次にまた会ったら、差し違えてでも、と思っていたのに。
小夜香は目の前の槐を眺めながら考える。だが、こちらを害する気配がないもの相手に武器を抜くことには、本能から躊躇いが生じる。害を為さないのであれば、歓待などはしてやらぬが、少なくとも無闇に刃を向ける必要はない。
とはいえ、相手の得体の知れ無さは変わらなかった。人間とは棲む世界自体が異なる、存在の根本から相容れない妖という存在。それがまた現われるだなんて、いったいどういうつもりなのだろう。
そんな小夜香に対し、何を思っているのか、槐は変わらず悠然と構えている。茜色を浴びて立つ白い妖は、小夜香と正面から眼を合わせると、にっと笑った。
「会いたかったぞ」
何の飾り気もない言い様に、小夜香は返す言葉に詰まった。
何を考えている、とは思うのだが、槐があまりにも自然体だから、もしや本当に思ったままを言っているだけなのではないか、考えていることに裏などないのではないか、と思えてくる。
元来妖は、得体が知れない、人をいいように惑わせる、というが、同時にこうも言われているのだ。妖は欲求に極めて正直で、欲するところを偽ることはない、とも。
「……何のつもりだ?」
槐の思惑が読めない。問うと、槐はそんな小夜香の様子も楽しんでいるように、あっさりと受け答えた。
「何のつもりと言われても。おまえに会いたかった、以外の理由は無いぞ」
「なんで妖のおまえが、わざわざ人間の私に会いたがるんだ」
「気になる、会いたい、と思うことに理由がいるのか?」
「……少なくとも、おまえは人間じゃない。妖だ。私とおまえとは、根本的に相容れない。なぜ、と思うのは当たり前だろう」
「ふむ」
成程、というように、槐は顎に指をあてた。何やら考える風情になる。
「正直深く考えていなかったぞ、俺は。人間の娘とは、むやみに事をややこしく考えようとするものなのだな」
「それは、おまえが力においてまさっているからだろう。妖であるおまえには、人間である私を恐れる理由など無い。でも私は、おまえがその気になれば、あっという間に喰い殺されるんだろう」
禊場での不届き千万なあれこれを思い出し、小夜香は目許を険しくした。
そうだ。今どれほど害の無いような顔をしてみせたところで、槐には前科がある。聖域を穢し、巫覡である小夜香に対して、神をも恐れぬ振る舞いをしてみせた。
「おまえが俺に怯えなければ、喰わんぞ」
空恐ろしいことをあっさりと言い、槐は瞳を細めるような笑い方をした。
「少なくとも今の俺は、おまえに危害を加える気は無い。おまえはなかなか興味深い」
「妖なんぞに興味を持たれても嬉しくない」
「つれないことを言うな。それに、その気があるなら、俺はとっくにおまえを殺している」
小夜香よりもだいぶ頭の位置が高い槐が、腰を屈めるようにして、小夜香の顔を覗き込んだ。その瞳孔の縦に長い、人間とは根底から異なる存在であることを物語る瞳が、至近に迫る。もっと怯えて良いはずなのに、自信に満ちて強い光を宿すそれは、息を飲むほど美しかった。
「聞いていなかったようだから、もう一度言うが。おまえの舞は、なかなか良かったぞ。束の間だったが、神が宿ったかと思った」
「そっ……それはどうも」
真正面から褒められ、小夜香はおもはゆさのあまり、思わずじりっと後ずさって距離を取った。
まずい。こいつは顔が良すぎる。あと距離感がおかしい。人と妖とでは感覚が違うのかもしれないが、なぜこうも間近に寄ってくるのだ。
兄の秋人にべったりな上に、自身がお転婆で、十二の歳までは男の子として育ってきたこともあり、小夜香はこれまで異性というものをあまり意識したことがなかった。
だが、こいつはまずい。しかもどうやら本気で褒められているのだと分かると、正直、悪い気はしない。小夜香はどきどきと心臓が乱れ始めたのを見透かされまいと、きゅっと口を尖らせて槐を斜に見た。
「神、だなんて、おまえでも口にするんだな」
実際それは、少し意外でもあった。妖にも「神」という概念があるのか、と不思議に思う。
「それはそうだ。我々とて、そこまで無法なわけではないぞ」
「無法にしか見えないが」
「それはおまえの心得違いだ。人間はやたらと我らのことを蔑み、蛇蝎のように忌み嫌うが、こちらに言わせれば、我らのほうが人間なぞよりもよほど高位にある」
あっさり言い切る槐に、小夜香はカチンときた。
「……成程。おまえらの道理に従えば、それこそ下等な人間には何をしても良い、という理屈になるのだろうな。妖はいいように人を玩び、誑かす。簡単に人を殺すし、余計な禍を撒いて、人々が混乱する様を見て愉しむ、という。高位にあるなどと自惚れているのであれば、それは至極もっともな話だ」
「ほう。おまえはそれを、その眼で見たことがあるのか?」
「無い。ここは龍神様が守って下さっているからな。でも、昔からいくらでもそんな話は伝わっている。火の無いところに煙は立たないだろう。それにおまえ自身が、龍神様の聖域を穢した上に、巫覡である私に不敬を働いた。それで十分じゃないか」
「あれは不可抗力だ。俺とて好きであんなところに転がり落ちたわけではないぞ。だがまあ、おかげでおまえに逢えたのだから、むしろ俺としては龍神とやらに感謝を申し上げねばならんな」
くつくつと笑っている槐に、小夜香は、駄目だこいつは、と舌打ちした。
暖簾に腕押しとはこのことだ。小夜香ごときが何を言ってもこたえないし、いいようにかわされる。ほれみたことか、そうやってこちらのことを頭から見下しているではないかと、小夜香は苛立ちにぷいと顔をそむけた。
「心にもないことを。貴様などが龍神様のことを口にするな。穢らわしい」
その耳に、僅かではあったが、槐が声を立てて低く笑うのが聞こえた。常に余裕じみた笑みを湛えている輩ではあるが、声を立てて、というのはあまり聞かない。
何がおかしいのかと訝しむ間も無く、不意に槐が大股に歩み寄り、瞬くうちに小夜香の身体を白い袖に抱き込んだ。小夜香の小さな顎に指を引っかけ、ぐいと上向ける。
「龍神。龍神、なぁ」
その紫の瞳が、それまでとは違う、底冷えするような残忍な色を宿している。身を捕える槐の力とその眼の色に、小夜香はぞっと背筋が強張った。
小夜香の顔を至近から覗き込みながら、槐はにたりと恐ろしいような笑みを浮かべた。
「巫覡などと崇め奉ってはいるが。実のところ、おまえはただの生け贄だぞ」
「は……?」
「人間のほうが、我ら妖などよりも余程えげつないものよな。己が助かるためであれば、平気で同族を恐ろしい相手に突き出して恥じることもない。少なくとも、我らはそんなふうに同族を売ったりはせん」
槐が何を言っているのか分からなかったが、何かひどく馬鹿にされていることだけは分かった。
「くだらん。妖の世迷い言などたくさんだ」
きっと槐を睨みつけ、その腕から逃れようとした──そのとき、ふわっと、足元が奇妙な揺れ方をした。
「え?」
眩暈でも起こしたのかと思った。だが、違った。
「……何? え……?」
ざわざわ……と、あたりの木々が騒ぐ。それは風のせいではなかった。まるで自らざわめくように、枝葉がこすれあって音を立てている。何か胸に迫ってくるような、不吉なそのざわめき。
──揺れている。
「えっ……う、うわ」
地震だ。足元から、地面そのものが揺れている。小夜香自身は勿論、地面に乗ったすべてのものが揺れている。始めはゆっくりと、ゆらゆら弱い波に揺られるように。それが徐々に大きくなってゆく。
「やだっ……!」
──恐い。
このあたりでは、もともと地震は多くない。地面が揺れている、と認識した瞬間、小夜香は呼吸もままならないほど、身体の芯から震え上がった。恐怖で完全に身が竦む。
いよいよあからさまな横揺れが来ると、小夜香は悲鳴を上げて頭を抱え、その場にしゃがみこんだ。槐も一緒に屈み込んだのだが、そのときの小夜香には、もう槐のことなど頭から消し飛んでいた。
やがてゆっくりと、揺れはひいていった。木々のざわめきも次第におさまってゆく。小夜香は無意識のうちに、目の前にあるものにしがみついたまま、かたかたと震えていた。
「──おさまったな」
小夜香につきあうように屈んでいた槐が、あたりを見回して言った。そのなんということもない調子に、小夜香はようやく顔を上げる。そこでやっと、自分が槐の袖に守られるように包まれていること、そして自分が槐の腕にしがみついていたことに気が付いた。
「あ……」
それとわかっても、まだ手足が恐怖で震えていた。力をこめて槐にしがみついていた手が、強張ってしまってほどけない。喉がひきつって、うまく呼吸をすることも出来ない。
「もう大丈夫だ。ゆっくり息を吸って吐け」
完全に血の気の引いている小夜香を支え、その背に宥めるようにふれながら、槐が言う。その落ち着いた声音や背中の大きな手、槐の袖に包まれていることが、恐慌状態に陥りかけていた小夜香を、徐々に落ち着かせていった。
やっと震えがおさまってくると、小夜香は槐にしがみついていた手をほどき、ほうっと大きく息をついた。
「……すまない」
どうしても、子どもの頃から、地震だけは苦手だった。自分の立つ地面が揺れている、ということ自体に、まるでこの世の終わりのような錯覚が押し寄せて、身が竦んで動けなくなる。小さな揺れであればまだなんとか我慢できたが、今くらい大きなものになると、恐怖のあまり一気に理性が消し飛んでしまう。
「地震が恐ろしいのか。まあ、人の子は脆いからな」
さもあらん、と言っている槐に、小夜香は意外な思いもあって、強張りながらも小さく笑ってしまった。
「馬鹿にしないのは、ちょっと意外だ」
「何故馬鹿にするんだ? そんなことをしても面白くなかろう」
不思議そうにしている槐に、ますます小夜香は笑ってしまう。そうしながら、心の片隅でちらりと思った。
──こいつは、もしかしたら言うほど悪い奴ではないのかもしれないな。
傲岸不遜で偉そうで性根が悪いことはさておいて。
そのまま揺り返しもなく、あたりには穏やかな夕暮れ時が戻って来ていた。もうだいぶ夕闇が深まっている。やっと緊張がゆるみ、小夜香がもう一度大きく息を吐き出したときだった。
「──香。小夜香!」
屋敷のほうから、秋人の声が聞こえてきた。きっと今の地震に秋人も驚いて、ことのほか地震が苦手な小夜香を心配して探しているのだろう。声は小夜香を呼びながら、こちらに近付いてくる。
と、槐が音も立てずに立ち上がった。物言わず、すっと小夜香のそばから退く。
あれ? と思い、槐の白い衣が遠ざかった方向に眼を向けたが、そのときにはもう、槐の姿は忽然と消えていた。
「槐?」
消えてしまった。秋人の声がしたものだから、帰ったのだろうか。あたりをきょろきょろ見回していると、縁側を小走りにやって来る秋人の姿が見えた。
「小夜香!」
「秋人兄様……」
小夜香はまだ庭にへたりこんだままで、秋人は沓脱に草履がないのを見ると、足袋のままで庭に降りて駆け寄ってきた。
「小夜香、大丈夫か。怪我は?」
傍らに屈み込み、確認するように小夜香の背に手をまわす。小夜香は秋人の顔を見上げると、ほっと気が緩んで力が抜けた。
「大丈夫です。ごめんなさい、びっくりしてしまって……」
「無理も無い。かなり大きな地震だったからな。立てるか?」
「はい。兄様は? 何もありませんか」
「大丈夫だ。でも屋敷のあちらこちらで、物が落ちたり倒れたりしているみたいだな」
「それは大変。誰か怪我をしたりしていないか、私も見てきます」
屋敷には亜矢を始め、何人か住み込みで下働きの者たちがいる。小夜香は気を取り直して立ち上がった。怖ろしさはまだ多少緒を引いていたが、だからこそ動いてまぎらわしたかった。
「転ばないように気を付けて」
秋人の声が追いかけてくるのに、ことさら元気に「はーい」と返す。沓脱から縁側に上がってばたばたと屋敷の奥に向かう背に、夕陽の赤がかかり、すぐに見えなくなった。
小夜香が慌ただしく屋敷の中に消えてゆくと、庭には急速に夕暮れの静けさが迫ってきた。夕陽は赤錆びのような深い紅と暗さを増し、低い角度で庭に差し込んで、影絵のように明暗を分ける。
その中に立ち上がった秋人は、死んだような夕凪の中、ゆっくりと庭にある山茶花の植え込みあたりを見返った。冷えた眼差しが、ひたりと一点を見据える。
「そこにいるんだろう。姿を見せたらどうだ、妖」
呼びかけたまま、しばし秋人は動かなかった。やがてその視線の先で、夕闇が凝って揺らいだように一瞬風景が歪み、その中から滲み出すように白い姿がとけ出した。
「ばれていたか。あれと違って、おまえには視えるのだな」
うっすらと笑み、槐が言った。その姿を正面に捉えた秋人は、眉一つ動かさなかった。
「貴様が小夜香の言っていた妖か。なるほど。これはまた、大層性質の悪い輩が紛れ込んできたものだ」
「いきなりご挨拶だな、龍神の守り人とやら」
笑んではいるものの、秋人を捉えた槐の双眸は、磨かれた鏃のように鋭い。秋人の透明な瞳がいっそう薄氷のように冷え切り、僅かに眇められた。
「俺は名乗った記憶は無いんだが。この里について、鼠のようにこそこそと嗅ぎ回りでもしたのか、妖」
「そんな真似をせずとも、ある程度のことは読み取れるさ。おまえたち不自由な人間どもとは違うんでな。それにしても守り人とやら。ここはまた、随分と厄介なものを抱えた土地のようだな?」
にやにやと槐は笑う。秋人は黙ってそれを見返していたが、やがて氷点下の声音で言った。
「貴様如き穢れた妖と、何も話すことはない。去れ」
「まあそう言うな。俺はもっと話したいんだ」
「俺は、貴様の姿など視たくもない。小夜香にも、今後一切近付くな」
「そんなことをおまえに命じられる謂れは無いな。俺を止めたくば、力尽くでやってみるが良かろう」
嘲りもあらわに言った槐に、秋人はしばらく押し黙った。どちらも無言で向き合うことしばし。
「……何が狙いだ。いったい何を企んでいる、妖」
「単に、あれに興味があるだけだ。あれはなかなか稀有な女子ぞ」
「小夜香はこの里の、龍神の巫覡だ。この里を守る大切な役目がある。貴様のような血の臭いのする、下賤な妖が関わって良い相手ではない」
「体の良いことを言う。巫覡という名の生け贄だろうに」
言葉を交わすうちにも、あたりには徐々に宵闇の帳が降りてゆく。西の空はまだ血を刷いたように赤いが、二人の頭上には既に星空が張り出していた。
「言いがかりも大概にしろ。貴様のような妖に何が分かる」
「分かるさ。おまえこそ、俺が視えるほどの力を持っているなら、薄々勘付いているだろう?」
深まってゆく夕闇の中、白いはずの槐の姿が次第に冥漠と昏闇の中にまぎれてゆく。その双眸だけが、不気味な焔のように揺らめいた。
「何の話だ」
「あの娘は類い稀なる器よ。分かりやすい力の発露が無いから、本人は自覚はしていないようだがな。力の使い方さえ識れば、この地を封じる良き楔となろう。だが、それを放っておきはしないだろうな。このままいけば、いずれ間違い無く、あの娘を目がけて『あれ』は首をもたげる」
「…………」
「そうなったときには、あの娘は生きてはいまい。堕ちたりとはいえ、相手は大層古く畏きものだ。まあ、生きて護るか、死んで護るかの違い、といえばそれまでだが」
「そんなことはさせない」
思いあまったように、秋人の声音が強くなった。クク、と槐が喉の奥で嗤った。
「だからそうなる前に、俺が攫ってやろうと言っているんだ。言っておくが、『あれ』が顕われるのは時間の問題だぞ」
「それを理由に小夜香を連れ去ろうと言うのなら、それこそお門違いだな。言を左右にして惑わそうとするな。貴様も結局は、ただ己の望むままにしようとしているだけだろう」
「では、おまえには何が出来る。たかが人間の分際で」
今や槐の姿は、完全に闇に紛れて見えなくなってしまっている。重く塗り込めたようなそれの奥から、ただ殷々と嗤う声だけが響いた。
「それに、俺にばかりかまけていていいのか、守り人? そら、今もおまえの後ろに小鬼どもが潜んでいるぞ。せいぜい寝首を掻かれんように気を付けるんだな」
不吉なその言葉に、秋人は思わずぎくりとして、背後を振り返っていた。だがそこには、ただ静音な夜が満ちつつある庭が広がるばかりだった。
そしてはっと気が付く。槐の気配も、そのときには綺麗に消え失せていた。
「……去ったか」
秋人は忌々しげに呟いた。ひとまず安堵するように息をつく。
一人しばらく立ち尽くしたまま、秋人は無言で何事かに思いを巡らせていた。やがてひとつ息をつき、軽く首を振ると、周囲にあやしげなものが居ないことをもう一度確認してから、屋敷の方へと踵を返していった。