三章 宵闇に夢を見つ (六)

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 怯えて後ずさった葵の左上腕に、素早く夜光の白い手が伸びてきた。葵よりもよほど細い、骨の形がはっきりと分かる、白い腕。
「ひっ」
 手加減無くつかまれた腕がぎりっと痛み、それ以上に恐怖で、葵は悲鳴じみた声を上げた。夜光はそれに見向きもせず、葵を強引に引っ張って歩き、自分の部屋の障子を開いた。
「おい、ちょっと待て……うわ!」
 部屋に引き込まれ、思い切り背を突き飛ばされて、葵は畳の上に転がった。あのほっそりしたなよやかな姿のどこにと思うほどの、抵抗しようもない夜光の力だった。
 あまり広くもない部屋の中、葵は尻餅をついたまま慌てて振り返る。
 その視線の先で、夜光も部屋に入ってくると、後ろ手に障子を閉めた。
「つッ」
 ──パシン、と空気が弾けたような奇妙な感触を覚え、葵は思わず耳を押さえた。いったい何事かとあたりを見回し、気が付く。
 ついさっきまで聞こえていた虫の音が聞こえない。というより、部屋の外の音が一切聞こえない。
 咄嗟に夜光を見返った。閉めた障子の前で、夜光は燐光を放つ目でじっと葵を見つめている。落ち着き払ったその様子に、葵はかえって鬼気迫るものを感じた。
 今の奇妙な感触は、夜光の仕業だろうか。部屋の外の音が聞こえなくなったということは、その逆もまた然りなのでは、と考える。頭から冷水を浴びせられたように、血の気が引いた。
 葵を部屋に閉じ込め、声が外に届かないようにして、夜光はいったい何をするつもりなのだろう。
 悪寒と共に強い警戒心が首をもたげ、後ろに下がった。完全に気圧されて、葵はそこに佇んでいる夜光から視線を外すこともできなかった。
「何故逃げるのです」
 夜光がうっすらと微笑しながら口を開いた。うつむき加減の前髪の間に覗く紫の瞳は、何の感情も宿していない。にも関わらず、爛としたそれは闇夜に燃え上がる妖火を思わせた。
「う……」
 ぞわりと、葵の全身を戦慄が走り抜けた。一瞬で喉が干上がり、言葉を発しようにも声が出なかった。
 総毛立つ全身に冷や汗が浮き、完全に威圧された葵は、ただ夜光を見返すのが精一杯だった。
 ──いったい今目の前にいる「これ」は何なのだろう。
 白い足袋で静かに踏み出してきた夜光に、びくっと大袈裟なほど身体が震えた。
 室内に灯かりはないが、視界は障子越しの月光で青白く染まっていた。その中を、ゆっくりと一歩一歩、僅かに畳がたわむ音を連れて、夜光が近付いてくる。
 葵は立ち上がることも忘れたまま、いざるように下がった。だがそれも、手脚が強張ってうまくいかなかった。
「そう怯えなくてもよろしいではありませんか」
 葵の前に、夜光がふわりと膝をついた。常の夜光そのままの、優雅な仕種。夜光はこれほど物柔らかなのに、その静けさが逆に葵は怖ろしかった。
「お……俺を、喰うのか……?」
 奥歯が震えて、無様に音を立てた。こうなると、それしか考えられないような気がしてきた。
 あの夕闇の中で、貴彬はどのように「喰われた」のだろう。葵は鏡花から聞いたまま漠然と「喰う」と表現していたが、あのとき夜光の姿は別段血にまみれていたわけでもなかった。
 だが強引に命を奪われる過程が、苦痛を伴わないとは思いにくかった。自分はこれからどうなるのだろうと、夜光の妖しく光る目から目を離せないまま、心臓が痛いほど早く鼓動した。
 と。
「ひッ!」
 いきなり夜光が動き、あっと言う間に、葵は夜光にのしかかられる格好で畳の上に突き倒されていた。咄嗟に首を持ち上げたものの、後頭部を打ちつけてしまい、くらりとする。
 仰向けになった胴の上に、夜光が馬乗りになってくる。一切の配慮もなくのしかかられて脇腹の傷が痛み、葵が顔をしかめたところに、首にひやりとした感触がふれてきた。
「ぐぅ、……っ……!」
 指だ。と思ったときには、ぎりりと喉を締め上げられ、葵は潰れた呻き声を上げた。
 本能的に夜光の腕を払いのけようとしたが、恐ろしいほどかかる力は強かった。葵の腕よりもずっと細い夜光の腕は、どれほどもがいてもびくともしなかった。
「う……ぐぅ……が……ッ……」
 頭が膨れて破裂しそうな異様な感覚が襲い、猛烈な苦しさと共に、きぃんと耳がおかしくなった。
 喉を圧迫され苦鳴も上げられず、苦しさのあまり何も考えられなくなる。手脚が細かく痙攣して、苦痛にじわじわとすり潰されるように気が遠くなった。
 と、前触れもなく、ふっと首から締め付ける力が消えた。
 突然通った呼吸に、大きく息を吸い込むと同時に激しく咳き込んだ。それで正気に戻る。強く咳き込むと腹の傷が痛んで、それにもまた呻いた。
 息も整わないうちに、乱れた朱い髪を加減なく掴まれて、頭を畳に押しつけられた。
「安心なさって下さい。おまえさまを喰いはしません」
 苦痛に歪む葵の顔を覗き込むようにしながら、夜光が静かに言った。
 かろうじで瞼を開けると、すぐ目の前に燐光を帯びて耀く紫の双眸があった。その口元には、相変わらず薄い笑みがあった。
 夜光は葵の手首を押さえつけ、細身の全身をのしかからせた。しっとりとした色の淡い唇が、身動きできない葵の頬にふれ、耳元に辿る。
 痛みと苦しさも手伝い、状況の把握ができなかった葵は、耳朶にふれてきた濡れた粘膜の感触にぞくりとした。
「お、おい……?」
「……喰いはしませんが……さて、どうしましょうか」
 囁きが鼓膜にふれるのと同時に、ぺろりと耳朶を舐める感触があった。びくっと葵は身を強張らせた。
「や、夜光……何を」
 もがいた葵を難なく押さえつけ、夜光はその耳殻に唇を這わせる。耳朶を濡れた舌でからめ取り、耳の縁にくすぐるように舌先をなぞらせ、孔の中にくちゅりと挿し込む。
 しっとりと煽情的に耳を弄ぶその感触と、耳朶にかかる吐息に、葵の背筋にぞくぞくと言い知れぬ粟立ちが生じた。
 葵は焦り、軽く混乱しながら手脚をばたつかせた。
「おい、こら、何をしているッ……放せ、夜光!」
「もう、私の名など呼んで下さいますな」
 夜光は冷えた声で返しながら、さらに唇を葵の首筋へとすべらせた。
 素肌の上を唇と舌が妖しくなぞる感触が、意思に反して葵の官能をくすぐる。葵はますます混乱して声を高めた。
「何の冗談だ、夜光ッ……やめろと言っている!」
 葵はなんとか自分の上にいる夜光をはねのけようとしたが、やはりうまくいかなかった。夜光の力が、あまりにも強い。それを押しのけようすると、さらに息が弾んで傷が痛む。
 葵を押さえつけたまま上体を起こした夜光が、きり、と小さく唇を噛んだ。
「──名など呼んで下さいますな、と言った」
 苛立ったように、夜光の声音が強まった。葵の手首から夜光の手が離れ、思わずほっとしたのも束の間、
「ぐぁッ!」
 脇腹の傷口を着物の上から細い指に鷲掴みにされ、葵は海老のように身を跳ねさせた。
 着物と包帯を隔てても、ぎりぎりと万力のように締め付けてくる容赦のない痛みは尋常では無かった。葵の全身に、たちまち脂汗が浮いた。振りほどこうにも、傷口を掴む夜光の腕はびくともしなかった。
 じきに締め付ける手が離れ、それと共に馬乗りになっていた夜光が立ち上がった。
 身は軽くはなったものの、葵はあまりの痛みにただ呻きながら身体を丸め、傷口を押さえることしかできなかった。あたりに血の匂いが漂い、着物にまで染み出してきた生温かいもので、押さえた手が濡れた。
「う……ぐ、……」
 もうほとんどふさがっていた脇腹の傷を素手で引き裂かれたのだと、理解せざるを得なかった。呻きながら呼吸をするたびに、傷口が痛む。額に吹き出した脂汗が目に染みる。
 傍から夜光の気配が離れ、箪笥か何かを開く音がして、また近くに戻ってきた。葵が動くこともできずに身を丸くして痛みをこらえていると、脇腹を庇うようにしていた腕を掴まれ、引かれた。
「あぅッ……!」
 両手を力任せに引き上げられ、葵は悲鳴を上げた。夜光はそれに見向きもせず、葵の両手首を合わせて腰紐で手早く括った。どうやら先程の夜光は、その紐を取りに立ったらしかった。
 葵の自由を奪ってしまうと、夜光はその身を再び無造作に畳の上に突き転がした。
「抵抗するからですよ。それに……いつまでも私の名を呼ぶからです」
 呟くように言いながら、夜光が再び葵の上に身を被せてくる。
 拘束されたせいばかりでなく、葵はまともに抵抗もできなかった。呼吸をするたびに筋肉が動き、それだけのことさえ傷に響く。瞼を持ち上げることもつらくて、手脚に力が入らない。
「何を……したいんだ……」
 それでも、かろうじで問い返した。さっきから、いったい夜光が何をしたいのか分からなかった。
 夜光は答えず、脂汗に濡れている葵の首筋に指をふれさせ、つう、と伝い下ろした。伝い下ろした指が、抵抗どころか身動きすらままならない葵の着物の襟を掴み、押し広げた。

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