音も、風景も。何もかもが、白の中に吸い込まれるようだった。
只、静寂。白の他には何も無い。声も足音も、ちょっとした息遣いさえ、広がる白さの中にとけてゆく。
ふと、音も無く舞い落ちてくる綿毛のようなものが頬にふれた。
──ああ。また、雪だ。
灰色の空から舞う白い花に似たものが、見上げる額に落ちてくる。随分長いことここに立っている身体はすっかり冷え切って、降りてきた雪がふれても溶けることもない。
只々、独り佇みながら、ずっと「ただ一人のひと」を待っていた。
来るのか来ないのかも分からない。便りも宛ても無いひと。
胸の奥に秘め続けているのは、かつてそのひとが言い残した、「また戻ってくる」という言葉、ただひとつだけ。
長いこと立ち尽くすうちに手足の先が凍え、頬も唇も氷のように冷たくなっていた。長い黒髪は、今や雪化粧で斑になっている。白い冷気を吸い込む喉と胸とが、一息ごとに刺すように痛む。
ああ、もう来ないのだろうか。今日も来ないのだろうか。本当に、こうして待ち続けていれば、また逢うことが出来るのだろうか……。
軋むような寒さと痛みに、凍えた唇を思わず噛んだとき。
白い白い視界の向こうから、雪を踏むかすかな音が聞こえた。
はっと、そちらに視線を振り向ける。積もった雪の上を、事も無げに歩み寄って来る誰かが見えた。
一日千秋のような思いで待ち続けた、こちらの思惑など知らぬげに。大股で歩くそのひとは、悠然と目の前に立つ。ふわりと雪を孕む、袖のゆったりした真白い狩衣。腰に佩いたるは、美事な白銀の太刀。
豊かに長く靡く髪は、およそ他では見たこともない、月光を編み込んだような不思議な乳白色をしている。そしてその形の良い額に見えるのは、白焔を帯びて輝く、堂々たる一対の角。
目を瞠って見上げた視界の先で、そのひとの紫の双眸が、悪戯っぽい笑みを含んでこちらを見下ろしていた。まるで猫科の獣のように、その瞳孔は縦に長い。この世のどんな宝よりも尊く、どんなに極上の玻璃よりも透明な、目にした者を魅了してやまない、強く美しい光を湛えた瞳だった。
『──人間とは、本当に生き急ぐものだな』
白い鬼はそう言った。少し驚いたようにも見えるその表情に、見上げた喉の奥が震える思いがした。
──ああ。本当に。やっと来てくれた。やっと、逢いに来てくれた。
寒さも白さも押し流す熱さで、ただひとりの存在へ向けられた想いが、胸の奥から迸る。
凍えきった指先をあらん限りに伸ばして、自分よりもずっと上背のある白い鬼の衣をつかんでいた。顔を見られまいと、その胸元に額を押しつける。
『……分かっているなら、こんなに待たせるな。莫迦者が』
こらえようとしても、あふれ零れる想いに、喉が、指が震えてやまない。離れることができない背を、白く大きな袖に、翼のように包まれる感触がした。
『それはすまなかった』
微細な笑みを含んだ声に、唇を噛みながら、ますます腕に力をこめる。相変わらず、なんて余裕綽々で、えらそうで、悪びれない調子なんだろう。この数年、こちらがどんな思いで待ち続けていたのかなんて、きっと知りもしない。それなのに、どうしてその声を聞けることが、涙が出るほど、こんなにも嬉しいんだろう。
文句のひとつもつけてやろうと見上げかけたところで、息を呑んだ。紫の瞳が、見たこともないほど優しく、こみあげるようにひどく真摯に、こちらを見つめていたから。
大きな掌で、冷え切った両頬をくるまれる。白い鬼は額を寄せ、少し低い声で、囁くように言った。
『逢いたかった。随分待たせてしまったな。許せ』
『……まったくだ。許してなんかやるものか。この、大莫迦者が』
それ以上は何も言えなかった。白い鬼をただ抱き締めながら、こらえきれずに、とうとう声を上げて泣いていた。
序章 ─ 匂夢 ─
