶碗を取り上げて口に運ぶ。懐かしく癒やされるような味と風味に、ほっと息をついた。
「少しはこちらに慣れまして? 葵様」
 脇息に凭れ、紫煙をくゆらせながら、鏡花が口を開いた。見かけは葵より年下に見えるほどの娘ながら、煙管を挟む細い指にも、吸い口を咥える唇にも、しどけないほどの色香がある。かえってそれが葵を緊張させ、背筋を伸ばさせた。
「はい。皆、本当に良くしてくれるので。おかげで随分こちらにも慣れてきました」
 出来るだけ朗らかに答えるようにしながら、どうしても心は悄然と沈む。
 葵がこちらに流れ着いて以来、出会う妖達は皆、本当に良くしてくれた。だが今は、平穏に見える時間の裏側で、葵に安息をもたらしてくれたものが土台から崩れ去ろうとしている。
 鏡花は何か感じたのかは分からないが、ゆったりと構えた態度を崩すことは無かった。
「それは良うございました。まあ、最玉楼ですものねえ。あそこで過ごして不満を言うひとは、そうそう居ないでしょうね」
「不満はありません。むしろ俺は何もしていないのに至れり尽くせりで、申し訳なくなってくるほどです」
 苦笑した葵に、鏡花もくすくすと笑った。
「前にも同じ事を言って、結局最玉楼を出て行ったマレビトがいたわ。あなたもこの間、お会いしたでしょう? 貴彬様よ」
 不意に出たその名前に、葵はぎくりとした。
「貴彬殿、ですか」
 以前貴彬と甘味処で話したとき、確かにそんな会話をした。そして素っ気ない態度を取りながら、貴彬は同じマレビトである葵の困惑や戸惑いを汲み取り、この先の道筋の可能性を示してもくれた。
 葵とそこまでの関わりがあったことなど知らないだろうが、鏡花は脇息に頬杖をつき、ふうと煙を吐いて続けた。
「その貴彬様がねぇ。なんでも突然、お勤めを辞めてしまったそうよ」
「……え」
「どうしたわけなのかしらね。しかもその後からずっと、行方が知れないのですって」
 さすがに耳が早い、と感心するべきなのか。しかしそこに驚くよりも、続けて鏡花が言ったことに、葵はいっそうぎくりとした。
「蓬莱に戻ったのかもしれないけれど。でもそれだけなら、あの律儀な御方のことだから、そうだと言ったのじゃないかと思うのよねぇ。理由を言えないような、余程の何かがあったのかしら?」
「そう、なのですか……」
 鏡花に言ってしまおうか。葵の見たものについて、彼女なら何か分かるかもしれない。だが、彼女をそこまで信頼しても良いのだろうか。
 迷っているうち、鏡花が琥珀の瞳を巡らせてきた。先程よりも一層凝らされた、じっと心の奥まで探ってくるような眼差しに、葵は思わず肩が強張った。
「ねえ、葵様。葵様は今度のことについて、どう思われます?」
「どう、とは?」
「ですから。貴彬様は、いったいどうなすったのかしらって」
 ひたりと葵を見据えたまま、鏡花はゆっくりと言葉を重ねる。葵はどう答えたら良いか分からず、首を振った。
「どうと言われても。俺にはさっぱり分かりません」
 その答えに嘘はなかった。
 ふぅん、と鏡花は猫のように瞳を細め、煙管を咥える。ゆっくりと煙を吐き出し、視線を外して、ほつれた後れ毛を白い指でかきあげた。
「こういうことはね、葵様。本当を言うと、これが初めてじゃないのよ」
「こういうこと?」
「ええ。夜光に惚れ込んだ相手が、突然姿を消してしまうことが」
 さらりと告げられた言葉に、葵の喉が強張った。それは端的な言葉ながら、葵を苦悩させていることの核心を、狙い澄ましたように突いたものだった。
 鏡花の大きな琥珀色の瞳が、意味ありげに葵にちらりと流された。

 こういうことは初めてではない。
 その恐ろしい含みを持つ言葉を頭の中で繰り返しながら、葵は思わず胸元を押さえ込んだ。呼吸がうまく出来なくなったような気がして、視線が泳いだ。
「どういう、ことですか?」
「どういう?」
 今度は鏡花の方が訊ね返した。息をすることさえ苦しい震える喉で、葵は懸命に、途切れがちになってしまう声を押し出した。
「夜光を好いた相手が、消えるのが。今回が初めてでは無い、と……そういうことですか?」
 鏡花はじっと葵を見つめ、逸らし、煙管をひと吸いしてから口を開いた。
「そうね。私の知る限りだけど。これで、かれこれ三人目になるかしら」
「三人……」
 そんなにも。全身から、恐ろしい勢いで血の気が引く。鵜呑みにしてはいけないとかろうじで理性は訴えるが、声すら失った葵に、鏡花は世間話のように続けた。
「勿論、こんな勤めだもの。相手の心変わりくらいいくらでもあるわ。そうでなくても、何らかの理由でふつりと通う足が途切れるお客なんて珍しくもない。だから、誰も気にしてもいないでしょうけれど……私とあの子の付き合いは、それなりに長いから」
 あの子、というのは夜光のことだろうか。鏡花は見かけだけなら夜光より年下に見えるが、実際は夜光よりずっと長く生きているのかもしれない。
「過去にあの子に心底惚れ込んで、急に姿を見なくなった相手は、ひとりは妖。ひとりは人間。どちらも独り身だったから、姿を消してもたいして誰も騒がなかった。それに、一人目が消えてから二人目が消えるまでは何年も経っていたから。誰もあの子と結びつけてはいないでしょうね。──今回のことも」
「待って下さい。そんな、何の確証があって」
 ようやく、葵は反論した。鏡花の話を鵜呑みにしてはいけない。そもそも、なぜ鏡花がわざわざ葵をつかまえてこんな話をするのかも分からない。
 懸命に動揺を抑え、言葉を差し挟んだ葵に、鏡花が振り返る。その瞳が薄く微笑した。
「勿論、なんの確証もないわ。私の勝手な想像よ」
「ならば、そのようなれ言はやめていただきたい!」
 自分でも驚くほど、強く叩き付けるような声が喉を割った。
 鏡花が驚いたように瞳を丸くした。葵を見つめる琥珀の瞳が、ゆっくりと笑み細められる。その瞳孔が、細い糸のように縦に狭まった。
「ふうん。葵様、穏やかに見えて、そんな声も出せるのね」
 まるで舌なめずりするように楽しげに、鏡花は葵を眺めまわした。神経を逆撫でするようなその視線が、ひどく不快だった。相手が得体の知れない人外であるということも忘れ、葵は鏡花を睨みつけた。
「なぜそんな話を、俺にするんです」
「なぜ? そうねぇ……そんなもの、決まってるじゃない。人間が嫌いだからよ」
 かつ、と音を立てて、鏡花が煙管盆に煙管を打ち付け灰を落とす。それと同時に響いた、恐ろしいほど冷え冷えとした声に、葵は絶句した。
「人間なんか大嫌い。醜くて身勝手で、自分の都合のためならどんなことでも出来るんだもの。自分が楽しむためだけに、弱いものを簡単に虐げることだってするわ。だからね、私も人間であるあなたを苦しめてやりたいの」
 鏡花は葵を琥珀の眼で見据えながら、にいと唇を吊り上げて嗤う。そのかおは凄まじい笑みに歪み、人ではなく獣の──牙を剥いた猫科のものに変貌した。
「……!……」
 葵は目を見開き、思わず膝を起こした。それを見る鏡花の双眸に揺らめいたのは、どす黒くたゆたう憎しみと怒りを帯びた、禍々しいほむらだった。
「はっきり教えてあげる。過去に消えた二人と貴彬様は、みんな夜光に喰われたのよ。夜光はあなたが思っているような相手じゃない。人間を忌み嫌って憎み抜いている、妖よりも妖らしい子だわ」
「な……」
 立て続けに突き刺さってくる恐ろしい言葉の刃と、剥き出しの負の感情に、葵は思わず後ずさった。
 追い詰めた獲物をいたぶるように、鏡花はいっそう妖しく瞳を耀かがやかせる。
「あなたなんか、せいぜいうんと悩んで、苦しむといい。あなたが信じなかろうと、私が言ったことは本当だもの。夜光はどういうつもりで、あなたにあんなに優しくしていたのかしら? 私もぜひ、その理由を知りたいくらいよ」
 きゃはははっと、鏡花は甲高い笑い声を立てた。
 喉が引きつって、思うように言葉を出せない。衝撃的にすぎる言葉の内容と、ほとんど面識もなかった相手から混じり気のない憎悪や怒りを突きつけられる理不尽さに、倦んだ頭がついていけない。
「どうして……」
 喘ぐように葵は呟いた。どうして自分が、こんなに憎まれなければいけないのだろう。自分がいったい鏡花に何をしたのだろう。
「言ったでしょう。人間なんか大嫌いだからよ。それに……人間の分際で、夜光を惑わせるからよ」
 鏡花は恐ろしい眼差しで葵を見返した。出会ったときは可愛らしかったその唇の端から、鋭い獣の牙が覗いた。
「さあ、もう出ていって。汚らわしい人間が、これ以上私のそばに近付かないで。ここが終の涯であることに感謝するのね。出来るなら八つ裂きにしてやりたいくらいだわ。遠い昔に、私がされた通りに」
 生き血がしたたるような恨みに打ちのめされ、葵はふらりと立ち上がる。よろめきながら、その部屋を出た。
 その無様な姿を、さらに鏡花が嘲笑う。
 悪夢から逃れるように、葵は脇目も振らずに、麗芳楼を飛び出していた。

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