曲夢 (七)

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 青々とした稲が白く可愛らしい花を咲かせる頃に、盂蘭盆会は催される。そしてそれを境に、夏から秋へと、季節はゆっくり移ろい始める。
 この後に大きな秋祭りが控えているため、里での盂蘭盆会は控えめだ。麻幹おがらや麦に小さな火を灯し、各自の軒先や路の辻などで焚く。死者を迎え、そしてまた送る、それは人々が故人を偲んで行なうひっそりとした祭りであり、龍神の巫覡である小夜香には、特別に大きな役目は無かった。盆供の入りと明けのお勤めが、いつものような略式ではなく、きちんと巫覡装束を身につけてのものになる程度だ。
 ちょっとした供花や、折り紙やきれいな端切れを使ってのささやかな飾り付け程度のことは、里の人々は各々の範疇でする。それだからこの時期の里は、普段よりも少しだけ華やかになる。
 その様子は、小夜香のいる少し離れた丘からも眺められた。
 丘を吹き抜ける緑風が、あたりの竹の葉を涼しげに鳴らしている。きらきらと輝く龍神湖もよく見え、あたりの山々の翠稜も美しい。青空には大きな入道雲が伸びあがり、響き渡る蝉の声が暑苦しいほど賑やかだった。
 この季節には、小夜香や秋人も、もういなくなってしまった家族たちを偲ぶ。
 小夜香には秋人がいるし、屋敷の下働きには乳兄弟の亜矢やその母親──つまり小夜香の乳母を務めてくれた真麻まあさという女性──もいるし、他の使用人たちも皆優しく接してくれるから、普段はそこまで寂しくはない。
 でも、里中が亡き人を偲んで過ごすこの時期は、正直苦手だ。父親のことは覚えていないが、病がちだった母親がとても寒い雪の日に他界したときのことは、よく覚えている。小夜音が急に倒れて、そこからあっというまに死んでしまうまでのことも、まだ──まだ、よく覚えている。
 丘から見える里の風景から、小夜香は目を逸らした。長い艶やかな黒髪が、風を絡ませてふわりと靡いた。
 撫子や露草の点在する夏草に覆われたこの丘は、普段はまず誰も来ない。一本だけ生えた山桜の作る木陰があって、人目を逃れてゆっくりするにはおあつらえむきの場所だった。
「母様。姉様……」
 山桜の下で、小夜香は抱えた膝に額を埋めた。
 ──やっぱり会いたい。寂しいよ、母様。不安だよ、姉様。
 こんなふうに里中が亡き人を偲んでいる中にいると、どうしても小夜香も、いなくなってしまったひとたちのことを思い出してしまう。思い出してしまうと、とても抱えておけないほど、寂しさと恋しさが溢れ出す。
 だから小夜香は、そんな自分を誰にも見られまいと、一人でここに来た。
 秋人も、この季節には、普段より少し自室に籠もりがちになる。秋人も家族を亡くしている上に、特に今年は、小夜音がいなくなってから初めての盂蘭盆だから。
 小夜香に「巫覡を継いでほしい」と依頼をしてきたあの日以来、秋人が弱音を吐いたり泣くところを見たことがない。けれど本当は、秋人だって大丈夫なわけがないのだ。本当はとても……とても、つらいだろう。
 でも、今こんなふうに落ち込んだ小夜香が、秋人の目にとまったら。優しい秋人は、自分のことはよそに置いて、きっと小夜香をなぐさめる。
「それじゃあ、兄様が泣けないもの……」
 だから、こうして離れていることしか、小夜香には出来ない。せめて涙が止まって、空元気でも笑えるようになるまでは。
 ひとりになって膝を抱えると、いよいよ小夜香も自制がきかなくなった。喉の奥から、どんどん熱いものがこみあげてくる。両眼から、ぼろぼろっと涙が落ちた。大きくしゃくりあげると、抱えた膝に顔を埋めた。
 ここなら誰も来ない。だから今くらいなら、思い切り泣くことを自分に許してもいい。
 そうしてどれくらいの間、ひとりで泣き続けていた頃だろう。
 少し強めの風が吹いて、ざあっと周囲の夏草や頭上の葉桜が音を立てた。髪が煽られて、小夜香は伏せていた眼を上げた。涙で滲んだ視界に、そのとき、ありえないものがひらりと舞い込んだ。
「え……」
 ──雪?
 視界が滲んでいて、その一瞬は、そう見えた。そんな馬鹿なと、思わず目許をこすりながらぱちぱちと瞬きをする。その視界に、頭の上から、さらにひらりひらりと、白いものが舞い込んできた。
「えっ……」
 咄嗟に差し出したてのひらに、音も無く落ちたそれに、小夜香は眼を疑った。
 ──桜の花びら。
「えっ……ええぇ? ……うっそ!?」
 がばっと頭上を仰ぐ。そしてさらに仰天した。
「……嘘…………」
 頭上の桜は、満開になっていた。
 呆然と佇む身体の上に、音も無く、まるで白い雪のように、桜の花びらがはらはらと降ってくる。何度も眼をこすって見直したが、やはりそこには、青空を透かして枝を広げる満開の山桜があった。
「なんで咲いてるの……だって、夏だよ……?」
 夏という以前に、ついさっきまでは緑の葉を繁らせていたものが今は花を咲かせているだなんて、それがもうありえないのではあるが。
 呆然とし、混乱しながらも、桜の美しさに惹きつけられる。寂しくて痛くて、哀しくて哀しくて沁みていた心に、光が滲むように、優しいその色合いがふんわりと馴染んでゆく。
 そのとき、また強い風が吹いた。ざああっと音を立てて草木を流す束の間の夏嵐に、小夜香は思わず腕を持ち上げて目許を庇う。
 次に眼を開けたとき、小夜香はまたしても眼を疑った。そこにあった景色からは、もう満開の桜は跡形も無い。先程までとなんら変わらない葉桜が、青々とした葉を陽光に光らせていた。
「嘘……」
 何かに化かされたような気分で、山桜のごつごつとした幹に手を当てる。見上げてみるが、どう見ても、そこにあるのは鮮やかな緑の枝葉を伸ばす葉桜だった。頭の上にも、あたりを見回してみても、どこにも桜の花びらなんて無い。
「──あ」
 見回したその視線が、その先で止まった。まったく気が付かないうちに、いつの間にか、すぐ傍に白い鬼が立っていた。
「槐……」
 思わず、その名を呼ぶ。雪白の髪に白い狩衣姿が、輝くような夏空によく映えていた。一対の角を持ったその鬼は、普段となんら変わらない様子で、いたって気軽に声をかけてきた。
「今日はこんなところにいたんだな。少々探したぞ」
「おまえ……まさか、今のは、おまえがやったのか?」
 まだいくらか呆然としたまま、半信半疑で問いかける。すると槐は、悪戯が成功した子どものような顔で笑った。
「本物を咲かせることは、さすがに出来ないがな。少しの間なら、幻を見せる程度のことは出来ぬでもない」
「どうして、そんなことを」
 心を洗われるような桜と、物騒な鬼とが結びつかなくて、小夜香は何をどう訊ねたいのかもまとまらないまま問いを重ねる。そうしながらも、聞かずともどこかで分かっている気がした。
「おまえが泣いていたからだ。俺には、人間の娘なぞをなぐさめる方法は分からない。だがきっと、花を見れば、少しは気がまぎれるのではないかと思った」
 槐はとくだん取り繕うふうでもない様子で答えた。
 それを見ながらその言葉を聞いていたら、小夜香はごく自然に、頬がやわらいでいた。
「おまえも、桜が好きなのか?」
 小夜香が問いかけると、槐は頷いた。
「うむ。花は好きだな。酒が旨くなる」
 気易く答える槐に、小夜香は小さく吹き出した。
「酒の話か。花より団子なのは、人も妖も変わらないんだな」
「慮外なことを言う。呑みながら、花の美しさも愛でるぞ」
「どうだかなぁ」
 笑っていると、槐が目の前まで足を運んできた。その大きな掌が、何かを確かめるように小夜香の頬に添えられる。
「もう泣き止んだか。ならば良かった」
「────」
 光の加減だろうか、そう言った槐の眼差しが、見たこともないほどやわらいでいる気がして、小夜香は思わず言葉に詰まった。そのまま動けずにいると、頬にふれていた槐の手が、まだそこを濡らしていた涙を拭った。あたたかい手だった。
「なんだろうな。おまえの泣き顔は、俺はあまり見たくないようだ」
 そんなことを、自分でも少し不思議そうに槐が言った。それが本当に怪訝そうだったから、小夜香はなんだかおかしくなってきてしまった。
「どの口がそんなことを言うんだ。おまえの今までの言動はな、普通だったら相手はとっくに怯えて大泣きしているぞ?」
「おまえは泣いていないだろう」
「私は強いからな。おまえごとき妖なんぞに、おいそれと負けているわけにはいかないんだ」
「それはそれは。気丈夫なことだ」
 胸を張って言った小夜香に、槐は笑った。それは皮肉じみたものではなく、ただ笑いたいから笑った、というだけの素直なものに見えた。
 そんな槐を見ていたら、小夜香は何やら急に、諸々が気恥ずかしくなってきた。
 そもそもこいつは見かけがやたらと良いから、そういう柔らかい表情をすると、思わず見とれるほど綺麗に見える。口惜しい上に、まったくもって目の毒でしかない。
 残った涙をごしごしと拭いながら、横を向いて、慌てて適当な言葉を振った。
「と、ところで、私がここにいるとよく分かったな。以前も思ったが、おまえは千里眼でも持っているのか」
「そんな大仰なものは無い。おまえの気配は分かりやすいからな。ある程度近付けば、どこに居るのか把握できるだけだ」
「そうなのか?」
「そうだ。おまえはもう少し自信と自覚を持っていい。おまえほど強い霊威を持つ人間は、そうそう居らんぞ」
 ふいに言われたことに、小夜香は耳を疑ってしまった。
「は? 何を言ってるんだ、おまえ。私は」
 ──巫覡なんてやっていることが時々恥ずかしくなるほど、ほとんどなんの力もないんだぞ。そう言いかけた小夜香を遮るように、やけに真面目に槐が続けた。
「先代巫覡がどれほど優れていたのかは知らんが。十中八九、おまえほどではない。我ら妖の中でも、おまえほどの力を持つものはそう居らん。おまえは類い稀なる神威の器だ」
「は……?」
 あまりにも予想外な槐の言葉に、小夜香はぽかんとし、次いで眉間に皺を寄せてしまった。
「莫迦を言うんじゃない。だったらなんで、私は巫覡らしい力のひとつも見せられないんだ。禍祓かばらい魂響たまのひびきも、私は何ひとつ、ろくにこなせないんだぞ」
「おまえの力は、相当深くに押し込められているからな。そのまま発現しては身に障るほどの霊威の強さが仇となって、迂闊に洩れ出さぬよう、無意識のうちに強固な蓋を被せている。だから結果として、分かりやすく表出している霊力が極めて薄いだけだ」
「で、でも。私は、龍神様のお声を聴いたことだってないんだぞ? 本当にそんな力があるなら、誓約うけいのひとつくらい簡単にできているはずだろう」
「──出来ない方が、おまえは長く生きることが出来る」
 呟くように槐が言った言葉に、小夜香は不意をつかれた
「え?」
「おまえの家系。皆、短命だろう」
 続けて重ねられた言葉に、小夜香は気を呑まれて言葉を失う。槐はこれまで見たこともないほど真面目な表情をしていた。
「特に巫覡を継いだ者は早世しているはずだ。守り人の一族も同様だな。その血そのものに人間の身には余る霊力が宿っている上に、龍神を名乗るものの力が絶えず流れ込んでいる。長く生きられるわけがない。ましておまえは」
 槐の紫の瞳が、真向まむきに小夜香を見下ろした。
「『あれ』の力をまともに受けようものなら、ひとたまりもなく絶命する。『あれ』が顕現すれば、尚取り返しがつかん。死ぬだけでは済まなくなるぞ」
 何をわけの分からない虚言そらごとを、と突き放せば良かったのだが、このときの槐にはそれをさせないだけの、身に迫ってくる直截さがあった。それに「短命」の一言。確かに小夜香の身内は、皆もう世を去ってしまっている。祖父母も自分が生まれた頃には既に没していたから、会ったことが無い。それに「守り人の一族も同様」と言ったか。秋人の両親も、それ以外の親類縁者も、確かにもう他界している……。
 でも、そんなものだ、と思っていた。そもそも里全体を見ても、そう何十年も生きる者の方が珍しい。だけれど言われてみれば確かに、小夜香や秋人のところ程、こうまで身内が悉く世を去っている家など、他には無い。
 そんなものだ、と思っていたが。でもそれが実は、必ずしもそうではなかったのだとしたら……。
「あ……『あれ』って……何のことなんだ」
 何かぞっと身の裡を這い上がってくるものがあった。地の底からせり上がり、足元を伝って背骨をぞわぞわと撫でてゆく。得体の知れない、不快でおぞましさすら覚える悪寒。
「おまえたちが、龍神と呼んでいるものだ」
 槐の返答に、小夜香はさらに問い重ねた。
「だから、それは何だと聞いている。龍神様は龍神様じゃないのか」
「違う」
 短く言い切った槐の眼差しに、小夜香は喉が干上がるような思いがした。龍神の巫覡としては、もっと強く出て、何を世迷い言をぬかすかと厳しく糾弾するべきだった。だが槐の深淵を視るような眼差しが、それをさせない圧力で、小夜香を抑えつけていた。
「それじゃあ、何なんだ」
 さらに問い詰めると、槐はらしくもなく押し黙った。明らかに何かを逡巡している。この恐いものなど何も無さそうな尊大で無畏不屈な妖をして、そんなことがあるのかと、それだけで小夜香は言葉を失った。──こいつは、おそらく嘘は言っていない。
「……『あれ』についてを迂闊に口にすることは、正直俺ですら憚られる」
 いつになく慎重な槐のいらえに、小夜香は絶句した。これはいよいよ、世迷い言とは言えなくなってきた。
「それは、随分まずいじゃないか」
 他に言い様がなく、そんな言い方をすると、槐はそれが妙にはまったのか、軽く吹くように笑った。
「そう、まずい話だ。かといって迂闊に騒ぐと、それこそ藪蛇になりかねん。『あれ』はおそらく、今このときも、このあたりで起きることをすべて視ている」
「視ている?」
「ああ。いにしえより、この地の奥深くに封じられてきたものだ。──夜刀神の流れを汲む、大いなる禍霊まがつひ
 そこで、ふいに槐が言葉を途切れさせた。なんだろう、と小夜香が思う間もなく、
「あ……」
 ふわっ、と、足元が気持ちの悪い揺れ方をした。それほど大きくは無いが、地面全体から湧き上がるような、低く轟くような地鳴りがする。
 ──また、地震だ。
 咄嗟に、小夜香は近くの山桜の幹に取りついた。悲鳴をなんとか飲み込んだのは、槐の前で以前のような情けない醜態を晒したくなかったからだ。
 だけれど、どうしようもなく恐いものは恐い。ゆらゆらと揺れる地面が、揺れている一切が恐ろしくて、必死に奥歯を噛み締め、ぎゅっと眼を瞑って山桜にしがみつく。
 その上に被さるように、槐が物言わず身を寄せた。白い袖で、震えている小夜香を庇うように覆う。
 今までは気が付かなかったが、至近に寄ると、槐の衣から何か微かな良い匂いがした。香でも焚きしめているのだろうか。妖でもそんな雅なことをするのだな、と少し意外に思いながら、その薫りと白い袖に包まれているうちに、手足も震えるほどの恐怖と緊張が、いくばくかは和らいできた。
 かなり長いこと揺れて、やっとおさまってきた──と思った頃に、ふいに槐が低く呟いた。
「湧いてきたか」
「え?」
 槐が小夜香を庇うようにしていた袖を返し、身を離してあたりに視線を投げる。その頃にはもうほとんど地面は揺れておらず、小夜香はだいぶ冷静さを取り戻していた。開けた視界に小夜香も眼を向けて、──硬直した。
「え……」
 ──血生臭い。最初に意識したのはそれだった。それだけではなく、何か生き物が腐ったような、ひどく嫌な臭いがする。
 それを認識すると同時に視界に飛び込んできたのは、この山桜を──つまり小夜香と槐を円を描き取り巻くようにしている、何かどろどろとした不定形のものだった。
 何、あれ。
 それこそ泥濘が命と意思を持ったのではないか、と思うような、名状したい何か。蠢く拍子に、ときたま人間の頭や腕や胴に見えなくも無い形状が出現し、かと思うとまた融ける。それが苦しみ悶える人間のようにも見える。そんなモノが、十間ばかり離れて、二人をぐるりと囲んでいた。

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