葵が目を覚ます前に、夜光はそっと寝床を抜け出した。
最玉楼では、常に湯殿が開いている。夜光は早朝のうちに湯浴みをし、身繕いを済ませた。
葵に似合いそうな、爽やかな薄藍の長着一揃いを借りてきて、まだ目覚める様子のないその枕元に置いておく。
まだ時間が余ったので、久方振りに小さな床の間に紫陽花を生けた。窓の障子を開け、気持ちの良い風を通しながら庭を眺めていると、そのうち葵が寝返りを打ちながら目を覚ました。
「ん……うん……?」
「目が覚めましたか」
そろそろ起き出すには程よい頃合いではあったが、夜光は葵の体調が心配だった。一度はこの世の存在ではなくなったものが甦るなど、どんな障りがあってもおかしくない。まして葵は、ごく普通の人間なのだ。
「ん……?」
ごろりと仰向けになったまま、葵はぼんやりと不思議そうに、青みがかった瞳を室内に巡らせた。無防備な表情はやけに幼く、夜光は寝具の傍らに膝をつきながら微笑を誘われた。
「おはようございます。ご気分はいかがですか、葵」
「……そうか。そうだったな」
葵は独り言のようにぽつりと呟き、夜光を見上げると、顔中で笑うように頬を崩した。夜光に腕を伸ばし、引き寄せる。体勢を崩した夜光は、葵の上に倒れ込むような格好で、その両腕の中にぎゅっと抱き込まれた。
「おはよう夜光。気分は最高だ。何しろ起き抜けにおまえがいるんだからな」
「あ、あの、葵」
予想外かつ突然のことに頬が熱くなり、夜光は慌てて手足をばたつかせた。
「い、いけません。朝から何をなさいます、はしたない」
「はしたないことがあるものか。おまえの顔が見れて嬉しいのが、はしたないことなのか?」
葵は笑いながら、夜光を抱き締める腕に力を込めた。
強く、ただじっと抱き締めるばかりで、そのままとくに何をするわけでもない。夜光はその力が強くて身を起こせず、葵の腕をつれなく振り払うようなこともできず、どきどきと高鳴り始めた心の臓に、内心でいっそう慌てた。
「あ、あの、葵、あの……」
「……夢でなくてよかった」
夜光の肩口に顔をじっと伏せるようにしていた葵が、小さく呟くように言った。
「え?」
「目が覚めて、これがすべて夢だったらと……俺も恐かった」
言いながら、葵は夜光を抱き締める腕に力を加えた。少し痛いほどの力だったが、それはすぐに緩められた。
葵は顔を上げると、またすぐに曇りの無い笑顔になった。夜光の額に、軽く口付ける。びくっと夜光が驚いて、ますます赤くなるのを楽しげに見ながら、葵は起き上がって衣を軽く直した。
「うん、よく寝たみたいだ。身体が軽い」
「それなら、よろしゅうございました」
夜光も起き上がり、まだ火照っている頬を隠すようにうつむきながら、軽く居住まいをただした。葵が真っ直ぐに愛情を示してくれることへの、嬉しい気持ちと気恥ずかしさが入り交じり、鼓動がまだせわしなかった。
多少乱れてしまった髪をなでつけながら、夜光は出来るだけ声音を落ち着かせて言った。
「湯殿は開いておりますので、よろしければ朝餉の前にどうぞ。そちらの着替えをお持ち下さい」
「それはありがたいな。夜光は?」
「私は先程、一足お先に入らせていただきました」
「そうか。残念だ」
葵は何やらしょんぼりと言い、着替えを手に立ち上がった。歩き出そうとして、床の間に飾られていた紫陽花に気付く。
束の間、葵の視線が紫陽花に縫い止められた。何かを思い出しているように、その目が細められる。
「良い色だな。……おまえに似ている」
「私に、ですか?」
夜光は、きょとんと床の間の紫陽花に目を向けた。真っ白い紫陽花が一朶、青に近い紫の紫陽花が一朶。
葵が夜光を見返った。柔らかいが、瞳の奥に真摯な色の宿る眼差しだった。
「うん。おまえはいつも綺麗で、月の精のように凜としていて。でも今のおまえの方が、あの頃より優しい色をしている」
「優しい色、ですか……?」
抽象的な物言いに、夜光はますます首を傾げる。葵は明るく笑うと、縁側に足を向けた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「はい。ごゆっくりいってらっしゃいませ、葵」
縁側を歩いてゆく葵を見送りながら、葵の名を笑顔で口にできる幸せを、夜光は噛み締めていた。
葵と同じ時間を共有できることが、足許がふわふわと浮き足立つほど、しみじみと嬉しい。あまり馴染みの無いその感覚にいくらか戸惑いながらも、夜光は頬をほころばせた。
曲がり角に葵の姿が見えなくなってしまってから、夜光は部屋に戻った。
葵と過ごす時間、交わす言葉、そのすべてが愛おしい。まるで夜光自身も生き返ったように、目に映るすべて、五感にふれるすべてが、眩しく美しく自分を満たしてゆく。
こんな幸せが、まだ自分に許されるとは思わなかった。朝の光が瞳に染みたせいばかりでなく、ふと涙が滲みかけ、夜光は唇をきゅっと引き結んだ。
泣いてはいけない。これは、罪深い自分に与えられた最大の、そして最後の慈悲だ。それに泣けばきっと、泣いたことに葵は気付いてしまう。
こんな自分が、一夜、愛しい人と共に過ごすことが出来た。それだけで、これ以上を望むべくもない。身に過ぎた幸せだ。
これから先のことを思うと、切なくて哀しくて不安で、胸が詰まりそうになる。けれど、だからこそ笑って、葵を待とう。
夜光は気持ち顎を上向けると、震える喉をぐっとこらえて、ゆっくりとひとつ深呼吸した。
大丈夫。自分はもう、充分に幸せなのだから。
「よし。頑張ろう」
夜光はわざと声に出し、すべてを無理やりに切り換えると、敷いたままになっていた寝床を片付けにかかった。
葵が湯浴みに行っている間に、夜光は朝餉の膳を運んできた。
葵を待つ間、明るい庭先の光と鳥達の囀りの中、じっと座って「大丈夫だ」と自分に言い聞かせた。その甲斐あって、意外に動揺することなく葵を待つことができた。
じきに戻ってきた葵と一緒に、ゆっくりと朝食を摂った。二人でとりとめもない会話をしながら食べる食事は、いつもと別段変わらない膳だったが、今まで食べたどんな御馳走よりも美味しく思えた。
お茶を飲んで一息つき、膳を片付けてから、夜光は今までに何があったのかを、ゆっくりと葵に語った。葵が穏やかに構えていてくれたせいか、夜光はとくに取り乱すこともなく、一通りのことを語ることができた。
「……そうか。あのときから、もう季節が一巡りしていたのか」
夜光が語り終えると、うつむき加減にじっと黙って聞いていた葵が、ひとつ深い息を吐いた。
「長殿にも槐殿にも、改めて礼を言わねばなるまい。それに、かの天女殿にも」
「いえ。陵様は、おそらく葵にはお会いなさらないかと存じます」
直接そう断られたわけではないが、夜光は言った。
「なぜだ?」
「紫水殿にいらっしゃる時点で、こちらからお訪ねするのは御法度であるのがならわしなのです。それに、只人がお目通りを願うのは、あまりにも恐れ多い御方でもあります」
「ふむ。妖の世界にも、雲上人がおられるのか」
気難しく唸った葵に、夜光は言い添えた。
「そもそもが、一般的な則とは異なる次元にお住まいの御方ですから。最玉楼をあげておもてなしさせていただいておりますし、葵は気になさる必要はないかと思いますよ。もし必要があるのなら、お呼びの声がかかるかと」
「分かった。ならば陵殿については、こちらの流儀に従おう」
葵は頷き、さらに難しい顔をした。
「となると、さしあたっての問題は長殿か。何はともあれ、詫びる以外にあるまいが……果たして、俺にお会い下さるだろうか」
「大丈夫ですよ。葵が憎いのなら、こうやって助けて下さったりしません」
「うん。だから尚更驚いている」
大真面目に困惑している葵に、夜光は思わず小さく吹き出してしまった。葵は腕組みをしながら、かなり情けない顔付きで口を尖らせた。
「笑うな。あの御方に睨まれるのは、本当に肝が冷えるんだぞ?」
「存じておりますよ。ご同情申し上げます」
夜光がまだ笑っていると、葵はますます唇をへの字に曲げたが、やがて溜め息交じりに苦笑した。
「まあ、性根を据えてかかる他に無いか。相当のお叱りは覚悟しておこう」
「叱られるのであれば、ご一緒しますよ。事の原因は、そもそも私にあるのですから」
やんわりと言い添え、その空気のまま、出来る限りさりげなく、夜光は切り出した。
「葵。長様とお話なさる前に、私からも、おまえさまにお話ししておきたいことがあります」
「うん? なんだ、あらたまって」
「はい。──このたびのことが落ち着いたら、私は旅に出ようと思っております」
穏やかな表情を崩さずに。優しげな唇を歪ませずに。あくまでもするりと自然に、夜光はそれを口にした。
あまりに自然に告げたせいか、葵は言葉をそのまま受け取ったように目をぱちくりさせた。
「旅に出る?」
「はい」
声を震わせるな。上ずらせるな。何でも無いことのように、最後まで落ち着いて話すのだ。
夜光は正座をした膝に白い手を置き、軽く顎を引いて、葵の瞳を真っ直ぐに見返した。
「私はこの終の涯で、ものをよく知らぬまま、ずっと守られて過ごしてきました。その結果の私の愚かさ、視野や見識の狭さが、今回のことを引き起こしたといっても良いと思います」
「うん」
「私は、もっと自分の目でものを見て、自分で考えなければなりません。自分自身のことも、人間というもののことも、もっと知らなければなりません。そのためには、ここから出て、様々なことと向き合わなければいけないと思いました」
「──うん」
いつの間にか、葵は真剣な顔で、夜光の言葉に聞き入っていた。
夜光は僅かに震えそうになった喉を、一度ぐっと声を飲み込んで引き締めた。葵から視線を逸らさぬまま、先を続けた。
「何より、私は償わなければいけない。誰に守られることも無く、自分の罪と向き合い、罰を受けねばなりません」
「……そうか」
「葵。只人であるおまえさまには、私以上に、この終の涯以外で暮らすことは難しいでしょう。ですからおまえさまは、ここで私が帰るのを待っていてほしいのです」
「──うん」
「おまえさまと離れるのは、私も辛うございます。でも、会えなくなるわけではありません。それにおまえさまも、ここにいれば、案外楽しいことがたくさんあって飽きないかと思います」
今朝から幾度も心の中でそらんじてきた台詞を、微笑さえ湛えて、そっくりそのままなぞって綴った。淡々とした口調にならないよう、顔付きが強張らないように、穏やかな表情の一枚下では懸命に努めながら。
本当は。本当は、離れたいわけがない。ようやくまた逢えたのに、葵と離れたいわけがない。心が張り裂けるかと思うほど、それを考えると捩れるように苦しい。
だけれど自分はあまりに罪深くて、このまま許されて良いわけがなかった。それに、たとえ離れてしまっても、今までとは事情が違う。今、葵は確かに生きている。生きて、幸せに過ごしてくれさえいてくれれば、それだけで良いではないか。一緒にいられなくても、葵が幸せでいてくれるなら。
それらの内心を白い頬の下に押し殺し、ただ穏やかに微笑んでいる夜光の言葉を、葵は黙って聞いていた。
夜光の語る声が途切れたとき、ついと、その青みがかった瞳が持ち上った。
「いつまで?」
ごく何気ない口調での問いかけに、夜光は思わず、返答に詰まった。
いつまで?──
告げたことの中で、夜光はひとつだけ、葵に嘘をついていた。そこを的確に真っ直ぐに突く、不意打ちのような葵の一言だった。
「会えなくなるわけではない」なんて、葵を誤魔化すための方便だ。本当は、旅に出たら、葵の寿命が尽きる前に終の涯に帰るつもりは無かった。
葵はそもそも、こんな罪深い自分とは関わってはいけなかったのだと思う。自分は一度、葵の命を、未来を奪ってしまった。それが奇跡の連なりの末に取り返せたのなら、これ以上罪に巻き込む前に、自分はもう葵の前から消えるべきなのだ。
だからもう、この終の涯で過ごす時間を最後にしよう。そう、決めた。
「……それは。そうですね、いつまでかは、まだ見当も」
一瞬目を逸らし、言いよどんだ夜光の頬が、僅かに不自然に強張った。それを見た葵が、何かを察したように瞳を瞠った。
葵は困ったような、少しだけ泣き出しそうにも見える、ひどく優しい苦笑にも似た表情をした。
「夜光。今度こそ、俺を不幸にするつもりか?」
夜光は、息を呑んだ。
葵の決して責めるでもない、ただ哀しいほど優しい透明な瞳が、夜光を真っ直ぐにとらえたまま続けた。
「俺もおまえも、互いに過去の肩代わりは出来ない。だが、今とこれからを分かち合ってゆくことはできる。喜びも哀しみも、命果てるときまで、俺はおまえと分かち合いたいと思っている。おまえが罰を受けるというのなら、俺も共に受けよう」
離れて生きるなどありえない。もう二度と離れはしない。葵の優しいが強く揺らがぬ眼差しが、言葉よりも雄弁に、夜光の胸を射貫いた。息も止まるほど鮮やかに。
「……でも。私は」
夜光の虚勢や演技などたやすく看破して迫ってきた眼差しに、あっけないほど簡単に、頬に涙が吹きこぼれてきた。子供のように顔をくしゃりと歪めながら、夜光は涙声に喉をひきつらせた。
「私は、駄目なのです。私は、許されては……」
葵の手が動き、夜光の震えている白い手を取った。白く嫋やかな手を、葵のしっかりした皮膚の固い掌が包んだ。
「償いたいと言うのなら、俺の我が儘を聞いてくれ。俺と共に生きてくれ、夜光」
その優しい瞳に宿る、畏れも迷いも無い、覚悟めいた静かな光。
葵の腕が、夜光を抱き締めた。理屈よりも言葉よりも確かな、一切を攫う力強い腕。身動きも出来ないほどの抱擁に、夜光はこらえきれずにしゃくり上げた。
離れて生きるなどありえない。もう二度と離れられない。どんな躊躇いや後悔も踏み越えてしまうその想いの強さは、夜光も同じだった。懸命に抑えようとしたそれが一度決壊してしまえば、もう抑えることなど出来なかった。
「……葵……おまえさまは、どうして」
「おまえが好きだ。一緒に行かせてくれ。いや、一緒に行く。おまえがなんと言おうと」
夜光の言葉を優しく、しかし強引に、葵が遮った。
想いとともに零れる涙が止まらず、夜光は震える腕を、ようやく葵の背にまわした。
「……葵……おまえさまは、本当に、手に負えません。馬鹿です」
葵が軽く笑う気配がした。
「馬鹿でいい。利口になって、おまえと離れるくらいなら」
──ああ。本当に、救いようも無いほど。馬鹿なのは、愚かなのは、葵ではない。自分だ。
夜光はぎゅっと、葵の背にまわした腕に力を込めた。
「葵……すみません……」
あやうく、また間違えるところだった。許されてはいけない、罰を受けなければいけないと、自分の苦しみばかりに囚われて。あやうく、葵の心を踏みにじり、切り捨ててしまうところだった。
今度こそ俺を不幸にするつもりかと、あんなに哀しい顔をさせるまで──あんな葵の顔を見るまで、どうして分からなかったのだろう。自分がどれほど身勝手に、一人で未来を決めてしまおうとしていたのか、と。
「どうか、一緒に……私と一緒に、いて下さい」
この先も、ずっと。
震える喉で、やっとその耳元に囁くと、葵は頷いた。力強く。
「勿論」
夜光はそれ以上はもう何も言えず、ただ葵に縋り付いた。
この人で良かった。夜光が間違えたときに、それを教えてくれる人で良かった。自分ですら時折分からなくなる本心を、真っ直ぐに見抜いてくれる人で良かった。この人を愛することができて、良かった。
涙が止まらずにいると、葵が指で優しく涙を拭ってくれた。葵は苦笑気味に、夜光の髪を宥めるように撫でながら言った。
「おまえは、案外泣き虫だったんだな」
「そ……そんなことはありません」
夜光はむっと唇をとがらせたものの、葵の仕種が嬉しくて、そう長続きしなかった。
葵に寄り添い、その体温と鼓動を切なく感じながら、夜光は胸の裡に溜まったものを吐き出すように長い吐息をつき、白い瞼を閉じた。
──いつか、寿命の違う葵と、今生の別れは必ずやってくる。けれどこの身も心も、もう葵だけのものだ。
たとえいつか葵がいなくなってしまっても。永遠に、それは変わりはしない。