その後はもう、ずっと小夜香は不機嫌だった。
あんな非日常極まる妖などに遭遇してしまったせいで、どこか足元がふわふわして現実味を欠き、何をするにも空回りばかり。お勤めの身支度にやけに手間取ったり、祭壇の前で躓いてお供物の一部を巻き込んで盛大に転んでしまったり、夕餉の席では手元が滑って汁の入ったお椀をひっくり返してしまったり。それはもう、さんざんだった。
小夜香が何かをしでかすと、いつもならちくりとお小言を言ってくる亜矢も、さすがに今夜の状態には、心配の方が先に立ったらしい。
「大丈夫ですか? 具合でも悪いのでは……?」
「な、なんともないよ、ちょっと疲れただけ。もう今日は寝るねっ」
心配そうな亜矢を振り切って、これ以上何かをやらかす前に、小夜香はさっさと自室に引き上げることにした。
「はぁ。秋人兄様がお留守にしていて良かった……」
一緒に暮らしている兄の秋人は、今夜は泊まりがけで里の会合に出かけている。秋人は怒ったりはしないだろうけれど、そのぶん「ダメな子だ」と思われてしまうのも遣る方ない。
「それもこれも。全部! ぜーんぶあいつのせいだ!」
なんだか今日はすっかり疲れてしまったので、早々に寝てしまうことにした。とっとと眠ろうと無理矢理目を瞑って、頭から夏用の薄い上掛けをかぶる。
その眼裏に、ふっと白い姿が浮かんだ。血腥くて物騒で罰当たりで不遜でどうしようもないくせに、見目形だけはやたらに良い、白い鬼。
「なまじ面だけは良いから腹が立つわ……」
黙って立っていれば、角があったり髪や眼の色がおかしいことは別として、それは素晴らしい美丈夫に見えるだろう。それこそ、この間読んだ物語に出てきた頭中将あたりと、良い勝負になりそうだ。
いやいや。何を考えているのだ自分は。
「寝る! もう、寝るぞ!」
自分に言い聞かせ、ぎゅうっと眼を瞑った。
また来る、などと言っていたが、どうせあの妖ともこれっきりだろう。向こうも好きで降って湧いたわけではないようだったし、またこの里に来たとしても得るものもあるまい。妖の事情など分からぬが、にも関わらずまたのこのこやってくるなど、そこまであいつも暇ではないはずだ。
そんなことを考えながら頑なに眼を瞑っていたら、疲れていたのは確かだったので、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝になると、さすがに「思い出すと腹が立ってくる」くらいには落ち着いていた。
一人で腹を立てているのも虚しいので、極力思い出さないように努める。いつものように日の出前に起きて湖畔で禊をして、屋敷の隣にあるお社──正しくは「お社の隣に屋敷がある」なのだと思うが──で朝のお勤めをこなし、屋敷に戻って朝食を終えた。
外では相変わらず、今を盛りとばかりに蝉が元気だ。水源の多さや山からの風の恩恵で、このあたりは朝晩はまだ涼しいから心広く聞いていられるが、日中暑くなってくると、蝉の声で途端に蒸し暑さが倍増する気がする。
食後に麦を煮出した麦湯を飲みながら一息ついていると、そこに昨夜は泊まりがけで出かけていた兄の秋人が帰ってきた。
「小夜香、おはよう。今日もお勤めご苦労様」
「秋人兄様、お帰りなさい。兄様こそ、お疲れ様でした」
居間にひょこりと顔を出した秋人に、小夜香はぱっと瞳を輝かせた。
秋人は近付いてくると、小夜香の隣に腰を下ろし、きちんと正座をしながら訊ねてきた。
「昨夜、少し様子がおかしかったと亜矢に聞いたんだけれど。大丈夫か? どこか具合が悪いんじゃないのか」
「あ、ええと、うん。大丈夫です。少し疲れていただけで」
慌てて小夜香は否定した。
秋人とは四つしか歳は違わなかったが、物心つく頃には父親の他界していた小夜香にとって、実質父親代わりのような存在だった。
そんな秋人に、先に会ったのだろう亜矢が昨夜の様子を報告していたのは、当たり前ではある。だけれど、余計なことを、と小夜香は内心で渋い顔になった。
「そう。なら、良いんだけど」
秋人は心配気に、まだ少し顔を曇らせていた。
秋人と小夜香は血は繋がっておらず、本当は兄ではない。義兄、さらに正しく言えば「義兄になるはずだった人」だ。ずっと「兄様」と呼んできたから、今も習慣が抜けず、そのまま兄と呼んで慕っているのだけれど。
「調子が悪いのなら、隠さずに言うんだよ。おまえはどうも、根を詰めて頑張りすぎるところがあるから」
「はい。本当に大丈夫です。心配をかけてごめんなさい」
優しい秋人に心配をかけてしまうのは、怒られることよりも嫌だった。素直に小夜香が頭を下げると、秋人は「そうか」と、ねぎらうように微笑んだ。
そこに、亜矢が秋人の分も麦湯を運んできた。秋人が湯飲みを受け取り、口許に運ぶ。その何気ない整った仕種を、小夜香はぼんやりと「綺麗だなぁ」と眺めていた。
秋人の瞳は色が淡めで透明度が高く、少し長めの黒髪は、艶々として柔らかそうだ。肌色の白さのせいか、何か線の細い印象がある。容姿も整っていると思うのだが、それ以上に、そのすっと背筋の伸びた居ずまい、落ち着いた佇まいが綺麗な人だった。
秋人の家系は、代々「龍神の巫覡の付き人」を務める役割を担っている。この里においては「巫覡」が信仰の頂点であり、一切の神事を取り仕切る立場にあった。社殿には伝統的に宮司がおらず、しかし社を管理し巫覡を輔佐する者は必要で、その当代が秋人というわけである。
これも伝統的に、巫覡の付き人は、社の隣にあるこの屋敷に、巫覡と共に住まうことになっていた。複数の家族が住んでも支障は無いほど広い屋敷だったから、ここも管理が必要になる。小夜香の両親は既に他界しており、秋人の方でも同様だったから、今では自然と、秋人がこの屋敷のことも取り仕切るようになっていた。
そんな大切な役割を持つ秋人だから、当然とてもしっかりした人なのだが、穏やかで物静かで、誰に対しても物腰が柔らかい。いつも優しく微笑んでいるようで、そんな秋人が、小夜香は小さな頃から大好きだった。
──秋人兄様は、なんとなく、小夜音姉様と雰囲気が似てるなあ。
そう思いながら、秋人と小夜音の二人が一緒にいるところを、幼い頃からずっと見守ってきた。綺麗な二人が揃うと、余計に空気まで澄み渡るようで、何より二人は一緒にいるといつも嬉しそうで、見ているこっちまで幸せな気持ちになれた。
……そんな幸せな光景を見ることができたのも、一年前までの話だが。
秋人は、龍神の巫覡の付き人であると共に、小夜音の婚約者だった。一年前に小夜音が病で急逝し、あのときはさすがの彼も、一ヶ月近く居室にこもったまま、ろくに表に出てこなかった。
今はもう以前の秋人兄様に戻っているけれど。それでも、少し翳りを帯びるようになってしまった、と思う。
もっともあのときは、小夜香も毎日毎日泣いていて、世界が急に無明の闇に閉ざされてしまったようで、まわりのことなど何も見えていなかった。ある日秋人が部屋を訪れて、「死んだ小夜音の代わりに龍神の巫覡を務めてほしい」と言われるまでは。
あのときの兄様が、本当に疲れ切って、やつれていて、あんなに綺麗だった瞳に光も力も無くしていて。それでも、小夜音姉様の守ってきた役目と想いを絶やさないために、小夜香を訪ねてくれたから。
だから、小夜香も頷いたのだ。自分が巫覡の役割を受け継ぐ、ということは、小夜音が本当にもう居なくなってしまったことを認めるようで、また涙が出て来たけれど。何度もしゃくりあげて、みっともなく泣きはらした顔のままだったけれど。
そんな小夜香を、秋人は「ありがとう。すまないね」と、優しく抱き締めてくれた。そうして、秋人自身もこらえきれなくなったように、小夜香を抱き締めたまま、声を殺して泣いていた。
──秋人が泣いている姿を見たのは、あれが最後だ。
小夜音がいなくなっても、秋人がこの屋敷を去らずにいてくれて良かった、と思う。小夜香ひとりなら、きっと孤独にも、巫覡の勤めにも耐えられなかった。
そんなことを考えながら、ゆっくりお茶を飲んでいる大好きな秋人の姿を、しみじみと眺めていたとき。
どたどたっと廊下を駆けてくる足音がして、部屋の戸が勢いよく開かれた。
「小夜香! 昨夜なんだかおかしかったんだって? 大丈夫か!?」
そう言いながら部屋に飛び込んできたのは、秋人と同じくらいの若者だった。
静かだった場がいきなり賑やかになったようで、小夜香はややうるさいものを見るように、そちらに眼を巡らせた。
「おはよ、颯介。朝っぱらからやかましいなあ」
「やかましいはないだろう。おい、大丈夫なのか? 変な病気だったりしないよな?」
颯介と呼んだ若者は、構わず小夜香の目の前に膝をついて迫ってくる。
「大丈夫だよ。もう、みんな大袈裟すぎるんだって」
むくれていると、秋人が苦笑した。
「小夜香、そう言うものじゃない。颯介だって心配しているんだから」
「そうだぞ、小夜香。おまえに何かあったら大変なんだからな」
「はーい。悪かったなぁ、颯介」
颯介の言葉より、秋人が言ったから、小夜香はしぶしぶ矛先を引っ込めた。颯介は、まだ何か不満そうに小夜香を見ている。
「おまえなあ。てか、その呼び捨てはやめろって。俺のことも兄様と呼べ、兄様と」
「やーだよ。兄様ってガラじゃないし、颯介」
「いやガラだろうよ。立派に兄貴だろ、俺」
「まあまあ。ところで颯介、何か用か? どうしたんだ、わざわざ」
秋人がやんわり制すると、颯介は思い出したように秋人を見返った。
「あ、そうだった。いや、秋人とさ。今度の秋祭りについて、もうちょっと話しておきたくて」
「会合でさっきまで一緒にいたんじゃないの? わざわざ追っかけてきてさ。兄様に会いたかっただけじゃなーい?」
「ちげーよ馬鹿か。いくら俺だって、そこまで暇じゃねえわ」
そこに、亜矢が颯介のぶんも、追加で麦湯を運んできてくれた。「どーも」と颯介は片手で茶碗を受け取り、そのまま胡座をかいて飲み始める。
そのまま秋人と、何やら秋祭りのあれこれについて話し始めた颯介を、小夜香も麦湯の残りを飲みながら、つくづくと眺めた。
颯介は秋人よりもひとつ上のはずだったが、なまじ秋人が落ち着いているから、こうして見比べていると、颯介の方が年長者には正直見えなかった。
颯介は、この里をまとめる里長の一人息子だ。けっこうな美男子で、少し伸ばした髪を後ろで丁寧に括っているのが、涼しげな目許によく似合っている。
健康的に陽に焼けてはいるが、畑仕事などの屋外の労役は、よほどの繁忙期でなければしない。だから他の里の者たちと違い、その手は傷もなくきれいだ。纏うものも、普段着ながら布の質が良い。
里長の家系とはまた違う筋で、巫覡やその付き人の家系は、この里においてはある意味で頂点にある。ゆえに、相手が里長の息子であっても、小夜香は昔から、気易く颯介に接してきた。
颯介の側でも、気易いのは同様だったのだろう。颯介はとくに秋人と仲が良く、子どもの頃からしょっちゅう連れ立っていた。颯介が何かと秋人を引っ張り回していた、というのが印象ではあったが。
必然的に小夜香も颯介と関わる機会が多く、秋人とはまた違う、気心の知れた兄のような存在だった。兄というよりも、憎まれ口を叩き合う喧嘩友達、というほうが実情に近くはあるのだが。
「よし。んじゃ、俺は戻るわ。また何かあったら頼むな、秋人」
そうこうするうちに、話が終わったらしく、颯介が手にしていた書き付けを折りたたんで懐にしまった。
「分かった。おまえも大変だな、今年は」
「だよなー。まあ、しゃーねえよな。親父が生きてるうちに、教われることは全部教わっておかなきゃならんし」
秋人の言葉に、颯介は大袈裟に溜め息をつき、湯飲みを空にした。
秋に毎年行なわれる秋祭り、収穫祭ともいうそれは、一年を通して最も賑やかで大規模に行なわれる祭事だ。今年はどうやら、颯介がその纏め役を、一手に担っているらしい。いずれ継ぐことになる里長の役割のための勉強、という話のようだ。
「でも、おまえがいてくれるから心強いわ。いい祭りにしようぜ」
言い残して颯介は立ち上がり、そこで思い出したように、小夜香に眼を向けた。
「そうだ、小夜香。今度街まで出る用事があるんだ。そのとき、よければ一緒に行かないか?」
「街まで?」
思わぬ話をふられて、小夜香はきょとんとした。
「おまえもたまには、里の外に出たいだろう。とくにこの一年は、ずっと巫覡の修行だの勤めだのなんだので窮屈だったろうしさ」
これまた思わぬ気遣いに、小夜香は驚いてしまった。確かにこの一年は、小夜香にとって慣れない巫覡勤めで束縛や負担が急増していた。姉の抜けた穴をなんとか形だけでも埋めようと、とにかく夢中で必死だったから、疲れたと思う余裕もなかったけれども。
咄嗟に秋人の顔を窺うと、構わないよ、というように、その目許が優しく微笑んだ。
いいんだ。と思うと共に、秋人も小夜香の負担を理解し気遣ってくれていることが伝わって、胸があたたかくなった。
しかしそれでかえって、小夜香は、甘えすぎてはいけない心持ちになった。
颯介を見上げて、小夜香は首を振った。
「すまない。気持ちはありがたいが、私も祭りに向けて、まだまだ準備があるんだ。この通り巫覡としてはてんで未熟者だし、秋祭りに巫覡として臨むのは、私も初めてだからな。今はとても、余裕がない」
それを聞いた颯介は、明らかに残念そうに「そうか」と呟いた。思っていたよりもしょげた様子だったのに驚いて、小夜香は少し慌てて言い添えた。
「でも、ありがとう。そうして私のことを気遣ってくれるのは、嬉しく思う。また今度、誘ってくれ」
実は小夜香は、面と向かってありがとうだのとお礼を言うことが、あまり得意ではない。だから若干ぎこちなくなったが、なんとか言葉を押し出した。
すると颯介は、今度は嬉しそうに「そうか」と答えると、部屋の戸口に向かって歩き出した。
「それじゃあ、また今度な。秋人も邪魔したな」
返事も待たずに、ばたばたと慌ただしく、颯介は屋敷を出て行った。
声も身体も所作も大きな颯介がいなくなると、途端にあたりは、蝉時雨が響くだけの、元通りの静かな空気に戻った。
「……あいつがいると、本当にうるさ──賑やかだな」
思わず小夜香が吐息をつくと、はは、と秋人が笑った。
「あいつもあいつで、頑張っているからな。私達も、出来ることはしてやろう」
「はい、兄様」
秋人に頷き、そこでふと、小夜香は昨日の出来事を思い出した。
──兄に話しておくべきだろうか。
秋人も忙しいひとで、とくに今は収穫や秋祭りを後に控えて、何かと考えることも多いだろう。秋人の負担にはなりたくなかったが、昨日の出来事は、小夜香ひとりの胸に秘めておくには、いささか重大事だった。なにしろ得体の知れない妖に、この龍神の里に侵入され、聖域を穢されたのだ。
あやつがまたやってくることはあるまいが、今後ああいった幽世のものたちに対して備えるためにも、この話は共有しておくべきだろう。
「すみません、兄様。ちょっと」
麦湯を飲み終えた秋人が、立ち上がろうとする気配を見せたところで、小夜香は呼び止めた。正座をして膝に手を置き、兄を真っ直ぐに見つめた。
「少しお話ししておきたいことがあります。昨日のことで」
言うと、立ち上がりかけていた秋人が、それを止めた。何も言わなかったが、小夜香の様子から、ただ事では無いことを察したらしい。
「聞こうか」
とだけ言って、秋人も座り直した。