「!────」
夜光が身じろぎし、ものすごい力で葵を振り解いて突き飛ばした。それと共に、ゆらめくように立ったその身に、鬼火のように赤黒い炎が灯り出す。その炎の色は、あの観音像を包む炎と同じ色をしていた。
「うっ……」
突き飛ばされた拍子に、葵はそこにあった柱に頭を強く打ち付けられていた。夜光のただならぬ様子が見えていたが、頭がくらくらして手足が痺れ、立ち上がることが出来なかった。
動けない葵に一瞥をくれるでもなく、夜光は真っ直ぐに明慶を見つめている。その視線の先で、明慶の手にしていた観音像が、赤黒い炎に包まれて完全に燃え上がった。
その炎の中に、観音像とは違う、指の先程の小さな何かがあった。だがそれを葵が正確に目視するより先に、赤黒い炎はますます勢いを増した。
「な、な、なっ……うわ、やめろ。やめろっ……消えろぉ! ッがああああ!!」
勢いを増して大きくなってゆく赤黒い炎は、そのまま動転して叫ぶ明慶の身を、じわじわと飲み込んでゆく。
その様をじっと見つめている夜光を包む、同じ色をした炎が、ゆらりと陽炎のように大きく揺らめいた。そこに顕われたものの姿に、葵は身動きできない中で、身を竦ませるようにして強張った。
「……蛇……?」
赤黒い炎は、ゆらゆらと揺れながら、夜光の身に絡みついて首をもたげる。それは確かに蛇の姿のように見えた。夜光の胴よりも太さがあるそれは、まるで枝に巻き付くように、夜光の身に絡んでいる。
そのはっきりとした実体を持たない揺らめく姿に、葵は眼を眇めた。何か、普通の蛇とは違う……まるで胴が途中で分かたれ、首が二つあるように見える。だがその片方の首は、断ち切られたように途中で喪われていた。
立て続けの思わぬ事態に、思わず夜光の姿を凝視していた葵は、明慶の上げる凄まじい悲鳴に我に返った。
今や明慶の姿は、すべてが赤黒い炎に呑まれていた。だがその身に纏う僧衣は、そこまで激しく燃え上がる様子がない。むしろぼろぼろと、まるで腐食されていくように、ゆっくりと崩れていっている。
それは明慶自身の身にも生じていた。赤黒い炎に包まれたその生身が、じわじわと、溶け崩れながら灼かれてゆく。それは恐ろしい光景だった。明慶は声にならないような悲鳴を上げながら、よろよろと数歩を歩く。だが少しいったところで転倒し、そこで転げてのたうちまわった。しかし、炎の勢いは少しも衰えない。
あの赤黒い炎が、この世の炎とはまったく異なるものであることを、葵もそのときには理解していた。炎はゆっくりと、明慶の身体を灼きながら溶かしてゆく。だが主要な臓器は身体の奥にあるせいか、なかなか致命的な損傷に到らず、かといって凄まじい苦痛のために意識を失うことも出来ずにいるようだった。
まさしく地獄の炎に灼かれているようなその様子に、さすがに葵は口許を覆った。──憎いと、生かしてはおけないとは思ったが、その様子はあまりにも惨かった。
やがて全身のいたるところから、焼け爛れた骨や内臓すら露出し、それでもまだ死にきれずにいる明慶のもとへ、夜光の身からするりと陽炎のような蛇が首を伸ばした。そこにいる明慶に近付いてゆくと、蛇は大きく顎を開いて、その身体を噛み砕き始めた。上がった悲鳴は弱々しくはあったが、聞くに堪えないおぞましさだった。
さすがに葵も、蛇が明慶の身を砕いてゆくその光景から眼をそむけた。佇む夜光だけが、微動だにせずに、そこで行なわれている束の間に具現した地獄のような有り様を見つめ続けていた。
その恐ろしい声と物音が、やがて弱くなり、ようやく聞こえなくなった頃。葵はやっと眼を開いた。
明慶であったものは、黒く煤けたような何かの残骸に成り果てていた。その中から、小さく燃える何かがふわりと浮き上がる。赤黒く燃え続けているそれは、指先ほどの大きさの小さな何か──観音像が燃えた中に見えていたものだった。
夜光が鱗の浮いた右腕を差し伸べる。すると見えない糸に引かれたように、それはすうっと宙をすべり、夜光の掌におさまった。
夜光は掌に落ちたそれをみつめ、呟いた。
「……蛇神の骨。あの剣が颯介の手から離れたとき、欠片が割れて、それが掌に残ったのですね」
夜光が呟く言葉の意味が、葵にはすべて理解できたわけではなかったが、どうやら問題の「蛇神に結びつく何か」とやらはそれであることは察することができた。
「夜光、大丈夫か」
ようやく頭を振りながら、葵は立ち上がる。夜光の身には、まだ赤黒い炎が絡んでいる。明慶と違って何も燃えてはおらず、苦しんでいる様子もないが、あらためてその姿を正面から見て、葵は禍々しさに立ち竦んだ。
夜光の身は、今や八割方が黒い鱗に浸食されていた。着物の裾から見える手足の甲にも鱗が這い、その白い顔も、左の半分がすっかり鱗に覆われている。左の眼は、もはや人のそれではなかった。そちらだけ瞬きをしない見開かれた赤い眼に、縦に長い赤黒い瞳孔が、妖しく耀いていた。
「私に近付いてはなりません。葵」
葵が動くよりも早く、夜光が言った。そこに佇んだまま、いっそ淡々と。
「私にふれれば、蛇神の炎が葵にも移ります。蛇神は、今は私に仮宿りしている。随分と弱ってはいますが、まだまだ危険な存在です。まだ封印はかろうじで生きていますが、このままであれば、それもいずれ解けてしまう。蛇神が私に宿っているうちに、なんとかしなければいけません」
「なんとか、といっても……いったいどうすればいい?」
葵の言葉に応えるように、そのとき金色に輝くものが、宙を切って飛び込んできた。見えない何ものかが放ったか、あるいは自身の意思で飛んできたかの如く、それは葵の間近の床の上に、固く重い音を立てて落ちた。
「これは……」
床の上で、この場の状況にそぐわないほど見事な黄金の煌めきを放っていたのは、部屋に置いてあったはずの一振りの太刀だった。それは終の涯の長より授けられた、強い退魔の力を宿す宝刀。授けられてより、葵にしか抜けない不思議なまじないがかかっており、幽世のもの、とくに禍々しく邪なものたちに対して絶大な効力を発揮する宝物だった。
葵はその自ずから飛んできたかのような太刀と、夜光の姿を、かわるがわりに凝視した。
──斬れ、ということか。これで。
だがそれを考えた瞬間、全身を恐ろしく冷たい手が這うように、ぞっと怖気が走った。
確かにこの宝刀は、禍々しいものやこちらに危害を加えるものしか斬らない不思議な太刀だ。だが今の夜光の状態は、果たしてこれで斬っても良い状態なのだろうか。姿がここまで変わるほど蛇神に浸蝕されていて、そんな状態のところを斬りつけたら、夜光自身のことも斬ってしまうのではないのか?
その可能性を考えただけで、全身を冷や汗が伝い、手足が震えた。
──出来ない。駄目だ。
万が一、それで夜光が死んでしまったらどうする。そんなことを考えただけで気が狂いそうだ。絶対に出来ない。
「無理だ……」
力なく、葵は呟いた。無力な子どものように、何度も首を振る。思わず、床に落ちている太刀から、足が遠ざかった。
「葵」
それを見て、恐いほど静かに、夜光が口を開いた。
「私のこの状態は、私自身が蛇神を喚んで、招き入れてしまったからです。あの男が、私にはどうしても赦せなかった。蛇神の力を借りてでも、かなう限りの惨い方法で殺してやらなければ気が済まなかった。あれでも、本当はまだ足りない」
「夜光……」
「その報いが、この姿です。……でも、幸いなことに、まだ完全に私は蛇神と同化したわけではない。御魂剣と比べて、この欠片ひとつでは、さすがに依代としてそこまでの影響を及ぼすことは出来ないようです」
指先まで鱗に覆われている自身の右手を、夜光は見下ろした。そこに乗っているのは、小さな蛇神の骨の欠片だった。
「葵。斬って下さい、私を。私に仮宿りしている今の状態であれば、その太刀で完全に蛇神を滅ぼすことが出来ます」
骨の欠片を握り、夜光は真っ直ぐに葵を見た。その紫色の右の瞳は、何があっても受け入れるというように静かだった。
葵は尚も首を振る。心臓がひどく嫌な音を立てて動悸していた。蛇神とやらが恐ろしい存在であることは分かる。蘇らせてはならないことも分かる。だがそれでも、夜光をこの手で斬ることなど、どうあっても出来るわけが無かった。
「出来ない。無理だ……」
呻くように言った葵に、夜光は重ねて言った。
「私なら大丈夫です。その太刀は、邪悪なものしか斬りません」
「無理だ」
葵はさらに首を振り、強く言った。──もしもそれで夜光が死んでしまったらどうする。大丈夫だなどと、いったい誰が、何がそれを保障するのか。
斬ってしまった後を想像するだけでも吐き気がして、髪を掻きむしるようにして頭を抱えた。悪すぎる夢のような現実に、それこそ正気が振り切れそうだった。
「葵……」
夜光が哀しげに呟いたとき、急に何かに背を突かれたように、その身が揺れた。
「あっ……」
夜光が眼を見開き、自分を抱きかかえる。その身を包む赤黒い炎が大きくなり、陽炎のような蛇の姿が顕われた。それは夜光に絡みつくように鎌首をもたげていた。
「夜光!」
思わず葵はそちらに踏み出しかける。すんでのところで、炎にふれれば葵にも燃え移ると言われたことを思い出した。
夜光はひどく苦しげな呼吸を繰り返し、だが声をあげることを懸命に堪えているようだった。その表情が苦痛に歪み、その僅かに残った素肌に脂汗が浮かぶ。己を抱きかかえる手が、震えながら衣をきつく握り込んだ。
「……葵、お願いです。私がこうしていられるのも、そう長くはありません。私が、蛇神を抑えていられる間に、早く。……どうか」
苦しそうな呼吸の下から、夜光が今にも途切れそうな声で訴えかけた。
「夜光……」
夜光がふっと眼を上げる。半ば黒い鱗に覆われたその顔が、葵を見て、儚いほどに淡く微笑んだ。
「信じて」
「────」
その微笑みに突き動かされるように。ふらり、と葵は転がった太刀に歩み寄り、拾い上げた。
不規則な呼吸を繰り返しながら、太刀の鯉口を切る。すらりと恐ろしいほど簡単に太刀は鞘から抜けた。白銀の刀身は、破れた天井から差し込む月光を受けて、震えるほど美しく輝いていた。
「夜光……」
信じて、と言った、そのときの夜光の微笑みは、葵のよく知る「夜光」そのものだった。葵を動かした根拠といえば、それだけだった。
赤黒い炎を纏ったまま、夜光はこちらを見つめている。抜き身の太刀を手に、それを振り返った。今この期に及んで、自分がいったい何をしようとしているのか、頭がふわふわと混乱しているようで、悪夢の中のように現実感が無かった。
「……っ!」
数度大きく呼吸をして、ぎりッと奥歯を噛み合わせた。太刀の刀身を見下ろしながら、その柄を強く握る。
──呆けるな。今のこれは現実だ。自分がこれからしようとしていることから眼を背けるな。もしこれで夜光が死ぬようなことがあっても、そうしようと自分が決めた、その全ての責任を負うために。一切から眼を背けるな。
葵は抜き身の太刀を手に、夜光に歩み寄る。震える腕を叱りつけて、両手でしっかり太刀の柄を握った。
夜光は眼を逸らすことなく葵を見つめている。その薄い肩は乱れた呼吸に揺れ、表情は苦しげだったが、その眼差しは柔らかかった。何一つ恐れていない、ただ葵を信じていると伝わってくる瞳だった。
「──斬る」
呟くように葵は言った。間合いを確かめながら、夜光に向かって正眼に太刀を構える。切っ先を持ち上げ、ひたりと夜光を見据えた。斬るその瞬間の、夜光の姿を眼に焼き付けるために。
──もしもこれで夜光が死ぬようなことがあれば、必ず、一人にはさせない。
ひとつ深く息を吸い、溜め、斬るというただそれだけにすべてを磨ぎ澄ませて、葵は夜光の身を袈裟懸けに斬り降ろした。

