──このままでは、蛇神がまた蘇る。
眼を覚ますなり、そう葵に強く訴えた夜光は、そのまますぐに起き出そうとした。
「ここの近くに、蛇神に結びつく何かがあるはずです。それを早く見付けなければ」
そう言う夜光の白い素肌のあちらこちらに、まるで蛇が這って浸蝕するような黒い鱗が浮いている。夜光の額にふれると明らかにまだ熱があり、そんな夜光を動き回らせたくなかったが、葵が止めても、夜光は頑として休もうとしなかった。
「正直、まだ事情がよく飲み込めないんだが……その蛇神とやらに結びつく何かを見付けたら、どうすればいいんだ」
仕方なく、葵はふらついている夜光を支えながら、一緒に部屋を出た。まだ夜は深く、あたりは暗い。外から様々な虫の鳴き交わす声が聞こえていた。
「処分する他にないと思います。それがあると、封印されている蛇神を喚び起こす窓口になってしまう。いいえ、現時点で既に私に影響が出ているくらいですから、もう遅いのかもしれませんが……」
「その、おまえの鱗のことか。簡単でいいから、どういうことなのか状況を説明してもらえないか」
歩くだけでもつらそうな夜光にそれを要求するのは気がすすまなかったが、葵にはあまりにも情報が無い。何も分からない状態で不測の事態に遭遇すれば、出来る対応も出来なくなる。夜光がいつになく冷静を欠いているのも伝わってくる。だからこそ、少し落ち着いてほしくもあった。
夜光はそんな葵の意図を察したのか、足を止めて、その落ち着いた色の瞳を少しの間見上げた。やがて頷き、細く嘆息しながら、通路の壁に凭れてそのまま座り込む。
「……すみません。私も少し、混乱してしまっているようです」
「いや。おまえがそうなるほど、何か大変なことがあったんだろう?」
その横に屈んで、もし何かあればすぐに対応できるよう周囲に気を配りながら、葵は夜光の様子を伺う。夜光の素肌に浮いた黒い鱗は、見るからに禍々しく、何よりそんなものが透けるように白い肌を浸蝕している様子は惨く痛々しくて、見ているだけで不安にもなった。
「……順を追って、簡単にお話しますね。おそらく後に私が生まれることになる、ある里での出来事を」
記憶を手繰るように虚空を見つめる夜光の紫の瞳は、見えないものを見ようとしているように透明で、どこか切なげだった。
夜光がかいつまんで語った夢の話──夜光の言葉を信じるならば「今からおそらく四十年以上も前に、とある龍神信仰の伝わる里で起きた出来事」は、様々な意味で葵を驚かせた。
「それは……その、本当に槐殿なのか? それから、おまえの母君に当たる人の話だと?」
「私も、お父様の昔の──本来の姿は見たことがありません。出逢った頃には、もう今の姿でしたから」
葵も夜光も、槐といえば黒髪の姿が出てくる。二人にとってのは槐は、光すら吸い込む漆黒の髪に、全身に無数の傷痕があり、口許以外のほとんどを面で覆っていて、素顔すらろくに見えない。そんな姿をしている人物だった。
「でも、終の涯の長様から伺ったことがあるんです。お父様は本当は、私と同じような姿をしていると。私と同じ……雪のように白い髪をしていて。昔はとても綺麗だったと聞いたことがあります」
何かを思い出したように、夜光は小さく笑った。
「それから、これは夜叉という種の特性でもあるのですが。気性が強くて、闘うこと自体がとても好きで、一度のめり込んでしまうと手が付けられなくなることがあったようでした。私も今のお父様しか知らないので、あまりぴんときていなかったのですが……でも、夢の中で昔のご様子を見て、納得してしまいました」
「そんなになのか」
葵にも、あまり想像ができない。葵の知る槐は、どこか人を食ったように飄然と構えた人物で、終始落ち着いており、手荒なことを好むような雰囲気を感じたこともなかった。いつぞやの山里での騒動時、槐は蜘蛛の姿をとった山神をいともたやすく制していたから、弱いわけがないとは思っているが。
「はい。それに、凜々しくて美しい方でしたよ。あれでは、お母様が好きになってしまっても仕方が無いと思いました」
夜光は何かを思い出しているのか、くすくすと笑っている。すっかり肩の力が抜けているようで、葵は安心した。
「そうか。それは、俺も見てみたかったな。おまえの母君という人も一緒に」
「今度ゆっくり、お話してさしあげます。私も葵に、もっと聞いてほしいです」
そう言う夜光は、発熱のせいではなく頬がいくらか紅潮して、いつになく幸せそうに見えた。よほどその、夢で垣間見たという過去の情景、両親のありし日の姿が印象的で、それを知ることができて嬉しいのだろう。
話しているうちに、すっかり夜光の様子は落ち着いていた。夜光もそれを自覚しているのか、葵を見上げて少し気恥ずかしげに言った。
「ありがとうございます、葵。……おかげで落ち着きました」
「それなら良かった。身体の具合はどうだ?」
「熱があるようなのは分かります。力を何かに吸い取られるようで、脱力がひどくて、手足にうまく力が入りません……でも、意外にそれほど不快ではないんです」
夜光は自分の胸元に、確かめるように手を当てた。
「母は過去に、私と同じ症状が出たとき、ひどく怯えて恐れていましたが。私は、半分は妖だからかもしれませんね。不思議なほど、怖ろしさも感じません」
「そうは言っても、良い状態なわけではないだろう? 俺も、できればおまえの姿が元に戻ってほしい」
鱗の浮いた夜光の頬に、葵は指先をふれさせた。手足はおろか、その細い首筋から頬にまで浸蝕している黒い鱗は、それ自体は美しいほどではある。だが人の素肌にそれが浮き出している様子は、明らかに奇異だった。それにこの鱗が浮いてきたとき、夜光はひどく苦しんでいたのだ。今の状態からしても、とても良い影響があるとは思えない。
夜光自身が今の状態にさほど忌避感を持っていないことはまだ良かったし、夜光がどんな姿をしていようと構わない、とは思う。だがそれは、夜光自身にとって本当に望ましい状態であれば、という大前提があった。
葵が、夜光の姿そのものに嫌悪や拒否感を持っているわけではない、ということが伝わったのだろう。夜光は微笑み、自分にふれる葵の手にふれ、そこに頬を寄せて眼を閉じた。
「私も、さすがにこのままで良いとは思いません。何より、これは蛇神の封印があやうくなっている兆候でもあります。あれは存在しているだけで一切を腐敗させ、周囲を死の大地に変えてしまいます。それだけではなく、生命そのものへの激しい怒りや憎しみに囚われている。ほうっておくことはできません。……葵、私を助けて下さいますか?」
「勿論。それに、そんな状態が続いているのであれば、その蛇神とやらもさぞや苦しんでいることだろう。なんとかしてやれたらいいな」
葵の言葉に、夜光が眼をぱちくりさせた。それから、なぜだか少し切なそうに頬を崩した。
「そうかもしれません。……行きましょう、葵。あまり時間はないと思います」
少しよろめきながら、夜光は立ち上がる。葵もそれに手を貸しながら立ち上がった。
「蛇神に結びつく何か」を探すといわれても、葵には漠然としすぎている上に、特に幽世のものが視えやすいというわけでもない。見えないものが視える夜光に、結局頼らざるを得なかった。
「あちらのほう……おそらく構造的に、本堂のあたりだと思います」
夜光はふらつきながらも、声音や表情は比較的しっかりしている。深夜の廃寺まがいの中を歩いて行くのは、あまり気味の良いことではなかったが、夜光が少しも怯えていないのは心強かった。
明かりは一切無いにも関わらず、夜目が利いて、あたりの様子がしっかり見える。これは他ならぬ槐から「命の珠」なるものを譲り受けて以降、只人である葵の身に生じた変化のひとつだった。
寺はそれほど大きくもない。いたるところの土壁が崩れかけ、そこらじゅう埃や蜘蛛の巣だらけの中を歩き、二人はじきに本堂らしき場所に辿り着いた。
本堂も部分的に天井が落ちており、そこから青ざめた月明かりが入り込んでいた。どうやらここは、脇から本堂に入る通用口であるらしい。その出入り口から視線を一巡させた夜光は、ぴたりと一点でそれを止めた。迷い無く指を差す。
「あそこの、須弥壇の上です」
夜光が示した先にある須弥壇は、古びて塗装も剥げてはいたが、手入れされているように埃は貯まっていなかった。その上に、粗末な木彫りの観音像が置かれている。掘りが荒い上に年季が入っているようで、そのようだ、という程度にしか造型がはっきりしない。大人が手の指を伸ばした程度の、さして大きくはないものだった。
「これか? とくに何も変わったところは……」
ないようだが、と手を伸ばしつつ続けようとしたところで、しゃがれたような強い声に制止された。
「それに触るでない」
振り返ると、葵たちが入ってきた方向とは逆にある入り口に、僧衣の老爺が立っていた。手燭を持ち、差し込む月明かりが斜めに横切る中を、暗闇の向こうから、ぬっと現われる。その様相が、左の半面を大きく抉る古傷の陰影も手伝い、何かただならぬ鬼気を帯びているように見えて、葵はいささかどきりとした。
「明慶殿。これは、勝手をして申し訳ありません」
ここの主に断りもなく、本尊らしきものに手を出そうとしていたことは確かなので、葵はひとまず詫びようとした。
明慶はそれに見向きもせず、足音荒く近付いてくる。二人を押しのけるようにして、小指と薬指の欠けた左手で、須弥壇に置かれた観音像を取り上げた。
観音像を懐にしまいながら、明慶は数歩後ろに下がり、険しく二人を見た。その眼が細められ、不穏な光を帯びながら、夜光の上にひたりと据えられた。
「……ふん。その様相、やはりか。こんな偶然があるわけがないとは思っていた。おまえはあの、白い鬼の子だな?」
「え?」
明慶が突然投げた言葉に驚き、葵は夜光を見返った。葵の腕につかまったまま、夜光は打たれたように眼を見開き、そこにいる明慶を凝視していた。大きく息を飲む気配がする。
夜光は信じられないように明慶を見つめたまま、やがて震える声で言った。
「おまえ、その傷の痕……おまえは、まさか……颯介か……?」」
その問いを受けて、そこにいる明慶は、皺深い口許だけを歪ませるようにして薄く笑った。

