三章 宵闇に夢を見つ (三)

 うっすら空腹感はあるのに、いざ朝餉を前にすると、葵はほとんど箸をつけられなかった。厨房へ膳を下げに行きながら詫びて、ひとまず今日の食事は粥だけにしてくれるように頼む。
 夜光と顔を会わせることは無く、そのことにほっとしながら身支度をして、早々に最玉楼を出た。
 雨は霧雨から小雨程度になっていたが、風は無くまだ凌ぎやすかった。
 貴彬の勤める銭舗までは、最玉楼からさほど遠くなく、道程もそこまで入り組んではいない。逸る心を抑えながら歩いて行くと、やがて銭舗の黒く大きな門が見えてきた。
 近付いてみると、門には何やら札が掛かっていた。それによれば、今日は銭舗自体が休みであるようだった。
 拍子抜けしたものの、どうしようもない。貴彬の家が何処にあるのかも、特に聞いていなかった。
「仕方が無いな……」
 小雨が次第に着物を濡らして肌寒くなり、やむを得ず葵は最玉楼に帰った。

 最玉楼の者達に、それとなく貴彬の住居を聞くことも出来たのかもしれない。だが、それが夜光に伝わってしまうことが恐かった。かといって口止めをしても、それはそれで意味深で、やはりどんな拍子で夜光に伝わるか分からない。
 こうなると、葵にはどうすることも出来なかった。夜光に直接問いただすことは、最後の手段にしたい。
 明日また、訪ねよう。今日のところは貴彬に会うことは諦めて、葵はおとなしく、しかし悶々と最玉楼で過ごした。


 翌日には雨は上がり、空は爽やかに晴れた。再び銭舗を訪ねてみたが、またしても貴彬には会えなかった。
「辞めた? 貴彬殿が?」
「うん。一昨日の朝だったかなぁ。顔を出すなり、どうしても事情があってもう来られないから、ってさぁ」
 驚いて聞き直した葵に、受付で対応してくれた目にまばゆいほどの黄金の髪に黄金の瞳を持った妖が、おっとりした口調で言った。褐色の肌は、まるで金粉をまぶしたようにきらきらしている。どうやらこれが金霊という妖の特徴らしく、葵は若干目をしぱしぱさせながら問いを重ねた。
「一昨日の朝?」
「うん。まあ、貴さんは今までめっぽう真面目だったからさぁ。なんだか思い詰めた感じだったし、よっぽどの事情なんだろうなあって。びっくりしたけど、もう来れないってものは仕方ないよねぇ」
 一昨日といえば、貴彬と夜光が会っていた日だ。やはりあの日、貴彬は何処かへ行こうとしていたということだろうか。
 貴彬の住居の場所を訊ねると、簡単な地図を描いて渡してくれた。どうやらここから歩いて行ける程度の距離らしい。
 礼を言って銭舗を後にし、地図を頼りに、次は貴彬の住まいを訪ねていった。
 自分の勤めに誇りを持っているようだった貴彬が、そんな突然強引に辞めてしまったということは、余程切羽詰まった理由があったのだろう。少なくとも甘味処で会った段階では、貴彬に仕事を辞めるような素振りはまったく無かった。心当たりがあるとすれば、あの藤棚の下での会話だ。
 やはり貴彬の行動には、何らかの形で夜光が関わっていた、と思えてならない。
 考えながら歩くうち、どうやらそれらしい建物に着いた。
 それほど大きくはないが、周囲を漆喰の塀に囲まれた建物は、落ち着いた門構えからしてなかなか良い住まいのようだった。門は閉ざされており、叩きがねを鳴らしてしばらく待ってみたが、返る声は無い。
 何度か鳴らしてみたものの反応は無く、葵は諦め切れずに塀の周りをぐるりと歩いてみた。途中の垣根の隙間から少し覗いてみると、整えられた山水庭園と、遣り戸を全て閉め切られ静まり返った黒い甍の屋敷が見えた。
 動くものの気配は無く、どうやら完全に留守のようだった。葵は溜め息をつき、もう一度周囲をぐるりと歩いてみて、今日のところは諦めた。
 ここもまた、出直す他なさそうだ。貴彬に会えないことが、どうしても不安を駆り立てる。貴彬の姿さえ見ることができれば、こんな不安も、夜光に対する疑惑も、一切が解消するというのに。
 もどかしい気分で、葵は仕方なく貴彬の屋敷を後にした。

 何か手がかりがあるかもしれないと、その足であの社にも立ち寄ってみた。
 記憶と「玉襲之祠」という名前を頼りに、道々で場所を訊ねながら、どうにか社に辿り着く。そこはいかにも寂れ、荒れ放題の竹藪に半ば囲まれているせいか、昼間でも薄暗く陰気だった。
 崩れかけた石段を上がっていくと、荒れた境内はがらんと何の気配もしなかった。あの夜と同じように、ぼろぼろの祠堂に歩み寄ってその向こう側を覗く。あ、と小さく声を上げた。
 ──あの夜見かけた荷物が無い。
 あのときの光景を、出来るだけ仔細に思い起こす。夜光はここを立ち去るとき、置かれていた荷物には見向きもしなかった。
 ではあの後、誰かがここに来て荷を持ち去ったのだ。しかし、誰が? 夜光が戻って来たのか、それとも貴彬か、はたまたまったく無関係な第三者か、物盗りの類いか。
 得体の知れない気味の悪さに、薄い悪寒が走った。荷を持ち去ったのが貴彬である可能性だけは限り無く低いと、理屈を越えた直感が訴えていた。
 あの夜二人が倒れ込んでいた草叢のあたりまで、足を運んでみた。雨のおかげでさらに生き生きと伸びた青草が繁るばかりで、そこにも既に何一つ痕跡は残っていなかった。
「……貴彬殿……」
 得体の知れない不気味さと不安の中、青々と茂った草叢を見下ろした。
 まだ貴彬に何かあったと決まったわけではない。そう自分に言い聞かせながらも、既に葵は貴彬の無事を信じられなかった。
 一見今までと何も変わらない穏やかな日常の続きであるようで、既に何かがどこかで歪んでしまっている。葵のいる日常が穏やかで変わりなくあるほど、その違和感は強くなる。
「貴彬殿。無事でいてくれ」
 不安と焦燥にかられるまま、思わず拳を握り締めていた。


 それから数日続けて貴彬の屋敷に足を運んでみたが、一向に貴彬は姿を現さなかった。雲を掴むような話だと分かっていながら、毎日足が棒になるまで貴彬の姿を捜して街を歩き回ったが、それも収穫は無かった。
 あれから夜光は、本当にある程度勤めが落ち着いたのか、廊下などで顔を合わせることも多くなった。その度に葵は懸命に平静を取り繕い、しかしその度に息が詰まる思いをして、そのうち今度は葵の方が夜光をそれとなく避けるようになった。
 毎日出かけることも、街を歩いて終の涯についてを知るためだと、誰かに聞かれたら答えるようにしていた。
 夜光の嘘の上に、さらに葵の嘘が積み重なってゆく。そのことが、いつかどこかでこの平穏であるには違いない日々を決壊させるのではないかと、葵をおののかせた。


 そんな日々のうち、ふと気が付くと、いつの間にか夜光の身請けの話を聞かなくなっていた。
 夜光に直接訊く気にはなれず、適当に仲居をつかまえて訊ねると、ああ、と思い出したように教えてくれた。
「お断りなすったようですよ、夜光さん。まあねえ、夜光さんは引く手あまたですし、あれで気強きづよいところもおありですから。長様をお味方につけようとした相手のなさりようが、お気に召さなかったのかもしれませんねぇ」
「……そうか」
 ありがとうと礼を言ってその場を離れながら、葵は考え込んだ。
 それではやはり、夜光は身請けの話に本気ではなかったのか。にも関わらず、その気があるような素振りを見せていたということなのか。
「あ……」
 そのとき不意に、葵は足下が真っ黒い穴に抜けた気がした。悪寒が這い上がり、愕然と立ち竦んだ。
 ──夜光にとって何らかの含みがある身請け話を、貴彬の耳に入れたのは自分だ。
 その結果、仔細は不明だが貴彬は夜光に働きかけ、それによっておそらくあの夜、あの寂れた社に赴くことになった。であれば。
「俺のせいか……」
 今さら気が付いた恐ろしい事実に、吐き気すら込み上げてきた。
 貴彬をあの夜あの社に導いたことに、間接的とはいえ葵も一役買ってしまった。ということは、貴彬の身に尋常らしからぬことが生じた疑いがある今、その責任の一端は葵にもある、ということになる。
 ──なんてことだ。
 確証があるわけではない。貴彬の消息が不明のままである以上、何もかもが葵の憶測でしかない。だが。
 さしたる関わりがあったわけでもないが、葵は貴彬のことが嫌いではなかった。どこか昔の清雅にも似た雰囲気のあった、口や態度は悪くてもその心根は誠実な男。この終の涯における、数少ない「人間」という同胞として慕っていた。
 甘味処や藤棚の下での貴彬との遣り取りを思い出し、葵は思わず額を覆い、そこにかかった前髪をぐしゃりと握り締めた。
 ──もしも本当に貴彬の身に何かあったのなら、このまま「何も無かったこと」にはしておけない。


 夜光に問いただすことには、どうしてもまだ迷いがあった。問いただしたところで、またあの柔らかな嘘でかわされる可能性もある。それに、夜光を疑いたくない、何かをしたとは思いたくない気持ちも、根強くあった。
 相変わらずあまり眠れないまま起き出し、無理に最低限の食事を摂った葵は、今日もう一度だけ貴彬の屋敷を訪ねてみることに決めた。それで貴彬に会えなければ、今夜にでも夜光をつかまえて話をする。ゆっくり話すには、夜光が勤めから戻るのを待つ方が良いだろう。もし明け方の戻りになるなら、そのときはまたあらためれば良い。
 そんなことを考えていたとき、ここ数日姿を見せなかった火月と水月が、ふらりと葵の部屋にやって来た。
「あーおいー。遊びに来たよー」
「お勉強は進んでる? ……て、葵? どうしたの?」
 あどけない童姿の小鬼達は、いつものように空を跳ねて縁側からふわりと部屋に入り込んでくるなり、葵の顔をまじまじと見た。
「うん? 何かおかしいか?」
 ちょうど立ち上がり、出かける身支度をしようとしていた葵は、きょとんと赤と青の小鬼達を見返した。火月と水月は、むーと上目遣いに、穴が空くほど葵のことを見つめてくる。
「うん、おかしい」
「葵、なんかすごく変な顔してる」
 変な顔といわれて、葵は若干神妙な顔付きになった。
「む……まあ確かに、もとよりたいした顔ではないが」
「そーゆー意味じゃないってば」
 すぐそばまで漂ってきて、畳の上にぺたりと素足で降りた小鬼達は、葵の長着の袖を小さな手でつかんだ。
「葵ね、眉間がきゅってなってるの。なんだかすごく困ったみたいな、悲しそうな顔してるよ」
「葵、何かあった? 僕らでよければ、お話聞くよ?」
 小さな二人に言われて、葵はそんなに顔に出ているのかと驚いた。しかしそういえば、食事の膳を受け取りに行くたびに、仲居達にもやけに心配される。毎日歩き回っているわりに、ここ最近食が細くはなっているから、そのせいだろうと自分では思っていたのだが。
「そうか……そんなふうに見えるか」
 火月と水月の真っ直ぐに澄んだ瞳を見返しているうちに、ふと力が抜け、自嘲じみた笑みを洩らした。
 確かにここのところ、心の安まることがなかった。貴彬の身を案じること、それから終の涯における平穏、そしてこの先を生きてゆく希望のよすがでもある夜光を疑うことは、自分で思っていた以上に葵の神経を消耗させていた。
 火月と水月もなかなかに聡いことは分かっていたが、一目で見抜かれるほど心労が滲み出ているなら、夜光も当然葵の様子に気付いているだろう。
 これ以上はもう、自分も状況も保たない。そう判断した葵は、すとんとその場に腰を下ろした。
「分かった。話を聞いてくれるか、二人とも」
 夜光はさっき部屋を出て行くのを見かけたから、今なら会話を聞かれることもないだろう。
 夜光の古なじみである火月と水月に打ち明けることが、吉と出るか凶と出るかは分からない。だがいい加減もう、どれほど一人で悩んでも何も進展しない状況に飽いてもいた。
 穏やかだがあらたまった葵に、火月と水月も目をぱちくりさせ、うん、と頷いた。

 話がそう長くなることはなかった。葵はあの日見たことと、自分が貴彬と接点を持っていたことを、余計な感情を交えず、ありのままに双子に話した。
 自分がもっと取り乱すかと思っていたが、一人で悩む間に何度も反芻していたせいか、意外なほど言葉がつかえることは無かった。
 あの夜以降貴彬の消息が不明であることも含めて、すべて話し終えると、それまでうつむき加減に黙って聞いていた火月と水月は、下を向いたままぽつりと呟いた。
「……そっか」
「あの夜見たものが何だったのかは気になる。だが今は、何より貴彬殿の安否を確認したい」
「うん……」
 双子達は下を向いたまま、葵の言葉に頷いているように見えたが、どうも生返事だった。
 葵は二人を見て、言葉を重ねた。
「このままでは埒が明かない。俺は今夜にでも、夜光に何があったのか訊ねてみようと思う」
「……そっか」
「そっか……そうなんだね」
 うつむいて呟いた双子が、同じ言葉を繰り返した。妙に一本調子の声音に、葵は首を傾げた。
「火月、水月?」
「そっか……。葵、見ちゃったんだ。あれを」
 淡々と呟いた双子が、不意に目を上げた。あどけないばかりの外見にそぐわぬ、底の読めない瞳。茜色と氷雨色の瞳は、感情を一切浮かべていなかった。
 その眼差しに正面から射貫かれ、葵は気圧されて言葉を飲み込んだ。思わず吸い込んだ息が、喉の奥で音を立てる。
「……か、火月……水月?」
「なんで見ちゃったのさ、葵。せっかくうまくいってたのに」
 火月が溜め息まじりに低く言い、立ち上がった。次いで水月も立ち上がる。二人の瞳は、いつも見ていた幼く可愛らしい様子を咄嗟に思い出せないほど、突き放すように冷然と葵を見つめていた。
「葵。悪いことは言わない。ここから出て行った方がいい」
 身動きもできない葵に、水月が冷え冷えとした、今まで聞いたことのない声音で告げた。
「え?」
「この終の涯から。葵はもう、ここにいちゃいけないよ。夜光には黙っていてあげる。だから……それが葵にとって、いちばん良いから」
 突然告げられた言葉に、葵は硬直する。この終の涯にいてはいけない。その言葉の意味が分からないうちに、火月と水月はふわりと葵に背を向け、浮き上がっていた。
「いいね、葵。──それじゃ」
「あっ……お、おいっ?」
 やっと声を上げた葵を一顧だにせず、赤と青の妖達は極光を帯びた青空へと舞い上がっていった。上空に昇ったところでその姿がほどけ、茜色と氷雨色の鬼火に変化へんげする。
 追いかけて縁側に走り出た視線の先で、鬼火達は一瞬のうちに空を翔け去ってしまった。
「どういうことなんだ……?」
 二人の去っていってしまった空を茫然と見上げながら、葵は呟いた。
 ──もうこの終の涯にいてはいけない。それが葵にとっていちばん良い。
 その言葉のもたらした重さと驚愕に、葵はしばらく身動きもできなかった。

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