禍夢 (十一)

栞をはさむ

 抱き合って震えながら状況を見守っていた亜矢と真麻が、突然「あっ」と声を上げた。夢から覚めたような、信じられないような顔で、かつて湖だった場所の中ほどにいるものたちを見る。
「あれは……あのひと、角がみえる……まさか、鬼……?」
 茫然としたように呟いた亜矢に、小夜香は打たれたように察した。
 ──皆の暗示がとけたんだ。
 槐が、皆にかけた暗示を維持していられない状態になっている。この離れた湖畔からただ様子を見守っている他にない中で、蛇神に対して明らかに槐が劣勢になっていくことだけは分かっていた。けれど、それほど槐が追い詰められているのだということを、いよいよ見せつけられるようだった。
「槐……」
 あんな恐ろしいものと対峙している槐を、ただ見ていることしか出来ない自分が、あまりにも歯がゆい。あちらこちらに不気味な蛇神の鱗が浮いた身体は、力がどんどんどこかに吸い出されてゆくようで、立ち上がりたくても、今はもうそれすらできない。
「なんで……」
 思わず、力の入らない手で拳を握り、膝が立たずに座りこんでいる地面に打ち付けた。
 ──なんで私は、何も出来ないの。
 苦しくて涙があふれる。自分に対する怒りと、何も出来ないことの悔しさと、槐がどんどん追い詰められてゆくことに、頭が熱くなってうまく息も継げない。
 そもそも槐は、あれほど蛇神と関わることを拒否していたのに。それなのに今、ああして恐ろしい蛇神をなんとかしようと、たったひとりで命懸けで立ち向かってくれている。もう見ていられないほど傷ついているのに、何度も倒れているのに、そのたびに立ち上がって踏みとどまってくれている。
 もういいから逃げてほしい。言えるものならそう言いたかったけれど、槐が今何より求めていない言葉はそれだということも、なぜだか分かる。そう言われて逃げるくらいなら、槐はきっと最初から、あそこで太刀を抜いてはいないのだ。
「どうして……っ」
 あんなに槐が傷ついているのに、あんなになってまで槐が頑張ってくれているのに、自分はどうして何も出来ないのだろう。こんなところに座り込んで、立ち上がることも出来ず、莫迦のようにただ泣き喚いているだけ。そんな自分にあまりにも腹が立って、悔しい。
「……やっぱり、私には駄目なんだ……」
 苦しさと無力感と虚しさで、胸が潰れてしまいそうだった。
 だって自分は、役立たずの、張りぼての巫覡だから。こんな自分では駄目なんだ。小夜音姉様なら、こんなときでもきっと何かが出来た。でも自分は、ただ姉様の妹だったから後を継いだだけの、名前だけの巫覡だから。どんなに頑張ったって、しょせんは自分なんかには何も出来ないのだ。
 悔しい。悔しい。
 こんなときに役に立たないなら、なんのための巫覡だ。なんのための龍神だ。こんなに祈っているのに、どうして龍神様は助けてくれないの。やっぱりどこにも、龍神様なんて居ないんだ。だって居るわけがない。龍神様なんか最初から、あの蛇神についてを隠蔽するために仕組まれた、ただの御伽噺だったんだから。
「ごめ……ごめんなさい……」
 ばたばたっと、地面の上で力無く握り締めた手の上に涙が落ちた。役立たずの自分のせいで槐を死なせてしまう。この里のことを守ることも出来ない。きっとこのままあの蛇神は、あちらこちらで暴れ回って、たくさんの人たちを、命を、土地を焼き尽くす。それもこれも、みんな自分のせいだ。巫覡なのに何もできなかったから。こんなことになるなら、いっそ自分なんて生まれてこなければよかったのに。もっとちゃんとできる誰かが、姉様の妹に生まれていたらよかったのに。
「…………ごめんなさい…………」
 しゃくりあげながら、そう呟いたとき。
 ──落ち着いて、小夜香。
 ふいに、耳元で声がした。優しい、落ち着いた、小夜香のとてもよく知っている声。神島の地下でこの世から消えてしまったはずの、とても大好きで大切なひとの声。
 ふわっと、後ろから左の肩にふれてくる白い手が見えた。指のほっそりした、小夜香の大好きな、綺麗な手だった。
 息を呑み、思わず振り返った。だけれどそこには誰もおらず、何も見えなかった。
「……秋人兄様……?」
 思わずぽつりと呼ぶ。冴えた夜空の下、何も答えるものはない。
 だけれど、分かる。涙があふれてくる。何も見えない。何も聞こえない。それなのに、なぜだか分かる。
 ──秋人が、いま、ここに居る。
「秋人兄様……」
 小夜香を優しく宥めるような気配がする。優しいけれどいつでも芯の通った、透きとおる瞳で小夜香を見ながら、いつもそうしてくれていたように。
 ──落ち着いて、小夜香。そんなふうになっていたら、龍神様はそこに居ても来てはくれない。
 それは都合の良い幻聴なのかもしれなかった。追い詰められどうしようもなくなった小夜香自身の心が生み出した、都合の良い幻。だけれど、そうだとしても構わないと思った。
 夢でも、幻でも、見えなくても、今ここに秋人が来てくれている。
「でも……でも、それなら、兄様。どうすればいいの」
 訴えかけたら、また涙が情けないほどぼろぼろと出てきた。
「私には龍神様なんて喚べないよ。だって、私は駄目なんだもん。はりぼての巫覡だもの。それに、もう全然、立てもしないんだよ。手にも足にも、力が入らないの……私には、なんにも出来ないんだよ」
 本当に喚べるものなら、命だって賭けるのに。
 そう思って、しゃくりあげる喉をなんとかこらえようと、奥歯を噛み締めたとき。
 ──手足が動かないなら、心の中に思い描けばいいの。小夜香。
 耳元で、別の優しい声がした。今度はふわりと右の肩に誰かがふれる。白く優しい、秋人のそれよりも折れそうに細くてやわらかな指。なつかしくて大切で、大好きで、いなくなってしまったときには何日も何日も泣いた、たったひとりの。
「小夜音……姉様……?」
 思わず呟いた。涙を纏わせた睫毛を瞬いて、あたりを見回す。やはり誰の姿も見えなかったけれど。
 そうしたら、また聞こえた。耳になのか、頭の中になのか、それも分からない声が。
 ──秋神楽のことを思い出して。あのとき、あなたの神楽には確かに神様が宿っていた。
 しっとりと優しい、少しゆっくりと喋る小夜音の声。一年前に聞けなくなってしまってから、ずっとずっと聞きたかった、なつかしい大好きな姉の声。まわりを何度見回してもやはり誰もいないけれど、それは、確かに小夜香には聴こえてくる。
 ──大丈夫よ。小夜香は立派な龍神の巫覡。あなたは本当は、私よりもずっとすごいの。
 ──小夜香は龍神様を呼べる。落ち着いて。神楽舞を思い出して。
 自分の後ろに、見守るように佇む小夜音を感じる。それから、その隣に居る秋人を感じる。秋人も、知っているままの彼と何も変わらない優しい眼差しで、小夜香を見守りながら、そこにいてくれるのが分かる。秋人の声が聞こえてくる。
 ──小夜香。大丈夫。小夜香ならできる。眼を閉じて。……ゆっくり息を吸ってごらん。
 また自然と、涙が浮かんできた。けれどそれは、さっきまでのような、苦しくて虚しい涙ではなかった。
「兄様。姉様……」
 どうしようもなく荒れ狂っていた心が鎮まってゆく。
 そうだ。そういえば槐も、小夜香が神を宿して舞うのを見たことがある、と言ってくれていた。本当に自分にそんなことが出来ていたのかは分からない。けれど、本当に自分でも龍神を喚ぶことが出来るのなら。
「眼を、閉じて……息を……」
 迷わないでいい。自分を信じられなくてもいい。あなたなら出来ると言ってくれた、小夜香を見守り、信じてくれている大切なひとたちを信じる。
 小夜香は眼を閉じた。ゆっくりと繰り返して深呼吸をする。お勤めのときにいつもそうするように、まだなんとか動いた重たい腕を持ち上げて、胸の前で指を組み合わせる。
 小夜音と秋人の言葉に委ねるように、昨夜金色の満月の下で舞った秋神楽を思い出した。
 ──天頂にある満月と星々がとても明るかった。神へと捧げられる調べに乗せて舞うことに、不思議な陶酔感があった。
 まるで独楽になったように。腕のひと振り、夜空に向けられた眼差しひとつにも、神を呼ぶ息吹が宿る。舞う。舞う。月光に融けるように舞う。
 ──龍神様。どうかいるのなら、私の喚び声に応えてください。永いことあなたに感謝し、祈りを捧げ、その祝福の下に生きてきたものたちの声を、どうか聴いてください。この地を、命たちを脅かそうとするものから、どうか護ってください。


 ──そのとき。そのあたり一帯で、不思議なことが始まっていた。
 あたりに生えた草の一本、生えた木々の一本、繁る葉の一枚に到るまで。地中や空、森や水に生きる、様々な生き物たちのすべてが、淡く淡く光り始める。かすかで仄かなその光は、すうっと蛍火のような光の尾をひいて、次々に夜空へと舞い上がる。
 その現象は、湖畔で事の成り行きを見守っていた里の人々にも、抱き合って震えていた亜矢と真麻の母子にも起きていた。突然淡く光り始めた己の姿に、皆仰天して眼を丸くする。だが不思議なほど、多少慌てることこそあれ、誰もそれで取り乱すことはなかった。そこにある穏やかな気配は、人々の恐怖を呼び起こさなかった。
 それは湖畔にいた人々だけではなく。家や、山の中に逃げてしまった人々にも起きていた。
 そのあたりから無数に生じて尾を引く光たちが、禊場で跪くように祈るひとりの巫覡へと吸い寄せられ、集束してゆく。ひとつひとつは蛍のように淡い光たちが、流星雨のようにあたり一面の空を埋めて流れてくる。
 それらの現象が、眼を伏せている小夜香自身には見えていなかった。ただ昨夜舞った秋神楽を、動けないほどの手足の重さも忘れて、繰り返し何度も心に思い描く。
 ──ふ、と眼を開けたのは、何か妙に閉じた瞼の裏が明るく、手足があたたかいような気がしたからだ。そしてまばたいた瞬間、眼を丸くした。
 流星雨のように次々と小夜香めがけて集まってくる光が、どんどん強さと大きさを増してゆく。それは青白く美しかった。自身の輪郭も分からなくなってしまうほど光が強まってくる中、自分の手足に、胸元や背中に、首や頬に浮いていた禍々しい鱗が、みるみる光に融けて消えてゆくのが見えた。
 なにが起きているのか分からないうちに、青白い光は巨大な柱となった。光の柱の中で、ぽかんとして天へと伸びてゆくそれを見上げる。驚いてはいたが、不思議と疑問には思わなかった。
 自分の奥深くに固く閉ざされて赤子のように眠っていたものが、今は開かれているのが分かる。それがこの、青白い光に見えるものを喚んでいた。扉を開けて招くように。
 天に向かってまっすぐに伸び、翔けあがってゆく光の柱が、青白く輝きながら大きくうねる。やがてそこに、天を泳ぐ大きな龍のかたちが顕われた。いつの間にか清冽に輝いていた月光の中、幾星霜を宿す青白い龍は、高く美しい声で咆哮した。

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