三章 宵闇に夢を見つ (十)

栞をはさむ

 咄嗟に伸ばした手が、しかしやはり傷だらけの小さな身体を突き抜けた。
「やめろ。やめてくれ」
 悪鬼のような人間達に懇願しながら、その小さな身体の前に、葵は身体を割り込ませる。だが何もかもが素通りするばかりで、どうすることも出来なかった。いつしか葵もまたその場にうずくまり、喉からおかしな声が出て、気がついたら涙があふれていた。
「かつて幼いあの子を数年に渡って虐げたのは、貧しく小さな村に住む人間達の大半でした」
 そのとき不意に、背後から静かな声がした。暗闇の中に、いつの間にか長が立っていた。
巫覡かんなぎであった母親が流行病で急逝し、夜叉の父親は一族の騒乱に巻き込まれて消息を絶ち。夜光はまだ乳飲み子のうちに、たった一人で人間の村に取り残されました。村人達は残された半妖の子供をどうするか話し合った末に、土蔵に幽閉することにしました。……夜叉と巫覡の間の子、という生まれゆえ、祟りを恐れて殺すこともはばかられたのです」
 葵は立ち上がれないまま、長を振り返った。それを境にしたように、おぞましい光景が薄れ始めた。
 長の姿を視界に入れた途端、また強い眩暈があり、思わず葵はぎゅっと目を瞑った。足元が定かではないような奇妙な浮遊感のあと、急に確かな手応えのある場所に投げ出されたような感覚があった。
「うっ……」
 ぐらりと強い眩暈に身体が揺れ、咄嗟についた手が清潔な布地の感触にふれた。
 はっと目を見開くと、葵は元通り、長の部屋の中にいた。
 寝床の上にへたり込んだような格好でいる前に、何事もなかったかのように長が脇息に凭れている。
 明るく広い部屋には、香炉から立ち昇る清々しい香りが控えめに漂っていた。いつの間にか夕暮れの気配が忍び寄り、半蔀の向こうに差す陽光には、ほんのりと翳りが宿っていた。
「あ……」
 まるで夢から、それもとびきりの悪夢から覚めたようで、葵はまだむかむかする胸に手を押し当てた。嫌な汗をかいており、言葉も出せずに長の姿をただ見つめた。
「夜光という名は、あの子を人間の里から連れて来たときに私が付けました」
 長い睫毛を伏せ、長が言葉を続けた。
「あの子にも、あの子の親が付けた人としての名がありました。ですがあのように惨い過去なら、それはもう切り離す方が良いだろうと。新たに『妖』としての名を与えたのです」
「あ……あれは……」
 そこでやっと、葵は強張ってしまっていた喉から声を出すことが出来た。
「あれは……やはり、夜光なのですか?」
「ええ」
 躊躇いもなく、長は頷いた。
「両親がいる間は、村人達もあそこまでではなかったのですよ。ですが小さなあの子一人が残された後、苦しくなる一方の日々の憂さも手伝って、鬼の子に対する恐れと忌避が膨れ上がっていきました」
 長の表情はどこまでも静謐ではあったが、常に穏やかな笑みを含んでいるようだった金の瞳は、今は深い悲哀と憤りに打ち沈んでいるように見えた。
「並みの子であれば、とうに死んでいたでしょう。なまじ強い妖の血を引いていたがゆえに死に切れないまま、あの子は長いこと幽閉され続けました」
「あの状態は、どれくらい続いたんです……?」
 土蔵にいた夜光の姿は幼かったが、乳飲み子には見えなかった。かといって、人間の大人達に比べるとひどく小さかった。
「幽閉されていたのは、十年ほど。状態がひどく悪くなったのは、村に凶作が続くようになってからです。だからといって、それ以前の扱いが良かったというわけでもありませんが……水も食糧もろくに与えられなくなり、続く飢饉に、やがて村人達も数年かけて死に絶えました」
「……そんなに」
 殺されなかっただけましだ、とは、あの光景を見てしまった葵には到底言えなかった。
 幼い夜光が送ったのは、まさに地獄そのものの歳月だったのだ。抵抗もできずにただ怯えていた夜光を、鬱憤晴らしのように虐げていた人間達の方こそが、恐ろしい化け物に見えた。思い起こすだけで、まだ怖気と悲憤に手足に震えがきた。
 しかもその村人達もまた、結局飢饉で死に絶えたとは。おぞましく恐ろしい人間達の姿を思い出すと、哀れだとは思えなかったが、良い気味だと笑う気にもなれなかった。
「私が気が付くのが遅かったばかりに、あの子を長く苦しませてしまった……」
 葵が何も言えずにいると、長が無念そうに小さな溜め息をついた。
「……だからあの子を許せ、とは言いません。あの子は、そもそも自分が苦しまねばならなかった元凶である妖の血も、それから妖である実の父親のことも恨んでいます。ですがそれ以上に、自分の身体に流れる人間の血を忌み嫌っています」
 淡々とした長の言葉に、葵は挟む言葉も見付からず、ただ黙ってそれを聞いていた。
「あの子は、自分が生まれたことさえ恨んでいた。人と妖の狭間で、あの子が最終的に何をどう思い、冥魂珠を用いてまで妖となることを望んだのか。それは、私にも測り知れませんが……何にせよあの子は、自らの手で自らの未来を選んだのだと思っています」
 呟くような長の言葉に、葵はふと思った。
 夜光はもしかしたら、冥魂珠の力により完全な妖となることで、半妖であるがゆえに強いられた己の運命に逆らおうとしているのかもしれない。それは葵の想像でしかなかったが、それほどの強固で悲壮な意志と覚悟が、自らの手で未来を選んだというそこにはあるように思えた。
 ──夜光はあの優婉な姿の内に、いったいどれほどの激しい感情や葛藤を抱えて生きてきたのだろう。
 長は金色の穏やかな瞳を持ち上げ、静かに葵を見つめた。
「かつてあの子がされたことを思えば、今あの子がしていることも、あの子にとっては甘いものでしょう。何しろ、贄とする相手を苦しませることはありませんから」
 それは、冥魂珠の贄のことを言っているのだろうか。長はさっき、「心と契りと命」が贄の条件だと言った。
「贄にされた者は、苦しむことは無いのですか?」
「ええ。最後まで気付かなければ、ある意味これほど幸せな最期もないでしょうね」
 長は軽く笑って言う。その言葉と微笑を空恐ろしく思う一方、確かにそうかもしれないと、葵はぼんやり思った。
 確かに幸せな最期なのかもしれない。苦しむこともなく、それどころかこの上なく甘い夢を見て、極楽にいるような睦みごとの果てに永遠の眠りにつくのならば。
 だが、それでは贄にされる者の真心はどうなってしまうのだろう。どんな理由があろうと、夜光が貴彬の真心を弄び、勝手な目的のために命を奪ったことは変わらない。それでも、貴彬は幸せだったなどと言って良いのだろうか。
 考えるほどに分からなくなり、苦しくなる。夜光のことも、貴彬の辿った運命についても。
「……ですが、夜光が人をたぶらかしていること、贄にされる者達に何ら罪は無いことは確かです」
 葵の葛藤も見透かしているように、優しいほどの声音で長は続けた。
「葵殿。私は、善い悪いでものごとを考えてはおりません。ただ、私の大事なものたちを守れれば良いと思っているだけです」
「…………」
「あなたにもそうであれとは思っておりません。あなたの真っ直ぐな心根が、私は嫌いではありませんしね」
 そう言って葵を見る長の眼差しは、どこか哀れむようだった。
「あの子のことを受け入れ理解しろというのも、只人であるあなたには酷な話でしょう。ですから、ここでもうすべてを忘れて、人の世界にお戻りいただきたいのです。──お分かりいただけましたか」
「……俺は」
 言葉も思考もうまくまとまらないまま、葵はうなだれた。
 長の言葉に頷いてしまいそうになる。だが、それは出来ない、それをしてはいけないと、心の奥が叫んでいる。
 夜光のことを理解したい、と思った。だがそれは思い上がりだと、夜光のしていることを知り、その過去をまざまざと見たことで分かった。
 自分に夜光のことが分かる、理解できるなどと思うのは傲慢でしかない。それほどまでに、夜光の強いられた苦しみと絶望、それゆえに今なお囚われている奈落は深い。
 葵は瞼を閉じ、ひとつ深く息を吐いた。
 ──だが、理解はできなくても、受け止めることはできる。
 夜光の前から逃げ出すことだけはしたくない。そして、長の言葉に従いここで終の涯を立ち去ることは、葵にとっては逃げることに相違なかった。
 無意識に、手が寝床に敷かれた白い布を握り込む。ここで折れて逃げ帰るくらいなら、いっそこの場で長の怒りを買って殺された方が良い。少なくとも今はまだ、長の言葉に頷くことは出来ない。夜光自身と決着をつけるまでは。
「……夜光の行きそうな場所を、ご存知ありませんか」
 うつむいたまま問いかけると、しばしの間があった。長がどんな顔をしているのかと思うと、背筋が凍る思いがした。この終の涯で正面切って長に逆らうなど、身の程知らずもいいところだろう。
 だが、自分には失うものなど何も無いのだ。ならば、長ですら恐ろしくはない。恐ろしいとすれば、このまま夜光と会えもせずに終わることの方だった。
 葵は息を吸い込んで、真っ直ぐに長を見た。
「夜光と話をする時間を下さい。その上でなければ、俺は帰りません」
 我ながら大きく出たものだった。葵ごときが帰らないといったところで、長がその気になれば、いくらでも実力行使できるだろう。
 長は無表情にも見える顔で、葵を見返していた。常に朗らかに微笑んでいた長のそんな顔は、いっそ凄まれるよりもはるかに肝が冷えた。実際、葵は背筋が強張り、冷や汗が浮いて動悸がし、思わず後ろに引き下がりそうになった。
 それをぐっとこらえて、強く長の金色の瞳を見返す。ただ見つめられているだけなのに、決意が鈍り、心が萎えそうになる、恐ろしいほどの威圧感と迫力を持つ瞳だった。少しでも気が挫けたら、その瞬間に切り刻まれてしまいそうな緊張感に、うまく息をつくことさえ難しい。
 懸命に奥歯を噛み合わせ、全身全霊で睨み返すうちに、冷や汗ともつかない汗が額から滲んで頬を伝い落ちた。
 息詰まるその果てに、ふっと、長が瞳をやわらげた。
「……本当に。たまに、人の子には驚かされますねぇ」
 長の纏う気配が、花の馨が匂うような艶やかさにやわらぐ。長は脇息に凭れたまま、何かを呼び込むように、その視線を半蔀の向こうに流した。
 数呼吸も置かないうちに、開いたそこから黄金に煌めくものが舞い込んできた。ほとんど羽ばたく音も立てず、差し伸ばされた長の優雅な腕に軽やかに舞い降りたのは、孔雀のような長い尾と三本の足を持つ、黄金の八咫烏だった。
 黄昏を帯び始めた光に、その姿は仄かに燃えるような朱金を纏って輝いている。その神秘的な美しさにぽかんとしている葵をよそに、長は八咫烏の頭を白い指で優しく撫でた。
 八咫烏は長の指に頭を擦りつけた後、自らの嘴で小さな風切り羽を一枚抜き取り、それを長の白い掌に落とした。
 長は葵を見返り、その黄金の羽を差し出した。
「夜光は今、うろノ浜におります。これを持っておいきなさい。その羽を宙に放れば、夜光の居る場所を示します」
「あ……」
 そこでやっと、葵はまともに息をつくことを思い出した。思わず肺腑の底から大きく息を吐き出す。
 どっと全身から力が抜け、危うくうずくまりそうになった。長の手からなんとか黄金の羽を受け取った掌は、すっかり震えて汗ばんでいた。
「……ありがとうございます」
 心底から言い、崩れるように深く平伏した。
 長の腕から八咫烏が音も無く飛び立ち、開いた半蔀から空へ消えてゆく。長は葵を見返ることもせず、さらりとさやかな衣擦れと共に立ち上がった。
「夜光に会い、戻って来たら、あなたを蓬莱へお送り致します。それまでのことには、私は目を瞑りましょう」
 言い残して部屋を出て行く長に、葵はただ頭を下げた。

栞をはさむ