夜明けまで (十九)

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「よし。話は丸くおさまったようだな」
 話が一段落したところで、それまで黙って様子を見守っていた槐が立ち上がった。若干人の悪く見える笑みを、にやにやと浮かべている。
「空の奴がまだ拗ねているようなら、俺が一肌脱がねばなるまいと思っていたが。さすがにそこまで子供じみてはいなかったようで、安心した」
「誰が拗ねているのですか。おまえは本当に厭な男ですね」
 じろり、と長が槐を一瞥する。槐は悪びれるふうもなく、三人の傍まで足を運んできた。
「槐殿」
 立ち上がりかけた夜光に先んじて、葵がさっと立ち上がった。歩み寄ってくる槐に、真っ直ぐに背を伸ばした姿勢で向き合う。普段は比較的ゆったりと動く葵だが、こうしたときの隙の無い身こなしを見ると、本来は武芸者であることを思い出させた。
「此度のことは、夜光から話を伺いました。多大なご尽力をいただき、痛み入ります」
 深く腰を折った葵に、槐は軽い笑みを返した。
「気にするな。おまえがしっかりしていてくれなければ、俺も空も困るんだ。なあ、空?」
「知りませんよ。勝手に言っていなさい」
 話を振られた長はぷいと横を向き、長煙管を取り上げて咥え始めた。面白そうにそれを見ている槐に、葵は苦笑した。
「お二人のご期待に背かぬよう、心します」
「ふむ、なかなか素直だな。良いことだ。おまえにしては、けっこうまともな奴を選んだな」
 そう言って槐が途中から面越しに視線を投げたのは、立ち上がったもののやや所在なく佇んでいた夜光だった。
「おまえは見た目によらず、恐い性格をしているからな。相当におおらかな者でないと相手は務まるまい」
「そ……そんなことはありません」
 思わず夜光は、むっと言い返してしまった。槐は頓着もせずに含み笑っている。
「おや。俺は褒めているんだぞ? おまえのことも、こやつのことも」
「確かに、葵がおおらかなのは否定しません。それより、こやつなんてぞんざいな呼び方はなさらないでください。失礼でしょう」
「おっと、これはすまなかった。まあ、見ての通り俺はがさつな性分なものでな。気を悪くしないでくれ、葵殿」
 あっという間に言い合いを始めた──傍目には槐が夜光をからかっているだけだったが──二人に、葵は苦笑気味に言葉を差し挟んだ。
「葵で構いません、お気遣いなく。夜光も、槐殿に他に言うことがあるだろう?」
 優しく、だが釘を刺すように促してきた葵に、夜光は今槐にかけるべき言葉はこんなことではないことを思い出した。
 実の父親だと分かったあのときから、夜光はろくに機会もないまま、槐とまともに言葉を交わしていない。
 あらためて、目の前に立つそのひとを見上げる。
 墨染めの衣に、光すら吸い込む長い黒髪、垣間見える素肌には無数の傷痕。不吉の化身めいたその姿の中にあって、面越しに見返してくる紫苑の瞳の真っ直ぐな美しさ。
 からかうような表情を浮かべていても、その瞳の奥に宿る深い優しさが、今ならはっきりと分かる。懐かしそうに夜光を見る眼差しのあたたかさ、「小夜香」という名を口にしたときに垣間見せた寂しげな表情の意味が、今なら分かる。
 枝垂桜の下で出会ったあのときから、何も知らず、その正体を知ったときには罵倒さえした夜光に、しかし槐は一切変わらない。夜光のためにあっさりと我が身をなげうつ真似さえしながら、決してその距離を無理に詰めて来ようとはしない。
「槐様……」
 謝りたい。それから、心から感謝していると伝えたい。
 槐に対し、確かにまだ消化しきれずにいる複雑な感情はある。けれどそれも今や時間の問題であることが、夜光はもう自分で分かっていた。
 これ以上は、夜光の側から踏み出さねば。互いの距離が縮まることは、無い。
「あの、……」
 感情が一度にあふれ、喉がふさがってしまって、ああ、またいつもの悪い癖だと、夜光は情けなさに歯噛みした。
 なんとか言葉を出そうと夜光が四苦八苦していると、槐が仕方ないというように小さく笑い、それより先に口を開いた。
「夜光。一つだけ頼みがある」
「は、はい……頼み、ですか?」
 突然の意外な言葉に、夜光は槐の顔を見上げた。槐はとくに何ら調子も変えぬまま、気軽い口調のままで続けた。
「一度だけでいい。おまえの、人間としての名を呼ばせてくれ。それに、ただ頷くだけでいいから返事をしてくれ」
「え……」
 素顔の大半を覆い隠している簡素な面の下で、槐はやや照れくさそうにした。
「おまえの名は、小夜香が考えたんだ。おまえが生まれた朝は、山あいにかかる朝霧がとりわけ美しくてな。白い姿がまるで神様に祝福されたように綺麗だと、あれはそう言っていた」
 夜光のもうひとつの名。実の親がつけた、人間としての名。
 朝霧がとりわけ美しかったというその光景が、脳裏に広がって見えたような気がした。
 槐の本来の姿──乳白色の髪に紫の瞳という色彩に生き写しの、夜光の容貌。生まれたばかりの夜光を抱き締めて、生まれた朝にちなんだ名前をつけた女性。
 ──おまえは、小夜香によく似ているな。
 いつだったか、そう槐は言っていた。夜光の顔立ちはきっと、見たこともない小夜香というそのひと譲りなのだろう。
 槐を見上げてそう思ったとき、夜光の心にすっとそれがなじんだ。それと共に不意に熱いものがこみあげて、涙が出そうになった。
 夜光は下を向いて唇を引き結び、なんとかそれを飲み込んだ。無意識のうちに、前に揃えていた両手を握り込む。そうして紡いだ声は、そのせいで震えを帯びた、か細いものになってしまった。
「お……とうさま……」
 自分の前に立った槐が、小さく息を呑んだのが分かった。その顔を見上げることができないまま、夜光はなんとか言葉を続けた。
「……一度といわず、呼びたければいつでも……お呼び下さい」
 言いながら、かあっと耳朶が熱くなった。
 槐の存在を受け入れることが怖いようでもあり、嬉しいようでもあった。そして、慣れぬ言葉を無理に使ったことが、無性に気恥ずかしい。
 誰かに自分から歩み寄り、心を開くのは、夜光にはとりわけ難しいことだ。だけれど、あのときこうしていれば、ああ言っていればと、葵のときにさんざん悔やんだ。そんな後悔は、もうしたくなかった。
 少しの間棒立ちになっていた槐が、夜光に向かって足を踏み出した。そして夜光の目の前まで来ると、その細く薄い身体を、思いあまったように墨染めの袖に抱き締めた。
「沙霧。……すまなかった、ずっと」
 視界を埋める墨染めの衣。今まで聞いたことがない、槐の抑えられた声。
 突然のことに驚いて、夜光は身動きできなかった。ただ、拒絶感は無かった。泣きたいほどあたたかなものが、心の中に染み渡ってゆく。
 ──父親なのだ。このひとは、自分の。
「……はい……」
 涙がちになってしまいそうな声を懸命にこらえて、夜光は頷いた。すっぽりと包むように抱き締めてくれる槐の墨染めの袖と胸が、無性にあたたかかった。
「分かっております。もう良いのです」
 夜光が見舞われた不幸は、槐のせいではない。夜光がそう思えるのだから、もうそれでいいのだ。
 夜光は槐の自分に比べて随分と大柄な身体を、おそるおそる、控えめに抱き締め返した。
「お父様。会いに来て下さって、私を大事にして下さって、ありがとうございます。私は果報者です」
 夜光が見上げると、槐のいつになく驚いたような表情と出会った。
 自分と同じ色をした槐の瞳。血の繋がりだとか父親だとか、そういうものが実感として理解できているかは、自分でもまだ分からない。だが、槐に抱き締められることは不快ではなく、そこには確かな安堵と親しみがあった。
「どうか、お父様とお母様の話を、私に聞かせて下さい。それから、お父様自身のことも」
 自然とそんな言葉が出た。一度垣根を取り払ってしまえばこんなに簡単なこと、真心を伝えられることはこんなに嬉しいことなのかと、そのことが新鮮な驚きだった。
 ややぽかんとしたように夜光を見返していた槐が、ふと表情を緩めた。今まで見た中で一番柔らかく、一番嬉しそうに笑うと、槐は頷いた。
「そうしよう。空には悪いが、どうせあの性悪な天女殿からお呼びがかかるまでの間だ。親子水入らずといこうじゃないか」
「あ……」
 そういえばそうなのだ、槐はもうじきに、あの陵と共に去らねばならないのだと、夜光は表情を曇らせた。冥魂珠の解呪と引き換えだったとはいえ、そのことが心に重くのしかかる。
 だが槐は、事も無げに言った。
「大丈夫だ。仮にも空にゆかりある俺を、天女殿もそうそうおろそかには出来んさ」
「そうだと良いのですが」
「うむ。今頃、厄介な輩に関わってしまったと、案外溜め息をついているかもしれんぞ」
 くつくつと、まるで悪巧みをするわらべのような笑い方をしている槐に、夜光は苦笑しつつも肩の力が抜けた。
 槐が言うならそうなりそうな気がするというのか。そうならぬものでもそうしてしまいそうだ、というのか。それで心配がすべて解消されるわけではないが、こうしたときの槐には奇妙な信頼と安心感があった。
「おっと、そうだった」
 と、そこで唐突に、槐が思い出したように葵を振り返った。
「おい、そこのおまえ。うっかり忘れる前に、さっさと渡しておくぞ」
 ぞんざいな呼びかけに、親子の語らいの邪魔をするまいといくらか身をひいて微笑ましく眺めていた葵は、きょとんとした。
「俺ですか?」
「おまえに決まっておろう。ちょっと口を開けろ」
 槐はすたすたと、大股に葵に歩み寄る。
「口?」
「いいから開けて、しばし待て」
 一方的な物言いだったが、葵は不思議そうにしつつも、言われるままに口を開けた。
 槐が右手を持ち上げ、掌をくるりとまわして軽く掲げた。と、何もなかったはずの掌の上、わずかに浮いた空中に、なんの前触れもなく、真っ白に輝く光の珠のようなものが生じた。
 不可思議な光景に、葵が目を丸くした。そのほんの僅かな瞬間に、槐がふいと手を動かし、あっと思ったときには、葵の口の中にその光の珠が吸い込まれていた。
「!?!?!?」
 突然妙なものを口に含まされた葵が、仰天して自分の口元を押さえた。
 その胸のやや下、呑まされた光の珠がちょうど胃の腑に達したのではというあたりから、ふわりと薄い白銀の焔のような光が立ち昇った。
 光は葵の全身を包むように一瞬で拡散し、その身の奥に吸収されるように薄れ、さしたる間も置かずに消えていった。
「何だ、今のは……?」
 葵が狐にでもつままれたような顔で、既に何事もない己の身を見下ろしながら首をひねった。突然の不思議な光景に、夜光もぽかんと目を丸くしていた。
 二人からのもの問いたげな視線を受けて、槐は一人満足そうに頷いた。
「うむ、問題なく馴染んだな」
「馴染んだ?」
「俺の命の珠のひとつを、おまえにくれてやった。俺のような力の強い妖は、寿命が阿呆かというほど長くてな。要は、俺の寿命をいくらかおまえに分けてやった、ということだ」
 あっさりと告げられた言葉に、葵と夜光は揃って驚きの表情を浮かべた。
「あなたの寿命を、俺に……?」
「そんな。なんてことを……!」
 状況を理解した夜光は顔色を変えたが、槐は素知らぬ顔でそれを一瞥し、再び葵を見下ろした。
「俺からのはなむけだとでも思っておけ。おまえは人間で、夜光は半妖。夜光も並みの妖ほどは生きないだろうが、それでもおまえよりは、はるかに寿命が長い」
 思いの他真面目な槐の声音に、葵がはっと目を瞠る。その横で、夜光も息を呑んだ。
「だから、夜光と共に生き、添い遂げられる程度に、寿命を分けてやったんだ。夜光を独りにされてはかなわんからな」
 槐はにまりと葵に笑い、夜光に視線を移した。
「俺はおまえに、親らしいことを何もしてやれなかった。せめて、これくらいのことはさせてくれ」
「お父様……」
 自らの寿命を削って他人に分け与えるだなんて、いくら長寿であっても大変な話だ。なんということを、と思う一方、槐がそこにまで思い至らせてくれていたことに、夜光は言葉にならず胸が詰まった。
「……なんてことを……」
 葵とは寿命が違う。それは、今はできるだけ考えまいとはしていたが、避けては通れぬこととして、夜光の中に深い楔のように哀しく突き刺さっていたことだった。
 思えばかつて槐も、妖でありながら人間の女性を生涯の伴侶に選んだ。同じ苦悩を、槐が抱かなかったとは思い難い。ましてその生涯の伴侶──夜光の母親は、既にこの世に無い。
 葵と目が合った。葵もまだ困惑は消せないようだが、その瞳には状況を理解した色があった。
 ──これで、離れなくてすむ。互いの寿命が尽きるまで、ずっと離れることなく寄り添っていられる。
 そう思ったら、とうとうこらえきれずに、夜光の頬に涙が零れた。せめて声はこらえようと顔を覆った夜光の頭を、槐が軽く笑って、ぽんと撫でた。
「では、俺は空と少々積もる話がある。おまえ達も色々とやることがあるだろう。もう下がっていいぞ」
「は……はい」
 なんとか涙をこらえ、拭いながら、夜光は部屋の出入り口に向かって歩き出した。葵がそれに続く前に、槐を振り返った。
「槐殿。感謝致します」
 葵も、どこかで互いの寿命については考えていたのだろうか。感極まったように発せられた声は、いつになく熱を宿して強く、僅かに上ずっていた。
 槐はちらりとそれを見返り、軽く手を振った。葵はそれに、深々と一礼する。
 夜光と葵が部屋を辞すまで、槐は二人を振り返らなかった。

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