颯介は一人、湖の中央にある小島を訪れていた。
神聖なる禁域とされている場所だから、里長の息子とはいえ、人目につくと面倒くさい。ただ、もし何かあったときのために、屋敷の下女にだけは、ここに来ることを言い置いておいた。
目立たないように小舟を出し、里の人々に見付からないようにかなり迂回して、神島の里から見て裏側になるあたりに回り込んだ。そこにあった小さな岸に小舟をつけ、その島に颯介は上陸した。
──龍神湖の中央にひっそりと浮かぶ小島。里に伝わる龍神信仰の中枢にして、神聖不可侵な神の宿る禁域。
この島には、どんなに晴れている日でも、一年を通して靄がかかっている。それもまた、龍神の神秘を演出するようではあった。
いざ島に入ると、靄はあたりに白く薄い幕をかけている程度だった。そこまで視界には困らずに済みそうだ。
年に一度、年が明けてすぐの頃に、数日かけて斎戒沐浴をした龍神の守り人と巫覡だけが、この島を訪れることを許される。そこで巫覡と守り人は、島の中心部にある祠を清め、注連縄を交換して、過去の一年を護られたこと、またこれからの一年を護ってもらうことへの感謝と祈りをこめて拝伏する。
「禁域ねえ」
巫覡や守り人ですら、年にたったの一度しか上陸することが許されない。だから颯介もこれまでは、ここを純粋に神の島だと思ってきた。しかし今となっては、実に馬鹿馬鹿しいことだったと思う。
「本当は、龍神様は居なかった、だって? ……ふざけてるよなあ。冗談きついわ」
眩暈がするような思いがする。人目のないここでなら、気分が荒れていることを隠す必要も無いので、颯介は歩運びも荒く、ぶつぶつとこぼしながら島の内部へと向かった。
初めて来た場所だし、地図も見取り図もないが、しばらく歩けば横切れてしまう程度の小さな島だから、適当に歩いたところで迷う心配はないだろう。ただ参道以外の場所は、古代からの鬱蒼とした原生林がそのまま根付いており、歩きにくいことこの上なかった。頭上を覆う樹木は厚く、足元には多数の蛇がうねるように、木々の根が張りだしている。
進むのに思いのほか時間と体力を要し、何度か足を取られて転んでしまった。颯介はますます苛立って、何度も舌打ちしながら進んでいった。
こうしていても、昨夜の出来事が脳裏によみがえってくる。ひどく憤懣遣る方ない思いがするから、出来れば思い出したくないほどだったが、それはあまりにも強固に颯介の胸中を蝕み、深々と鋭利な爪を立てていた。
「……分かってるよ。本当はさ。こんなことしてる場合じゃねえってことくらい」
涼しい秋の日だというのに、四苦八苦しながら道なき道を進むうちに汗ばんでくる。颯介はひたすら進んでいきながら、幾度となく奥歯を噛んだ。
「おまえにはおまえの事情があるんだろうさ、秋人。だけどな。──俺はまだ、そこまで割り切れねぇんだよ」
いい歳をして、それこそ子ども丸出しだ。それは痛いほど、嫌になるほど分かる。だが、おさまらないこの鬱屈は、痛みは、苛立ちは、今にも胸の奥で爆発してしまいそうで、どうしようもない。
何がこんなに許せないのだろうと思う。あの槐とかいう妖のことも、それは勿論腹が立つ。得体の知れない化け物風情が、何をあんなに偉そうにしているのか。
それに加えて、颯介がずっと想い続けてきた小夜香を、突然横合いから現われてかっ攫おうというのだ。妖とはいえ、ぎょっとするほど見てくれが良いことも、あらゆる意味でとても自分が敵わないであろうことも、それが分かってしまうことも、何もかもが悔しくてならない。
だがそれ以上に、颯介がひどく苛立つのは、秋人の反応だった。思考や心情が、こちらではなくあの妖側を優先している──それが分かってしまったからだ。
昨夜の秋人は、颯介が何を言っても聞く耳を持たなかった。あんな妖を信頼するのは危険だと、何度強く諫めて繰り返しても。そればかりか、あの妖の肩を持つような素振りさえ見せた。
「……くそっ」
思い出すと、また、腹の底からのやるせないような怒りが、悔しさがこみあげてくる。
蛇神についてを黙っていたのだってそうだ。龍神信仰が、本当はでたらめであったこと。そんな重大なことを、なぜもっと早く伝えなかったのだろう。
守り人の秘匿してきた禁忌だ、とは言っていた。確かに、迂闊には洩らせない話であるのは分かる。
だが、颯介は里長の息子であり、いずれはこの里を取り仕切ることになる身だ。ましてや秋人と颯介は、幼い頃からずっと親しんできた、気心の知れた親友同士だった。他の誰に伝えずとも、颯介になら、それを伝えていても良かったではないか。
「……いや。もう親友なんかじゃねぇよな」
暗い、できるなら頭を抱えて叫び出したいような気持ちで呟く。
「先に裏切ったのは、おまえだ、秋人。おまえが、俺の言葉を聞かなかったから」
そのくせ後になって、話をしようなどと言ってくる。まずは詫びることが先ではないのか。颯介の感情と信頼を踏みにじったことを詫びて、関係の修復を図るほうが先では無いのか。
「馬鹿野郎……」
これが、それこそ子供じみた感情であることは、自分でもよく分かっていた。それでも、このどうしようもない苛立ち、怒りと悔しさ、何よりも胸の底が抜けたような寂しさは、どうにもならない。颯介のこの鬱屈の理由を、当の秋人がどうやら理解していないようであるのが、ことさら虚しく哀しかった。
「おまえがその気なら、俺は俺で、思った通りにするさ。……小夜香だって、本当に蛇神の呪いなんてあるのかよ。そりゃあ、呪いだとか思いたくなる状態ではあったけどさ」
まだ薄暗い明け方、眠り続けている小夜香の姿を寝所で見たとき、颯介はしばらく衝撃で動けなかった。まるで本当に、蛇の鱗がその素肌に浮いているように見えた。
だが、ああいう病がないと、どうして言い切れる。病だと思うほうが、まだ蛇神だのなんだのという話より現実的だろうに。
「俺がちゃんと治してやるからな、小夜香。心配すんな」
朝一番で街に行って、良い医者と、それから一応ついでに祈祷師を捜してこようとしたが、あいにく昨夜の地震で道が塞がれてしまっていた。作業を急いでも、通れるようになるのは、明日か明後日か。
それなら今日はどうしようか、と考えたとき、ふと眼に入ったのが、この湖に浮く神島だった。
龍神信仰が蛇神の存在を隠蔽するためのものだったとするなら、この神島自体、本当は龍神ではなく、蛇神にまつわるものである可能性がある。それに関係しているのかは分からないが、昨夜のあの地震のとき、この島がぼんやりと光っていたという、嘘か真かさだかではない噂も生じていた。
蛇神などを信じたわけではない。正直をいえば、半信半疑だ。それほど颯介にとっても、龍神信仰は当たり前のものだった。今さら急に、それは偽りだったと言われても、おいそれとは実感が湧かない。何より、蛇神が本当にいたのだとしても、それは遠い過去の話──しょせん昔話ではないのかと思う。
蛇神が本当にいたのだとして。それにまつわる何かを、この神島は祀っているのだとすれば。それを暴いてやって、それで何もないと分かれば、それこそ小夜香のあれは蛇神の呪いなどではなく、何かの病だということになる。
それをはっきりさせれば、流石に秋人の眼も醒めるのではないか。
あるいは本当に何かあるのだとすれば、その蛇神にまつわる禁忌とやらを、この眼で見てやりたい気持ちになっていた。
自分はこの里を守る長の息子だ。いずれはこの里を継ぐ者だ。蛇神についてを暴露すれば、里にとんでもない混乱が生じることは分かりきっている。だからその気はなかったが、それならせめて自分くらいは、その中核を把握しているべきではないのかと思う。
「俺はそれを知らなきゃいけないだろ。……俺だって」
──一切を黙していた時点で、秋人は颯介を信頼していなかった。そういうことだ。
様々なことを考えながら、哀しいような苦しいような薄暗い衝動に後押しされるまま、颯介は原生林の中をひたすら進み続けた。
こちらのほうかと見当をつけながら歩いていると、そのうちようやく、参道らしき場所に出た。
とはいっても、一年に一度しか人の通らない場所だ。石畳を敷き詰められてはいたが、油断するとすぐに足元を持って行かれそうなほどに苔むしている。その隙間からは、雑草が伸び放題にもなっていた。
「まあ、しゃーねえか。こんなもんだよな、そりゃあ」
歩きやすいとは言い難かったが、原生林の中の道なき道よりは、断然ましだった。島の外周とは逆方向に進んでいくと、じきに視界の先が開け、石造りの古い鳥居が見えてきた。
里の社殿には鳥居がないから、それは少し意外で、新鮮な光景だった。石畳同様に苔むした石の鳥居には、風雨にさらされて随分古びて見える注連縄と、そこから下がる紙垂がかかっている。妙に生ぬるいような風に、紙垂がゆらゆらと揺れていた。
「…………なんか、雰囲気あるな」
思わず、颯介は鳥居の前で立ち止まっていた。秋風が涼しい以上に、佇んでいると、何か背筋がぞくぞくする。
巫覡と守り人以外は立ち入ってはならない禁域。今となってはそんな話もくだらない、と思う一方で、しかし長年信じて培われてきた習慣は、簡単に抜けるものではなかった。
思わず入ることに怖じ気付き、だがそのこと自体に自分で苛立って、振り切るように一歩を踏み出した。
そこはたいして広い空間でもなく、石畳は真っ直ぐに、空間の中央にある石造りの祠に向かっていた。
祠にも注連縄と紙垂がかかっている。やはり苔むし、あちらこちらが摩耗して、ひどく古いものであることだけは分かった。屋根の高さは颯介の肩くらいだろうか。
その名や由来が分かりそうな何かが建てられていたり、添えられている様子はない。近くに寄って、しげしげと眺めてみた。
とくにどうということもない、よくあるような祠だった。いかにも頑丈そうな、これも古びた格子戸が正面には嵌まっている。奥には両開きの厨子のようなものや、備えられた神饌の名残らしきものが見えたが、暗くてあまりはっきりしなかった。
「意外に、こんなもんか……」
当てが外れたような気持ちで、颯介は独りごちた。
とくに変わった何かがあるようには見えない。この場所自体も、ひどく静かで、人の世界からは隔絶されているような、ちょっとした不気味さを感じる程度だ。
原生林のほうには無かった薄が、祠の背中のほうで、うら寂しく風に揺らめいている。そのさわさわという音を何気なく聞いていた颯介は、そこで突然、あることに気が付いた。
──虫の声が、まるでしない。
季節柄もあり、里の周囲では、それこそうるさいほどに日中でも虫の声がする。虫だけではなく、野鳥の声も賑やかだ。ときには遠くから、野の獣が吠える声も聞こえてくる。
だがこの小島に入ってからは、これほど緑が生い茂っているのに、それらを聞いた覚えが一切なかった。
ぞわっと全身が総毛立った。何か理屈ではなく、人間が、生きたものが、ここには立ち入ってはならないような異界じみた空気を、突然に感じた。
まるで何かに見られているような気がする。物陰からじっと、石のように微動だにせずに、なにものかがこちらの様子を覗っているような気がする。
思わずあたりを見回すが、鬱蒼とした木々が、風に揺れてざわざわと不気味な音を立てているばかり。
颯介はその場にしばらく佇み、あたりをぐるりと見回した。そのうち特に何も異変は感じられないことを確認すると、一瞬怖じ気付いてしまったことに舌打ちした。
「くそ。こんな場所なら、そりゃ何だって不気味に感じるよな」
一瞬抱いてしまった本能的な恐怖を払拭するように、わざと口に出して言い、颯介は祠の裏側にまわってみた。これで何もないようなら帰ろう、と思って眼をやった先に、薄になかば埋もれるように転がっている、大人で一抱えほどの石が見えた。
何気なく近付いて、颯介はどきりとした。
「……これ、石碑か……?」
よく見ると、それの表面には、とても判読できない摩耗しきった古い文字らしきものが彫られていた。近くの地面にそれの台座らしき石板と、さらに碑の近くには注連縄が落ちている。
「昨夜の地震で倒れたのか」
どうやらそういうことのようだった。さらに颯介は、台座だったと思われる石板が、あたりの雑草の様子からして、定位置と思われる場所から大きくずれているのに気が付いた。
これも昨夜の強い地震で動いてしまったのだろう。ずれている石板を何気なく見下ろして、──息をとめた。
「……下に、何かある」
石板の下に。明らかに何かの空間と思われる、暗い虚ろが開いている。
屈み込んで石板に手を掛けてみたが、ずっしりと重く、そう簡単には動きそうもなかった。今度は体勢を低くして構え、両手で石板をしっかりとつかみ、身体全体を使って引く。
「うわっ」
ずっ、と石板が大きくずれた。勢い余って後ろに転がり、したたかに腰を打つ。
「いってぇ」
思わずぼやいたが、腰をさすりながらすぐに立ち上がった。ずれた石板のもとへ向かい、その下を覗き込む。
「……階段だ……」
思わず息を飲んだ。
まるで果てしない無明の底に続いているような、古い古い階段だ。どこまで続いているのかも分からない、人一人がやっと通れる程度の幅の石段が、地下に向かって伸びている。
ごくりと、思わず生唾を飲んだ。状況もあいまって直感する。
──これは、この先にあるものこそが、この神島に祀られているものの本体だ。代々の守り人たちが秘匿してきたという、その核心部が、この奥にある。
この場所を、秋人は知っているのだろうか。当然知っているだろう。龍神信仰が偽りである、ということすら知っている守り人なのだから。
明らかにこの入り口は隠されていた。ということは、この奥には隠さなければならない何かがある、ということだ。
暗い場所を探索することになるかもしれないと、小さな手燭と蝋燭を布にくるみ、懐に入れてきてあった。ここまで来て、この先に行かないという手はなかった。
空を見上げると、だいぶ黄昏の気配が深まっていた。この季節ともなると、日が落ちるのが相当に早い。
迷っている余裕はなかった。ひとまず下に降りてみて、様子を探ってみる。中は案外狭いかもしれないし、逆に広いようだったら、いったん引き上げてまた出直せば良い。
「──よし。行こう」
自分を鼓舞するように、ひとつ頷いた。明らかに閉ざされた禁忌にふれようとしているという、畏れ多いような躊躇いはあったが、それ以上に強い好奇心と、今まさに禁忌とされてきた秘密を暴こうとしているという、奇妙な昂ぶりがあった。
手燭に蝋燭を立て、火打ち石で火を灯した。その小さな明かりだけを頼りに、颯介は一歩一歩、慎重に、地下へと続く石段を降り始めた。

