曲夢 (八)

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「ひッ……」
 いったいいつからそこに。いや、それよりも、あれらは何だ。
 見たことも無い怪異に、小夜香の全身から血の気が下がった。意図せず吐き気がこみあげてくる。何も詳しいことなど分からない。だが、あれらが近付くことすら拒絶するほどの呪わしいモノたちであることは分かった。まるで、地底から湧き出てきた死穢しえそのもののよう。
 しかもそれらが標的にしているのは、他ならぬ自分であると、直感的に小夜香は読み解いていた。理屈や思考を越えたところにある本能が、このままでは危険だ、と鋭く警鐘を鳴らしている。
 原初的なおぞましさと拒否感に、地震のときとはまた異なる恐怖に襲われた。がちがちと全身が凍えたように震える。身動きもできない。恐い。恐い。
「ここから動くなよ」
 小夜香よりもその怪異どもを見ながら、槐が言った。その腕が持ち上がり、視線は向けないまま、小夜香のしがみつく山桜の幹に掌底が押しつけられた。
 と同時に、押しつけられた槐の掌を中心に、美しい白光の真円が波紋のように生まれて広がった。それは白い焔となり、ほんの瞬くうちに消えてしまったが、小夜香はそれを、はっきりと視界に捉えていた。
 いったい何、と思ううちに、しがみついている山桜の幹が、何か奇妙ぬくもってくる。不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ安心できる人肌に護られているように、心が凪いで落ち着いてくる。
 そんな小夜香をよそに、槐は数歩を離れて、あたりを取り巻く怪異どもをぐるりと見やっていた。
「思ったよりも反応が強いな。おい、貴様ら。今なら見過ごしてやるから、さっさと地底に還れ。鬱陶しい」
 小夜香には吐き気がするほど恐ろしい怪異に、槐は顔色ひとつも変えずに言い放つ。なるほど、蛇の道は蛇というか、化け物には化け物なのだな。などと、少し余裕が出てきた小夜香は思った。妖である槐なら、アレらとも対話できるのだろうか。可能なら速やかに引き取ってもらいたい。
 だが泥濘の如く蠢く怪異どもは、まったく退く様子も見せず、むしろじわじわとにじり寄ってきた。十間あった距離が、次第に八、七、六……と狭まってくる。
「え……槐。そいつらは」
 何か語りかけても無駄だ。何がそう言わせたのか分からないが、絶望的な確信と嫌悪感に突き動かされて、小夜香は声をかけた。
「ふん。散らすしかないようだな」
 受け答えた槐は背中のままだったが、何かその声が、妙に愉しげに聞こえた。それと共に、ふっと槐の気配が変わる。出会った当初以降はなりをひそめていたようだった、禍々しい強烈な妖気。それが槐の足元から陽炎のように立ちのぼり、瞬く間にぶわっと白い焔と化して噴き上がると、その総身をつつみこんだ。
 それらの光景を、小夜香は肉眼で視ていたわけではない。だがここまで強烈なものであれば、たとえ幽察の異能を持たぬ者であっても、おそらく可視化して捉えることが可能だっただろう。
 怪異どもは、明らかにたじろいだようだった。ぞわぞわと輪を狭めてきていたのが、警戒したように止まる。
 槐は相手の出方を窺うようなことはしなかった。鯉口を切り、腰に佩いた鞘を僅かに引き下げる動きに、片足を滑らせ重心を一瞬ずらす動作が重なる。流れるような一連の動きのうちに、その右手が太刀の反り柄にかかっていた。
 抜き放ちながら大きく踏み出す、纏う白焔が塊となって突進するようなそのたったの一動作だけで、怪異どもの輪の三分の一が吹き飛び、蒸発するように消し飛んだ。その際に恐ろしい恨みと怒りのこもったような絶叫が響き渡り、小夜香は思わず身を竦めて耳を塞いだ。
 広範囲から一気に怪異どもが消し飛ばされた、その空いた場所に、槐は事も無げに立っている。焼き払われてしまったように、そのあたりからは青草が失せ、地面も焦げて爛れていた。小夜香には速すぎて、太刀が抜かれたことすら目視できなかったが、たったの一動作に見えるうちに、おそらく槐はそれ以上の行動を為していたのだろう。片腕に抜き身の長い太刀を下げたまま、何の力も入っていないように見えて残心を怠らない様子には、つけいる隙が無かった。
「哀れには思わんぞ。身の程知らずにも、この俺に手向かってきたのが悪い」
 うっすらと笑む槐の双眸は爛と耀き、明らかにこの状況を楽しんでいた。獰猛な愉悦に身を預けて嗤う様は、鬼気迫ると同時に、なぜだか異様に美しくも見える。力ある磨き抜かれた技と四肢を持つ猛き獣が、容赦無く狩りを行なう様にも似ている。
 小夜香がただ見守っている他にないうちに、槐はまさしくあっという間に、蠢く怪異どもを殲滅していった。群がるそれが間近に寄ることも許さず、白い狩衣と真白く長い髪を、舞踏のように鮮やかに翻らせながら太刀を振るう。白銀の刀が一閃すれば、斬り祓われた怪異どもは身悶え絶叫しながら、ぐずぐずに崩れていく他に無かった。
 もののいくばくかもしないうちに、あたりには崩れてゆく怪異の断末魔が満ちるだけとなった。
 おぞましい光景の中、白い鬼はその身に穢れひとつつけぬまま佇んでいる。紫色の瞳は、何かを探るように、溶け崩れて形を喪ってゆく泥濘たちを見下ろしていた。
 やがて怪異は、身悶えながら完全に消えていった。あれほどどろどろぐずぐずとしていたものが、文字通り跡形も無く見えなくなる。
 それらを完全に認めた上で、槐が長い太刀を振り下げ、鞘を引いて刃を納めた。それから小夜香の方を見る。紫の瞳がこちらに向いた、と思ったら、ぱちんと見えない何かが間近で弾けたような不思議な感触があった。つられるように見返ったのは、今しがたまで自分がしがみついていた山桜の木。思わずその木肌にふれてみると、先程感じたような不思議なぬくもりは、既に無くなっていた。
「騒がせたな」
 何事もなかったかのような足取りで、槐が歩み寄ってくる。無事か、とも訊かないあたり、己の張った護りに絶対の自信を持っているのだろう。
「……うん。まあ、片付いたならいい」
 こくり、と小夜香は頷いた。立て続けに起きた、あまりに小夜香の日常からかけ離れた出来事に、小夜香は頭がどこかぽやんとしてしまっていた。足元がうわついて、現実感がない。
「どこか怪我はしていないか?」
 一見何ともなさそうではあったが、槐を見上げ、小夜香は訊ねた。何しろあんなものは見たのも初めてだし、目の前で起きたことのすべてが消化しきれていない。
「無い。俺を誰だと思っている」
 じろりと紫の瞳に見下ろされた。そんなものは知るわけもないので、小夜香は口を尖らせた。
「ただの横柄で態度のでかい得体の知れない妖だろう、おまえは」
 言うと、槐は明らかに呆気にとられた顔をした後、声を上げて笑い始めた。
「たった今その妖に助けられておいて、随分な物言いだな。いいぞ。嫌いじゃない」
 小夜香が憮然としているのにも構わず、槐はひとしきり堪えきれないように笑い続けた。そしてあらたまったように小夜香を見下ろす。
「さすがのおまえも泣き喚くかと思ったが。さすがに肝が据わっているな。褒めてやろう。光栄に思え」
「なんでだよ。……いや、でも、助けられたことには礼を言う。ありがとう」
「うむ。取るにも足らぬことよ」
 いたく満足げに槐は笑った。小夜香は言いたいことはいくらもあったが、そんな槐を見ていたら、なんだかこちらまで力が抜けて笑えてきてしまった。
 諸々の気になることはあるが、細かいことはもう些末時としてよけておく。今気になることを、ひとまず槐に訊ねた。
「今のあれは、何なんだ? とにかくこの世のものではない、えらく良くないものだ、ということだけは分かったが」
「こことは別の場所から来たもの──としか言い様がないな」
 槐も今の出来事を反芻するようにしながら答えた。
「あれは幽世かくりよのものですらない。生き物でも死んだものでもない。地底深くに封じられている大元から滲み、僅かな隙間から這い出してきた、地上に生きるものすべてに向けられた怨嗟と呪詛の塊。そんなところだ」
「なんでそんなものが急に顕われるんだ。もしかしたら、おまえがここに出入りしているせいじゃないのか」
 あんなものは、今までは見かけたことすら無かった。しかも何故か、あれは小夜香を標的にしていた。槐に遭遇して以来、急に、小夜香の平穏無事な日常が揺らぎ始めた気がする。
 小夜香の言葉に、槐は白々と答えた。
「ある意味そうかもしれん。引き金にはなったかもしれんな」
「冗談じゃないぞ。どうしてくれるんだ。この後もあんなものが顕われたら、うかうかと生活してもいられないじゃないか」
 ぞっとして小夜香は訴えた。あんなものがこれからも顕われたら、小夜香の日常が壊れてしまう。そればかりか、里の皆や、秋人にだって、どんな恐ろしい厄が降りかかるか知れない。
「俺が護ってやってもいいぞ」
 顔色を変えてうろたえている小夜香を見下ろし、槐が悪童のような顔で、にやりと笑った。
「──なんだって?」
「俺もちょうど今は暇をしている。退屈凌ぎにはなろう。それに、おまえに会うのはなかなか心楽しい。おまえにとって不都合は無いと思うが?」
「いや、あるだろう。大ありだ。何を言ってるんだ、おまえは」
「さすがに本体が出てくるようなことがあれば、俺とて関わるのは御免だが。そうでないなら、まあなんとでもなるだろう」
「本体……」
 思わず、小夜香は繰り返した。それは、槐が「口にすることすら憚られる」と言ったもののことだろうか。小夜香たちが龍神と呼んでいるもの。だが槐はそれを、はっきりと「龍神では無い」と否定した。
 それについてをはっきり教えろ、と詰め寄りたいのが本音ではある。だが、槐があそこまではっきり拒絶している以上、口を割ることはないだろう。妖である槐は、現世うつしよの則の通じない、幽世に属する存在だ。小夜香以上に、言霊、言葉や名の持つ作用に縛られる。それが「口にしたくない」と言う、それだけで、いかにそれが厄介なことであるのか、その危険性だけは薄々察することが出来た。
「……事情が分からないことばかりだが。おい、槐。とりあえず、これだけは答えろ」
「何だ」
「ああいったものは、今後も顕われるのか? それとも今回、何かの拍子にたまたま顕われただけなのか。どちらだ?」
「今後も顕われる可能性はある。根源を絶てていないからな。少なくとも俺には、顕われない、とは言い切れない」
 問うと、思いのほか真面目に槐は答えてくれた。それを聞き、小夜香は両肩を落として、ほうと溜め息を吐き出した。
「……であれば、やむを得ないな。不本意極まるが、時と場合によっては、おまえの助けを得るしかなさそうだ」
 そう言ったことには、いくつかは理由がある。まず槐は、多くを明かしてはくれないが、人知れず起きつつある変事についての情報をどうやら得ているようだ、ということ。それから、実際にあの怪異どもを、いともあっさり返り討ちにしてみせたことだ。得体は知れないが、少なくとも「敵」にはならないのであれば有り難い。
 あと何よりも、小夜香の中で、この槐という妖が、どうにも「悪いもの」とは思えなくなりつつあった。というよりも、何をもって「悪い」というのかの境界が揺らいできた、という方が正しいかもしれない。今まで「妖なら邪なもの、穢れたもの」と思って決めつけてきたが、それは本当にそうなのだろうか。
 あの怪異どもをあっさり屠ってみせたときに見せたよう、槐には、人間である小夜香には理解もできない領域に生きている部分はある。だが、出会ってから槐は、確かに小夜香にも、そしてこの里にも、危害らしい危害は加えていない。それどころか小夜香を助けている。出会い頭に神域を穢したことは確かだが、実際にそれでその後何か起きたか、といえば、何も起きていないし、龍神湖に転がり落ちてきたこと自体が、槐に言わせれば不可抗力だったという。
 じっと、小夜香は槐を見上げた。こいつは確かに得体が知れないし、態度も不遜で一筋縄ではいかない妖だ。だがこいつ自身が言ったように、その気があるならとっくにこちらに危害を加えているだろう。
 槐が「退屈凌ぎ」というその真意は分からぬが、今は少なくとも「敵」ではない。自分の直感を信じよう。小夜香は槐を真っ直ぐに見上げながら、言った。
「何かあれば、おまえを頼ろう。私のところに来るのは、まあ、悪さをしないのであれば許してやる。あと、里と里に住む皆には、おかしな狼藉は一切働かないでくれ。それを約束してくれるか、槐」
 じっと見上げていると、槐は少しの間、何も言わずに小夜香を見返していた。何かを思案しているのかいないのか。槐の考えていることなど、相変わらず小夜香には分からなかったが、相手の信を引き出すのならば、まずはこちらが先にそれを示さねばならない。だから黙って、槐の返答を待っていた。
 やがて槐は、にまりと笑った。心底楽しそうに、一言だけを返した。
「請け負った」

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