颯介。その名を、夜光が語ってくれた昔語りの中から、葵は思い出す。確か神島の地下に入り込み、そこにあった呪物に粗相をして、蛇神の封印を歪める原因となった人物の名だ。
正直を言えば、葵には今このときまで、夜光の見ていた夢というのが「過去に起きた出来事」であることの実感がなかった。だがその夢の中の出来事と、今目の前に実際に居る颯介──明慶と名乗っていた僧衣の老爺が重なり、にわかに現実味を帯びてくる。
「ほう。私は名乗った覚えはないが、おまえはなぜかそれを知っている。何故とは問うまいよ。やはり化け物の子よな。薄気味の悪い」
明慶は薄い笑みを貼り付かせたまま言う。否定しないということは、やはりそうなのかと、葵は息を飲んだ。
夜光は衝撃が余程強かったのか、震えて葵にしがみつき、今にも倒れそうな顔色になっていた。葵はそれを支えながら、明慶に問うた。
「……どういうことです?」
いったいこれはどういう因果なのか。昔語りの中に出て来た人物が、今まったく別の名を持って、二人の前に立っている。しかもその様子からして、とても親しみを感じられるようなものではなかった。
「どういうことだ、だと。そんなものは俺が問いたい」
声音からがらりと変わるように、明慶は吐き捨てた。爛々とした眼が夜光を睨み付ける。そこに滲む、沈殿した憎悪がどろりと煮詰まったような色に、葵は背筋がぞっとした。
「もう四十年以上も昔の話だ。あれはもう終わった話だぞ。それが何故今頃、俺の前に現われる? しかも、俺と違ってさして老いているようにも見えん。おまえは本当にそこにいるのか? 過去から蘇った亡霊ではないのか?」
「明慶殿。あなたは夜光をご存知なのですか?」
夜光を背後に庇うようにしながら、葵は強引に問いを重ねた。明慶の眼光が常軌を逸している。その意識を少しでも夜光から逸らさなければ、危険であるように思った。
「ご存知か、だと。ああ、嫌というほど知っているさ。そいつが生まれたときから知っている」
夜光を見る明慶の双眸が、夜の中でぎらぎらと光っていた。
「その髪と眼の色。忘れるわけが無い。忘れるものか。あの鬼と同じ色だ。おまえを山で見かけたときは心底ぞっとしたわ。……何故今頃現われた? さては、俺に復讐でもするためか」
「明慶殿、落ち着いて下さい。俺達はただ、偶々ここを通っただけです。ここに貴方が居ることも、当然何も知らずにここに来ました。復讐だなんて、そんなわけがないでしょう」
明慶は葵のことも睨み付けた。
「貴様も其奴と同類か。まあ、さもあらん。そんな色の髪を持つものが、人間であるわけがあるまいなあ」
──駄目だ。葵はあえてそこで一旦沈黙した。
感情の昂ぶりを物語るように、明慶の瞼はぴくぴくとひきつり、唇や手足が細かく震えている。ここで葵が強く出ても、多少なりとも落ち着かせるどころか、逆効果になるだけだ。
「……明慶殿。よろしいですか」
明慶の視界から、あるいは逆に夜光の視界から明慶を遮るように立ちながら、葵は慎重に口を開いた。
「あなたが何を誤解されているのかは知らないが、俺達は本当に、偶々ここに来ただけです。貴方に何の危害を加える気もない。少し話をして下さいませんか」
言いながら、これは半分は嘘であることを、葵も内心では分かっていた。
夜光は明らかに、何かに導かれてこの山に来た。そこにどんな作用が働いていたのかは分からない。だが、夜光の身に蛇の鱗が浮いたことといい、蛇神というおそらくは事の核心である存在といい、まず間違い無い、と思うことがひとつある。
──夜光は、蛇神に喚ばれてここに来た。そしてそれを引き起こしたのは、今は明慶の懐中にある観音像……正しくはその中に秘められている、「蛇神に結びつく何か」。あるいは、封印されているという蛇神そのものだ。
「話す、だと。いったい何を話せという」
こちらを睨みつける明慶に、葵は殊更ゆっくりと言葉を重ねた。
「あなたは、生まれた頃から夜光をご存知だと言った。それは、いったいどこでの話です。それから、そこまで仰るほどのいったい何が、そこであったのですか?」
明慶が本当に颯介と同一人物であるのなら、それこそ夜光が生まれた里でのことだろう。明慶のただならぬ取り乱しようといい、いったいそこで過去に何があったのか、それを確かめたかった。
「なんだ。そんな話か」
葵をねめつけながら、面白くもなさそうに明慶は言った。
「何もたいした話でもない。この山を越えた先にある里よ。いや、もうその里は跡形も無いがな。とっくの昔に、何もかもが絶えて滅びたわ」
「この先の里?」
その話に、葵はかつて聞いた話を思い出す。夜光の生まれた里は、度重なる冷害や飢饉に襲われて、既に絶えてしまっているという。だとすると、やはり明慶が言うことは本当なのか。
「ああ。美しい里だった。かつてはな。だが、蛇神に呪われた里でもあった。それで里が滅びてからは、このあたりはすっかり蛇神、夜刀神に呪われた禁足地と言われるようになった。今では滅多なことでは誰も近付こうとせん」
「蛇神の……」
「それだけではないぞ。あの里の呪いはな、恐ろしいことに巫覡も守り人もぐるだったのだ。挙げ句、巫覡はおぞましい鬼なんぞとも通じていた。もう俺達が何をどう訴えかけようと無駄だった。何もかも、あいつらが勝手をしたせいで里は滅びたのよ」
「それは……それは違う。なぜそんなことを言う、颯介」
明慶の言葉に、葵以上に反応したのは、それまで真っ青になって震えていた夜光だった。葵の腕につかまったまま、不安定ながら、瞳を上げて明慶を見る。
「お母様は、呪いになんて関係していなかっただろう。秋人様も、悩みながら代々の役割を果たしていただけだ。それが平気だったとでも思うのか。あの里が滅びたのも、蛇神の呪いのせいなんかじゃない。ましてやお母様のせいでも、お父様のせいでもない」
「──やはりか。あれらを父と言い母と言う。馬脚を現したな、化け物の子が」
明慶が嫌悪もあらわに夜光を見た。ひどく嫌なことを耳にしたように顔をしかめながら。
「それに、なんとも知ったふうなことをぬかす。異なものよなあ。なぜおまえが、秋人の名を知っている?」
「見ていたからだ。あの里で、過去に起きたことを。おまえが何を言っても、私は本当のことを知っている。……おまえがやったことのせいで、秋人様は死んでしまったようなものだろうに。なのにどうして、そんなことが言えるんだ」
それを聞いた瞬間、明慶の表情が強張った。愕然としたように夜光を凝視し、ややあって、その口許が笑みの形を作る。それはひどく歪んだ表情に見えた。
「冗談ではないわ。あいつは、俺が知らないところで勝手に死んでいたというのに」」
「颯介……」
「秋人もご苦労なことだ。いや、ご苦労というなら、蘇った蛇神を討ち倒したとかいう、おまえの父親も同じだな。どれほど必死になったところで、どうせいずれ里は全滅したというのに。あやつらがやったことは、何もかもが無駄だった。秋人は犬死によ」
「無駄なものか!」
強く夜光が言い切った。その瞳に、強い憤りと哀しみが宿っていた。
「お父様があそこで蛇神を封じなかったら、今頃どうなっていたと思う。あの里ひとつの話ではないんだぞ。それに、秋人様は断じて犬死になどではない。たとえ里が滅びてしまっても、それまでにあったことは何ひとつ無駄なんかじゃない。おまえがそれを言うのか、颯介」
「その名で俺を呼ぶな!!」
明慶が凄まじい眼で夜光を睨み付けた。と思うと、妙に箍の緩んだような、口許だけの嫌な笑い方をした。
「今の俺は明慶だ。もっとも、周りが勝手にそう呼ぶようになっただけだが」
「……里を棄てたのか、おまえは。里長の子でありながら」
「人聞きの悪い。もうどうにもならんと判断して見切りをつけただけだ。ここまで逃げてきて、ちょうど住職が飢えて死んでいるのを見付けた。こんな襤褸寺、どうせ誰も使わんのだから、かわりに俺が使ってやっている。あった僧衣を着ていたら、勝手にあたりの連中が俺を明慶と呼ぶようになった。それだけだ」
明慶はゆらりと笑う。その眼が夜光を捉えた。ぞっとするような暗く濁った色が、そこには熾火のように揺れていた。
「秋人に裏切られて、小夜香とあの鬼に里をいいようにされて、俺は何もかもを喪った。その、おぞましいあいつらから生まれたおまえが、なぜ今さらここに現われる? やはりあのとき、おまえを殺しておくべきだった」
呪詛を吐くような明慶の言葉を聞きながら、葵は思い出していた。かつて終の涯の長から聞かされた、夜光の生い立ちにまつわる話を。
──夜光はかつて、人間の里で人と妖との間に生まれた。
生まれたときは祝福されていたのだという。夜光の両親、槐と小夜香は、異なる種族の血を引いて生まれた我が子のことを心から喜び、愛し、慈しんだ。
しかし、大切に愛されながら育まれていた夜光の上に暗雲が訪れたのは、生まれてしばらく経った後。槐が故郷である夜叉の国に呼び戻され、一族の騒乱に巻き込まれて里に戻れなくなった。そのうちに、小夜香が流行病で世を去ってしまった。
──たった一人残された半妖の幼子は、それからどうなったのか。
「答えろ。……お母様が亡くなった後、私を幽閉したのはおまえか?」
はっと、葵は夜光を見返った。
葵の腕にしがみつくようにしながら、押し殺した声でそう言った夜光は、明慶を食い入るように見つめていた。
まさか、と思いながら、葵も明慶を見る。明慶は佇んだまま何も言わなかった。
夜光がそこに、震えながら、さらにたたみかけた。
「「お母様が亡くなった後、私は冷たい土蔵に幽閉された。誰が仕向けたのかまでは分からないよ。誰も教えてはくれなかったし、私も幼かったからね」」
その声が、次第に低く、錆びて軋むような声音に変わってゆく。
「……でも、あの頃に受けた仕打ちは覚えている。恐くて、寒くて、……ひとりで、ずっと身体中が痛くて、苦しくて。毎日、恐ろしくひもじかったよ。ずっと、ずっと、自分がなぜ生きているのか分からなかった」
「夜光」
葵は咄嗟に、夜光を抱きすくめた。その葵の腕を押しのけるようにしながら、夜光は明慶に叫んだ。喉が裂けるかと思うような、悲痛な声だった。
「おまえが! おまえがやったのか、颯介! おまえが私を幽閉するように仕向けたのか!?」
「──そうだ。当たり前だろう。化け物の子なんぞを野放しにしておけるか」
夜光の激しさとは裏腹に、明慶は冷ややかなほどあっさり答えた。その言葉に、なんとか夜光を抱き締めて押さえながら、葵も愕然としていた。
「なんだと……?」
「俺だけではない。里の皆が思っていたことよ。あの鬼の子が生まれてから、どうにも悪いことばかりが起きる、とな。そんなものをこれ以上放っておいたら、もっと悪いことが起こるに決まっている。皆恐ろしかったんだ。放っておけるわけがないだろう?」
明慶は眉根を寄せ、大袈裟なほど身震いをしながら言った。
衝撃のあまり、葵は夜光を抱き締めたまま、言葉が継げなかった。
──それでは。そうであれば、この明慶という男は、幼い夜光を見舞った許し難い悲劇の発端。いわば、夜光の直接の仇ではないか。
「貴様……」
呻いた喉がわなないた。幼い夜光がどれほどの地獄を見たのか、この男は本当に分かっているのか。葵はかつて終の涯の長に、時を遡るようにしてそれを見せられた。あの出来事が、あの時間が、どれほど幼い夜光の身体と心を傷つけ、魂にまで及ぶ癒えない傷を負わせたのか。そんな記憶さえなければ、夜光はたとえ両親を失ったとしても、きっともっと優しく、穏やかに生きることができていたはずなのだ。
様々なことが胸中を吹き荒れ、葵は強く噛み締めすぎた歯茎から血の味が滲むのを感じた。これほど誰かを赦せず、憎いと思ったことは、生まれて初めてだった。
「──亜矢と真麻は」
あまりのことに夜光を抱き締めたまま動けずにいると、その腕の中から、夜光が低く呟くように訊ねる声が聞こえた。
「あのふたりは、どうしたんだ。お母様は、あの二人に私を託して亡くなった。病で、どうしようもなくて……そのとき、一番信頼していたあの二人に私を託したんだ。亜矢も真麻も泣いて……安心して下さいと、お母様に約束してくれた。あの二人が、私の幽閉を善しとするわけがない」」
「ああ。あのふたりか。確かにな」
明慶はしばし考える素振りを見せ、その後、いともたやすく笑った。
「おまえを渡せと迫ったが。頑として頷かないものだからな。邪魔だから、殺して川に流したよ」
あっさりと告げられた言葉に、夜光が絶句した。
「……なんてことを」
葵もまた、呻いた。夜光を抱き締める腕が震える。その二人のことを葵は知らないが、そのときどれほど恐ろしく無念だったことだろうと思う。
誰かを殺したいと思ったことは、これまでに無い。だが葵は、このとき初めてそれを思った。いや、むしろもっと明確に、ひとつのことを確信した。
──この男を、これ以上生かしておいてはいけない。
それは葵の勝手な感情には違いなかった。この男にも、きっとこの男なりの理由が、物思いがある。
だがそれがあれば、これほど惨いことの数々が赦されるのか。否だ。己のことしか見えず、己の犯した罪を直視せず、一切から逃げ出して眼と耳を塞いで。だが、それで無かったことになど決してならないのだ。どれほど時を経ても、償えない過去はそこに在り続け、取り返しのつかない犯した罪は消えない。
しかし、葵が理性を手放しそうになるよりも僅かに早く。目の前の明慶の様子に異変が起きた。
「……うん?」
何かに気が付いたように、明慶が懐を探る。そこに引っ張り出されたものに、葵も眼を瞠った。
「うわっ」
思わずのように明慶が声をあげ、持っていた手燭を取り落とした。左手に取り出されたそれは、あの木彫りの観音像だった。しかしそれは先程までとは違い、赤黒い奇妙な光──炎のようなものに包まれていた。
明慶が咄嗟のように、それを手放す動作を見せる。だがその掌に貼り付いたまま、観音像は落ちなかった。明慶はますます焦ったように、上ずった声をあげながら手を振り回す。
「くそっ、なんだこれは。またか。今まで何も無かったろうに。なぜまた急に……くそ、離れろ! 離れろおおおぉっ!」
「また……?」
その取り乱した様相に、葵は呟く。だが突然の異変を訝しむ間もなく、夜光を抱く腕に鋭い痛みを感じた。そこでやっと、葵は腕の中の夜光の様子に気が付いた。
夜光は何かに堪えるように顔を伏せ、つかまった葵の腕に爪を立てている。その指にぎりぎりと力が加わり、衣を突き破って血を滲ませていた。その肩が震えて、呼吸が荒くなっている。その手の甲や首筋に覗く黒い鱗が、まるで生き物のように蠢き、夜光の白い肌をさらに浸蝕してゆくのが見えた。
「夜光……!」
思わず葵がその名を呼んだとき、夜光が顔を上げた。明慶に向けられたその左の半面全体が、真っ黒い鱗に覆われていた。
その左の眼を見て、葵は息を飲む。本来美しい紫をしているはずの夜光の左の瞳は、どす黒い血の色に変じ、その瞳孔が蛇のように縦に長くなっていた。

