三章 宵闇に夢を見つ (十五)

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 長は最玉楼の館に夜光を連れ帰り、寝床に伏せさせた。
 長が夜光に施したのは、夢も見ない眠りに誘うはずの術式だったが、昏々と眠りながら、夜光は涙を流し続けていた。
 長は夜光の身体を清めて着物を換えてやり、零れる涙を柔らかな布で拭ってやった。時折眠りの浅くなった夜光が、あおい、と呟きながらまた泣くのを見て、長の眉根が哀しげにひそめられた。

 眠り続けた夜光がようやく瞼を持ち上げた頃には、まる一昼夜が過ぎていた。
 静かな宵の闇があたりを覆い、ひとつだけの紙燭に照らされた中、泣き腫らして赤くなった瞼がゆっくりと瞬く。虚空をただ見つめている紫の瞳に、長はその頬に零れている涙を拭ってやりながら、そっと声をかけた。
「私が分かりますか。夜光」
 力無く瞬いた目を、夜光は長に巡らせる。表情を浮かべていない白い顔が、長の顔をぼんやりと見つめた。
「……おさ……さま……」
「ええ」
 長は金色の瞳を細めるようにして微笑した。少し身を乗り出すようにしている着物の肩から、腰まで流れる長い黒髪がはらりと落ちた。
「私ですよ。少し水を飲みますか?」
「みず……」
 ぽつり、と呟いた夜光の瞳が、ふいに淡く揺れた。長の姿を映したそれが、涙をあふれさせる。夜光が子供のように身を丸め、白い手が弱々しく動いて顔を覆った。
「ごめん、なさい……長さま……ごめんなさい……」
 身を震わせて嗚咽し始めたその身体を、長は抱き起こす。幼子のように身を震わせ、顔を覆って泣くばかりの夜光を、長は胸元に凭れさせた。震える薄い背と乳白色の髪を、細い指が繰り返しやんわりと撫でた。
「何を謝るのですか。良いのですよ。私はおまえの親ではありませんか」
 ただ泣くばかりの夜光に、長は銀色の小さな水差しを取り上げて、そっと水を口に含ませてやった。夜光は泣きながら、こくり、こくりと、やっとのように喉を動かして水を飲み込んだ。
「焦らずに。ゆっくりお飲みなさい」
 むせた夜光の背を、長は軽くさすってやる。そうして少しずつ水を飲み、かなりの時間を長に凭れているうちに、次第に夜光の泣き声が弱まっていった。
「まだもう少しお眠りなさい。傍にいますからね」
 瞳がどこか虚ろに揺れている夜光に、長は促した。
 夜光は抵抗もせず寝床に横になり、枕元に置かれていた葵の匕首と水晶の数珠を見つけると、ものも言わずに手を伸ばして胸元に掻き抱いた。そうして、また震えながら涙をこぼし始めた。
 長が肩まで上掛けをかけてやり、頭を撫でてやっていると、時間をかけてようやく、夜光の震えがおさまっていった。匕首と数珠を抱いたまま眠りに落ちてゆく弱い寝息が、紙燭の灯かりが控えめに揺らめく中に聞こえ始める。
 それを確認した長が、静かに指を引いた。夜光の傍らに座ったまま、その金色の瞳もまた、沈鬱に沈んでいた。


 ──どこまでも落ちてゆくような闇の中、このまま落ち続ければ葵に会えるだろうかと、夜光はぼんやり考えた。
 けれどすぐに否定した。葵は優しく穢れないまま逝ってしまった。呪に囚われ、穢れ果て醜く歪んだ自分が、葵に会えるわけがない。そうと分かっていながらも、溺れるように腕を伸ばした。
 胸が裂かれるように苦しくて、息が出来なくて、何もかも分からなくなるほど泣き続けたにもかかわらず、それでも涙が尽きることはない。ただ繰り返し葵を呼びながら、何も見えない奈落を彷徨いながら、夜光は泣いた。
 ──これは罰だ。
 罪も無い者を誑かし、自分の醜い感情と願いのために犠牲にした。その行き着いた先に、生まれて初めて心から愛した人の命を奪ってしまった。この上の苦しい罰があろうか。
 葵が甦るなら、この手脚を千切られ身体を引き裂かれても良い。そう心から思っているのに、ひとりで生きろというのか。誰より愛しい人を殺してしまった苦しみを負ったまま、ひとりきりで生き続けろというのか。それはなんという、幼い日々にまさる地獄だろう。
 ──誰か、どうか私を殺して。
 闇の中をひたすら墜落しながら、夜光はただただ泣いた。誰も応えてくれるものなどいない奈落で、叶わないと知りながら、ただ葵を呼び続けた。


 次に夜光が目を覚ましたときには、あたりは明るくなっていた。
「気分はどうですか?」
 ずっとついていてくれたのだろう、傍らにいた長が柔和に問いかけてきた。
 全身が重く、頭もぼんやりして鈍く痛んだ。胸の上に乗った手の中には、抱き込んだままになっていた匕首と数珠があった。
「……大丈夫です……」
 目を瞑って、ゆっくりと息を吐く。ずしりと重く感じる腕を動かし、夜光はなんとか身を起こした。
「無理に起きなくても良いのですよ」
 その背に手を添えながら、やや苦笑気味に長が言った。
 長は立ち上がると、部屋の隅に下がっていた呼び鈴を引いて、仲居に白湯を持ってこさせた。寝床に起き上がってただ匕首と数珠を抱いている夜光に、長は湯飲みに注いだ白湯を差し出した。
「落ち着きますから、飲めるようなら飲みなさい」
 赤く腫れた目で、夜光はそれを鈍く見つめた。その手が緩慢に動き、膝の上に匕首と数珠を置いて、長の手から温かな湯飲みを受け取った。
 夜光は湯飲みから、仄かに甘い気がする湯をゆっくりと口に含んだ。長いことほとんど飲み食いしていなかった身に、それは沁み渡るように感じられた。
「……おいしい……」
 呟くと、またほろりと涙が零れた。
 開け放たれた半蔀からは、気持ちの良い晴れた青空と、光の踊る樹木の緑が見えている。頬白や雲雀の透き通る囀りが、軽やかに響いていた。
 夜光は時間をかけて白湯を飲み干すと、長く息を吐き出した。
「……大丈夫です。長様」
 膝の上に乗せていた匕首と数珠に視線を落とし、指先を伝わせながら、呟いた。
「私は、死にませんから……」
 長は黙ったまま、夜光を見つめている。
 夜光の細い指が、袋の上から匕首を握り締めた。洩れそうになった嗚咽をこらえるため、唇を噛み締める。それでもどうしても、はらはらと落ちる涙は止められなかった。
「……私は、死んではならないのです」
 もう一度、先程よりもしっかりした声で、夜光は言い切った。
 できるなら今すぐにでも、葵の匕首で胸を突いてしまいたかった。けれど死して楽になる道が、夜光に許されるわけがない。これが自分の犯した罪への罰なのだと、もう分かっていた。
 物言わぬ長に、夜光は嗚咽に乱れそうになる声を懸命に整え、ひとつひとつの言葉をようやく押し出した。
「私は……自分のしていることの罪深さを、考えぬわけではありませんでした。惨いことだとも、分かっているつもりでした……でも」
 どうしても喉が震え、大きくひとつ息を吸う。込み上げるものをぐっと飲み込み、夜光は続けた。
「……でも、今こそ初めて、魂からそれを理解したように思います」
 かつて冥魂珠を授けられたときに天女から告げられた言葉を、夜光は思い出していた。
 ──そのときそなたの前に開かれるのは、奈落への道往きやもしれぬ。その行く手には煉獄しかないやもしれぬこと、ゆめ忘れぬようにな。
 あの言葉の通りだった。罪もない者達の真心と命を奪い、愛する葵の命を奪い、夜光は死よりもつらい煉獄を往くしかなくなった。
 葵はこんな夜光でもなお、幸せになってほしいと言ってくれた。おまえが愛しいと言い、この上なく甘く優しくこの素肌にふれて抱き締めてくれた。あまりにも熱く哀しい束の間の幸せの記憶に縋るように、夜光は匕首を強く胸元に抱いた。
 もう一秒先ですら、まともに息をつけるのか分からないほど苦しい。けれど葵を愛しいと思うほど、自ら命を絶ってはならないのだと、自分に言い聞かせた。己の罪を背負うためにも。そして、葵が死んでくれるなと願うなら。今となってはそれだけが、夜光が葵に示せる唯一つの真心だった。
「……冥魂珠はどうするのですか?」
 長がいつもと変わらない、だが少し沈んだようにも聞こえる声で問うた。
「冥魂珠は……」
 夜光は何度も大きく息を吸い込み、震える声を懸命に抑えた。
「……契約を解くすべがあるのかは分かりませんが……無ければ、最期まで持っていきます。それしか、私に出来ることはありませんから」
 孤独のまま、命果てるまで。
 どちらにせよ、葵以外の誰かを愛することなどもう出来ない。己の愚かさの証である冥魂珠と共に朽ち果てることが、自分には相応しいと思った。
「そうですか……」
 長はただそれだけを言い、しばし沈黙した。
 やがて長は、仄かな花の香の匂う白い袖に、ふわりと夜光の身を抱き込んだ。
「今はお泣きなさい。私はおまえを愛していますよ、夜光。誰がおまえを責めても、愚かだと言っても、私はおまえの味方です。おまえが選んだ道なら、私はいつまでもおまえを見守ります。……だから安心して、お泣きなさい」
 長の手が、夜光の髪や背を撫でる。葵を死なせてしまってから、泣いている間ずっとそうしていてくれたように。遠く幼い日に、瀕死だった夜光を救い上げてくれたときのように。
 込み上げてくる嗚咽をそれ以上こらえておけず、夜光は長の白い袖に手を縋らせると、声を上げて泣いた。どれほど泣いても心は苦しいままだったが、せめて泣いて泣いて、わけが分からなくなって泣き疲れて涙が止まるまで。
 込み上げるすべてを吐き出すように、ただ泣き続けた。


【三章 宵闇に夢を見つ 了】

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