禍夢 ─ 残夢 (四) ─

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 斬った、と思ったときに手応えがあった。それは人の生身を斬ったとは思えないような、かつて味わったことのない奇妙に柔らかいような感覚だった。
 だがそんなことは構わず、斬り降ろしたそのまま太刀を投げ出し、葵は両腕で夜光を引き寄せて抱き締めた。
 斬った瞬間に、夜光の身を包んでいた赤黒い炎が、膨れ上がるように散じて飛び散っていた。あたりに散った炎が、最期にもがくように、宙に幾筋か蛇のように渦を巻く。
 きつく眼を瞑って夜光を抱きすくめる葵の耳に、名状しがたいような叫び声が聞こえた。それは人の喉が上げるものではなく、恐ろしい獣が上げる断末魔の咆哮に聞こえた。
 それが最期にのたうちまわり、嵐が吹き荒れるような気配と咆哮がひととおり収まった頃。葵は力が抜けて、夜光と一緒に床に膝をついていた。
 恐る恐る、眼を開く。そこにいた夜光の身体からは、少しの血も流れていなかった。素肌を覆っていた黒い鱗も、すべて嘘のように消えている。白い瞼が瞬いて、宝玉のような紫の双眸が現われた。
「……葵」
 だいぶ気怠げではあるが、その美しい両の瞳が葵を見上げた。葵は震えながら、肚の底からの、深く長い息を吐いた。ただ、夜光のあたたかい身体を両腕に抱き締める。完全に脱力し、立てていた膝が崩れて、夜光を抱き締めたまま、一緒に床の上にへたり込んでいた。
「……もう二度とごめんだ、こんなのは」
 情けないほど弱々しい声で言うと、腕の中で、夜光がふふっと小さく笑うのが聞こえた。
「私は、おまえさまに斬られるのなら……悪く無い、と思いました」
「よしてくれ。もう本当にごめんだ」
 葵は心底から気力も力も抜けて、ただ夜光を何度も抱き締めた。その髪を繰り返し撫でて、無事を確かめる。夜光も力が入らないのか、なすがままに葵に凭れながら、また笑った。
「すみません。……ただ、私の中に、あの蛇の心がなだれこんできていて」
「うん?」
「あの蛇が、少し哀れで……このまま蛇になってしまっても良い、とも、少し思いました。でもそうなってしまったら、きっとおまえさまは哀しむし……何より、おまえさまの側に居られなくなってしまうのは嫌だと……思いました」
 ぽつり、ぽつり、と呟くように語る夜光の言葉が途切れると、葵はもう何度目か、その身体を両腕に抱き締めた。
「……そうか。蛇にならずにいてくれて良かった。もしそんなことになっていたら、俺はどうなっていたか分からない」
「お互いに、あまり考えたくありませんね」
 夜光が答えたところに、鳥の囀りが聞こえてきた。気が付けば、あたりがうっすらと明るい。ところどころ破けた壁や天井から見える外の景色が、夜明けの訪れを示すように、無彩色の輪郭を見せ始めていた。
 その薄明かりの中で、夜光が握り絞めていた右手を開いた。そこの中には、燃え尽きた後の灰のようなものがあった。風もないのに、それは線香の煙のように宙に靡いて、すぐに見えなくなってしまった。
「……あの男は、その蛇神の骨の欠片を、なぜ捨てずに持っていたんだろう……」
 ぼんやりとそれを眺めながら、葵は呟いた。過去にあれほどの恐ろしい出来事を引き起こす切っ掛けになったものの欠片。普通に考えれば、恐怖の対象になりそうなものだ。それなのに、何故明慶は、観音像に秘めるような真似をしてまで、骨を持ち続けていたのだろう。
「さあ。……蛇神の力が宿っていると分かっていたから、いざというときの切り札のつもりで持っていたのかもしれませんね。人に扱いきれるわけもない力を。……愚かなこと」
 夜光が心底厭わしげな、吐き捨てるような言い方をした。
 それから、燃え尽きた骨の欠片が煙のように消えてしまった、その掌をじっと見下ろす。やがて呟くように、夜光は言った。
「あの蛇は、遠い昔、生け贄に捧げられたものだったようです」
「生け贄?」
「双頭の蛇など珍しかったのでしょう。神への捧げものとされ、それは惨い殺され方をしました。……同じように生け贄にされたものたちが、次々に投げ込まれてくる穴の底で、あの蛇は次第に死穢を纏うものとして肥大化していった。恨みと哀しみと……命あるものへのどうしようもない怒りと憎しみ。それらに衝き動かされるまま、いつしかまわりのものたちの苦痛や無念を吸収して、恐ろしい祟り神になっていったんです」
 その話を聞いて、葵は怖ろしさやおぞましさより、胸を刺すような哀れさを覚えた。その蛇が生まれてから辿った、僅かな生ある時間を想像するだけでも、いたましくてつらい気持ちになる。祟り神になった後、その蛇が封印されるほどの何を為したのか、それを実際には見聞きしていなからこそかもしれないが。
「それは……随分と憐れな話だな」
「はい。とても」
 夜光はぽつりと最後にそれだけ言った。その眼がふと、二人が座り込んでいる脇を辿った。
「あ……」
「──うん?」
 二人のすぐ近くの床に、いつからそこにいたのか、一匹の白い小さな蛇が這っていた。その胴は途中で二股に分かれている。小さな、生まれて間も無いような双頭の蛇だった。
 その姿に、葵はぎょっとする。今まさに話していた内容もあり、それが今回の顛末に無関係なものであるとは、とても思えなかった。
 しかし夜光は、少しも躊躇う様子もなく、その小さな蛇に白い掌を差し伸べた。
「おいで」
 子どもの掌にも乗るのではないか、という小さなその白蛇は、怯えもせずにするりと夜光の細い指に巻き付いた。夜光はその手を引き寄せ、双頭の蛇の顔を覗き込むようにする。
「可愛らしい。綺麗な赤い眼をしていますね」
「だ……大丈夫なのか……?」
 葵はやや腰がひけたまま、それを見守る。夜光はどうということもないように笑った。
「大丈夫ですよ。この子には、もう何の力もありません。あの太刀が、穢れも恨みも、何もかもを斬り祓って、そのあとに最後に残ったものがこの子であるようですね」
 小さな蛇は、そう言う夜光の白い頬を、ちろちろと赤い小さな舌で舐めた。夜光はそれに、少しばかりくすぐったそうにした。
 次第にゆっくりと、あたりが白み始める。その淡い光の中で、夜光はしばらく何も言わず、指に絡んだ小さな白蛇を見つめていた。
「……以前、長様に言われたことがあります。私があの里で元気に育っていれば、あのあたりは豊作が続いて、飢饉を免れていただろうと」
 ふいに、夜光はそう話し始めた。よく分からない内容に、葵は首を傾げる。
「おまえが元気に育っていれば?」
「はい。血筋ゆえなのか、私にはそういう特性があるらしいのです。そもそも豊かな場所に居れば意味がないですし、ある程度定住して初めてそうなる程度のものらしいですが。……だから、もし両親が健在で、私があの里でずっと暮らしていたら。あの里は、今も豊かでいられたのかもしれません」
 夜光は小さな白い蛇を見つめながら、少し遠い目をしていた。その小さな蛇を通して、ここではない何処かを見ているように。
「そして、もしもそうなっていたら。私もあの里で、おそらく幸せになれていたのだと思います。……でもそれだと、おまえさまに出逢うこともなかった」
 そう言った夜光は、少し切なげな、複雑な表情をしていた。
「……うん。そうなるだろうな」
 葵もそれを否定せずに頷いた。
 夜光が両親に愛され、豊かに育つことができていたなら、それは夜光にとって間違いなく幸せなことだったろう。だがそれは同時に、夜光は終の涯に行くことが無く、葵とも出逢わないことを意味していた。
 夜光の幸せを誰より願いたいのに、夜光と出逢えなかった自分が想像できない。そんなことを考えるだけで、胸の奥が切なくなり、収拾のつかない様々な思いが巡る。
「難しいな……」
 いろいろと考え、結局葵は、気の利いたことは何も言えなかった。夜光はそんな葵を見て、柔らかく笑った。その紫の瞳は、哀しげではあったが、何かが洗われたようだった。
「ええ。……何が良かった、悪かったと後から言っても、詮も無いことですね。おまえさまに逢えないほうが良かったのか、と考えると、私はそれに答えられない。……でも、あの里で幸せに暮らす自分も、もしかしたらいたのかもしれない、と……そんなふうに思えるようになったことが、今は嬉しいんです」
 あまり慣れないように、自分自身と対話するように、少したどたどしく夜光は語る。夜光がこんなふうに、自分の思うことを言葉にするのは珍しいことだった。
 そして葵は、夜光が「人間としての自分」を肯定するようなことを言ったことに、少なからず驚いていた。
「夜光……」
 それが素直に顔に出ていたのだろう。夜光は葵を見ると、少し気恥ずかしそうにした。唇を尖らせるようにして言う。
「人間が嫌いなことは変わりませんよ。そんなに簡単な話ではないですから。……でも」
 夜光は自身の手の甲に遊んでいた小さな白い双頭の蛇を、そっと眼の高さまで持ち上げ、みつめた。
「おまえのおかげで、私は知るはずの無いお父様とお母様の姿を垣間見ることができた。礼を言うよ。ありがとう」
 小さな蛇は、夜光の言葉を理解しているのかいないのか、見上げるようにしながらちろちろと赤い舌をのぞかせている。夜光は微笑み、慈しむような瞳で囁きかけた。
「おまえがおまえであることは、おまえのせいではない。……永い間、ずっと本当に、つらい思いをしたね。おまえが良ければ、私と一緒においで。もうつらい思いはさせないから」
 夜光の言葉に応えるように。小さな双頭の蛇は、夜光の細い指にしゅるりと絡まり、赤い舌でちろちろと舐めた。それを見て、夜光は優しく瞳を細めた。
「そう。分かった。それじゃあ、一緒に行こう。──葵、構いませんよね?」
 そこで夜光は葵を振り返った。突然訊ねられた葵は、先程までのことを思い出して若干ひいてしまったが、すぐに肩の力を抜いて笑った。
「おまえが連れて行きたいなら、そうすれば良い。もうそれは、何の悪さもしないんだろう?」
「はい。成長すれば、またそれなりの力をつけていくとは思いますが。私と一緒にいれば、無闇なことをする子にはならないと思います」
「……念のために聞くが、またあの、さっきのような赤黒い蛇になったりはしないよな?」
 伺うように訊ねると、夜光はおかしそうに「なりませんよ」と答えた後、また人差し指の白蛇を目の高さに持ち上げた。
「この子がああなってしまったのは、つらく恐ろしい目に遭ったまま救われることが無かったからです。その記憶は、まだこの子の中に残ってはいますが……これから私たちと共にいれば、それも少しずつ癒されてゆくはずです」
 夜光は小さな白蛇に、嬉しそうに話しかけた。
「よかったね、おまえ。葵は、おまえが一緒でもいいそうだよ。おまえ、ええと……」
 そこで夜光は、しばし考えこむ。それから再び白蛇を見て首を傾げ、言った。
「──真白ましろ。それでどうだろうか。おまえの名前は」
 小さな白蛇は、葵には分からないが、何かしらの返答を夜光にしたらしい。夜光はまた嬉しそうに頷くと、葵を見返った。
「よかった。葵、真白で良いそうです。良い名前だと思いませんか」
「うん。良い名前だと思う」
 素直に葵は頷いた。優しくまろやかな、夜光が名付け親らしい名だった。そして、この生まれたてのように小さく初々しい白蛇には、ぴったりな名前だと思った。


 そうこうしているうちに、破れた壁や天井から差し込む光が、透明な明るさを増してきた。
 寝泊まりしていた部屋に戻ると、正直疲れてはいたが、どちらから言い出すでもなく、二人は荷物をまとめ始めた。鱗が消えたあとの夜光からは、いつの間にか熱がひいていたせいもある。
 何に追い立てられるわけでもないが、葵はもうあまり、この場所にいたくなかった。夜が明けてきたことで、少しずつ恐ろしい出来事の残滓は薄れつつあるが、あらためて思い出すと、ここで起きたことは、あまりに衝撃が大きかった。自分でさえこうなのだから、夜光はもっとそうだろう。
 夜光も否とは言わず、気怠そうではあったが、手早く出立の準備を整えている。その肩に真白と名付けたあの小さな白蛇が乗っており、夜光はそれに時々話しかけていた。
 夜光と白蛇が仲睦まじくしている空気が、奇妙かもしれないが、葵にはとりわけ純粋で優しいものに感じられた。いろいろあったし、あの白い蛇にも色々な曰くはあるが、──夜光があれほど嬉しそうにしているのだから、それで良いか、という気持ちになっていた。
 やがて身支度を整えた二人は、まだ朝の早いうちに、今にも崩れそうな古い寺を後にした。
 その頃にはもう、あたりには賑やかな蝉の声が響いていた。ひび割れて苔むした石畳を降りてゆきながら、途中で夜光が足を止め、後ろを振り返った。鬱蒼とした木々の下に埋もれて見えなくなりそうな廃寺を、夜光はしばらく黙って見つめていた。
「……私は、憎しみでひとを殺めてしまいましたね」
 白い被衣の下で、ぽつりと夜光が呟いた。
 同じく潰れかけた寺を見やりながら、葵は言った。
「おまえがやらなければ、俺があの男を殺していた。おまえの方が早く動いたから、結果的に俺は手を下さなかっただけだ」
 自分が完全に殺意に呑まれたあの瞬間を思い出すと、相手の如何に拠らず、葵は鉛を呑んだように胸がずしりと重たくなった。善人じみた顔を装いながら、自分にもそうなる瞬間があるではないか、ということを突きつけられる思いがする。
 だが、それを悔いはしない。夜光への仕打ちは勿論、あの男の存在自体を赦してはおけないと、葵自身が強く思ったのだから。
 思えば、あの男も哀れではあったのかもしれない。元々は、ただの気の良い若者だったのだろう。少し軽率なところはあったかもしれないが、それもあのようなことが起こりさえしなければ、若気の至りで済む範囲のものだったに違いない。
 颯介と呼ぶなと言い、秋人に裏切られたのだと言い。夜光に「おまえのせいで秋人は死んだようなものだ」と言われたときに見せた反応が、あの男の本心の欠片であるような気がする。……何かがひとつ掛け違っていれば、きっと何もかもが違う未来もあり得たのだろう。だが現実には、そうはならなかった。
 仮にあの男が悔いている様子を見せていたならば、自分は多分、命までは取りはしなかったと思う。夜光がどれほどあの男の死を望んでも、止めていただろう。今さら悔いたところで、とは思っても、そこに情けが伺えるのであれば。そう思ってしまう自分は甘いのだろう、とも思う。
「おまえさまは何もしていません。あの男を殺めたのは私です」
 夜光はそう言って葵を見上げると、曖昧な笑い方をした。
「……少しも胸は痛んでいません。後悔もしていません。むしろ、おまえさまにつらいことをさせてしまったと、そちらのほうに余程心が痛んでいます。……すみません、葵。私のような者に連れ添わせてしまって」
「夜光。急に何を言う」
 葵は少し驚いて、夜光を見下ろす。夜光はそれから眼を逸らすように、足下の石段を見た。
「ときどき思うのです。私などにおまえさまを連れ添わせてしまって、本当に良いのかと。私の負っている業は、闇は、未だにとても深くて……今回のように、おまえさまをそこに引きずり込んでしまうこともあるのかもしれないと。それを思うと、少し恐いです。……おまえさまは、私とは違うから……」
「夜光」
 遮るように、葵は強く夜光の名を呼んだ。手にしていた荷物を下に置き、夜光の折れそうに薄い肩を、真正面からしっかりと両手でつかむ。
「忘れているようなら、何度でも言うぞ。俺もおまえも、互いに過去の肩代わりは出来ない。でも、今とこれからは別だ。俺はおまえと、おまえが背負うどんなことでも分かち合いたい。喜びでも哀しみでも。それができないなら、俺がおまえと一緒にいる意味は無い」
「葵……」
 葵を見上げた夜光が、泣き出しそうにも見える顔をする。それを見て、葵は頬をやわらげた。夜光の瞳から眼は逸らさないまま。
「おまえは俺に、いつでもそうやって寄り添ってくれているだろう? 俺はそれがとても嬉しいんだ。おまえがいなければ、俺はここまで歩いて来れていない。だから俺にも、同じようにさせてほしい」
 そこまで言って、葵は夜光の肩から手を離すと、にまりと笑った。
「それに、俺はそう簡単に引きずられたりしないから安心しろ。一緒に堕ちるのもやぶさかでない、と俺は思っているが、おまえはそれは嫌だろう?」
「それは……そうですが」
「うん。おまえがそう思っている限り、俺は大丈夫だ。むしろ信用してもらえないほうがめげそうになる。俺は、おまえが思う以上に、ひとりだと頼りないんだぞ」
「何をそんなことを、胸を張って言っているんですか」
 思わずのように、夜光が小さく吹き出した。葵は大真面目に言った。
「本当のことだからしょうがない。俺はそれくらい、もうひとりでは居られないんだ」
 両腕を伸ばして、葵は夜光を抱き締めた。さっきもう何度も抱き締めて、その感触を、体温を確かめたが、それでも先程の出来事を思い出すと、そうせずにはいられなかった。
「おまえが急に倒れて、ずっと眼を覚まさなかった間、俺がどれほど心配したと思う? ……俺がどんな想いで、おまえを斬ったと思う。俺を想ってくれるなら、俺もおまえが大切なんだと忘れないでくれ。おまえが居なくなったら、俺はそれこそ生きてはいかれない」
 夜光をこの手で斬ったあの瞬間を思い出すと、今でも手が震える。無事でいてくれたから良かったようなものの、あのとき葵は、夜光の命を本気で断つ覚悟で斬り付けた。おそらく自分は、とうぶん眠るたびにうなされることになるだろう。あの何よりも恐ろしい瞬間のことは、この先も、絶対に忘れられなかった。
「葵……」
 夜光は最初は少し戸惑っていたようだったが、やがて同じように、葵の背に腕を回して抱き締め返した。仕方なさそうに、くすりと笑う。
「おまえさまは本当に……変わりませんね。私が好きになった、おまえさまのままです」
 そう言って、夜光は葵の唇に、そっと柔らかく唇を重ねた。その頬に手を添えて、葵を真っ直ぐに見つめながら、囁くように言う。
「ありがとうございます。これからもずっと、私と共に居て下さい、葵。……そうでなければ、私も生きていられません」
「誓って。ずっと、互いの命が尽きるそのときまで、おまえと一緒だ」
 葵は笑い、もう一度強く夜光の身体を抱き締めた。それから荷物を担ぎ直し、二人並んで歩き出した。
 最後にもう一度だけ、夜光は見えなくなってゆく廃寺を振り返った。そのときにはもう、覆い被さるような緑の向こうに、その屋根もほとんど見えなくなっていた。
「夜光」
 先を行く葵に呼ばれて、夜光は「はい」と、返事をする。その肩の上に、しゅるりと小さな白い双頭の蛇が顕れた。
 夜光がそれに気が付くと、小さな蛇は、その頬に小さな二つの頭をすり寄せるようにした。夜光は指先で、それをそっと優しく撫でる。
「……そうだね、、真白。おまえのおかげで、長い暗い夢が、やっとひとつ終わった気がするよ。……今は、それで十分だ」
 夜光は踵を返すと、それからはもう二度と、あとを振り返らなかった。

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