曲夢 (四)

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 二人だけになった居間で、小夜香は昨日の出来事──あの白い鬼の出現にまつわることを、つぶさに秋人に報告した。
 秋人の表情は変わらなかったが、話すうちに、その瞳の色が急速に深まっていくのが分かった。
「……もう顕われる道理はない、とは思うのですが」
 あらかたのことを伝え終わり、最後に言うと、秋人が気遣わしげな表情をした。
「でもその鬼は、また来る、と言ったんだろう?」
「はい。でも、本当にまた来るでしょうか? 来たところで、私が言うのもなんですけど、こんなちっぽけな山里、何も無いじゃありませんか。それとも、実はあいつの好物だっていう何かがあったりするのかな」
 言いながら考えこむと、秋人が少しだけ苦笑気味になった。
「それは分からないけれど。というよりも、そもそも妖の考えることなんて、私達には何も分からないよ」
「……それはそうなんですが」
「正直を言えば、備えようにも、何も出来ることはない。聖域である禊場に、そうもたやすく入り込むような輩が相手ではね」
 静かだが重さのある声音で言われ、小夜香もあらためて背筋に冷たいものが這った。
「はい。そうですよね……」
 龍神の守護が働いているこの地域一帯が、本来であれば邪なものを受け付けない。だけれどその加護を上回るような、強く禍々しい力を持つものが相手であれば、牽制効果は毛ほども無い。その事実に、あらためてぞっとした。
「せいぜい注連縄を増やして、あとは鳴子も増やしておくくらいしか出来ないだろうな。魔除けの香も、社殿には増やしておこうか……里の皆には何も言わないでおこう。余計な混乱を招く」
「はい」
 頷きながら、小夜香は歯がゆかった。
 小夜香は、それほど霊力の強い方では無い。姉の小夜音は幼い頃から、見えないものも見通すような強い霊威を宿し、名実共に優れた巫覡だったが、小夜香には出がらし程度の僅かな力があるだけだ。それは「何か」がいればちょっとは感じ取ることが出来るとか、よほど強力なものであれば分かるとか、その程度のもので、たとえばそこから相手の情報を深く読み取ったり、さらにいえば調伏するだの祓うだのということは、ほとんど出来ない。
 こうして日々巫覡として勤めてはいても、自分のやっていることは、所詮形式だけの真似事、ままごとと大差ないのではないか、と、ふとしたときに思う。
 姉の小夜音であれば、もしあのときあの妖に遭遇していても、もっとなんとかなったのではないだろうか。強く牽制して、確実に二度とはこの地に足を踏み入れないようにさせるとか、そういった効果的な手を何か打てたのではないだろうか……。
「ご苦労だったね、小夜香。あらためて、小夜香が無事で本当に良かった」
 沈むように考えこんでしまっていたところに、秋人の声がして、小夜香はハッと我に返った。
「本当に変わりはない? 後から何か悪影響が出てくるかも分からないから、自分の状態にはよくよく気を付けておくんだよ」
 案ずるように言われ、小夜香は「はい」と頷いた。秋人のいたわりが優しくて、むしろ所在ない。うつむいて、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「……私、何もできなくて。ごめんなさい、兄様」
 小夜音と違って。何もできない、頼りない、形だけの、はりぼての巫覡で、申し訳がない。
 この一年、それなりに頑張ってきたつもりだったけれど、実情はやはりこうなのだ。それを思い知らされる。
 こんな自分が巫覡をやっていて、この里は本当に大丈夫なのだろうか。この先、自分はちゃんとやっていけるのだろうか。不安と情けなさがこみあげて、うつむくうちに不覚にも目頭が熱くなってきた。
 そのとき、秋人が静かに立ち上がった。歩み寄って来ると、小夜香の傍らに片膝をついて屈みこむ。涙のこぼれそうな頬に、そっとあたたかい掌がふれた。
「小夜香。顔をお上げ」
「…………」
「おまえは、誰にも代えられない、この里の大切な巫覡だよ。おまえが未熟だなんてことは、よく分かっている。ほんの一年前までは、巫覡のお役目になんて関わりがなかったんだからね。──小夜音だって」
 そこでほんの僅かに、秋人が不自然に言葉を切った。その名を口にするだけでも一瞬声が詰まってしまうほど、まだ秋人にとっても小夜音の存在は深く重く、魂まで届く癒えない傷が開いたままになっている。それが伝わって、小夜香は切なくなった。
「……小夜音だって、最初から何もかも出来たわけじゃない。それに小夜音は、生まれたときにはもう、龍神の巫覡と定められていたんだ。その小夜音と、今の小夜香が同じように出来てごらん。それこそ、小夜音は何だったんだ、ということになってしまうよ」
 少し冗談めかすように言った秋人に、やっと小夜香は、おずおずと顔を上げることができた。
「兄様……」
「うまく出来なくたっていい。そのために俺がいるんだろう? そんなふうに思い詰めないで、もっと気楽に構えなさい。形をなぞることだって、とても重要なことなんだ。正しい形式によって神は招かれ、正しく築かれた器に神は宿る。この一年で、小夜香はもう、それが出来ている。本当によくやっているよ。何を恥じる必要も無い」
 秋人が素で話すときは、自分を呼ぶ一人称が「私」から「俺」に変わる。それを知っている小夜香は、秋人を見上げながら、また違った意味で涙腺が緩みそうになってしまった。
 これまでも、小夜香が挫けそうなたびに、秋人は側で支えてくれた。落ち込んでいるときに、ほしい言葉を、ここにいても良いのだという安心を、いつも的確に与えてくれる。
 秋人兄様は、優しくて、そして何よりとても強いひとだ。小夜音という大きすぎる柱を喪ってしまった哀しみと痛みは、小夜香と同じはずなのに。
 こんなひとだから、きっと姉様も、秋人兄様を好きになったんだろう。
「──はい。ごめんなさい、兄様。ダメですね私。いつまでもこんな調子じゃ、それこそ姉様に叱られてしまう」
 ぐ、と胸の前で拳を握り直して、ふるふると首を振り、小夜香は笑った。少しだけ無理はしたけれど、嘘偽りの無い笑顔だった。
 それを見て、秋人も安心したようだった。ぽんぽんと、大人が子どもにするように、頭を撫でられた。
「つらいと思ったら、隠さないでいいから、ちゃんと伝えるんだよ。まあ、小夜香はそういうことが不得手だろうけど。そのときは、俺の方から余計な手を出すから。覚悟して」
 悪戯っぽく笑う秋人に、小夜香は慌てて首を振った。
「ちょっ……それは、えっと、はい。そうできるように努力します」
「そんなに慌てなくたって良いのに」
「だって。兄様の負担になりたくないんです。もう子どもじゃないんだから」
「そうだね。まあ、負担ではないけれど」
「私だって、兄様の力になりたいんです。だから、そんなふうに子ども扱いしないでください」
 むきになって重ねて言うと、ますます秋人は笑って、また頭をぽんぽんされた。
「大丈夫。もう十分、小夜香は俺の力になってるよ」
 言うと、秋人は立ち上がった。
くだんの妖については、用心はしておきなさい。とかく妖というものの思惑は読めない。万が一ということがあるからね」
「はい、兄様。分かりました」
 話の切り上げ時を察して、空になっていた湯飲みを集めると、小夜香も追って立ち上がった。一緒に部屋を出て、「それじゃあ」と秋人は書斎へ、小夜香は厨房へと、それぞれ別方向に足を向ける。
 歩きながら、小夜香は秋人とのやりとりを反芻した。
 下手をしたら、今のこの里にとっては、小夜香などよりも秋人の方が余程重要なのではないかと思う。里長やその息子の颯介からも信任篤く、様々な知識や経験にも長じていて、巫覡を、信仰を支える要として、里の皆からも頼りにされている。実際に秋人がいなかったら、一年前に小夜音が急逝した時点で、長年伝えられてきた龍神信仰の正しい作法、あるべき姿が、全てではないにせよ喪われてしまっていたかもしれない。
「私も、頑張らなきゃ」
 優しく立派な兄を支えられるように。どんなに嘆いても、もう小夜音は居ない以上、残された人間だけで頑張る他にないのだ。そしてそれこそが、小夜音が確かに生きていた証にもなってゆく。
「秋祭りの神楽舞も、まだちゃんと振り付け覚えられてないしなあ。ちょっと気合い入れてやるかぁ」
 厨房に空の湯飲みを届けると、小夜香は隣のお社へ向かうべく屋敷を出た。
 表に出ると、今日も青空がとびきり高かった。降りしきる蝉の声と夏の陽差しの眩しさに、薄い掌をかざす。
 こんな空と太陽を見ていると、うじうじ悩んでいたことが、心の奥底に萎むように小さくなっていく。我ながら単純なものだが、めそめそといじけて動けなくなってしまうよりずっと良い。小夜音の分まで、自分は元気に生きねばならない。
「よし。頑張ろう」
 決意も新たに、小夜香は跳ねるような足取りで、お社へと向かっていった。

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