三章 宵闇に夢を見つ (十四)

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「あ、あ……」
 着物の前襟をはだけられ、欠けつつある月明かりに、夜光の肉付きの薄い上半身が晒される。葵の手が優しく夜光の肩に這い、腕に這い、脇腹を撫で始める。
 今まで無数の手にふれられ、愛撫されてきた肌。だが今肌に覚えるそれは、これまでに感じたことのない震えを伴った。夜光の背筋が思わず反り、ほんの数瞬のうちに、かっと身体の芯が熱くなり始めた。
 反った背に葵の手が滑り込み、ゆるりと撫でた。夜光がまた思わず背を反らせると、反り返った胸元に葵の唇がふれ、そこにあった淡く色付いた粒に舌が絡んできた。
「あっ……」
 たちまち、じん、とそこに切ないような痺れが生じた。今までに感じたことのない過敏な反応に、夜光は自分でも驚いて目を瞠った。
「あぁ、いや……、いやです。あ……」
 背を撫でられながら、胸元の突起にちゅうと吸い付かれる。もう片方の突起にも、葵の指先がふれてきた。優しく捏ねられるだけで、舐め転がされるだけで、身悶えるほどの熱く甘い痺れが夜光の身体の奥から湧き上がってきた。
 最玉楼でどんな催淫の香をかいでも、どんな媚薬を含んでも、これほど強く感じたことなどなかった。身体にふれてくる葵のすべてが、ひどく熱い。指先も唇も舌も、重なってくる体重も。熱いのに鳥肌が立って、感覚のすべてが、葵のふれてくる箇所に集中する。
 夜光の見せる震えが嫌悪感ゆえのものではないことを悟ったのか、葵がいっそう丹念に愛撫を施し始めた。
 夜光の両の乳首は、月明かりに照らされるなだらかな胸の上に、明らかにぷくりと膨れていた。葵が舌で指でふれ、熟れたそれの形をやわやわと、少し強めに変えるたび、夜光の喉から切ない声が洩れ落ちた。
 背や胸や腹を、腰を腿を愛しむように撫でられ、夜光の息遣いが次第に乱れてゆく。夜光の陶器のように白く疵ひとつない肌が、葵に口付けられるごとに、しっとりと汗ばんでゆく。
「あぁ……だめ、です……だめ……」
 身体がとどめようもなく燃え上がってゆく中で、しかし夜光はうわごとのようにそう言っていた。
 葵に嫌悪されたと思っていた。拒絶されたと思っていた。何もかも正体を知られてしまって、命すら一度は奪おうとした。それなのに葵は、夜光を愛しいと言ってくれた。
 頬に零れて止まらない涙が何のためなのか、それは分からないままだった。だが、葵に愛撫されて生まれて初めての熱さで反応してゆく身体そのものが、震えながら夜光自身に教えていた。──自分は嬉しいのだ、と。
 葵に拒まれてはいなかったことが、嫌悪されてはいなかったのだということが、魂から震えるほど嬉しかった。愛しいと言ってもらえたことが嬉しかった。
 零れる涙が何のためなのかは分からない。ただ、夜光の奥深くで臆病に竦み、諦めていた葵への想いが、身体が熱く高まってゆくと共に、ゆっくりと息を吹き返していた。
「あぁ……葵……だめ、です……」
 だけれど、このまま葵に抱かれてしまったら、冥魂珠の呪が動いてしまう。そう思っていても、芯から蕩けるように、心底から琴線が震えるように身が熱く反応し、葵の愛撫に応えてしまうのを止められない。
 知らぬうちに夜光からも葵の首に腕をからめ、反らした身に引き寄せるようにしていた。汗に濡れた地肌の上に、葵の熱くなってゆく息遣いがかかるのが、共に上昇してゆく体温を感じることが嬉しかった。
 薄く目を開くと、零れ落ちてくるのではと思うほどの満天の星と、皓々と輝く月が見えた。
 すべてを知った上で「贄になろう」と言った葵は、もう一切の覚悟を決めているのだろう。だからあんなにも、穏やかに鎮まった目をしていたのだろう。
 ──このまま。
 湧き上がる想いを抑え切れず、あふれる感情が涙に姿を変えて、見える夜空を大きく歪ませた。
 このまま。自分も、葵と一緒に。
 葵は、もう生きてゆくのが苦しいと言った。夜光もまた、生きるのが苦しかった。
 あの幼い日の苦しみから始まって、ずっと暗闇の底でもがくように生きてきた。妖の血を恨み、人間を憎み、そして己自身も嫌悪し。歪み凍てついてしまった心で鮮やかな嘘をつき、偽りの華を咲かせながら、手探りで奈落を彷徨うように此処まで来た。
 葵がもう生きられないというのならば。それが葵の望みならば。それを叶えて、共に逝く。葵を喪ってまで、どうして夜光がその先を生きていられるだろう。既に恐ろしい罪を犯し、その上さらに葵を殺してしまったという呪わしい記憶を抱いて。そんなことが出来るわけがない。
「あっ……あぁッ」
 そのとき、腰のまわりをゆるゆると撫でていた葵の掌が夜光の中心に伝い、そこで熱くなっていたものにふれてきた。熱く熱く充血したそこに指を絡まされると、稲妻に打たれたかと思うほどの刺激が夜光の身を貫いた。
「ひっ……、あぁあっ」
 今まで上げたことがない甘く高い声が、夜光の喉をついた。
 葵の手は、夜光が身を強張らせて熱い汗を滲ませ、反応する様を確かめながら、腰が熔けるかと思うほどの快楽を与えてくる。完全に勃ち上がった先端から蜜がとめどなくこぼれ、葵の手がそこを扱くたびに、くちゅりくちゅりと淫らな、たまらなく劣情を滾らせる音が聞こえた。
 蕩ける。身も心も。
「あ……あおい……葵……っ」
 葵にしがみついていなければどうにかなってしまいそうな悦びが、腰から指先にまで血流を震わせて伝播してゆく。
 葵の指は夜光の屹立を扱き、そこから伝う蜜を指に絡ませて、それよりもさらに下の秘められた蕾にも迫っていた。夜光はそれを感じると、自ら腰をせり上げて、葵の手をそこに導きやすいようにしていた。
「あッ……あ、……っ」
 慣らすように葵の指が、夜光の下の窄まりをなぞる。夜光の身にぎゅうと力が入り、いっそう葵にしがみついた。
 葵の指はやや性急に動き、締まった襞をいくらかやわらげると、ぬるりと夜光の中に入り込んできた。
「ひッ……あ、あぁ、あ」
 ぞくぞくっ、と、夜光の全身が粟立った。誰の指をそこに受け入れたときとも違う。葵の指だと思うだけで、おかしくなるのではというほど、身が反応する。
 狭い中をほぐすように指は抜き挿しされ、そのうち本数を増やされたそれを、蠢く中がはしたないほどに締め付けた。細かく震える夜光の背を、まわした片腕で葵は宥めるように撫でてくれた。
「……人としての名があると聞いた」
 目を閉じ、小刻みに震えながら葵の首にしがみついていた夜光に、葵が少し上ずりかけた声で囁いた。葵の体温も呼吸も熱を帯びているのが、そうして密着しているとよく分かった。
 瞼を上げた夜光は、至近距離にある葵の瞳が、強い情欲と思い詰めた感情とに潤みかけているのを見た。
「おまえのもうひとつの名を教えてくれ。冥土の土産に、それくらい良いだろう?」
「わたしの……名……」
 言葉を発すると、思う以上に自分の息が乱れているのが分かった。夜光の声もまた上ずり、かすれかけていた。
「夜光」と長に名付けられる前に持っていた名。自分に名があるということすら知らず、地獄そのものの時間を生きた。長の元で少しずつ言葉を覚え始めた頃、生まれたときに付けられていた名を長に教えられた。流れる血脈と姿と、その名前だけが、本当の親の形見だと。
「……さぎり……」
 葵に向けてその名を口にすると、長く胸の奥に閉じ込めていた感情と共に、夜光の頬に涙があふれた。
「沙霧……」
 ──哀しかったのだ。ずっとずっと。なぜ自分が、こんなふうにならなければならなかったのか、と。
 普通に生まれ、生きたかった。憎しみでも恨みでも怒りでもなく、ただまわりにあるものを優しく愛して生きたかった。
「沙霧か……」
 しがみついてくる夜光を抱きとめるようにしながら、葵がその名を繰り返した。
「……最期に聞けて良かった。それがおまえの、生まれたときの名なんだな……」
 呟き、葵はしばし目を閉じて夜光を抱き締めた。じっと夜光の存在を確かめるように。
 涙が零れるばかりで夜光が何も言えないでいると、やがて葵が身動きし、己の着物をはだけた。熱いものの先端が下の秘孔にあてがわれるのを、夜光は感じた。
「あっ……あぁあっ!」
 一瞬、駄目だ、と思ったときには、それが夜光の中に入り込んできていた。
 強く強く抱き締められたまま、葵のそれが身の内を進んでくる。熱く蕩けていた中に押し入ってきたそれの熱さと感触は、今の夜光には刺激が強すぎた。
 突き込まれたもので、下腹が滾るように熱い。押し広げられた中が燃えるように熱い。奥の奥まで届いてきた葵の屹立に、夜光は気が遠くなりかけた。
「あ、ぁ……」
「……すまない、夜光……もう、すぐ、終わる」
 きつく夜光を抱き締めたまま、葵が抑えた声で言った。熱くかすれたそれは、それでも尚優しかった。
「あ……あおい……」
 なんとか意識を保った夜光は、力の抜けかけた腕を持ち上げ、彷徨わせて、葵の身体を抱き締めた。密着する葵の鼓動の音が、上昇した体温が、直接に伝わってきた。重なる胸に、激しく乱れている鼓動が、どちらのものなのか夜光にはよく分からなかった。
 なんと愛しい音だろう、と思った。闇の中に儚く強く燃え上がる生命の炎。愛しい人の命を刻む音。
「すぐには……動かないで、下さい……」
 葵にしがみついたまま、夜光は言った。この交わりが果てたら、夜光の身に刻み込まれた呪が動いて葵の命を奪う。だからできるだけ長く、最初で最後のこの抱擁を続けたかった。葵の熱い命そのものを感じたかった。
 ──これが果てたら、私も命を絶とう。
 心に定めながら、夜光は細く息を吐いた。
 あの日葵から匕首を預かったのはこのためだったのか、とすら思う。深く心の臓を一突きにすれば、さすがに半妖である身とて生きてはいられない。
 今までさんざん他人を誑かし命を奪ってきた夜光がここで命を絶つことは、それこそ許されないことなのかもしれなかった。だがそれでも、どうしても、葵を喪ってまで、その先をもう独りでは生きられなかった。
「葵……私に、おまえさまを、下さい……」
 葵の背に流れ落ちている長い髪を指に絡め、撫でながら、夜光は囁いた。葵に出会ってからの、そう長くもない間の出来事が様々によぎってゆく。
 もっと多く葵と語っておけばよかった。もっと多く顔を合わせて、共に過ごして。もっとたくさん共に笑っておけばよかった。
「夜光……」
 呟くように葵が呼んだ。強く抱き寄せられている夜光には、葵がどんな顔をしているのかは見えなかった。
 葵がもの言わず、夜光の肩を柔らかな砂の上に押し付け、腰を動かし始めた。
「ひっ……あ、あぁッ!」
 ずるり、と自分の中で動いた灼熱する塊に、夜光は思わず悲鳴を上げていた。のけぞった身を、葵が動かないように押さえる。熱く弾んだ息遣いと共に、夜光の中に繰り返し葵自身が抽挿される。
「あぁ、あぅッ……あ……っ!」
 かつて味わったことのない強烈な快楽が駆け上がり、夜光は腰をうねらせていた。どくどくと全身が指先まで脈打ち、下腹の中を抉るものを、熱くやわらかい肉が勝手に蠢動して締め上げる。
 上にいる葵が苦しげに眉根を寄せ、小さく呻きながら奥歯を噛んだ。ぽたぽたと葵から滴り落ちてくる汗の雫が、夜光の身をますます熱くした。
「あおい……あ、葵っ……」
 これが最後なのだと思うと、何もかもが切なく愛しかった。今自分を抱いているのが、自分の中にいるのが葵なのだと思うと、魂から震えが走った。たちまち絶頂に駆け上がりそうになったが、少しでも長くこのまま葵を感じていたくて、夜光は懸命に堪えた。
 葵もそれは同じなのか、荒い呼吸を繰り返しながら、夜光の細い腰を持ち上げ、様々に角度や深さ浅さを変えて突いた。夜光はもう葵のなすがままに、乱れた着物の中で汗に濡れそぼった身を存分にくねらせた。奥へ奥へ、より感じる箇所へと葵のものを導き、天空から見下ろすように輝いている白銀の月を目に映しながら。もはや何も考えずに享楽にのめり込み、声をあげ、啜り泣いた。
 終わらせたくなかった、切なく熱く激しい交わりにも、遂に果てるときがきた。びくびくと葵のものがいっそう熱く硬く膨れ上がり、呻きながら夜光の薄い身体を折れそうなほど掻き抱いた。
 夜光もまた、葵の熱い身体を、力の限りにきつく抱き締めた。自分の中で葵のものがはじけるのを感じ、同時に夜光の身もまた昇りつめていた。夜光はその瞬間、強く目を閉じていた。
 ふわり、と身をそれまでと違う空気が包んだ。自分に刻まれた呪が動いたことを、夜光は感じた。
「あ……」
 切ない快楽の名残りに腰がまだ熱く、だが心は夢から覚めるように、ただひたむきに葵に向かった。恐る恐る目を開けると、強く夜光を抱き締めている、そして夜光が強く抱き締めている葵の身が、全体に蛍火のような淡い光に包まれていた。
 果てたままに夜光にぐたりと凭れていた葵もまた、自身に生じた異常に気付いたように瞼を上げた。
「葵……葵」
 次第に葵を包む光が強さを増してゆく中、夜光は懸命に葵の名を呼び、その身にしがみ付いた。そうすることで、少しでも葵の存在を繋ぎとめるように。
「夜光……すまなかった。本当に」
 葵は意識が徐々にぼやけ始めているのだろう、目をしばたき、振り払うように、何度か首を振った。
「いいえ。いいえ。良いのです、葵。私も、私も、おまえさまが……」
 嗚咽にひきつりそうな喉で、もはや言葉を選び飾る余裕もなく、葵を抱き締めたまま夜光は口走った。
「私も、おまえさまが愛しい。誰よりもお慕いしています。葵……おまえさまが愛しい」
 それを聞いた葵が、一瞬何を言われたのか分からないというような顔をした。その青みがかった瞳が、大きく瞠られてゆく。
「……嘘だろう?」
「この期に及んで、嘘など申しましょうか」
 夜光の頬に、次々に大粒の涙が零れた。
「おまえさまが愛しい。ずっと、おまえさまは特別でした。おまえさまが愛しい。誰より愛しい。葵。葵……」
 泣きじゃくりながら名を繰り返す夜光を、葵が弾かれたように抱き締めた。震える腕で、苦悶するように。
「……死にたくない」
 夜光を抱き締めながら、呻くように葵が言った。
「俺は……おまえに憎まれていると思っていた。だから……」
 心からの無念を振り絞るように、葵がきつく目を閉じた。
「おまえを残して死にたくない。夜光」
「葵……」
 零れる涙を拭うこともできず、夜光は葵の次第に体重を失ってゆく身体を抱き締めた。次第に存在が薄れてゆく、それにつれて身を包む光が増してゆく身体を。
「私も……私も、すぐにおそばに参ります。おまえさまと共に逝きます。葵」
 涙声で、しかし強く言った夜光に、葵が再び目を瞠った。眩暈がしたように顔をしかめ、既に動きが緩慢になっている重たげな腕を動かして、葵は夜光の両頬を両掌でしっかりと挟んだ。真正面から、その泣き腫らした瞳を見つめながら。
「夜光。それは、駄目だ」
「え……?」
 信じられない言葉に、夜光は瞬いた。そこに葵は、ゆっくりと言い聞かせるように続けた。
「おまえが死ねば、長殿がどんなにか哀しむだろう。それに……俺は、おまえに死んでほしくない」
 葵の体重は、いよいよ夜光の上から失われてゆく。薄れそうな意識を懸命に保っているのだろう、葵の表情は険しいものになっていた。だがその眼差しだけは変わらずに、葵らしい強く真っ直ぐな光を保っている。優しく深く愛しい色を宿している。
「おまえには、幸せになってほしい。いつか幸せになって……生まれて良かったと思ってほしい。だから、生きてほしい」
「……いや……」
 ようやく、ゆっくりと葵の言っている意味が浸透してきた夜光が、口を開いた。葵の顔を見返しながら。紫色の瞳からぼろぼろと涙の粒が零れ落ち、その頬を挟んでいる葵の手を濡らした。
「いや……いや、いや、いやだ。いやだ、そんなの……いや……!」
「頼む。聞き分けてくれ」
 泣きじゃくる夜光を、最後の力を振り絞るように葵が抱き締めた。その唇が、夜光の唇に重なってくる。少し力を込めれば、もう実体を失いかけている葵の身を突き抜けてしまう。優しく儚い口付けに、夜光は込み上げる涙に喉をふさがれた。
 葵の身体が、光の中に融けてゆく。輪郭も体重も、何もかもが薄れてゆく。
 そしてとうとうこらえきれなくなったように、葵の顎が落ち、眠るように瞼が落ちた。
 それからほとんど間を置かずに、葵の姿が完全に光の中に融けた。一瞬の間を置いて、夜光の上から、一斉に蛍が舞い立つように光の粒となって、音もなく四散した。
 夜光の首に掛かった透明な大珠の一つが、ぴしり、と細かな無数の皹を生じて白濁した。
「……あ……」
 一瞬のうちにかたちも重さも完全に無くしてしまった葵に、夜光は大きく息を呑んだ。
「……いやだ……」
 全身がかたかたと震え、喉が引きつる。無数の蛍のように、夜光虫のように、藍の夜空に光の粒が儚く舞い上がって消えてゆく。それを夜光は目を見開いたまま、ただ凝視していた。
 壊れたように涙があふれ、やがて夜光は柔らかな砂の上にひとりうずくまり、絶叫した。


 夜光が砂の上の細長い綾錦の袋を鷲掴みにし、黒塗りの匕首を取り出したそのとき、ふわりと近くに白い光が生じた。
「夜光……!」
 そこに現れた長が、半狂乱の夜光を見て顔色を変えた。
 空間を貫いて届いた夜光の魂の裂けるような悲鳴に、長は取るものも取りあえず、慌ててこの場に渡ってきた。そしてこの場に残る呪の気配の名残りに、ここで何が起きたのかを瞬時に察した。
「夜光。おやめなさい、夜光」
 抜き放った匕首を今まさに胸に突き立てようとした夜光を、危うい際で、長がその腕を掴んで止めた。
「はなして……いやだ……放せぇッ!」
 夜光は目の前にいるのが誰かも分かっていない様子で、取り上げられた匕首を取り返そうと暴れた。
 焦点の合っていない紫の瞳に、長は僅かに迷い、その意識を奪う術を施した。たちまち夜光の頭がぐらりと揺れ、瞼が落ち、身が崩れた。
 それを長の袖が抱きとめた。ぐったりと弛緩し、泣き腫らした目許がひどく疲弊して見える夜光に、長は眉根をひそめた。
「……すみません、夜光」
 夜光の身を抱き締めながら、砂の上に忘れられたように落ちている黄金の羽を、その瞳が哀しげに見やった。
「やはりあの場で、彼のことは蓬莱に帰しておくべきだった……」

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