夜明けまで (序)

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 それはほろほろと花の薫る、いつかの春の宵。

 開かれた半蔀から、凶報の使者は、その夜突如としておさの館に飛び込んできた。
 長の前で力無く床に墜ち、息絶えた使者──純白の翼を持つ梟は、かつて旧友の肩で見た美しい姿を咄嗟に思い出せないほど、無惨に傷ついていた。
 その白き梟は、白く猛々しく美しい旧友の使い魔。その無惨なかばねが示すは、遠い「夜叉の国」において旧友を見舞った騒乱と、その生命の危機。
 痛ましく哀れなむくろを抱き上げた長は、流れ込む妖力の名残りと残留思念から、一瞬にして事態を悟った。
 けれど、それは遙かに隔たれた他種族の領域でのこと。絶対中立を掲げるこの「終の涯ついのはて」の長として、多種族のいわゆる内戦に、関与することは出来ない。それをよくよく理解している旧友も、自身に対する助けを求めてはいなかった。
 旧友が求めたことは、ただ一つ。それは遠いが強い想念となって、長に伝えられた。
『蓬莱に残してきた我が子を、どうか頼む』──と。

 事の経緯や仔細は、まるで分からぬ。しかし事は急を要すると判断し、長はすぐさま蓬莱に向かった。
 そこは山あいにへばりつくようにある、いかにも鄙びて小さく貧しい人間の集落だった。
 旱魃と水害が繰り返され、深刻な飢饉に数年に渡って見舞われた村では、既に住民は残らず息絶えていた。
 哀れだとは思うが、長が「盤古ばんこ」なる神にも等しい強大な存在として生まれたことと同じように、彼らが弱く貧しい人間として生まれたこともまた、天のもたらした巡り合わせにすぎない。
 無数の屍の転がる死の村をしばらく歩き、やがて見えてきた今にも潰れそうな土蔵に、捜し求める子はいた。
 ──夜叉の父を、巫覡かんなぎの血筋である人間の母を持つ、その幼子。
 黴臭い土蔵に転がっていた小さな身体は、骨と皮ばかりに痩せさらばえていた。かろうじで息のある全身が泥と垢にまみれて、幼子どころか、土色の木乃伊のように見えた。
 その姿を見、指先でふれた瞬間に、その哀れな子の強いられた生き地獄そのものの日々を、長はすべて読み取っていた。
「可哀想に……」
 地べたに転がっていた小さな身体を、長は白く美しい綺羅の袖に抱き上げた。
 あまりに軽い木乃伊のような子の、絡まり固まってごわついた手触りを返す土色の髪を、優しく撫でる。すると澱んだ紫色の瞳が力なく微かに瞬き、安心したように、すぐに閉じられた。

 恐ろしい天災や飢饉に悩まされた無力な人間達が、「奇妙な鬼の子」に対し、恐れと嫌悪と忌避を膨れ上がらせていったことも、無理からぬことではあったのかもしれない。
 村人達にも、彼らなりの思いがあったのだろう。苦しい日々の中で、子や親や愛しい存在を為す術なく失い、自身もまた餓え渇いてゆく恐怖。それもまた、地獄であったろう。
 だが。
「愚かな……」
 あまりに弱り切った半妖の子には、実際のところ、人間に祟りを為す力などありはしなかった。その子は自身と自然界の「精氣」を操ることに長けており、そこにすべての力を割り振ることで、長いこと水も食べ物もまともに与えられずにいた中を生き延びていたのだから。
 なんとも皮肉な思いで、長は白い袖に抱いた哀れな子を見下ろした。
 ──むしろこの子を大事にしてやれば、この子はこのあたりの土に力を与え、水を喚んで、村は餓え渇くことなどなかったろうに……。

 終の涯に戻ると、哀れな幼子に治癒を施しつつ沐浴させながら、長は詫びた。もっと早く気付いてやれなかった、助け出してやれなかったことを。
 ようやく生来の髪色と肌色を取り戻した小さな姿を、寝床に横たわらせてやる。その後、この子の父親である夜叉に向けて、使い魔である黄金の八咫烏を翔ばした。
 おまえの子は無事である、と。だから一日でも早く、おまえも無事な姿を見せるように……と。

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