三章 宵闇に夢を見つ (八)

 ふわりと、香草の爽やかな匂いが鼻先をかすめた。
 身体中がぽかぽかと暖かく、まるでのんびり湯にでも浸かっているように心地良い。
 ゆっくりと意識が浮上し、葵は薄く瞼を開いた。白く明るい視界の中に、金色に輝く壮麗な花園や幻獣が見える。じきにそれが、梁の巡る高い天井に描かれた画だと気付いた。
 記憶にある、どの天井とも違う。頭がぼんやりしていたが、そのぶん視界の明るさと暖かさ、漂う優しい香気が身に染みた。葵は再び目を閉じ、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
「お目覚めですか」
 そこに、覚えのある柔らかな声が聞こえた。穏やかさと朗らかさを併せ持つ抑揚が、聞く者の心にふわりと沁みて和ませる声音。
 葵は横になったまま、声の方向に首を傾けた。少し離れたところに、朱い脇息に凭れて見覚えのある人物が座っていた。
 数えるほども顔を合わせたことはないが、その黒髪の人物が皆から「長」と呼ばれていること、最玉楼の楼主であり終の涯の守護者であること、そして夜光の義理の親であることは、よく覚えていた。
 長は金糸で豪奢な刺繍を施された白い着物を纏い、その上から羅衣のような薄手のふわりとした長衣を羽織っている。羽織った白藍の色が目に優しく、また自分に向けられている白い面差しが天人のように美しく柔らかく、葵は安堵の中で、ああ似ているな、と思った。
 今葵を見守るようにしている長と、その養子であるという夜光。姿かたちが似ている、というのではない。纏う穏やかな空気や、しっとりと華やかな色香、そして下賎のものがふれてはならないようなたおやかな気品が、二人はよく似ている。
「お身体の具合はどうですか? 傷はある程度ふさいだので、だいぶ楽になっているとは思うのですが」
 長は手にしていた長煙管を口元に運び、白く光る紫煙を細くくゆらせながら、にこりと笑った。
 その黄金色の切れ長の瞳を、目許に刺された一筋の紅い刺青が、いっそう艶やかに引き立てている。腰まで長く流れ落ちる見事な黒檀の髪を、一房だけ纏めて留めている黄金細工の髪飾りは、華やかな長に良く似合っていた。
 長に問われたことで、葵は何があったのかを徐々に思い出した。
 気持ちの良い寝床と同じく、葵は清潔な寝間着に着せ替えられていた。着物の下の身体には、手当てを施した上で包帯が巻き直されている。
 少しの怠さがあるだけで、軽々と身を起こすことができた。傷が既にほぼ痛まないことに驚きはしたが、夜光も弱った身体を癒やす不思議な力を持っていた。この長と呼ばれるいかにも浮世離れした存在であれば、きっと夜光以上にそういった不思議を起こすことなど容易いのだろう。
「嘘のように楽です。ありがとうございます、長殿。あなたが助けて下さったのですね」
 寝床の上から、長に深く頭を下げた。長は煙管の灰を落として煙草盆に置くと、傍らにあった膳を持ち上げて、葵の側まで運んできた。
「それは良かった。なぁに、私はたいしたことなどしていませんよ。あなたの身体が癒えようとするのを、少しばかり手伝っただけのこと」
 長は膳に伏せてあった椀を起こし、土瓶から湯気の立つ薬湯を注ぐ。それらの何気ない仕種の何から何まで、簡単な指先の動きまでもが、ひとつひとつ絵になるほど端麗だった。
「喉も渇いているでしょう、どうぞお飲みください。味はそこまで悪くないはずです」
 勧められるままに口に含んだ薬湯は、柑橘系の爽やかな香りの中に、蜂蜜だろうか優しくまろやかな甘味があった。じんわりと暖かさが身体に染み渡ってゆき、葵はほっと息を吐いた。
 見るともなしに眺めてみると、葵の使っていた部屋よりも、この部屋はずっと広かった。畳敷きの部屋ではなく、広い板敷きの間で、葵の横になっている寝床や長の座っているあたりには畳の地敷が敷かれている。
 立てられた美しい几帳や屏風が、広々とした空間を仕切っているようだ。優雅なそれらの隙間から、立派な筝や琵琶が見え、描きかけであるらしい水墨画が広げられているのも見えた。
 天井は高く、壁はとろりとした白塗り。香炉から清々しい薫りが仄かに漂い、広廂の手前には御簾が巻き上げられている。大きく開け放たれた半蔀からは、晴れた空と青々とした葉桜が覗いていた。
 全体に明るく開放的な、なんとも雅で安らぐ空間に、葵は気が抜けてしばし惚けていた。
 そういえば、長は最玉楼の楼閣ではなく、離れの御殿で暮らしていると聞いた覚えがある。どうやらここは、その御殿の一角であるようだった。
「落ち着く場所ですね……」
 呟くと、長は脇息に凭れながら笑った。
「この館の中で、いちばん気持ちの良い部屋です。本殿は、私にはどうも賑々しいのですよ。なにぶん年寄りなものですから」
 妖は見た目からは実年齢の判別がつきにくく、ましてこの終の涯の長ともなれば、どれほどの昔から生きているのかも分からない。と頭では分かっていても、そこでそうしている長は、年齢不詳の印象こそあれ、葵の目からは典雅な麗人にしか見えなかった。
 なので葵も思わず笑い、几帳の隙間から見える楽器や水墨画に視線を向けた。
「それに、雅な趣味をお持ちですね。そういえば、長殿はどんな楽器もたしなまれると伺ったことがあります」
「たいてい暇人ですからね、私は。いずれも手遊てすさびですが、なんでもやってみるのは楽しいものですよ」
 ほろほろと花が咲くような調子で、長はよく笑う。匂い立つばかりの気品がありながら近寄り難さを感じさせないのは、長にまったく気取りがなく、いかにも自然体で寛いでいるせいだろう。
「絵や詩歌に、歌舞音曲……神々や妖の中にも数多くの名手がおりますが、人の子の中に稀に現われる天賦の名手は、それらに勝るとも劣りません。むしろ凌駕することさえあります」
 長はのんびりと語り、葵はその柔和で心地良い声音に、思わず聞き入った。
「そういうものなのですか」
「ええ。いたずらに長く生きる者と、刹那のうちに研ぎ澄ませて生きる者との、覚悟や密度の差なのかもしれません。ゆえにそういう人の子は、よく神々や妖に愛でられ、攫われもします」
「確かに……天才と謳われる方々ほど、不思議と姿をくらましてしまったり、長生きはしないことが多い気がします」
「私も昔、どうしても笛の手習いをしたい人の子がいて、攫ってきてしまったことがありましてねぇ。たいそう泣かれて困りました。あまりに泣くので、仕方無く人の里に帰しましたが……まあ、あれは良くなかったと、今でも思っておりますよ」
「はあ」
 悪びれもせずに笑う長に、それは泣くだろうと、葵は苦笑いした。
 長はのんびりとした調子で、さらに幾つか「人」や「人の世」に関わったときのことを話して聞かせた。ときには人間や、さらには見目麗しい女性に変化へんげして、風流人や時の権力者の館などに紛れ込み、遊興に耽ったり悪戯をして惑わせたこともあったらしい。
 それらの一切が、どうやら長にとっては「娯楽や戯れ」であったようだ。葵にしてみればとんでもない内容ばかりだったが、しかし楽しげに語る長はなかなか話し上手で、いつの間にかすっかり引き込まれていた。
 ひとしきり驚いたり笑ったりしてすごした後、葵はふと、長の金色の眼差しが自分を見つめていることに気が付いた。
「いかがですか、葵殿。そろそろ、あちらが恋しくなってきましたか?」
 穏やかさはそのままで問うた長に、葵はしばし返答に詰まった。
 あちら──すなわち蓬莱。人の世。
「それは……恋しく思わない日はありません」
 恋しさは常にある。懐かしく思わないわけがない。
 気持ちが沈むと共に、夜光との出来事も甦った。
 夜光に強く締められた喉が狭まり、ほとんど癒やされたはずの傷が重く鈍く痛んだ気がした。どんなに明るく気持ちの良い部屋で笑っていても、それは腹の底からのものには成り得なかった。
 うつむいた葵に、長は慈しむような、少し哀しげにも見える眼差しを向けた。
「葵殿。実は、お話ししたいことがあるのです」
 長は脇息から身を起こした。口調も表情も変えぬままではあったが、そこにはあらたまった気配があった。
「話したいこと?」
「はい。私があなたをお送りして差し上げますから、どうか蓬莱に……人間の世に帰っていただきたいのです」
 さらりと告げられた言葉に、葵は数秒遅れて息を呑んだ。

 長であれば葵を送り帰せると、夜光が以前言っていたのは覚えている。だがそれは、望んではならないことだった。
 葵があちらに帰れば、また望まぬ争いの火種になる。そうなれば、また人が死ぬ。自分が死ぬことは怖ろしくはなかったが、誰かをこれ以上巻き込むことはしたくなかった。
「それは……」
 そんな苦渋の滲んだ葵の様子に、長は静かに続けた。
「勝手ながら、葵殿の生国で何があったのか調べさせていただきました。あなたにも、色々な事情がおありなのでしょう」
「…………」
「葵殿が蓬莱に戻った暁には、過去の一切を捨てて、新たな土地で平穏に暮らすことができるよう取り計らいます。何か困ったことがあれば、私に助けを求めていただいても構いません」
 それは魅力的な申し出ではあった。もう故郷の地を踏むことはできずとも、人の世に帰り、当たり前の人間として生きてゆけるというのは。
 あちらにいれば、こちらにいるよりも故郷の様子を知ることは出来るだろう。遠くから故郷を見守りつつ生きてゆくことを、長が保障してくれるというのは、悪くない話ではある。
 ──だが。
「ありがたい申し出ですが……なぜ急に?」
 こちらに流されて間もない頃に言われていれば、さして悩まずに頷いたかもしれない。だが今それを言われても、到底すぐに頷くことなどできなかった。
「このようなことは、私は本来であれば誰にも言いません。この終の涯は、訪れるのも去るのも自由ですから」
 長は黄金色の瞳の上に、長い睫毛を翳らせた。
「ですが、あなたがこれ以上ここにいるのは……あなたにとってもあの子にとっても、望ましい結果にはならないでしょう」
 その静かな長の言葉に、葵は息を詰めた。火月と水月も、葵に「もう終の涯にいてはいけない」と言った。
「……夜光のことですか?」
 今はその名を口にするだけで、胸が引き裂かれるように切なく、心が堪え難いほどに震えた。
「夜光のことです。このたびは、あの子が本当にすまないことをしました」
 葵の中にある感情を知ってか知らずか。二人の間に起きたことをすべて知っているのか否か。葵を見る長の瞳は、ただ沈痛な色を帯びていた。
「あの子には、いささか難しいところがあります。片親が妖であったばかりに、必要以上の苦しみを強いられ、面倒な因果にも縛られております。ごく普通の人間であるあなたがこれ以上あの子に関わるのは、どちらの為にもならないかと存じます」
 言葉を返せない葵に、長が美しい指先を揃え、丁寧に頭を下げた。そのような姿を取っていてさえ、長から滲み出る気品は損なわれなかった。
「親馬鹿と笑ってくれて構いません。私は出来るのならば、あの子が泣くのは見たくないのです。……ですからどうか、もう夜光のことは捨て置いて、蓬莱へお帰り下さい。葵殿」
 葵は、すぐに返事ができなかった。
 どう考えても、ここで人の世に戻る方が賢いのは明らかだった。長の申し出はありがたく、第一もう葵と夜光の関係は決裂している。まして長に、こうして頭まで下げられている。
「夜光は……今どこに?」
 それでも、葵の口から出たのはそんな言葉だった。
 どうしても、すぐに頷くことができない。たとえ関係が破綻してしまったとしても、夜光とこのままで終わりたくない。せめて、もう一度話をしたい。
「さあ。どこかそのあたりにいるのでしょう。あの子は、この終の涯以外に行く場所のない子ですから」
 長はそんな葵を責める様子もなく、半蔀の向こうに見える晴れた空に目をやった。
 葵もつられて同じ方を見る。虹色を帯びたような美しい空に、伸びやかに舞う白い鳥の影が二つ、つがいなのか絡み合うように横切っていった。
 ──面倒な因果。
 長の言葉を、葵は胸の裡で繰り返した。
 夜光の背負う因果や哀しみ。それは「片親が妖であったこと」に繋がるのだと、長は言った。
「……長殿。夜光のことを、俺に教えていただけないでしょうか」
 葵の知る夜光も、確かに夜光だ。だが、それだけでは理解し得ぬ深淵がある。知らなければ、それはそれで平和でいられたのだろう。だが葵は既に、その深淵にふれてしまった。
「俺は、夜光のことを何も知らない。片親が妖であるということと……子供の頃にそのせいで人間に虐げられていたと、簡単に聞いた程度です」
 夜光は人でも妖でもなく、あるいはそのどちらでもある。あの優しく微笑む夜光も、魔性そのものの夜光も、どちらも夜光だ。美しい瞳の奥に憂いと哀しみを宿した、ただひとりの夜光だ。
 だからこそ、あの眼差しの理由を知りたい。今度こそ夜光を見誤らないために。
 一度口を切ると、胸の奥から湧き上がってくる苦しいほどの愛しさと共に、言葉が溢れ出した。
「俺が夜光の言葉に耳を貸さず、一方的に問い詰めて傷つけたから、夜光は俺にあんなことをしたのだと思う。あなたが俺に、帰ってほしいと言うのは分かりました。ならばせめて、俺は自分が夜光に何をしてしまったのかを知っておきたい。それから、夜光に詫びたい……許してもらえるとは思いませんが」
 あの哀しげな瞳の底に沈むものは、何なのだろう。それから、何のために夜光は貴彬を「喰った」のだろう。
 鏡花に話を聞いてからは、貴彬が「喰われた」ことがあまりに衝撃で、「何故」を考える余裕がなかった。
 何故、貴彬でなければならなかったのだろう。それにあの夜見た光景は、いわゆる単純な「捕食」の光景には見えなかった。そんな簡単なものではない理由が、何かきっとあるのだ。
「教えてはいただけませんか。夜光のことを」
 葵はもう一度繰り返し、正面から長を見た。長もまた、葵をじっと見つめ返していた。
「聞いたところで、あの子のしてきたこと、していることは何も変わりませんよ?」
 静かに返した長に、葵は食い下がった。
「そうかもしれませんが、何も知らないよりは、俺は理由を知りたい」
「あなたには知られたくない、とあの子は思っているかもしれません。あなたには理解の及ばない話でしょうから」
 葵は言葉に詰まった。静かだが容赦なく胸の奥まで刺し込まれた長の言葉は、葵にとって最も痛い部分を衝いていた。
「……そうかもしれません。そうだとしても、でも……このままじゃ、俺は夜光をただ傷つけただけで終わってしまう」
 なぜあのとき、頭から夜光のすべてを拒絶して、突き放してしまったのだろう。
 悔やんでも悔やみ切れず、思わず奥歯を噛み合わせた。上掛けをよけて正座をし、先程の長よりもはるかに深く、葵は平伏した。
「お願いします。帰れというなら、せめて最後に教えて下さい。俺の知らない夜光のことを」
 今さらそれを知りたいというのは、葵の自己満足かもしれない。夜光は詫びなど求めていないかもしれない。
 だがそれでも、それも確かに夜光の姿であるのなら、目を逸らすことはしたくない。何があっても一切を受け入れる覚悟で、葵は額をすり付けるようにし、そのまま動かなかった。
 長はしばらく何も言わなかったが、やがて根負けしたように、小さく吐息を洩らした。
「……わかりました。顔を上げて下さい、葵殿。あなたに話してあげましょう。あの子のことを」
「本当ですか」
 顔を上げた葵に、長は苦笑した。いかにも仕方なさそうに。
「やれやれ。あの子も頑固ですが、あなたも言い出したら梃子でも動かない。私は、あなたのことが嫌いではないですよ……少しばかり直情径行だとは思いますがね」

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