終章 ─ 匂夢 ─

栞をはさむ

 ひらりひらりと、花の様な雪が降る。その中で、小夜香は随分長いこと、槐の胸元にしがみつくようにして泣いていた。
 待っていろ、とだけ言われて、何日も何日も、その言葉ひとつを信じて、ずっと槐の帰りを待ち続けていた。別れたときの槐の状態があまりにひどかったから、もしかしたらもうどこかで死んでしまっているのではないか、だから便りのひとつも無いのではないか、と不安に思いながら。毎日毎日、悪いことばかりを考えて、胸がすり潰されてしまいそうだった。
 そんな小夜香の様子に、槐はやや驚いた様子ではあったが、泣き止むまで何も言わずに待っていてくれた。白い狩衣の袖に小夜香をつつんで、雪が被らないようにしてくれながら。
「あれからどれくらい経った?」
 やっと小夜香が泣き止んだのを見計らって、槐が訊ねてきた。訊ねられて、逆に小夜香は驚いた。
「どのくらいって。知らないのか、槐?」
「うむ」
「……二年以上だ。あれからもう」
「ほう。思ったよりも経っていたんだな」
「いったい二年も何をしていたんだ、おまえは。ずっとずっと、毎日心配していたんだぞ、こっちは」
 あまりにも悪びれない槐に、つい恨みがましく上目にしてしまう。槐はけろりと答えた。
「寝ていた」
「寝っ…………」
 思わず食いつきかけたが、はたと小夜香はそこで冷静になった。あれから二年以上も音沙汰が無かったその間、ずっと眠っていたというのなら、それはあのときの傷を癒やすためでしかないだろう。それは、とても責めるようなことではなかった。
「そうか……本当にひどい有様だったからな」
「そうらしい。単純な傷だけでは無かったようでな。いったいどこで何をしてきたのかと、眼が覚めるなり小言を言われた」
「小言って、誰に?」
 この槐に小言を言うような強者がいるのかと、思わず小夜香が突っ込んでしまうと、槐はむしろ愉快そうに答えた。
「終の涯というところの長だ。困ったらあいつのところに転がり込めば、まあたいていのことはなんとかなる。文句を言いつつ癒やしてくれるのだから、やつも大概お人好しよ」
「おまえ、その言い種はどうかと思うぞ……そんな世話になっておきながら」
 相変わらずだなこいつは、と呆れつつ、小夜香はふと思い出した。
「そうか。その御仁が、以前おまえが話していた桃源郷の御仁か」
「おや。よく覚えていたな」
「覚えているに決まっているだろう。おまえが言ったことなんか、残らず全部しっかり覚えている」
 思わずにらみつけながら言うと、槐はおかしそうにくつくつ笑った。
「そういう台詞は、もう少ししおらしく言ったらどうかと思うぞ」
「悪かったな。おまえと話してると、どうしてもこうなるんだ」
 小夜香がそっぽを向いてすっかりむくれていると、ふと槐から視線を感じた。見上げると、槐が楽しそうに、小夜香を真っ直ぐに見下ろしていた。そのあけすけなほど素直な表情と、あらためて久し振りに見たその容貌の良さに、小夜香は一瞬で心拍数が跳ね上がった。
「おまえは相変わらずだな。だが、前よりも一段と美しくなった」
 何の飾り気もなく槐が言った。小夜香はおそろしい速度で、自分の顔が朱に染まってゆくのを感じた。雪が小降りになってきているせいもあるが、既に寒さも感じない。とても槐の顔を見ていられず、慌てて横を向いて言った。
「そっ……そうか。いや、まあ、うん。お、おまえもまあ、元気そうで良かった。安心したよ」
「ふむ。それだけか?」
「そ、それだけって。それ以外に何かあるのか」
 小夜香が真っ赤になったまま返事をしていると、何やら槐は思案する風情になった。しかしすぐに結論したようで、再び小夜香に呼びかけてきた。
「小夜香」
「な、なんだ」
「抱き締めさせてくれ」
 あまりに前触れのない言葉に、小夜香はぽかんとした。
「は?」
 槐は良い笑顔のまま、小夜香を真っ直ぐに見下ろしている。ややあって、小夜香は仰天した。まさかそんなことを言われるとは、ただの一欠片も思っていなかった。
「えっ……えええええっ!? お、おまえ、それはずるいだろう!? さっきからずるいだろう!!」
「駄目なのか?」
 真っ赤になって跳びのいた小夜香に、槐はしかし思いがけず真面目な様子で続けた。
「あの日、やむを得ずここから離れたときも、本当はおまえを抱き締めたかった。また会えたら、必ず抱き締めようと思っていた」
 その表情と声音の真摯さに、小夜香は言葉を失う。あのとき、そんなふうに槐が思っていただなんて。そんなことは、少しも考えたことが無かった。
 槐は訊ねたきり、手を出そうとはしてこない。小夜香が良いと言わなければ、本当に何もしないつもりのようだった。何もなければ息をするようにさわってくるくせに、こういうときはやけに律儀なのが調子が狂う。
「駄目か?」
 再び訊ねられて、小夜香は言葉に詰まる。それに返事をするには、とんでもなく勇気が要った。真っ赤になったまましばらく硬直し、ようやくのこと、小夜香は斜め横を向いたまま、ぼそりと返した。
「だ…………だ、だめじゃ、ない。許す」
 そう返した次の瞬間。小夜香は全身を包まれるように、槐の白い袖に抱き締められていた。
 この二年でさして身長が伸びたわけでもない小夜香は、相変わらずすっぽりと、槐の袖の中におさまってしまった。小夜香は緊張のあまり全身を硬直させていたが、槐の衣からふわりと薫る程度の良い匂いがして、それでおやと気が逸れた。
 そういえば二年前のいつだったかも、槐の衣から良い匂いがして、意外に妖も雅なものなのか、と思った覚えがある。そんなことを考えているうちに、だんだん緊張がほぐれてきた。余裕が出来てくると、それとともに。
 ──やっと。本当に、槐が戻って来てくれた。やっと、無事に帰ってきてくれた。
 その実感が、沁み渡るように、次第に湧き上がってきた。
 槐は小夜香をじっと抱き締めたまま動かない。まるで感触を確かめているようだった。仄かな良い香りと、ふんわりと包まれる感触と、あたたかさが心地良い。心臓は普段よりもずっと早く鼓動していたが、いやな感触ではなかった。
 そのうち小夜香もおずおずと手を持ち上げて、小夜香よりもずっと大きな槐の身体を、可能な限りに抱き締め返していた。
 それに気付いたのだろう、槐が少しだけ腕に力を込めた。それまでよりもしっかりと小夜香を抱き寄せ、片手で繰り返しその髪を撫でる。その感触が優しく気持ち良くて、小夜香は次第にほわんとしてきた。
「……心配をかけたな」
 そうしながら、静かに槐が言った。小夜香は槐の顔を見上げた。
「心配は、すごくした。……でも、おまえが、必ず戻ってくると言ったから。……だから、待っていられたんだ。おまえは嘘をつかないから」
「そうか」
 小夜香の髪を撫でながら、槐は嬉しそうに笑った。その大きな手が、小夜香の両の頬をつつむ。瞳孔の縦に長い紫の瞳が、間近から小夜香の顔を覗き込んだ。
「美しくなった、というのは本当だぞ。見たときに少し驚いた。……人間とは、こんなに早く変わってゆくものなのだな」
「私にはこれが普通だが。おまえの眼にはそう見えるのか」
「人間なぞ、これまでまともに関わったことが無かったからな」
「良い勉強になったじゃないか。この世には、いろんなものが生きているんだぞ」
 もっともらしく言ってやると、槐はまたおかしそうに笑った。
「そうだな。俺もまだまだのようだ」
「おや、随分殊勝だな。二年間も寝ているうちに、さすがに何か思うところでもあったのか」
「そうかもしれん。自分でも不思議だと思う」
 小夜香を覗き込む槐の紫の瞳が深みを増す。それはほんの一瞬、ひとではないものの煌めきを見せた。だが小夜香は、それを恐いとは思わなかった。
「そもそも、この槐をこんなふうに捕らえた者なぞ、お前が初めてだ。この俺がまさか人間の娘の手に落ちるなどとは、思ったこともなかった」
「……私でいいのか?」
 頬にふれている槐の手に、小夜香は自分の片手を重ねた。その類い稀なる紫の瞳を、真っ直ぐに見つめながら。
「私は、おまえが好きだ。……でも、ひとと妖は違うことくらいは分かっている。私のほうが、ずっと早く老いるだろうしな。それでも、おまえは私がいいのか? 私でも構わないのか?」
「俺が選んだのはお前だ。おまえの他には誰も要らん」
 槐は迷いなく言い切ると、小夜香の細く薄い身体を、少し強めに抱き締めた。
「この槐を落としたのだぞ。もっと誇るがいい。そんな者は、この世のどこを探しても、おまえの他におらんのだからな」
「……そうか」
 横柄な物言いは相変わらずだが、真っ直ぐに伝わってくる熱いほどの心根に、小夜香は思わず泣きそうになった。それを押し込めて、笑う。
「私は、自分を駄目なやつだとずっと思ってきたが。おまえを手に入れることが出来たなら、そう捨てたものでもないな」
「うむ。おまえはなかなか大したやつだぞ」
「私は、この里を離れる気はない。私と一緒になるなら、おまえがこちらに来る他にない。それも分かっているな?」
「無論だ。文句を言う奴がいるなら黙らせてやる」
「くれぐれも穏便にな。……まあ、意外に大丈夫だろうとは思うが」
 二年前、槐が小夜香も驚くほどすんなりと、里の人々に馴染んでいたことを思い出す。あのときは暗示をかけていたにしろ、槐は皆の心までを操ったわけではなかった。
 何よりも、顕われた龍神と共にあの蛇神を退けたときの様子を、里の多くの者が目にしていた。あれから二年。何の音沙汰もない槐に、無事でいるのかと、その安否を気にかけている者達も、里には少なくなかった。
「むしろ、私の方が苦労するかもしれん。私は里を守護する龍神の巫覡だからな。それが鬼などと一緒になろうというのだから、まあ、さすがに皆仰天するだろう」
 小夜香の言葉に、槐はまた笑った。小夜香を抱き寄せながら。
「それを者どもに納得させるのは、俺の役目でもある。案ずるな。必ず良いようになる」
「……そうか」
 槐が言うと、本当にそうなる気がする。槐は不遜で何も恐れず悪びれないが、それは言葉だけ、上辺だけのものではないことを、小夜香はもう知っていた。
 槐の袖の中で、どちらからともなく、初めて互いの唇を重ね合わせた。それはひどく動悸のすることではあったが、少しも恐いとは思わなかった。むしろ自分の中に、とても不器用で臆病だけれど、とても幸せな、切ないような愛おしいような、まっさらに光る珠のようなものが生まれたことが、こそばゆく嬉しかった。
「さて。では里に行くか」
 しばらく二人で寄り添った後、槐が言うなり、ひょいと小夜香を両腕に抱え上げた。いきなり足が浮いて、小夜香はたいそう驚くとともに、初めてのことにまたしても赤面して慌てふためいた。
「ち、ちょっと待て。別にどこも痛めてないぞ。このくらいの雪は歩ける」
「だが、余計に足が冷えて濡れるだろう。ただでさえ凍えていたものを」
 槐は小夜香の言うことなど聞きもせずに、迷い無く雪の上を歩き始めた。抱え上げられてしまっている小夜香にはどうにもできず、始めは手足をかちこちにして緊張していたが、雪を踏む単調な足音と、槐の胸の広さとあたたかさに、じきにそれも緩んできた。
 ことりと小夜香は槐の胸元に頭を預けた。眼を閉じて、その仄かに香る良い匂いを吸い込む。槐の首に腕をまわして、その身に出来る限りぴたりと寄り添った。
「……槐。大好きだ。おまえに逢えてよかった」
 二年前に告げたのと同じ言葉を、あのときよりもいっそう深い想いで、小夜香は告げていた。
 里の人々には、きっといろいろと言われるだろう。責め詰る者もいるかもしれない。だが、人と妖が心を通じ合わせて何がいけないのかと、どちらも同じ生き物ではないかと、小夜香は思う。
 話しても分からない者がいるのは、人であろうと同じことだ。心で、魂で通じ合えるものがあるのなら、それは人だと妖だのという垣根にこだわることより、よほど大事なことだとも思った。
 理解を得るのは難しいかもしれないが、自分の選択を後悔はしなかった。そしてこの先も、きっと後悔することは無い。
 槐は小夜香を見下ろし、美しい紫の瞳を細めるようにして笑った。
「俺も同じだ。おまえに逢えてよかった」
「うん。──槐、ありがとう。戻って来てくれて、無事でいてくれて、本当に嬉しい。……これからもよろしくな」
「こちらこそ」
 言いながら、槐は小夜香の額に、宝物にそうするように口づけた。
 小柄な巫覡を抱いて歩く、白い狩衣と真白い髪を持つ鬼の後ろ姿は、花が降るような雪の中、やがてまぎれるように見えなくなっていった。


(了)

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