曲夢 (十三)

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「ああ、ほら小夜香様。まだ動いちゃなりませんってば」
「うー。もう疲れたよぉ。首痛いよー。足も痛いよー」
「もうちょっとの辛抱です。今せっかくちゃんとしてるところなんですから、あともう少し頑張ってください」
 慎ましく整えられた社殿の一角。龍神への拝礼に用いられる神前の間、その脇にある控えの板間で、小夜香は几帳に仕切られた奥側に座っていた。
 その小夜香を、使用人の亜矢とその母親の真麻、その他数人が囲んでいる。小夜香は生成縁の置き畳に座っており、亜矢を始めとする里の女達が、数人がかりで秋神楽専用の支度を調えているところだった。
 今宵は満月。大きな収穫作業はあらかた終わり、いよいよ秋の実りと来年の豊穣を祈願する秋祭りが開かれる日だ。
 今日は朝から天気が良かったから、西の空は一面の澄んだ茜色に染まっている。東の空には、既にもう明るい月が昇り始めていた。
 祭りの場所は龍神湖の湖畔、広くて最高に景色の良いあたり。湖畔には仮設の神楽殿と祭櫓、それに大きな神饌台が組まれ、折敷おしきや三方に盛られた今年の収穫物が山と捧げられた様は、なかなかの壮観だ。これに関しては、昼間のまだ明るいうちに献饌の儀を済ませてしつらえたものだった。そのときも小夜香は正式な巫覡装束を身につけていたが、秋神楽の衣装となると、それよりも格段に手の込んだものになる。
 既に祭りは始まっており、陽気で賑やかなお囃子が、風に乗って社殿まで届いていた。
 小夜香も早くお祭りの様子を見に行きたかったが、巫覡である小夜香には、お祭りの中盤あたりで秋神楽を奉納するという、とても重要な役目がある。
 夏頃から懸命に稽古を続けてはきたが、いよいよだと思うと、やはり緊張する。しかも今までにない手間暇をかけて、秋神楽のための装束を調えられてゆくものだから、おとなしくなすがままになりつつも、小夜香はずっと心臓がどぎまぎと落ち着かなかった。
「さあ。やっと仕上がりましたよ、小夜香様」
 装束の着付けと、髪結いと飾り付け、最後にお化粧までが済んで、小夜香が動かせない首や座ったきりの足の痛みにいい加減耐えかねそうになった頃。やっと亜矢がそう言って、化粧に使っていた刷毛を置いた。
「まあ、綺麗だこと。これは小夜音様にも負けないわねえ」
「本当に。化ければ化けるもんですねー」
 亜矢をはじめとする、支度を手伝ってくれた女たちが、小夜香を見て満足そうに頷き、あるいは感嘆したように溜め息をつく。
「本当に? 騙してない? ちゃんとしてる?」
 小夜香は自分の姿を見ることができないので、それらを見ても今ひとつ自信が持てない。疑り深いことを言う小夜香に、乳母でもある真麻がおかしそうに言った。
「とびきりちゃんとしてますよ。まるでお花が咲いたみたいです」
「そっか。じゃあ、良かった」
 後に控える秋神楽と、慣れない格好のせいで、小夜香は口数まで少なくなる。そんな初々しい様子を、まわりの道具などを片付けながら、周囲の者たちは微笑ましげに見守っている。
 秋神楽専用の装束は、代々伝わっているものを、里の者たちが修繕したり、新しく飾りを付け加えたりしたものだ。お化粧なんて普段はしないから、なんだか顔に違和感があるし、いつもより胸が締まってだいぶ苦しいのも、口数が減りがちになる理由のひとつではある。
 耳飾りや髪飾りなどの装飾品は、代々伝わっているものの他に、今年は里の皆が近くの川底から浚える玉や金を使って、「小夜香の黒髪に似合うだろう」と美しい翡翠の簪を造ってくれた。皆のその心遣いが嬉しくて、髪に挿す前に、小夜香はしばらく簪を手に取って眺めていた。
 装束は、大部分は雪をもあざむく純白に、部分的に金色と、淡い桜色、裾や袖の大きな範囲には南天のように鮮やかな赤が染め抜かれている。白は巫覡の神性や穢れ無さを表わすと同時に、冬を示す色でもあり、金は夏、桜色は春、そして赤は実りと秋を示しているという。
 裾や袖には、薄い綺羅が花びらのように幾重も重なり、襟元にも優美な重ね衿。爪も丁寧に磨かれて爪彩そうさいで染められ、桜色に艶々と光っていた。
 小夜香はぴんと指を伸ばして、自分の指先に見入る。他の神楽のときは、爪を染めることまではしなかった。化粧や慣れない衣装は窮屈だったが、ぴかぴかの指先は見ているとうきうきしてきて、すっかり小夜香のお気に召した。
「これ、いいなあ。ねえねえ、お神楽が終わっても、これは落とさなくてもいい?」
「あらあら。ふふ、かまいませんよ。おきれいですものね、それ」
「うん」
 首をかたむけると、ほんの少しの仕種にも結った髪や耳元に飾られた珠同士がふれあって、ちりん、しゃらん、という、涼やかでかそかな音がする。
 何もかもが普段とは違う装いは、さすがに小夜香を神妙にし、少し身動きするだけでも身体のどこかで飾り珠が鳴るので、自然とゆっくり静かに動くようになっていた。
 この格好で湖畔までの距離を歩くのも、もし転んでしまったりしたら台無しなので、里の若衆数人が担ぐ神輿に乗せてもらうことになっている。こんなことも、他の季節には無いことだ。何もかもが特別扱いで、神楽の時間が近づくにつれ、小夜香はさらに落ち着かなくなってきた。
 そのうち、社殿の入り口のあたりからざわめきが聞こえてきて、じきにどたばたという足音がこちらにやってきた。
「小夜香、ぼちぼちだから迎えにきたぞー。──って、うわ」
 言いながら几帳をよけて顔をのぞかせた颯介が、小夜香を見るなり目を丸くして絶句した。「まじかよ……」という口の中での呟きが聞こえ、小夜香は思わずおろおろと挙動不審になった。
「えっ。だ、だめ? 何かおかしい? そんなに変?」
「いや……」
 茫然としながら、颯介は自分の口許を覆うようにする。その頬は、うっすらと紅潮しているようだった。
「大丈夫だよ。あんまり綺麗だから、誰かと思ったわ」
 言って、まるで目を逸らすように、ぐるりと小夜香の身支度を手伝ってくれたあたりの女性たちを見やる。
「みんなが頑張ってくれたおかげだなー。むちゃくちゃ良い感じじゃん。馬子にも衣装ってのはこのことだなあ」
「颯介様ったら。素直に褒めてあげてくださいな」
 女性たちがくすくすと笑い、亜矢が少々意地悪な笑みを浮かべて突っ込む。颯介がそれに何かを言い返そうとしたところで、
「──小夜香、準備はできた?」
 言いながら、秋人が部屋に入ってきた。静かな足音を連れて几帳を回り込み、置き畳に座った小夜香を見ると、驚いたようにその瞳が見開かれた。それから、蕾がほどけるように微笑する。
「すごく綺麗だ。小夜音にも負けていないね、小夜香」
「秋人兄様」
 秋人が顔を見せてくれたこと、褒めてくれたことで、小夜香はいっぺんに気持ちが上がって瞳を輝かせた。ひらひらした裾を踏まないように立ち上がって、秋人の側に寄る。その脇で、颯介が「俺のときと態度が違いすぎねえ?」とぼやいていたが、この際相手にせずに流した。
「本当に? 姉様みたい?」
「うん。一瞬見間違えたかと思った。でも、小夜香は小夜香だよ。小夜香らしくて、可愛くて、とても良く似合ってる」
 手放しで褒めてくれる秋人に、小夜香は嬉しくて頭に血が昇り、耳まで赤くなった。
「良かった。兄様がそう言ってくれるなら、安心です」
「ちょいちょい。俺も褒めた、褒めたよ。小夜香ちゃん?」
 と、颯介がそこに主張してくる。秋人にくっつきながら、小夜香は颯介を見返った。
 ちなみに、今日は颯介は祭り当日らしい半被はっぴ姿だ。対して秋人は、しっとりした濃藍こいあいの長着を、いつもと変わらない風情で纏っている。艶々とした黒髪と、肌色が白い秋人には、深く落ち着いた藍色がよく似合っていた。
「あ、うん。ありがとうねー颯介も」
 小夜香が適当に言うと、颯介は不満そうに口を曲げた。
「ぜんっぜん心がこもってなくねえ?」
「そんなことないよぉ。もー、颯介うっさいなあ」
「あっ。これ、ほんとに中身小夜香だ……」
 何やら呟いている颯介を、小夜香はじろりとにらむ。
「なに? 何か文句あるの?」
「ねえよ。ったく。おまえなあ。そんな態度だと、神輿に乗せてやんねえぞ?」
「いいもん。そうしたら歩いていくもん」
「え。いや、それはまずいだろ。転んだらどうすんだ」
「転びませんー」
「いや駄目だろ。そういうわけにはいかねえよ。もー、マジで小夜香だわ。見かけはすっげえ可愛いのに」
「はあ? 何だよそれ。どーいう意味?」
「ちょっとは大人しくしてろって。今日くらいはさ」
 そう言って、颯介は秋人に「ちょっと神輿の確認してくるわ」と言い残し、大股に部屋を出て行った。
 その様子を、小夜香はむうっと唇をとがらせて見送る。
「あいつも、なんでいちいち絡んでくるわけ?」
 はは、と秋人が苦笑に近い顔をした。
「心配してるんだよ。あれで颯介は、今回のお祭りでいちばん気に掛けているのは、おまえの神楽が無事に成功するかどうかだよ」
「はーん。……まあ、そりゃあ、主催者としては目玉の神楽が失敗したら困っちゃいますものねえ」
「そうじゃなくて。神楽の舞台も、きざはしから演舞台の隅々まで入念に見直して、おまえが間違っても飛び出た釘やら木のささくれやらで怪我をしないようにしているよ。神楽で使う楽器も自ら確認しているし、そもそも資材の用意から全部、神楽殿の設営はあいつが取り仕切ってるんだから」
 ややたしなめる響きを持った秋人の言葉に、小夜香は少し驚いた。
「え……そうなんですか?」
「うん。それに、神楽を滞りなく奉納できるよう、祭り全体の流れを纏めているのもあいつだし。まあ、颯介が今回の祭りの纏め役だから、それがあいつの仕事だと言われてしまえばそれまでだけれどね。でも、あいつはあいつなりに、おまえのことをよく見ていて、支えようとしていると思うよ」
「……そうなんだ」
 神楽の準備も、お祭り全体の準備も、大変だろうことは分かっていたつもりだったけれど、あらためてそう言われると、急にそれが実感として迫ってきた。
 小夜香の中では、正直をいって、まるで自分ひとりが祭りの主役であるような意識になっていた。でも実際には、全然そんなことはないのだ。たまたま表に出ている、いちばん目立つ場所に小夜香がいるだけで、お祭りは里のみんなのものだし、颯介を始めとする里中の人達が、自分の見えないところで手を尽くしてくれている。
 そう思うと、急に颯介に申し訳ない気持ちになった。
 小夜香がいくぶんしょげたように俯いたことから、秋人はそれを察したらしい。しかしそれには特に何も言わず、戸口のほうを見て促した。
「さあ、そろそろ行かないと。俺は神輿と一緒には行けないけど、先回りして舞台の確認をしておくから」
「……はい。兄様、あの……」
 秋人を見上げ、けれど言いたいことがまとまらず、小夜香はもごもごと口ごもる。それを見て、秋人はふっと表情をゆるめた。
「がんばっておいで。ちゃんと見ているからね」
 ぽん、と、秋人の掌が、小夜香の薄い背中を押す。
「……はい!」
 それに促され、小夜香は顔を上げて、気持ちを入れ直して元気に返事をした。


「さあさあ、小夜香様」「足元にお気をつけて」とお付きの女たちに促されながら、小夜香は社殿の正面から表に出た。
 そこにはまっさらの白木と白絹でしつらえられた乗輿じょうよが既に設置され、いつでも小夜香が乗り込めるようになっていた。
 最後に乗輿の確認をしているらしい、その脇に屈んで担ぎ棒と御座みくらを繋ぐ仕口のあたりを覗き込んでいる颯介に、小夜香は若干おずおずと近付いていった。
「あの……颯介」
「んー?」
 颯介は手を止めず、小夜香を見ないままで短く返事をする。
 小夜香は思い切って、きゅっと顔をあげ、颯介に頭を下げた。
「さっきは悪かった。あの……今日は、よろしくお願いします」
 一息に言ってしまい、慣れないことにこころもち赤面して顔を上げると、颯介が何やらぽかんとした顔で小夜香を見返していた。
 やがて颯介は、顔全体でにかっと笑い、頷いた。
「おう。任せろ」

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