三章 宵闇に夢を見つ (九)

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「私達の世界にいにしえより伝わる秘宝のひとつに、冥魂珠めいこんじゅというものがあります」
 長は煙管盆を傍らに置き直すと、再び長煙管を取り上げながら口を切った。
「いつ誰が造ったものなのかは分かりません。昔は百粒あったそうなのですが、今はその多くが喪われています」
 唐突に思えるその内容に、葵はきょとんとした。
「秘宝、ですか?」
 長は脇息にゆるりと凭れ、婉然とした仕種で煙管を咥えた。白い煙を燻らせて、頷く。
「珠に願いをり憑かせ、贄を捧げることで願いが叶う。その性質ゆえ、昔から陰惨な逸話の絶えなかった代物です。この冥魂珠のうちの十粒を、今は夜光が持っています」
 突然結びつけられた名前に、葵は目を丸くした。それと共に、贄、の一言が鮮烈に焼き付き、思わずごくりと喉を鳴らした。
 黙って耳を傾けている葵に、長は淡々と話を続ける。
「そもそも夜光に冥魂珠を授けたのは、私の古い知り合いなのですがね。力だけはありますが、長く生き過ぎて、いささか性根の曲がってしまった天女です」
 長にそこまで言われるとは、いったいどれほどの力を持ち、そしてどれほど長く生きている天女なのだろう。葵は思ったが、今この場には関係のない話ではあるので黙っておいた。
「彼女が昔この最玉楼を訪れた折に、夜光が接触を持ちました。半分は人であることを棄てて、完全な妖になりたいと、彼女に願い出たのです」
「完全な妖に……」
 それが、夜光がひそかに抱いていた望み。思わず呟いた葵に、長は頷いた。
「長く生きた歳月、あるいは恨みや嫉妬という強い負の情念が、人や動物を自ずと妖へと変容させることはあります。ですが夜光の場合は、そうはならなかったのですよ」
 夜光は自分を虐げた人間達を強く憎み、嫌悪してはいるが、負の情念に飲まれるほどすべての人間を恨んでいるわけではない。また、歳月を経ることで変容できるほど、長く生きているわけでもない。
 ゆえに、半ば伝説の存在だった天女が最玉楼に逗留していると知り、思いあまって彼女を頼ったのだろう──そう長は語った。
 長の話を聞きながら、葵はふと素朴な疑問を抱いた。
「夜光の願いを、あなたが叶えてやることは出来なかったのですか?」
 長はこう見えて、この終の涯という世界ひとつを守護している、途方もなく強大な力を持つ妖だ。素人考えかもしれないが、そんな長であれば夜光を妖に変えることも出来そうに思えた。
「出来ない。とお答えしておきましょうか」
 煙管を手に葵をちらりと見た長の眼差しは、楽しげには見えなかった。
「第三者によって生まれ持った性質を根本から変質させることは、断理だんりの法と呼ばれます。ことわりを断つ、という言葉の通り、それは当人に無理な変異を強いることになり、必ず何らかの代償を伴うものなのです」
「何らかの代償?」
「たとえば人格を失う。感情や意思を失う。姿形そのものが歪む。あるいは変異に耐え切れずに死ぬ。そういった形で、その者がその者であった理や由縁それ自体を、代償として喪うことになります。……そんな真似を、私はとてもあの子に出来なかった」
 そう言ったときばかりは、長は苦々しげだった。想像しただけで悪寒の走る話に、葵も思わず身震いした。
 長は煙管を咥え直し、ふぅと細く紫煙を吐いた。
「話を戻しましょう。妖になりたいと願い出た夜光に、かの天女は断理の法を用いることはしませんでした。そのかわり、あの子の首に十の冥魂珠を掛け、あの子もそれを受け入れました」
 再びあげられたその名称に、葵も気を取り直した。
「その、冥魂珠とはいったい?」
「もともとは、捧げた贄を呪力に換え、その力で望みを叶える類いの呪具です。ただその特異な性質上、昔からしばしば異なる種への変容を叶えるために用いられてきました」
 贄を捧げる、という不穏な表現がやはり気になり、葵はじっと長の言葉を聞いた。
「冥魂珠を用いるときは、まず仲介者を立てて冥魂珠と契約し、願いを依り憑かせます。それによって冥魂珠の呪力が契約者と一体化し、断理の法とは為らず、代償を伴うことの無い変容が可能となるのです」
「はい」
 そのあたりの仕組みについては、聞いても正直葵にはよく分からなかった。だが続いた長の言葉に、さわりとうなじが粟立った。
「冥魂珠は、呪力を満たすために贄を要求します。その贄とは、まことの心と契りと命。珠の主がまことの心を持った相手と契ったとき、贄と判じて珠が割れる。呪力を満たすに必要な数だけ珠が割れれば、それで願いが成就します」
「まことの心……?」
 貴彬のことを思い出し、葵は嫌な感触と共に、その言葉の意味を予感した。長が黒髪をさらりと揺らし、紅い刺青に彩られた美しい目許を巡らせた。
「つまり、自分を心から恋い慕ってくれる者と契れば良い。あの子がやっているのは、そういうことです」
「……そんな」
 長の言葉の意味を理解するにつれ、そのおぞましい仕掛けに葵は戦慄した。衝撃のあまり、言葉を継ぐことが出来なかった。
「とはいえ勿論、そこまで深く想われるのは難しいこと。なかなか気の長い、骨の折れる話ではありますがね」
 何でもないことのように語っている長を、葵は信じられない思いで見た。人と妖とでは常識が違うことは、もう分かったつもりでいたが。
「では、夜光が貴彬殿を喰った、というのは……?」
「喰った、というのはいささか語弊があるでしょうねぇ」
 長はどこかおかしそうに答えた。
「それにあの御仁は、夜光に大層ご執心でしたから。いずれはこうなるだろう、とは思っていました」
 鷹揚に言う長に、葵は初めてぞっとした。どれほど穏和で優しげに見えても、やはりこの御仁はまごうかたなき妖なのだ、と実感する。
 それと共に、貴彬のことを思うと、やりきれない怒りすら湧き上がってきた。
 今の話が本当であるのなら、貴彬はまさに命を賭けて夜光を想っていたのだ。夜光はすべてを承知で貴彬の心を弄び、挙げ句に自らの願いの為に命を奪ったことになる。
 その夜光の所業を、人として自分は許せるのかと、己に問う。人として──そう、まさに「人として」だ。葵は人間であり、まして貴彬のことが嫌いではなかった。どうしても感情が貴彬の側に立ってしまう。
「……惨い」
 許せる、とは、どうしても言えなかった。こんなことを長のように平然と話すことも、到底できない。
「あなたは、夜光のそれを容認しているのですか?」
 問うた葵を、長は煙管を手に、眉ひとつ動かすでもなく見返した。
「容認も何も。あの子がそうすると自分で決め、自分の責任の中でやっていることに、私が何を干渉する必要があるのです」
「罪も無い者の命を奪うことでも、ですか?」
「生きるために他の命を奪うことなど、誰でも当たり前のようにしているではありませんか」
「それとこれとは」
 違うだろう、と反論しかけた葵を、長がこれまでにないほどぴしゃりと遮った。
「同じことです。夜光にとっては、生きるために必要なことなのですから」
 葵は言葉に詰まった。普段が終始おおらかなだけに、長が少しでも口調を強めると、それだけでただならぬほど迫力が増した。
「それは……」
 言い返しかけ、しかし結局言葉が出ず、葵は唇を噛んで下を向いた。
 ここで感情的になって葵の常識だけで判断していては、夜光を突き放したときと何も変わらない。第一いくら納得できなくても、夜光のことで長を責めるのはお門違いだ。
 それに長はまだ、夜光についてすべてを話していない。そうまでして妖になることを願った夜光にもまた、葵には想像し得ぬ物思いがある。何があっても目を逸らさず一切を受け入れると、自分でも決めたではないか。
 冷静になれ、と己に言い聞かせながら、深く息を吸って吐いた。
 長はそんな葵を、脇息に凭れたまま眺めていた。手の中にある煙管を、細く長い指が、手持ち無沙汰のようにくるりと回した。
「……そうですねぇ」
 おっとりと長が呟く。葵の青みがかった瞳を、混じり気のない黄金色の宝玉のような瞳が、正面から見据えた。
「いっそ、あなたも垣間見てみますか? あの子の見た地獄を」

 長の黄金の瞳に見据えられたかと思うと、葵は奇妙な眩暈に襲われた。視界が回転し、突然足下が抜けて何処かへ吸い込まれるような感覚に、思わず目を瞑る。
 自分が真っ直ぐに立っているのかも分からず、だがその奇妙な感覚は意外にすぐにおさまった。若干のふらつきを覚えながら瞼を持ち上げたとき、葵は驚きのあまり目を瞠った。
「……ここは?」
 黴臭く、すえた臭気が鼻をつく。周囲は暗く、じっとりと湿った空気が嫌な感触で肌を撫でた。
 今まで清潔で明るい長の部屋にいたはずなのに、葵は見たこともない場所に佇んでいた。狭く暗く空気の澱んだ、締め切られた部屋の中。足元には剥き出しの土。高いところに見える、ごく小さな明り取り。
「土蔵か……?」
 よく状況が飲み込めなかったが、徐々に目が暗がりに慣れてくる。小さな明かり取りから入り込む光に助けられ、狭い部屋の中央あたりの柱の前に、何かがうずくまっているのが見て取れた。
 その何かから伸びた荒縄が、柱に括りつけられている。獣か何かが囚われているのだろうか、と思ったとき、身じろぎひとつしなかったそれが、びくり、と突然震えた。それにやや遅れて、荒々しいいくつかの足音が外から聞こえてくる。
 何事かと思う間もなく、土蔵の扉が外から開かれた。暗がりに慣れた目に、外から入り込む光は眩しく、そこに現われたいくつかの人影が逆光になった。それは農民らしい、貧しい身なりの男女数人だった。
 彼らはずかずかと入り込んでくると、葵には見向きもせず、柱に繋がれた獣のもとへ向かう。獣は明らかに怯え、小刻みに震えていた。その異様に険悪で物々しい雰囲気に、葵も思わず腰が引けた。
 だがやはり、彼らはまるで見えていないように、葵に視線も向けようとしない。
 男女は柱に繋がれた小さな獣を取り囲むと、訛りの強い言葉で、何か刺々しく声を発した。茶色い塊のようにうずくまった獣を、口々に罵りながら蹴りつけ、棒や枝で打つ。
 葵は思わず顔をしかめ、だが次の瞬間目を見開いた。
「……え?」
 違う。あれは──人の子だ。
 茶色い獣に見えたのは、かろうじで身に纏った襤褸も、折れそうに細い手脚も、何もかもが垢じみて泥まみれで、ぼさぼさの髪もすっかり泥色に固まっていたからだった。
「おい、何をやっている!」
 思わず声を張り上げた。老人のように骨と皮ばかりに痩せ細った小さな身体は、既に素肌の色など見えない。きっと普段からこうして折檻されているのだろう、生傷だらけ痣だらけの上、細い首に荒縄をかけられて柱に繋がれている様子は、明らかに尋常ではなかった。
「何をやってるんだ! やめないか、おまえ達!」
 葵はそこにいる男女に掴みかかろうとしたが、伸ばした手がすっと虚空に突き抜けてしまった。
「これは……」
 幻なのか。それとも、奇妙な夢でも見ているのだろうか。
 それにしては、自分から関われないことを除いては一切が克明で、臭気までもが生々しい。
 繋がれた子供は、出来る限りのように身を小さく丸め、蹴られ打たれるたびに悲鳴や唸り声を上げる。それはまさに怯えた獣の声だった。
 さんざん折檻された末に投げ与えられた、食べ物とも言えないようなひどい食べ物に、子供は男女が立ち去ってから必死でむしゃぶりつき、器の泥水を啜った。その様子も、人間の子供というより獣の動きだった。
「……言葉も知らないのか」
 文字の読み書きが出来ない者は、農民には珍しくもない。だが人の子であれば言葉くらいは喋れるもの、と思っていた葵には、その姿は衝撃だった。
 わけが分からないまま、どうやら土蔵の中の時間は、刻々と過ぎてゆく。視界が歪んだかと思うと、違う日の様子ではないかと思う風景が、次々に立ち現れる。
 貧しい身なりの人々が、老若男女問わず、入れかわり立ちかわり土蔵に現われた。痩せ細って関節ばかりが浮き上がり、怯えきって震えている子供を、憎々しげに、まるで鬱憤を晴らすように折檻し続ける人々の様子に、葵は胸が悪くなってきた。
 一方で人々の手脚も、現われるたびに次第に痩せ細っていった。それにつれて、繋がれた子供への扱いも過酷さを増してゆく。
 そのうちなぜか、子供は目隠しをされたままになった。うずくまる小さな身体には生傷や痣がますます増え、明らかに骨が折れて手脚や指の形がおかしくなっていることもあった。
 子供が血を吐いても折檻は止まず、そればかりか「吐いたもので汚れた」と、ますます仕打ちはひどくなる。ときには「お清めだ」といって松明が押しつけられることもあった。伸び放題の爪が掠ったといえば、爪を剥ぐ。子供が獣じみた声で絶叫すると、取り囲む人間達は、小さな口に襤褸布を押し込んだ。
 見るに耐えない狂気じみた虐げ方に、葵は吐き気と動悸がした。
 たまらずに幾度も止めに入ったが、どんなに腕を伸ばし、声を張り上げても、一切が素通りしてしまう。まるで、延々と恐ろしい悪夢を見ているようだった。落ち窪んだ目ばかりを爛々と輝かせた人間達の形相は、常軌を逸した悪鬼そのもので、葵は幾度となく戦慄した。
「何なんだ、これは」
 泥色の子供はもはや抵抗する力もないらしく、なすがままになっていた。そのどろどろに絡まった髪の間から、そのとき不意に見えたものに、葵は目を疑った。
「……角?」
 額に、左右一本ずつ。ぼさぼさの髪にほとんど埋もれてしまっていて見えなかったが、明らかに小さな角がある。
 ある予感にかられて、葵は凝然と小さな子供の顔を見た。汚れて伸び放題絡まり放題の、これも本来の色など到底分からない髪の下にある顔。だがそれは、襤褸布を巻いた目隠しのせいでよく見えない。ふと、この目隠しは「子供の視界を隠すため」ではなく、大人達がこの子供の顔を見たくないせいなのではないか、と思った。
 そのとき、続く折檻のうちに緩んでいた目隠しが、はらりと落ちた。ぼさぼさの髪の下でうっすらと開かれた瞳に、葵は硬直した。
 感情もなく虚空を見ている──見覚えのある紫苑の色。
「まさか……夜光……?」
 あまりのことに、声が上ずった。

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