入道雲の眩しい、高く真っ青な空から落ちてくる陽差しに、小夜香は思わず掌をかざした。
「ふーー……あっつぅー………」
天頂を過ぎていくらか経った真夏の陽光は、受ける肌をじりじりと炙るようだ。
少しでも涼しくなるかと、腰まで流れる黒髪を、うなじからたくし上げてみる。
暑いし邪魔になるしで、こんな髪なんて結んでしまいたいのだが。巫覡にとって髪は特別に大切なものだ、神性と霊力の宿る尊いものだ、などと言われて、必要以上に切ることは勿論、決められた飾り以外をつけることも、結うことすら禁止されている。
全部まとめてくるくる丸めて、里に住む年頃の娘達がそうしているように綺麗めな野の花でも飾ったら、涼しい上にきっと可愛いんだろうなあ。なんて一瞬思ったが、すぐに真顔になった。
「アッホらし。似合うわけないじゃないか、私に」
はー、と息をついて、髪をたくしあげていた手を放す。見事な艶を帯びた黒髪が扇のように流れ落ち、風に弾んで広がった。
年頃の娘のように、近頃は人並みに「そういったもの」に興味はあったが、そんなものは自分には似合わないことも、よく分かっていた。
自分は、手も脚も、まるで少年のように痩せっぽちで、胸だってぺたんこで、身体つき全体に、とにかく柔らかさというものがない。
しかも上背だって低い。もう数えで十六にもなるのに、三つも年下の子どもたちより、尚低い。
こんな容姿だから、祭事のときに着る華やかで伝統的な巫覡装束だって、ちっとも似合わない。
一年前までは、こんなふうでも全然良かった。そもそも十二の歳まで、男の子として育てられていたのだから。
なんでも母がひどい早産で、生まれてからも何度も死にかかったらしい小夜香は、「神様にとられないように」と、性別をひっくりかえして育てられることになったのだ──と聞かされている。
数えで十二歳になったとき、その頃には病気一つしない元気な子どもになっていた小夜香は、伝統に則って、女の子の姿に戻された。男の子だった頃の感覚や習慣が抜けず、それからもお転婆で、一向に女の子らしくはならなかったけれど。周囲の者達も、元気なのは何よりだ、年頃になれば落ちついてくるだろう……と、そんな小夜香をあたたかく見守っていた。
──一年前までは。
「小夜音姉様には、巫覡装束、よく似合ってたなあ……」
姉の小夜音。自分とは二つ違うだけだったのに、小夜音はもうすっかり大人で、何よりとても綺麗なひとだった。
透けるように肌が白くて、すんなり伸びた手も脚も柔らかくて。いつでも微笑んでいるような黒目がちの瞳が、潤んだように優しくて、小夜香にとって憧れであり、大好きでたまらない、自慢の姉だった。
『私の可愛い小夜香。大丈夫よ。小夜香だって、今にとびきりの美人になるわ』
しっとりと柔らかな指で小夜香の頬を押し包み、小夜音はおまじないのように、よく言ってくれた。
『だって、私の妹だもの。ううん、もう今だって、とびきりの美人さんだわ。先が楽しみで仕方ないわね。もっと大きくなったら、うんとお洒落して、こっそり街まで遊びにいきましょうね』
美人で気立てが良くて、茶目っ気もあった優しい姉。祭事のときには、少しの間違いも滞りも無く立派に巫覡の役目を遂行し、その神聖で厳かな様に誰もが心を打たれて敬意を表した。篝火に照らされながら、白い装束を翻して軽やかに神楽を舞う姿は、まるで人ではなく、羽根の生えた精霊のようだった。
何もかもが自慢の、誰よりも大好きな姉。里の誰からも愛されて、稀代の巫覡だと称讃されていた姉。
だけれどそんな姉は、今から一年前に、病で突然この世を去ってしまった。
あのとき里の人々は、どれほど嘆き悲しみ、その死を惜しんで、稀代の巫覡を失ってしまったことを不安に思ったことだろう。
此処は、いにしえより龍神に守られし里。龍神に仕える巫覡が、いみじくも代々の安寧を司ってきた。巫覡を通して龍神を祀り、その加護と恩恵を賜る。その楔がこの里を支えている。
あんなに優秀な巫覡は、歴代でもそうそういなかった。その代わりなんて、誰にも務まりはしない。
「……私に姉様の代わりなんて、出来るわけないだろう」
──ずっと、小夜音姉様がいてくれたなら良かったのに。
思い出すだけで嬉しくなるようなひとのことを考えていたのに、すっと氷の刃を差し込まれたように胸が冷えた。締め付けられるような、泣きたいような鋭い痛みを覚え、唇を噛む。
ダメだダメだ。こんなことを考えていても、悲しくなるだけでどうにもならない。
姉の代わりは、誰にも出来ない。だけれど、出来なくても、やるしかないのだ。小夜音の妹、同じく巫覡の血を引く自分でなければ、これはできないことなのだから。
「……──さま。さやかさまぁ──」
そのとき遠くから、そんな呼び声と共に、自分に向かって大きく手を振る娘の姿が見えた。
「そろそろ禊のお時間ですよぉー。これ以上後になると、また時間がなくて、焦って転んじゃいますよぉ。そろそろお戻りくださぁーい」
乳兄弟で、屋敷の下女でもある亜矢だ。口許で手を広げて呼びかけてくるのに、もうそんな刻限か、と、小夜香は太陽の位置を見やった。
まだまだ陽は高いが、巫覡の支度には何かと手間がかかる。あんまりうかうかして、夕刻からの勤めに間に合わなかったらいけない。
「はーい。はぁい」
──正直、怠いなあ。
と思いながら、亜矢の方へ足を向けた。
自分の役目だ、自分がやらなければいけない、と、よく分かっている。分かっているからこそ、逃れられない日々の決め事が億劫だった。毎日毎日、何かしらの祀りごとや、神に仕えるもののしきたりに縛られる生活。大きな祭事のときには、いっそうそれが大がかりになる。
小夜音の代わりに、こうして急ごしらえの巫覡を務めるようになって。よくもまあ、姉は嫌な顔のひとつもせずにこんな面倒事をこなしていたものだ、とあらためて驚き、感心することしきりだった。生まれたときから巫覡として育てられた姉だから、そりゃあ小夜香よりは馴染んでいたのかもしれないけれど。
そんな自分の心の動きを、もう一人の自分が嗤う。──そんなだから、おまえは姉の真似事すら出来ないんだよ、と。
──分かってるよ。そんなことは誰よりも。
まったく。小夜音の代わりにはなれない上、つくづく自分は、巫覡などに向いていない。
「小夜香様。返事は一回!」
「はーーーーい」
途中ですれ違った亜矢の小言を受け流しながら、小夜香はどんどん大股で、自分の中の声を振り切るように、屋敷に向かって歩いていった。
その速い歩運びに、長く真っ直ぐな黒髪が、風に煽られて鮮やかにたなびいた。
曲夢 (一)
