三章 宵闇に夢を見つ (七)

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 葵の上半身には、まだ脇腹の傷を保護するための包帯が巻かれていた。苦しげな呼吸に上下する胸板は、終の涯に流されて一度はかなり薄くなってしまったが、近頃はだいぶ鍛えられて厚みを取り戻しつつある。
 着物をはだけられ、晒された胸元にひやりとした夜気がふれてくると、葵はどうにか薄く目を開いた。
「夜光、何を……」
 抉られた傷口からの出血がひどく、頭がぼやけつつあった。呼吸をするだけでも苦しくて、全身が畳に沈み込みそうに重い。
「呼ぶなと言っているのに。……分からないお人ですね」
「いッ……!」
 はだけられた胸元から覗いていた乳首をいきなり加減なく抓られ、痛みと驚きで葵は声を上げた。夜光はその様子を眉一つ動かさずに見下ろしたまま、爪を立ててさらにきりきりと小さな突起を締め付けた。
「い、いつッ……ッあ、……や、やめ、ろっ……!」
 ちぎれそうな程に小さな肉を捻られ締め付けられる痛みは耐え難く、葵は身を捩って悶えた。手首を縛られている上に、傷が痛んで思うように腕を動かせず、身を庇いたくても庇えない。
 そのうち夜光の指は離れたが、かわりにそこに濡れた生暖かい感触がふれてきて、葵は息を切らしながらぎょっとした。
「あ……」
 夜光が葵の胸元に口付け、今しがたまでさんざん苛んでいた突起に舌を這わせていた。纏い付くようにねっとりと、見るも妖しい舌と唇の動きを見せ付けるようにして。
 ぴちゃりぴちゃりと音を立てて嘗められるうちに、葵の乳首はたちまち硬く充血してきた。それと共に、夜光の掌が葵の上半身から腰まわりを撫で始める。あからさまな性感の震えが生じ、葵の身に鳥肌が立った。
「やめろ、何をしてる……やめろと、言っているっ……」
 身体に生じた反応と、素肌に感じる夜光の体温と感触、何よりこんな夜光を目の当たりにした動揺とで、葵の頭にかあっと血が昇った。
 夜光は構う素振りもなく、葵の乳首に薄桃色の舌をぺろりと絡ませ、転がして遊ぶ。そればかりかもう片方の突起にも、つ、と指先を向かわせた。
 ふれられる前から、そちらの突起もぷくりと勃ち上がっていた。そこに夜光のなよやかな指がふれ、かたちをなぞるように捏ね始める。
「う、く……」
 葵は咄嗟に奥歯を噛んで声を殺したが、下半身が疼いて明らかに股間に血流が集まり始めているのが分かった。
「おまえさま、ご無沙汰なのでございましょう? もうこんなに、下が膨れておりますよ」
 葵の胸元を弄りながら、夜光がするりとその股間に手を滑り込ませた。着物の間から差し込まれた手が、下着の上から股間の膨らみをなぞり、そこに生じた熱い痺れに葵はびくりと腰を揺らした。
「さっ……さわる、なッ……」
 動揺し拒む声に構わず、夜光は喉の奥で笑いながら、硬さを増しているものを布越しにゆるゆると擦って、絶え間ない焦燥感を与えてくる。
 夜光は葵の腰から帯を解き、着物の前を大きく割りはだけさせ、慣れたようにするりと下着も解いた。
 差し込む青白い月明かりの中に、少し肉が落ちているものの、美しく張り詰めた葵の若い裸体が晒される。夜光に抉られた脇腹の辺りには、月光のせいで深い紫色にも見える鮮血が染み出していた。
「な、なにをっ……」
 わけも分からず膨れた性器まで晒され、葵の目許が羞恥に染まり、歪んだ。夜光が何をしたいのか、何をする気なのか、さっぱり分からない。
 葵は痛む身体に鞭打って懸命にもがいたが、あっさりと押さえつけられ、そして股間で既に充血している陰茎を握られて、あえなく全身を突っ張らせた。
「くぅッ……」
 夜光の柔らかな指が、葵の中心で充血しているものを握り込み、ゆるゆると上下に扱き始める。そして夜光は躊躇いもなく葵の腰の上に身を屈め、勃起した先端に柔らかな唇を寄せた。夜光の体温と共に、濡れた舌がぺちゃりと剥き出しの鈴口に絡む。恐ろしいほどの快感が、痺れるように広がった。
「や、やめ、ろっ……」
 耳朶まで真っ赤に染まり、葵は信じられない思いで歯を食いしばった。
 夜光に性的なものを感じたことがない、とは言わない。感じるなというのが無理であるほどに、夜光は嫣然と美しかった。
 だが葵は、夜光が「花」すなわち男娼と知っても、決して夜光相手にそういう想像をしなかった。夜光を想う心は穢れない白い珠のように胸の奥に抱かれ、むしろ淫らな想像をすることが罪である相手のようにすら思っていた。
 夜光は葵の動揺と抵抗になど構わず、その昂ぶり張り詰めた尖端に軽く口付けた後、舌と唇でぬるぬるとなぞり始めた。
 鈴口から溢れ始めた蜜と唾液を絡めるように、ときに舌先でくすぐるように。指で扱くのに合わせた巧みな刺激は、葵の腰を瞬く間に燃え上がらせた。終の涯に流されてきてから誰とも交わりを持っていない身体は、若いだけに顕著な反応を止められなかった。
「う、っく……」
 葵は快楽と傷の痛みの双方に息詰まりながら、全身に力を入れて反応を抑えようとした。しかしただでさえ生理的な反応が強くなっているところに、まさしく性技を売り物にしている夜光の技巧は、残酷なほどたやすく葵の身体を蕩けさせた。
「く、っ……う、ぅ」
 きつく奥歯を噛み締めていないと、女のようにあられもない声が出てしまいそうだった。葵が反応した箇所を夜光は見逃さず、加減を伺いながら的確に指で舌で責めてくる。
 気が付けば葵の身を濡らす汗は快楽に震える熱いものに変わっており、そのうち夜光に喉の奥まで咥えられ強く吸い上げられると、たまらず腰がびくびくと動いた。
「あ、あ……あッ!」
 熱く怒張したものがついにはじけそうになると、夜光はそこでためらいなく刺激を止めた。そのかわりに夜光の白い指が、葵の脇腹の傷口にぐちゅりと捻じ込まれた。
 開いた傷口を、ゆっくりと無造作に抉られる激痛に、葵は身を仰け反らせて絶叫した。
 痛みのあまりその陰茎が萎えるのを見届けると、夜光は白い指を傷口から引き抜く。そしてまた、葵の萎えたものに舌と指を使い始めた。
 その仕打ちが、二度、三度、さらにそれ以上繰り返された。そのたびに葵は仰け反って痙攣し、いつしか声も反応も抑えることができなくなっていた。

 激しい苦痛と快楽を間断なく繰り返されるうちに、葵は次第に何も分からなくなってきた。
 大きく体力を削られて頭が朦朧とし、幾度も抉られた脇腹からはじくじくと血が流れ続けている。
 夜光になすすべもなく翻弄されながら、きっとこのまま自分は殺されるのだろうと、ぼんやり思った。夜光は「喰わない」とは言っていたが、だからといって「殺さない」というわけではあるまい。
 こんなふうに、まるで弄ぶように嬲られながら、じわじわと殺されるのだろうか。喰われるのとどちらが楽なのだろうと、葵は霞む頭で考えていた。
「ご気分はいかがですか、葵」
 唾液と淫蜜にまみれて膨れ上がった葵の陰茎を嘗めながら、夜光が薄笑みを浮かべた。葵のそこには、血で汚れた夜光の指から移った赤も絡んでいた。
 何度も達する間際に押し上げられ、傷を抉る激痛で萎えさせられ、また無理やり高みに引きずり上げられる、延々と繰り返される地獄のようなそれに、疲弊し切った葵はもう瞼も開けていられなかった。全身がびっしょりと汗に濡れ、苦悶に眉根がきつく寄せられて、乱れた呼吸に胸が上下する。
「う……あ……」
 どくどくと脈打つ陰茎は灼熱し、夜光にただ手を添えられただけでもびくんと跳ねた。苦しげな葵の様子を眺めながら、夜光はまた、その昂ぶりにつぅと舌を伝わせた。
「私はこういう生き物なのですよ。おまえさまには想像もつかなかったでしょうが」
「うぁ、ああぁッ」
 ぬちゅりと勃起を扱かれて、ぐったりしていた葵が引きつりながら、力無く腰をくねらせた。既に意思の下を完全に離れている身体は、どんなに苦しいと思っていても、刺激されれば反応する。しかしほとんど力の残っていない全身が既に悲鳴を上げており、身動きすればさらに傷が痛んで、葵は呻きながら苦しい息遣いを繰り返した。
「懇願して下さいませ、葵。私に、どうかもう解放してくれと」
 少し扱いただけで手を止め、夜光は甘いほどの声で囁いた。
「この醜くおぞましい化け物に、身も世もなく縋り付いて下さいませ。助けてくれと、あられもなく懇願して下さいませ」
 夜光の声をどこか遠くで聞き、苦しく滾り切った自分の身すらも他人のもののように感じながら、葵はうっすらと目を開いた。
 夜光が何を考えているのか。何をどうしたいのか。それが葵には、まだ分からなかった。これほど追い詰められても、これが夜光の本意であるとは、葵には何故だか思えなかった。
「おまえの……したいように……すれば、いい」
 叫びすぎて嗄れた声で、葵はやっと言葉を返した。少し喋るだけでも咳き込んで、今にも意識が落ちそうだった。
「喰いたければ、喰えばいい……おまえの、好きにすればいい」
 ぼやけた中に、胸を締め付ける様々な感情が湧き上がる。じりじりと蝕むように押し寄せたそれに、葵は重い瞼を閉じた。
 ──どうせもう、懐かしい故郷に帰ることもできない。終の涯にいても、正真正銘の独りでしかない。
 食事をして呼吸をしていれば、成程それで生きてはいける。だがこんな身の上の自分がそんなふうに虚ろに生きて、それでどうなるというのだろう。それならばもうここで、先に逝った皆と共に冥土で暮らす方が、はるかにましではないか。
 この苦痛は、皆を巻き込み死なせてしまったことの罰だ。それから、貴彬を死なせる一端を担ってしまったことへの罰だ。あのいくさの中で死んでいった皆や貴彬の苦痛より、この苦しみのほうが、まだずっと優しいだろう。
「……おまえさまは、どうして……」
 そんな葵の様子を眺めながら、夜光がぽつり、と呟いた。
 葵はもはや焦点が合わず、瞼を持ち上げて夜光の様子を確認する余力もなかったが、そのかすかに震えるような声音に、おやと思った。
 何故そんな、哀しげな声を出しているのだろう。夜光は葵を殺したいのではなかったのだろうか。
 紫の瞳を鬼火を宿したように耀かせた、恐ろしいが美しくもあった夜光の姿が、眼裏に浮かぶ。葵を哀れな仔兎のように難なく震え上がらせた、それはまさに魔性そのままの姿だった。
 ……それなのに、目を閉じているとそんな夜光は消え失せ、春陽の中で共に過ごした姿ばかりが浮かんでくる。
 ふと、青い紫陽花の群れの中にひっそりと佇んでいた夜光の姿が甦った。唇が青ざめるほど雨に濡れながら、まるで最初に出会ったときのように、美しいが哀しい瞳をして。
 あのとき夜光は、あそこで何をしていたのだろう。憂いを含んだあの眼差しで、何を考えていたのだろう。──そういえばあれは、夜光が貴彬を喰った翌朝の出来事だったのだ。
 ……ああ。そうだったのか。
 唐突に葵は、春に淡雪がとけるように理解した。
 あれほど夜光を恐ろしいと感じたのも、何のことはない。自分は夜光自身が恐ろしかったのではなく、「夜光を失うこと」が恐ろしかったのだ。
 あの魔性の姿も、哀しげな天女を思わせる姿も、どちらも夜光なのだろう。葵の知らない夜光も、きっとまだ他に居る。だが葵の知っている夜光も、間違いなく居る。
 なぜ、夜光のことが分からないなどと思ってしまったのだろう。諦めてしまえば、分かり合えなくて当たり前ではないか。人間同士だとて、拒絶しあえば分かり合える道理が無い。
 夜光のことを知りたいのなら、夜光の声に、夜光の語る言葉に、ただもっと静かに耳を傾けるべきだったのだ。そんな簡単なことが、なぜ分からなかったのだろう。
 今からでもそれを伝えたいと思っても、もう手遅れだろうか。その哀しみの正体を知りたい、と思うのは身勝手だろうか。
 呼吸もままならぬ中、次第に五感が薄れ、奈落に堕ちるように混濁してゆく意識の中で、葵はそんなことを思っていた。


 東の空がうっすらと白み始めた明け方。障子の締め切られた縁側を、静かに歩んでゆく姿があった。
 白い生地に金糸の刺繍を施した着物を纏い、白藍しらあい色の長衣ながぎをふわりと羽織り、艶やかな黒髪を腰まで流した姿。
 すらりとした上背の、長、とだけ呼ばれているその人は、一枚の障子の前に立ち止まる。その整った指が伸び、何の物音もしない静寂の中、すっと障子を開いた。
 さして広くもない部屋の中に、身動きする姿はない。ただ畳の上に、死んだように横たわっている姿があった。
 長い朱色あけいろの髪を散らし、半ばうつ伏せた姿は、着物を着てはいるが帯を解かれはだけられていた。
 葵、という名を持つその若者は完全に意識がなく、首には手で絞められた痕が痣になって浮いていた。
 傍に寄って確認すると、息はあったが弱く、ひどく顔色が悪い。もともとはきちんと結われていたのだろう髪は、ほとんど解けかけていた。その両手首は襦袢の腰を締める腰紐で括られており、畳の上には赤黒く乾きかけた血痕がいくつも散っていた。
 べたりと血で汚れた葵の着物を、長はそっと持ち上げる。その無惨な脇腹の傷口を確認すると、すんなりと伸びた黒い柳眉を痛ましげに寄せた。
「すみませんねぇ……うちの子がひどいことを」
 呑気にも聞こえるような呟きをこぼすと、長は葵の手首から紐を解いた。ぐったりとしたその身体を、事も無げに抱いて立ち上がる。
 さらさらという衣擦れの音と共に、長は葵を抱いたまま、部屋を出て歩み去っていった。
 主のいない血の痕だけが残る部屋の中に、冷気を含んだ明け方の空気が流れ込む。それは残っていた血の匂いを、少しずつ薄れさせていった。

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